第五十三話 あと一歩
3校合宿の初日は、紫峰対椿山から始まった。
青嵐はコート脇で身体を冷やさない程度に動きながら、その試合を見ていた。
椿山は、シルバーウィークの時と同じように一つの形へ固執しなかった。栞と結子を両方入れるセットもあれば、成美先輩を軸にして高さを変えるセットもある。相手のブロックに合わせて攻撃の組み合わせを変え、守備の位置も少しずつ動かしてくる。
それでも、紫峰は崩れなかった。
栞が1枚を抜けば後ろで拾う。結子がブロックを使ってコート奥へ飛ばしても、次の1本を繋ぐ。椿山が相手に合わせて形を変えるたびに、紫峰も少しずつ守る場所を変えていた。
そして、苦しいところでは最後に葛城さんか彩葉が打つ。
葛城さんのスパイクは、改めて見ても重かった。綺麗に2枚ブロックが揃っているのに、その指先を弾いて外へ飛ばしてしまう。一方の彩葉は同じ高さまで跳んでおきながら、ブロックの手が出たあとに長い腕をしならせ、空いた場所へ打ち込んでくる。
まるで違う2人が、同じチームの両翼にいる。
椿山もセットは取った。
栞のサーブから連続得点して25対21で取り切ったセットでは、紫峰のレシーブが崩れていたし、結子が高いブロックを何度も利用していた。私から見ても、椿山の狙いが綺麗にはまっていた。
けれど次のセットでは紫峰がサーブ位置を変え、栞が攻撃へ入るまでの時間を少しずつ削ってきた。さらに次のセットでは、結子の打ち分けに対して後衛の位置を深くする。
椿山が変えれば、紫峰も変える。
最終的に、その日の椿山は紫峰から何セットか奪ったものの、勝ち越すことはできなかった。
「……取れそうなんだけどなあ」
休憩に入った栞が、ベンチでタオルを首に掛けながら言った。
私はその近くに座っていた。
「1セットは取ってたじゃん」
「1セットなら」
栞はスコアを書き込んだ紙を見る。
「でも、向こうの方が一つ多く取る」
結子も隣でペットボトルの水を飲みながら頷いた。
「ずっとそんな感じ」
「嫌だね」
「嫌」
その短い返事に、私も頷いた。
大差ではない。
何も通じないわけでもない。
なのに、本数を重ねると紫峰の方が一つ多く取っている。
その差が、妙に遠かった。
◇
青嵐対紫峰になっても、それは変わらなかった。
東京都予選で使ったものは、もう紫峰も知っている。
それでも深見先生は隠さなかった。
私の後衛3ローテも使った。
伊織と瑞穂先輩の2枚替えも使った。
梓先輩も前衛で投入された。
今までとは少し違ったのは、その梓先輩がブロックだけで終わらなくなっていたことだった。
美緒が1本目を上げ、怜奈先輩が大きくコート外へ追い出された場面で、2球目へ入ったのは梓先輩だった。
「梓!」
「はい!」
トスは少し高すぎた。
それでも沙耶先輩が打てる高さには残った。
紫峰に拾われ、ラリーは続いたものの、思わずベンチから身を乗り出した。
以前なら、梓先輩はあの位置から速攻へ入ろうとしていたはずだ。
今は違う。
2球目を見ている。
ラリーが終わってベンチへ戻ってきた時、梓先輩は納得していない顔で自分の指を見ていた。
「高かった」
「でも打てましたよ」
そう言うと、梓先輩は首を振る。
「打てるだけじゃ駄目。もう1枚使える高さにしたい」
そのまま次のラリーへ向かっていく。
紫峰戦で気づいたことを、本当に増やそうとしている。
それが少し嬉しかった。
私自身の3ローテも、東京都予選の時ほど簡単には使わせてもらえなかった。
紫峰は凜へサーブを集めすぎない。私が入れば今度は私を狙うし、そこを美緒と分担すれば別の場所へ飛ばしてくる。
それでも後ろ3ローテを回れば、凜を休ませることはできる。
「もってこーい!」
前衛へ戻った凜が、高い打点からクロスへ打ち抜く。
その1本で青嵐がセットを取った時、私も思わず大きく手を叩いた。
やれる。
東京都予選の時より、確実にやれている。
美緒は彩葉の強打を何本も上げた。皐月先輩と梓先輩のブロックも、彩葉の打点へ完全ではなくても触れるようになっている。伊織が入れば、瑞穂先輩の長い助走を使って紫峰のブロックを動かせる。
それでも、全部のセットを取り切れるわけではなかった。
彩葉を止めたと思った次の1本で葛城さんに押し切られる。葛城さんへ2枚を揃えれば、中央を使われる。美緒が一度は上げても、その次の切り返しで紫峰の守備が残る。
25対23で取る。
22対25で落とす。
デュースまで行って、あと1本で落とす。
もう一度取り返す。
そして、1日のセット数を最後に数えた時。
青嵐も、紫峰に負け越していた。
「……また一つか」
私はスコア表を見ながら呟いた。
「一つ?」
伊織が隣から覗く。
「向こうの勝ったセットの方が一つ多い」
「そうね」
「椿山もだった」
大きく離されているわけではない。
今日だって何度も勝った。
なのに、最後に数えると紫峰が上にいる。
「あと一歩なんだけどなあ」
そう言うと、伊織は少し考えてから答えた。
「たぶん、その一歩が大きいんだと思う」
「そっか」
「簡単に埋まるなら、東京都予選で勝ってるでしょ」
「それもそうだね」
悔しい。
でも、インターハイの頃の玄海戦とは違った。
あの時は、自分が佳境で使われる選手ではないことを突きつけられた。
今日は、自分も使われた。
みんなのカードも使った。
それでも少し届かない。
だったら、まだ増やせる。
そう思ったところで、凜がコートの方を見ながら言った。
「もう1本やりたい」
「私も!」
別のところから成美先輩の声がした。
「私も!」
さらに彩葉。
「じゃあもう1セット――」
「今日はここまで」
深見先生の声が飛んだ。
凜たちが揃って止まる。
「このあとの自主練は禁止。ストレッチとケアを終えたら休め。明日もゲームはある」
「えー」
「神崎」
「はい」
凜が一瞬で姿勢を正した。
深見先生は他校の選手たちにも聞こえるようにもう一度、「自主練は禁止」と念を押してから、青嵐の列へ視線を移した。
「三上、頼む」
「はい」
由梨先輩が答えた。
それだけだった。
何を頼まれたのか、その時は深く考えなかった。
◇
ケアを終えて夕食まで少し時間ができた頃、忘れ物を取りに体育館へ戻った。
入口の近くまで来ると、椅子が一つ置かれている。
由梨先輩がそこに座っていた。
「由梨先輩?」
「あ、千尋」
「何してるんですか?」
「門番」
由梨先輩は笑った。
「深見先生に頼まれたから」
「ああ」
そこでようやく、「三上、頼む」の意味を理解した。
「自主練する人を止めるんですか?」
「そう。怪しいのが何人かいるでしょ」
いる。
すぐに何人か思い浮かんだ。
「でも、ずっとここにいるんですか?」
「ずっとじゃないよ。ちょっとだけ」
由梨先輩はそう言って、椅子から立ち上がった。
まだ慎重な動きだった。
けれど、シルバーウィークの頃とは違う。
あの時は左脚に装具をつけて、歩くこと自体に気を使っていた。
今はゆっくりでも、自分の脚で立っている。
「見て」
由梨先輩が数歩歩く。
「ちゃんと歩けるようになった」
「はい」
「自分の脚で」
その声が少し弾んだ。
「これ、本当に嬉しいんだよ。千尋には分かんないかもしれないけど」
「分かんないかもです」
「正直」
「でも、嬉しいのは分かります」
由梨先輩は笑った。
「最初は立つだけでも怖かったからね。歩いていいって言われても、変な感じするし。今は普通にここまで来られる」
嬉しいのだと思う。
本当に。
だからこそ、少しだけ気になった。
由梨先輩の目が、何度も体育館の中へ向いている。
ボールが転がっている。
ネットが張ってある。
誰も使っていないコートを見ている時だけ、笑顔の奥に別のものが混じる。
早く。
そんな言葉が、顔に書いてあるように見えた。
自分の脚で歩けるようになった。
なら次は走りたい。
走れたら跳びたい。
跳べたら打ちたい。
たぶん、そうやって先へ先へ行きたくなる。
しばらく何も言わず、由梨先輩の隣へ立った。
それから、ふと思い出した。
「由梨先輩」
「ん?」
「覚えてるか分からないんですけど」
「何を?」
「私、一番最初にパスが10回続いた相手、由梨先輩なんです」
由梨先輩が瞬いた。
「……私?」
「はい」
「いつ?」
「私がバレー始めたばっかりの頃です」
由梨先輩はしばらく考えた。
やがて申し訳なさそうに笑う。
「ごめん。覚えてない」
「ですよね」
「そこ即答する?」
「だって私も、由梨先輩が覚えてるとは思ってなかったので」
私も笑った。
「あの頃の私、パスひどかったんですよ」
「今でもたまに変なところ飛ばすけどね」
「今の話はしてません」
「はいはい」
「前に飛ばしたり、横に飛ばしたり、後ろに飛ばしたり。自分ではちゃんと返してるつもりだったんですけど」
「それ、パスって言っていいの?」
「当時の私はパスのつもりでした」
由梨先輩が吹き出す。
私も少し笑ってから、体育館の中を見た。
「父は簡単にパスを続けてくれました」
父とやったパスを思い出す。
どこへ飛ばしても、父は先に入った。
私が失敗したことすら分からないくらい、当たり前に返してくれた。
「私が変なところに飛ばしても、父なら先に行って、普通に返してくれたんです。だから、ずっと続いたんですよ」
「元代表のセッターと初心者でしょ? そりゃね」
「はい。でも由梨先輩の時は違いました」
「違った?」
「由梨先輩、走ってくれたんです」
前へ飛んだら前へ。
横なら横へ。
私が慌てて変な方向へ弾いたボールを、由梨先輩は何度も追いかけた。
「私のボールがあちこち飛ぶたびに走って、繋いで、また私のところに返してくれたんです。それで初めて10回続いた」
「……全然覚えてないや」
「知ってます」
「なんか悔しいな」
「でも、私は覚えてます」
あの時は、ただ嬉しかった。
自分でもバレーボールができた気がした。
一人ではすぐ終わっていたはずのパスを、由梨先輩が終わらせなかったから。
「だから」
由梨先輩を見る。
「もし今、由梨先輩が繋げないなら、今度は私が繋ぎますから」
由梨先輩の笑顔が、少しだけ止まった。
「走れない時は、私が走ります。届かない時は、私が取りに行きます」
自分に何ができるかは、まだ分からない。
由梨先輩が復帰した時、同じコートに立てるかどうかだって分からない。
それでも。
前に自分がしてもらったことなら、自分も返せる気がした。
「だから、ゆっくりでいいです」
急いで、別の誰かにならなくていい。
「ゆっくり。でも、由梨先輩のまま、帰ってきてください」
笑うと、由梨先輩はしばらく何も言わなかった。
やがて困ったように眉を下げる。
「……千尋って、たまにずるいこと言うよね」
「え、何がですか?」
「分かってないならいい」
「何ですか、それ」
「そのままでいて」
由梨先輩が笑った。
さっきまで体育館の中へ向いていた目が、今度はちゃんと私を見ていた。
その顔を見て、少しだけ安心したところで。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
4人分。
振り向く。
「……あ」
いた。
沙耶先輩。
凜。
成美先輩。
彩葉。
なぜか4人とも、体育館へ向かってくる。
沙耶先輩はボールまで抱えていた。
凜はシューズを持っている。
成美先輩もジャージの袖をまくっている。
彩葉に至っては、すでに髪を結び直していた。
どう見ても散歩ではない。
4人もこちらに気づいた。
まず沙耶先輩が止まった。
次に凜。
成美先輩。
最後に彩葉が、なぜみんな止まったのか分からない顔で首を傾げる。
由梨先輩がゆっくり振り向いた。
「……沙耶?」
「はい」
返事が早い。
「成美?」
「はい」
「2年生が何しているのかな?」
笑顔だった。
さっきまで私と話していた時と、ほとんど同じ笑顔だった。
なのに。
ずももももももも。
私には、由梨先輩の背後から何か黒いものが立ち上がったように見えた。
成美先輩の背筋が伸びる。
「いや、これは、その」
「その?」
「散歩です」
「ボール持って?」
「……拾いました」
「体育館の前で?」
「……はい」
苦しい。
「沙耶は?」
「私も散歩」
「シューズ持ってる凜は?」
「付き添いです!」
「髪結び直してる彩葉は?」
「えっ、私はスパイクを――」
「彩葉!」
「彩葉ちゃん!」
「言うな!」
沙耶先輩と凜と成美先輩が一斉に止めた。
「えっ?」
彩葉が驚く。
由梨先輩はにこにこと笑ったままだった。
「深見先生、自主練は禁止って言ってたよね?」
「はい」
3人が揃って答える。
彩葉だけ少し遅れて、
「はい!」
と続いた。
「じゃあ、ちょっとお話しようか」
「「「「はい」」」」
◇
しばらく後。
体育館の入口には、魔王がいた。
その前で、沙耶先輩、凜、成美先輩、彩葉の4人が綺麗に正座していた。
「春高前に無理して怪我したら、どうなると思う?」
「試合に出られません」
「うん。沙耶、正解」
「はい」
「じゃあ凜。自主練禁止ってどういう意味?」
「自主練をしてはいけないという意味です」
「うん。よくできました」
「はい」
「成美?」
「もうしません」
「まだ何も聞いてないよ?」
「はい!」
「彩葉ちゃん」
「はい!」
「分かった?」
「すごく分かりました!」
私は少し離れたところから、その光景を眺めていた。
由梨先輩は怒鳴っていない。
声も優しい。
笑っている。
それなのに、4人とも一度も動かなかった。
体育館の入口に魔王がいる。
深見先生が「三上、頼む」と言った意味を、今度こそ完全に理解した。




