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水瀬千尋はエースじゃない―青嵐女学院バレーボール部―  作者: まるちーるだ
第二章 エースの隣

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第五十話 敵は赤点

 春高東京都予選が終わって、数日。


 紫峰に負けた悔しさは、千尋の中にまだ残っていた。


 全国までにもっと強くなりたい。


 私も、凜も、美緒も、伊織も、真帆も、それぞれ次にやりたいことは増えている。


 けれど、青嵐女学院はバレーボールだけをしていれば卒業できる学校ではない。


 春高予選が終わった直後から、校内の空気は定期試験へ向けて一気に切り替わっていた。


「水瀬」


「はい」


 数学教師から返された小テストを受け取り、席へ戻りながら点数を見る。


 78点。


「んー……」


 悪くはない。


 でも、もう少し取れた気もする。


 席に着いたところで、近くにいた伊織が答案を覗き込んできた。


「何点?」


「78。伊織は?」


「88」


「10点差かー」


「その10点、結構大きいけどね」


「でも80点台まであと2点だったんだよ?」


「それを78点って言うんだけど」


 正論だった。


 自分の答案を見直し、計算ミスで落とした問題を見つけて少しだけ悔しくなる。


「真帆とか100点取ってたりして」


 何気なく言うと、伊織が口を開きかけて止まった。


「……いや」


「うん」


「真帆ならありそう」


「あるよね」


 2人で妙に納得していると、少し離れた席から凜が戻ってきた。


「ただいまー」


「おかえり。凜は?」


「何が?」


「数学」


「ああ、これ?」


 凜が答案を机に置く。


 何気なく覗き込んだ。


 そして、もう一度見た。


「……凜」


「何?」


「これ、何点満点?」


「100点」


「……28って書いてある」


「うん」


「知ってるんだ」


「私の答案だからね」


 そこではない。


 何と返すべきか迷っている横から、伊織も答案を覗き込んだ。


「ちょっと待って」


「何?」


「28?」


「そうだよ」


「なんでそんな普通にしてるの?」


「小テストだし」


「小テストでも28は28でしょ!」


 伊織が思わず声を抑えて叫ぶ。


 凜は不思議そうな顔をしていた。


「私と50点差あるね」


「50!?」


 そこで初めて凜が驚いた。


「そっちで驚くんだ……」


 伊織が額を押さえる。


 すると今度は美緒が答案を持って戻ってきた。


 嫌な予感がした。


「美緒」


「何?」


「何点だった?」


「31」


 黙った。


 伊織も黙った。


 凜だけが美緒の答案を見て、


「負けた!」


 と悔しそうな声を上げた。


「勝った」


 美緒が小さく頷く。


「その勝負、2人とも負けてるよ」


 そう言うと、凜と美緒が同時にこちらを見た。


「なんで?」


「なんでって……」


 伊織が2人の答案を並べる。


 28点。


 31点。


 見れば見るほど不安になる数字だった。


「定期試験、来週だよね?」


「うん」


 凜が答える。


「このままだと2人とも普通に赤点じゃない?」


「え」


 凜の表情がようやく変わった。


 美緒は自分の答案を眺めながら、


「たぶん」


 と呟く。


「何が『たぶん』なの?」


「まだ定期試験受けてないから」


「そういう前向きさ、今いらない!」


 伊織が頭を抱えた。


 少し考えてから、もっと嫌なことに気づいた。


「赤点取ったら追試だよね?」


「そうじゃない?」


「追試っていつ?」


 伊織が手帳を出して確認する。


 数秒後。


 その顔が固まった。


「……翌週の土曜日」


「土曜日?」


 予定を思い出す。


 県外校との練習試合が入っていた。


 全国へ向けて組まれた、大事な1日。


 凜を見る。


 次に美緒を見る。


「追試になったら、練習試合出られないよ」


「「…………」」


 2人とも固まった。


 さっきまで28点と31点で勝負していた顔から、一気に血の気が引いていく。


「それは困る!」


 凜が机に両手をついた。


「困る」


 美緒も真顔になる。


「じゃあ勉強しなよ!」


 伊織の声が、教室に響いた。


     ◇


 放課後。


 私たち4人は、空き教室の机をくっつけていた。


 凜と美緒の前には、数学の教科書、問題集、小テスト。


 そして2人の向かいには伊織。


 私はその横に座りながら、伊織がスマートフォンを操作するのを見ていた。


「誰に送ってるの?」


「真帆」


「ああ、特進クラスだもんね」


「この状況で真帆呼ばない理由ないでしょ」


 伊織がメッセージを送る。


『放課後、空き教室来て。緊急』


「緊急なんだ」


「緊急でしょ」


 伊織は凜と美緒の小テストを指差した。


「……緊急だね」


 私も納得した。


 すると伊織は少しだけ迷ってから、もう1件メッセージを送った。


 横から覗き込む。


『怜奈先輩、助けてください』


「短っ」


「これで伝わる」


「何があったか全然伝わらなくない?」


「助けてほしいことは伝わる」


「すごい事件だと思われそう」


「事件だから」


 そう言いながら伊織は2人の答案用紙を遠い目で見た。


 たしかに事件だ。


「私たちそんなやばい?」


 凜が聞く。


 美緒もこちらを見る。


 私と伊織は2人の答案を見た。


「「やばい」」


「息ぴったりじゃん!」


     ◇


 先に来たのは真帆だった。


「失礼します。伊織、緊急って何ですか?」


 教室へ入ってきた真帆が、少し心配そうに周囲を見回す。


 手を振った。


「真帆。数学何点だった?」


「え?」


「小テスト」


「100点ですけど」


「「やっぱり」」


 私と伊織の声が重なった。


 真帆が困惑する。


「なんで納得してるんですか?」


「なんとなく」


「私78」


「私は88点」


「そうなんですね」


 真帆は特に驚かず頷いた。


 少しだけ悔しい。


「で、本題はこっち」


 伊織が凜と美緒の答案を真帆へ渡した。


 真帆が28点を見る。


 次に31点を見る。


 しばらく黙った。


「……緊急ですね」


「真帆まで!」


 凜が抗議する。


「追試になると練習試合に出られないはずですよね?」


「そう」


「それは絶対に駄目です」


 真帆はすぐに椅子を引いた。


 満点を取った人の顔ではなくなっている。


「まず、どこが分からないんですか?」


 凜と美緒が顔を見合わせた。


 少し考えて。


「分からないところが分からない」


「同じく」


 真帆の表情が止まった。


「……えっと」


「でしょ?」


 伊織が疲れた顔で言う。


「私もさっき同じこと聞いた」


「思ったより深刻ですね」


「だから助けて」


 真帆は小テストを広げ、1問目から確認し始めた。


「今の試験範囲、二次関数ですよね」


「うん」


 凜が頷く。


「じゃあ、まずここから――」


 真帆が説明を始めようとしたところで、伊織が答案を見ながら眉を寄せた。


「待って」


「どうしました?」


「これ、二次関数の説明から始めて大丈夫?」


 嫌な言い方だった。


 伊織は凜のノートを引き寄せた。


「凜」


「何?」


「一次関数って分かる?」


「分かるよ」


「じゃあ、y=2x+1の2って何?」


「2」


「それは見れば分かる!」


 伊織の声が飛んだ。


「じゃあ何?」


「傾き!」


「かたむき?」


 伊織の顔が止まった。


 ゆっくり美緒を見る。


「美緒」


「何?」


「一次関数、分かる?」


「たぶん」


「じゃあ傾きって何?」


「斜め」


「意味は近いけど数学として理解してない!!」


 伊織が両手で頭を抱えた。


「やばい! 二次関数どころじゃない! この2人、一次関数から理解してない!!」


 真帆がしばらく黙ったあと、静かに言った。


「……一度、中学校の範囲まで戻りましょう」


「高校生なのに?」


 凜が聞く。


「高校生だからです」


 真帆が真顔で返す。


 美緒が首を傾げた。


「戻れる?」


「時間は戻せないけど単元は戻れる!」


 伊織が叫んだ。


 そこから、本格的な発掘作業が始まった。


 ところが、掘れば掘るほど根が深かった。


「凜、ここ。なんでマイナスが消えたの?」


 私が聞く。


「邪魔だったから」


「邪魔でも消しちゃ駄目だよ!」


 一方、美緒にはさらに前まで戻って確認する。


「2xと3xを足したら?」


 伊織が聞く。


「5」


「5何?」


「……5」


「xは!?」


「いる?」


「いる!」


 伊織の声が裏返った。


 真帆が横から丁寧に説明を始める。


「同じ種類のものをまとめるんです。2xならxが2個、3xならxが3個なので、合わせて5xになります」


 美緒が頷く。


「分かった」


「じゃあ、4aと2aは?」


「6」


「aは!?」


「……いる」


「そうです!」


「6a」


「はい!」


 真帆が少し嬉しそうにする。


 ところが次の問題では、美緒はまたaを消した。


「どうして!?」


「忘れた」


 満点の真帆が頭を抱えた。


     ◇


 それからしばらくして。


 教室の扉が勢いよく開いた。


「伊織!」


 全員が振り向く。


 怜奈先輩だった。


 その後ろから、沙耶先輩まで顔を覗かせる。


「大丈夫!?」


 怜奈先輩は教室へ入るなり、伊織を上から下まで見た。


「怪我した? 何かあった?」


「え?」


「『助けてください』って来たんだけど!」


「あ」


 伊織が自分のスマートフォンを見る。


「すみません。説明書いてませんでした」


「何事かと思ったわよ!」


 沙耶先輩も大きく頷いた。


「怜奈が急に『伊織から助けてって来た』って言うからさ。私も来た」


「沙耶先輩は来なくても大丈夫でした」


「なんで!?」


 伊織は2枚の小テストを差し出した。


「助けてほしいの、これです」


 怜奈先輩が受け取る。


 神崎凜の名前が書かれた28点の答案用紙。


 速水美緒の名前が書かれた31点の答案用紙。


「…………」


「ね?」


 伊織が言う。


 怜奈先輩は深く息を吐いた。


「なるほど」


「みんなその反応する!」


 凜が叫ぶ。


 沙耶先輩も横から答案を覗き込んだ。


「え、何これ」


「数学です!」


「それは分かるよ。点数低くない?」


「沙耶先輩にだけは言われたくないです!」


「なんで!?」


 怜奈先輩はすでに椅子を1つ持ってきていた。


「どこまで戻ったの?」


「一次関数です」


 真帆が答える。


「今って二次関数じゃなかった?」


「はい」


「……なんで一次関数やってるの?」


 伊織が真顔になる。


「一次関数から理解してませんでした」


「……なるほど」


「また!」


「だって、なるほどとしか言えないもの」


 怜奈先輩も問題集を開いた。


 理屈から説明する伊織。


 一つずつ順番に噛み砕く真帆。


 怜奈先輩は別の例を出して理解できているか確認し、私も自分が覚えた時の考え方を伝える。


 それでも、凜と美緒の顔にはなかなか「分かった」が浮かばなかった。


 数学が得意な人の説明は、正しい。


 正しいのに、何かが届いていない。


 2人の答案を眺める。


 そして、ふと思った。


「……これ、バレーにしたら分かるんじゃない?」


 伊織が顔を上げる。


「数学を?」


「うん」


「もう数学じゃなくなりそうなんだけど」


「でも、この2人だよ?」


 凜と美緒を見る。


 伊織も見る。


「……やってみて」


 許可が出た。


 凜のノートを借りる。


 そこに書いた。


 2x+3x=5x。


「美緒」


「何?」


「沙耶先輩が1セットで決めるスパイクの本数を、x本とする」


「待って」


 すぐ後ろから声がした。


 気にせず続ける。


「2セット分なら?」


 美緒はノートを見る。


「2x本」


 即答だった。


 伊織が顔を上げた。


「……え?」


「じゃあ、そこに3セット分を足したら?」


「5セット分」


「だから?」


「5x本」


「そう!」


 思わず机を叩いた。


 真帆が目を丸くする。


「さっき2xと3xを足した時、xを消しましたよね?」


「あれは何のxか分からなかった」


「今も文字は同じですよ!?」


「今のは沙耶先輩のスパイク」


「そこなんですか!?」


 沙耶先輩が自分を指差した。


「ちょっと待って。私、5セットずっと同じ本数決める前提なの?」


「例題だから」


 美緒が真顔で答える。


「教材としての私、妙に安定感あるな!?」


「でも、分かった」


 美緒がもう一度式を見る。


「2セット分と3セット分だから、合わせて5セット分」


「そうそう。x本ずつ決めるセットが5つあるってこと」


「5x」


「そう!」


 伊織がゆっくり顔を覆った。


「なんでこれなら分かるの……」


「バレーだから?」


 凜が答える。


「疑問形で言わないで」


 私は少し考えた。


 もしかして。


 これなら一次関数もいけるんじゃないだろうか。


「じゃあ凜」


「何?」


「一次関数、もう1回やろう」


「来た」


 ノートに書く。


 y=2x+1。


 さっき伊織が出したのと同じ式だ。


「例えば、サーブ練習で最初に成功したのが1本あるとする」


「うん」


「そこから練習を1回やるごとに、成功した本数が2本ずつ増える」


「うん」


 私は式の2を指差した。


「この2は?」


 凜がしばらく考える。


「……1回増えるごとに、2本増える?」


「そう!」


 横から伊織がすぐに言った。


「それが傾き」


「あ!」


 凜の顔が明るくなる。


「増え方ってこと!?」


「そう!! 最初からそう言ってる!!」


「『傾き』って言うから坂かと思った」


「グラフにしたら坂になるの!」


「先に増え方って言ってよ」


「数学に言って!!」


 伊織の声が教室に響いた。


 怜奈先輩が口元を押さえている。


 完全に笑っていた。


 真帆だけは真剣だった。


「では、凜。+1は何ですか?」


「最初に成功してた1本」


「そうです!」


「あ、すごい」


 真帆が嬉しそうに頷く。


「本当に理解しています」


「今まで理解してなかったみたいに言わないで」


「理解してなかったでしょ」


 伊織が即座に返した。


「じゃあ次、美緒」


「うん」


 私は別の式を書こうとして、少し考える。


「沙耶先輩の1セットあたりの得点をxとして――」


「まだ私使うの!?」


 後ろから即座に声が飛んできた。


 凜が真面目な顔で沙耶先輩を見る。


「分かりやすいから」


「私、数字より分かりやすいの!?」


「はい」


 美緒も頷いた。


「人間として喜んでいいの、それ!?」


 怜奈先輩がとうとう吹き出した。


 伊織も笑いを堪えきれていない。


 真帆は少しだけ迷ったあと、ノートへ視線を戻した。


「……理解できるなら、続けましょう」


「真帆まで!?」


 私はノートの上に、沙耶先輩を使った次の例題を書き始めた。


「じゃあ次」


「まだ私でやるの!?」


 どうやら、凜と美緒の赤点回避には。


 スーパーエースが必要らしかった。



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