第四十五話 勝ってこい
嬉しいよりも、悔しかった。
伊織が12番のユニフォームを受け取った瞬間も、その気持ちは変わらなかった。
もちろん、嬉しくないわけではない。
あの1年生が、ここまで来た。
高校へ上がってきたばかりの頃から、怜奈ではなく自分を見ていた。
『取るなら、まず楓先輩のところ』
真正面から、そんなことを言ってきた。
生意気な1年生だと思った。
でも嫌いではなかった。
むしろ、面白かった。
だから今日、宣言通りに場所を取った伊織を見て、誇らしい気持ちは確かにあった。
それでも。
悔しい。
その方がずっと大きかった。
だから伊織があんな顔で12番を抱えているのを見た時、楓は笑った。
泣くものかと思った。
少なくとも、後輩の前では。
自分から場所を奪った後輩に、申し訳なさそうな顔なんてさせたくなかった。
勝ったのだから、胸を張ればいい。
楓は伊織の口を指でむにっと摘まみ、
「私の場所、宣言通りに獲ったんだ。点数、稼いで来い」
そう言った。
伊織がようやく大きな声で「はい!」と返した時には、本当に嬉しかった。
だから。
それでいい。
それでいいはずだった。
◇
練習が終わり、体育館を出たところで、楓は一度だけ大きく息を吐いた。
まだ泣かない。
3年生は周りにいる。
1年生だって廊下を行き来している。
ここで泣くのは嫌だった。
バッグを肩に掛け、そのまま部室へ向かう。
扉を閉めた時、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。
誰もいない。
楓は椅子へ腰を下ろした。
自分の手を見る。
何百回、何千回とトスを上げてきた手。
高校1年の時には、春高のコートにも立った。
自分が青嵐のセッターになるのだと思っていた。
でも、その次の春。
怜奈が上がってきた。
見れば分かった。
上手かった。
悔しいくらいに。
自分より一つ下なのに、怜奈が上げると、コートにいる全員が生きた。
今打てる選手へ、今一番いい形でボールが届く。
気づけば、レギュラーは怜奈になっていた。
あの時も泣いた。
誰もいないところで、嫌になるくらい泣いた。
それでも、バレー部を辞めようとは思わなかった。
怜奈に勝てないなら、それで終わりにはしたくなかった。
怜奈だって崩れることはある。
サーブで追い込まれることもある。
攻撃が噛み合わなくなることだってある。
なら、その時は自分が立て直してやる。
そう決めた。
試合の流れが悪くなった時。
コートの誰かが焦り始めた時。
1本ずつ、当たり前の形へ戻す。
使える攻撃を整理して、選手が迷わなくていい状態にする。
いつの間にか、それが自分の役目になった。
怜奈の代わりではなく。
佐伯楓だからできる仕事。
そう思えるようになっていた。
まさか。
その場所まで取られるとは思わなかったけれど。
「……ほんと、生意気」
誰もいない部室で呟く。
伊織の顔が浮かぶ。
合宿から帰ってきてから、あの子は明らかに変わった。
いや、トスそのものが突然上手くなったわけではない。
相手の見方が変わった。
1球前の攻撃を使う。
見せたものを残す。
相手が正しく判断した先に、別の答えを置く。
楓にはできない。
少なくとも、自分の一番得意な仕事ではない。
自分ができるのは、崩れたものを戻すこと。
みんなが迷った時に道を整えること。
伊織は違う。
道がなければ、新しく作る。
壁があれば、別の場所に穴を開ける。
突破口を開けるセッターだ。
春高予選で、深見先生がどちらを12人に入れるか。
少し前から分かっていた。
萌々香も気づいていた。
だから、名前を呼ばれなかった時も驚かなかった。
分かっていた。
納得もしている。
勝つためなら、伊織を入れた方がいい。
それでも。
「……悔しいなあ」
声にした瞬間、駄目だった。
視界が滲んだ。
一度瞬きをすると、頬を何かが伝った。
「……くそ」
袖で拭う。
また出てくる。
怜奈に場所を取られた時も、こんなだった。
あの時よりは大人になったつもりだったのに、悔しいものは悔しいらしい。
楓は俯いた。
その時、部室の扉が開いた。
「……あ」
萌々香だった。
「何」
「いや」
萌々香は何も言わなかった。
楓の隣まで来て、同じように椅子へ座る。
しばらく、2人とも黙っていた。
慰められたら嫌だった。
大丈夫なんて言われたら、たぶん腹が立つ。
萌々香は、それを分かっている。
しばらくしてから、何でもないことのように口を開いた。
「ねえ、帰り、アイスでも食べる?」
楓は鼻をすすった。
「こんな時期に?」
「じゃあ、コロッケ」
「……いいよ。萌々香のおごりね」
「え!?」
ようやく萌々香がこちらを見る。
「なんで私が」
「慰めろ。ベンチに入れない同級生を」
「はいはい、コロッケね」
「2個」
「増えた」
楓は少し笑った。
笑ったら、また涙が落ちた。
萌々香は何も言わない。
それがありがたかった。
「……春高予選で勝った後に、コロッケおごってやる」
「おお、マジか。いいね」
「だから、勝って来い」
萌々香が少しだけ目を細めた。
楓は濡れた頬を袖で拭った。
「私の分も。みんなの分も」
「それは私だけじゃなくて、みんなに言ってよ」
「言うよ」
楓は即答した。
「12人、全員に言う」
自分を落として選ばれた12人。
だったら。
「勝ってこいって。私を落としたんだ。最強の布陣で、全国行けって」
「そうだね」
萌々香が笑う。
それから楓の顔を覗き込んだ。
「でも、それ言う前に泣き止んでね」
「今日は無理だ」
「即答なんだ」
「無理なもんは無理」
また視界が歪む。
悔しい。
本当に悔しい。
高校最後の春高予選。
自分は12人に入れなかった。
ずっと着てきたユニフォームを、今年は着られない。
でも。
これで終わりにはしたくなかった。
涙くらいなら、いくらでも流せばいい。
流して。
それで全部終わりにする必要なんてない。
「終わりじゃないよ、楓」
萌々香が言った。
楓は顔を上げる。
「春高本戦になれば、上からの目って必要になる」
観客席からだから見えるものがある。
コートの中では気づきにくい相手の並び。
ブロックの偏り。
サーブの狙い。
流れが悪くなった時に、どこへ戻ればいいのか。
「まだ力貸してよ、楓」
楓は黙って萌々香を見た。
それから、ぐしゃぐしゃになった顔のまま笑った。
「……当たり前でしょ」
自分はもう、12人ではない。
それでも。
まだ青嵐のセッターだ。
コートの中にいなくても、できることはある。
立て直すのが、自分の仕事なら。
外からだって、立て直してやる。
「とりあえずコロッケ」
「はいはい」
「2個」
「1個」
「泣いてるのに?」
「それを武器にするな」
楓はまた少し笑った。
涙は、まだ止まらなかった。




