第四十八話 全部使う
第3セットが始まってから、千尋が最初に気づいたのは、紫峰が凜を狙わなくなったことだった。
第1セットでは、あれほど執拗だったのに。
短く落として前へ走らせ、次は深く伸ばす。美緒との間、沙耶先輩との間、身体の正面。とにかく凜に1本目を触らせて、その直後に攻撃までさせる。
第1セットで私が後衛3ローテを代わってから、紫峰はその狙いをやめた。
第2セットでも、凜へサーブを集めることはなかった。
そして最終セットでも、それは変わらない。
サーブは美緒へ飛ぶ。沙耶先輩の前へ落ちる。綾香先輩との間を狙うこともある。
凜にも来ないわけではない。でも、明らかに数が減っていた。
「ナイスレシーブ!」
美緒のパスが怜奈先輩へ返る。
凜が最初から十分な助走を取り、大きくレフトへ開いた。
「もってこーい!」
トスが上がる。
紫峰の2枚ブロックが待っていた。
凜はその外側を狙って振り抜いたが、指先に当たったボールを後衛に拾われる。そのまま切り返され、紫峰がライトから1点を取った。
6対7。
凜は元気だった。
第1セットのようにレシーブで削られてもいない。助走も取れているし、打点も落ちていない。
それでも、紫峰は凜を止めている。
第2セットから続いているやり方だった。
凜と沙耶先輩には、できる限り2枚を揃える。時には中央まで早く寄って、3枚に近い壁を作る。
その代わり、中央やライトは多少薄くても構わない。
皐月先輩の速攻に1枚しかつかなくても、綾香先輩がライトから打つ時に中央が間に合わなくても、紫峰の後衛は最初から拾う準備をしている。
全部を止めようとしていない。
何を絶対に止めるかを、選んでいる。
私はベンチでそれを見ながら、何度か立ち上がりかけては座り直していた。
深見先生から声は掛からない。
当然だった。
凜は崩れていない。
後衛3ローテを休ませる必要がないのなら、私と入れ替える理由も薄くなる。
第3セットは最後のセットだ。
交代できる回数だって6回しかない。
凜が元気なままなら、その2回を別のところへ残す方がいい。
理屈は分かる。
でも。
「……私、今日もう出ないかも」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
「違う」
すぐ隣から返ってきた。
振り向く。
美緒がいた。
皐月先輩がサーブを打っている間だけ、リベロの美緒はコートを外れていた。膝に手を置いたまま、視線はずっと前に向いている。
「何が?」
「千尋が仕事したから、紫峰は凜を狙えなくなった」
「……え?」
美緒はコートから目を離さなかった。
「第1セット、凜を狙ったら千尋が入った。千尋が後ろをやって、凜が休んで、前に戻った凜がまた決めた」
「うん」
「だから、もうやらない」
皐月先輩のサーブを紫峰が返す。
ラリーが始まった。
美緒はそれを追いながら、淡々と言った。
「千尋が一つ、潰した」
私は何も言えなかった。
潰した。
自分が。
コートにすら入っていない、このセットで。
「相手にとって千尋は『脅威』」
美緒がようやく少しだけこちらを見る。
「……私が?」
「うん」
「ベンチにいるけど」
「いるからでしょ」
その時、紫峰がサイドアウトを取った。
笛が鳴る。
皐月先輩のサーブローテーションが終わり、美緒がすぐに立ち上がった。
「じゃ、行ってくる」
「あ、美緒」
「何?」
一瞬迷った。
ありがとう、と言うのも少し違う気がした。
「……ナイスレシーブしてきて」
「うん」
美緒は小さく笑うと、そのままコートへ走っていった。
皐月先輩とすれ違い、後衛へ入る。
私はその背中を見ながら、もう一度だけ心の中で繰り返した。
脅威。
なんだか、自分のことではないみたいだった。
それでも紫峰が第1セットとは違うことをしているのは事実だ。
私が入れば、凜を休ませられる。
だから凜を狙わない。
そう考えたのだとしたら。
コートへ入らなくても、相手から一つ選択肢を奪うことはできる。
私は少しだけ背筋を伸ばした。
◇
第3セットは、どちらも離れなかった。
10対10。
12対12。
紫峰が1本先に出れば、青嵐がすぐ追いつく。
凜を狙わない分、青嵐のサーブレシーブは第1セットより安定していた。しかし紫峰も、凜と沙耶先輩の前に壁を作ることで簡単には点を渡さない。
怜奈先輩は空いたところを使っている。
皐月先輩の速攻。
綾香先輩のライト。
そこから点も取れている。
ただ、紫峰の後衛も上手かった。
1枚ブロックだからといって、必ず決まるわけではない。最初からコースを限定し、その後ろにレシーバーを置いている。
14対14。
15対15。
私はスコアを見るたび、胸の奥が落ち着かなくなる。
どちらかが2点取れば、一気に傾きそうなのに、その2点が遠い。
17対17になったところで、深見先生がベンチを振り返った。
「高梨、黒川」
「はい!」
「はい!」
瑞穂先輩と伊織が立ち上がる。
私も反射的にコートを見た。
2枚替え。
ここで使う。
前衛にいた怜奈先輩が瑞穂先輩と替わり、後衛側では綾香先輩に代わって伊織が入る。
前衛3枚を残したまま、伊織が後ろから組み立てる形。
1回。
2回。
交代枠を2つ使う。
私は頭の中で数えた。
◇
伊織が入って最初のラリーは、普通だった。
美緒のレシーブが返る。
凜がレフト、皐月先輩が中央、瑞穂先輩がライト。
伊織は皐月先輩へ上げた。
速攻。
紫峰の中央は凜側へ意識を残し、1枚しかつけない。
皐月先輩のスパイクを紫峰が上げる。
やはり、そこは捨てても拾うつもりらしい。
ラリーが続く。
次に伊織へ返ってきた時、皐月先輩がブロードへ流れた。
瑞穂先輩がその助走路を開けるように、大きく後ろへ下がる。
紫峰は知っている。
第2セットでも見ている。
前衛の瑞穂先輩が、バックアタックのような長い助走から打つことを。
中央のブロッカーの視線が一瞬だけ揺れた。
伊織は皐月先輩にも瑞穂先輩にも上げなかった。
「凜!」
「はい!」
レフト。
2枚になるはずだったブロックが、少しだけ遅れる。
凜がその隙を逃さず打ち抜いた。
18対17。
「ナイス!」
私は手を叩いた。
次は瑞穂先輩が決めた。
今度は普通のライト攻撃だった。
それでも、一つ前のラリーで大きく後ろへ下がった姿を見せている。紫峰の後衛が少し深く構えたところへ、瑞穂先輩が短いクロスを落とした。
19対17。
このセットで初めて、青嵐が2点先へ出た。
紫峰がタイムアウトを取る。
「よし!」
凜が大きく拳を握る。
私も、いけると思った。
でも、紫峰はやっぱり簡単ではなかった。
タイムアウトが明けると、瑞穂先輩が後ろへ下がった時には後衛が深さを変え、皐月先輩のブロードにも中央が少し残るようになった。
その分、伊織はまた別の場所へ上げる。
紫峰も拾う。
青嵐も拾う。
長いラリーが増えた。
20対18だった点差は、20対20。
伊織が相手の景色を変えても、紫峰はその新しい景色に慣れてくる。
それでも、伊織と瑞穂先輩を入れたことで、一度は2点抜けた。
カードは効いている。
ただ、それだけで終わらせてはくれない。
21対21。
ローテーションが進んだところで、深見先生が2人を戻した。
怜奈先輩と綾香先輩が再びコートへ入る。
3回目。
4回目。
残りは2回。
私は何となく、そこまで数えていた。
◇
22対22。
ここから先は、1点の重さが急に変わったように感じた。
凜の強打を紫峰が拾えば、会場がざわつく。
沙耶先輩がブロックアウトを取れば、青嵐側の応援が一気に沸く。
23対22で青嵐。
紫峰が取り返して23対23。
その時、深見先生が立った。
「篠宮」
「はい!」
梓先輩がすぐに前へ出る。
「鷹野と交代」
「はい」
皐月先輩がコートを出て、梓先輩がネット際へ入った。
5回目。
まだ、あと1回残っている。
紫峰のサーブが入る。
美緒が返し、怜奈先輩がトスを上げる。
凜の強打を紫峰が拾った。
切り返し。
紫峰のセッターがレフトへ上げる。
梓先輩がすぐにブロックへ寄った。
2枚ブロック。
強打が、その手に当たる。
「ワンタッチ!」
勢いを殺されたボールを美緒が拾った。
怜奈先輩へ返る。
梓先輩もすぐに中央へ入り直す。
怜奈先輩が速いトスを送った。
「梓!」
「はい!」
梓先輩が跳ぶ。
紫峰のブロックが触り、後衛が拾った。
また切り返される。
今度は紫峰のライト。
怜奈先輩が身体を入れた。
「怜奈先輩!」
レシーブしたボールが、コートの中央寄りへ高く上がった。
怜奈先輩が1球目を触った。
なら、2球目は誰かが上げなければならない。
そのボールに一番近かったのは、梓先輩だった。
でも、梓先輩は一度、ボールから離れるように後ろへ下がっていた。
攻撃に入るためだった。
自分が打つための助走を作ろうとして、ネットから距離を取っている。
「綾香先輩!」
「はい!」
代わりに綾香先輩が走った。
センター寄りまで入り込み、落ちてくるボールの下へどうにか身体を滑り込ませる。
綺麗な形ではない。
それでも両手を伸ばし、高くレフトへ押し出した。
「沙耶!」
「ナイストスです!」
沙耶先輩が跳ぶ。
3枚ブロック。
無理に抜かず、指先を狙った。
紫峰が拾う。
まだラリーは終わらない。
次は凜。
その次は紫峰。
梓先輩のブロックで確かに相手の攻撃を弱めた。
速攻にも入った。
それでも、紫峰は落とさない。
最後に凜がブロックアウトを取った。
笛が鳴る。
24対23。
青嵐のマッチポイント。
「よっしゃあ!」
凜が叫ぶ。
梓先輩も手を叩いていた。
次のラリーで、紫峰がサイドアウトを取る。
24対24。
梓先輩はそのままコートに残った。
深見先生も、もう動かない。
交代は5回。
あと1回残っている。
私はベンチに座ったまま、自分の11番へ一度だけ目を落とした。
このセット、自分はコートへ入っていない。
伊織と瑞穂先輩を使った。
梓先輩も使った。
それでも、まだ交代は1回残っている。
深見先生は私を呼ばなかった。
でも、不思議とさっきほど苦しくはなかった。
『相手にとって千尋は「脅威」』
美緒の言葉が残っている。
自分の仕事が、コートへ入ることだけとは限らない。
今は。
この6人に託す。
◇
24対24から、試合はさらに長くなった。
紫峰が1点を取って24対25。
凜が2枚ブロックの外側を弾いて25対25。
次は沙耶先輩がワンタッチを取り、青嵐が26対25と前へ出る。
もう一度、マッチポイント。
私は立ち上がって声を出した。
「1本!」
みんなも続く。
紫峰の攻撃。
梓先輩と綾香先輩のブロックがついたが、打球はその指先を抜けていった。
26対26。
また並ぶ。
紫峰のサーブ。
美緒が上げる。
怜奈先輩へ返り、凜と沙耶先輩が同時に助走へ入った。紫峰の中央が迷いながらも凜側へ寄る。
トスは沙耶先輩。
2枚。
沙耶先輩がブロックの外へ当てたが、紫峰の後衛がぎりぎりで拾った。
切り返し。
速い。
中央。
梓先輩が追いつく。
ワンタッチ。
美緒が上げる。
怜奈先輩が今度は凜へ。
「もってこーい!」
凜が打つ。
これも拾われた。
ラリーが終わらない。
紫峰へ渡り、ライトから打たれる。
綾香先輩が触る。
沙耶先輩が繋いだ。
怜奈先輩が走って、ネットから離れた場所から高く上げる。
もう一度、凜。
3枚に近い。
凜は無理に決めず、ブロックへ当てて戻した。
でも、そのボールを紫峰が落とさない。
私はベンチの前で、いつの間にか両手を握っていた。
頼む。
落ちて。
1本だけ。
紫峰のセッターに返る。
中央が入った。
青嵐のブロックが一瞬そちらを見る。
トスはレフト。
2枚が追う。
打球がブロックの外側を弾いた。
美緒が走る。
腕を伸ばして上げたが、ボールは大きくコートの外へ流れた。
沙耶先輩が追う。
なんとか片手で返した。
しかし、紫峰コートへそのまま返る。
チャンスボール。
紫峰は落ち着いて組み立てた。
もう一度、レフト。
今度はブロックの上から、コート奥へ強く打ち抜かれる。
26対27。
紫峰、マッチポイント。
「まだ!」
凜がすぐに声を出した。
「1本!」
沙耶先輩も続く。
私も叫んだ。
「1本!」
まだ終わっていない。
紫峰のサーブが飛ぶ。
美緒の真正面。
「はい!」
綺麗に上がった。
怜奈先輩へ返る。
凜が走る。
沙耶先輩も。
梓先輩も中央へ入る。
紫峰のブロックが動いた。
トスは中央。
「梓!」
「はい!」
速攻。
紫峰のミドルが触った。
ボールが後ろへ上がる。
「まだ!」
紫峰が繋ぐ。
返ってくる。
美緒が拾う。
もう一度怜奈先輩。
今度は沙耶先輩。
打つ。
拾われる。
紫峰が攻める。
青嵐が拾う。
一度では落ちない。
何度やっても終わらない。
最後に怜奈先輩が上げたのは、凜だった。
2枚ブロック。
凜は思い切り跳んだ。
「もってこーい!!」
腕を振り抜く。
ブロックの指に当たった。
ボールが紫峰コートの後方へ跳ねる。
落ちる。
そう思った。
紫峰のリベロが飛び込んだ。
片腕で上げる。
「上がった!」
紫峰の声が響いた。
切り返し。
セッターがネット下へ走る。
青嵐のブロックも戻る。
紫峰のレフトが助走へ入った。
2枚。
打つ。
指先に触れた。
少しだけ軌道が変わる。
美緒が反応した。
でも、その逆へ落ちた。
床にボールが弾む。
笛が鳴った。
26対28。
◇
一瞬、何も聞こえなかった。
そのあとで、紫峰側の歓声が一気に耳へ入ってきた。
スコアボードには、26対28。
第3セット、紫峰。
春高東京都予選、準優勝。
私は立ったまま、しばらく動けなかった。
第1セットは25対27。
第2セットは26対24。
第3セットは26対28。
全部、あと少しだった。
凜は第1セットに集中して狙われた。
私が入って、その狙いを潰した。
第3セットでは、紫峰が凜を狙うこと自体をやめた。
伊織と瑞穂先輩を入れて、攻撃の景色を変えた。
梓先輩も入った。
ブロックも、速攻も使った。
5回の交代を使った。
まだ1回は残っていた。
凜も打った。
沙耶先輩も。
梓先輩も。
綾香先輩も。
美緒も何本も拾った。
怜奈先輩も最後までトスを上げ続けた。
私だって、このセットでコートには入らなかったけれど、何もしなかったわけではない。
交代枠を使い切ったわけではない。
それでも、青嵐は今必要なものを全部使った。
持っているものを、出せなかったわけでもない。
それでも。
負けた。
「整列!」
声が飛んだ。
私はようやく足を動かした。
コートの中にいた6人が戻ってくる。
美緒と目が合った。
美緒は何も言わなかった。
私も言わなかった。
ただ、一緒に列へ並ぶ。
「ありがとうございました!」
頭を下げる。
顔を上げた向こう側で、紫峰の選手たちも頭を上げた。
全国では、また会うかもしれない。
そう思った。
いや。
会いたい。
もう一度やって、今度は勝ちたい。
そのためには、今日と同じでは足りない。
今日持っていたものを全部出して、それで負けたのだから。
だったら。
増やすしかない。
私は、まだ悔しさの残る胸の奥で、そう思った。




