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水瀬千尋はエースじゃない―青嵐女学院バレーボール部―  作者: まるちーるだ
第二章 エースの隣

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第四十四話 十二番


 合同合宿が終わってから、青嵐の練習には少しずつ変化が増えていた。


 千尋が一番分かりやすいと思ったのは、伊織だった。


「高梨、黒川。2枚替え」


「はい!」


 練習試合の途中で深見先生の声が飛ぶと、瑞穂先輩と伊織がほとんど同時に立ち上がる。


 最初の頃は、それだけでベンチの空気が少し変わっていた。


 今はもう、珍しくない。


 伊織が後衛から入り、瑞穂先輩が前へ入る。前衛に3枚の攻撃手を残した状態で、伊織がどこへ上げるかを選ぶ。


 毎回、合宿でやったような変わった攻撃を使うわけではなかった。


 普通に沙耶先輩へ上げることもある。


 皐月先輩を速攻で使うこともある。


 瑞穂先輩をライトから走らせることもある。


 ただ、その中に時々、妙なものが混ざる。


 瑞穂先輩が前衛なのに大きく後ろへ下がって、バックアタックみたいな助走から打ってみたり。


 サーブを打った皐月先輩が、そのまま後衛から攻撃に入ってみたり。


 一度それを見せると、その後は使っていなくても相手のブロッカーが気にしているのが、ベンチからでも分かる時があった。


 何より、伊織が楽しそうだった。


 試合から戻ってきても、まず口にするのは自分が何点取ったとか、どれだけ使ってもらえたとかではない。


「さっき瑞穂先輩を後ろに下げたら、中央が一回そっち見た」


「じゃあ次、皐月先輩のブロードと重ねたらもっと嫌かな」


「凜は後ろから速く入りすぎると、逆に分かりやすいかも」


 そんな話ばかりしている。


 合宿の最後、凜や私や真帆まで巻き込んで新しい攻撃を試してからは、さらにひどくなった。


 練習が始まる前から真帆と助走位置を確認していたり、美緒に「昨日のパス、あと50cm右」と注文をつけたり、凜に「今のは早すぎ」と怒られたりしている。


 最近の伊織は、12人に入るとか入らないとか、そんなことよりも、新しくできることを増やす方に夢中なのではないか。


 私には、そう見えていた。


 そして変わったのは、伊織だけではない。


「速水、今日は最初から」


「はい」


 練習試合の前、深見先生に呼ばれた美緒が、そのままコートへ入っていく。


 私はストレッチをしながら、その背中を目で追った。


 これも最近、珍しくなくなった。


 少し前までなら、スタートからリベロとして入るのは佳穂先輩であることが多かった。


 それが今は、美緒が先にコートへ入る日が増えている。


 途中で佳穂先輩と替わることもあるし、そのまま最後まで残ることもある。


 美緒自身は、特に何も言わなかった。


 先発でも途中出場でも、いつもと同じ顔でサーブを受け、スパイクを拾い、また次の位置へ動いている。


 でも、周りから見れば分かる。


 スターティングリベロの場所は、少しずつ美緒のものになりつつあった。


 1年生だから待つ。


 3年生だから使う。


 青嵐には、そういう順番はない。


 今使える選手が使われる。


 分かっていたつもりだった。


 けれど、その意味を私が改めて実感することになるのは、それから数日後だった。


     ◇


「集合」


 練習が終わったあと、深見先生の声が体育館に響いた。


 部員全員がコート脇へ集まる。


 深見先生の手元に並んでいるものを見て、私は思わず背筋を伸ばした。


 ユニフォームだった。


「春高東京都予選の登録メンバーを発表します」


 体育館が静かになった。


 私は一度だけ隣を見る。


 凜はまっすぐ前を見ている。


 美緒もいつも通り。


 真帆は少し離れたところで、ぎゅっと唇を結んでいた。


 伊織は――。


 妙に普通だった。


 緊張していないわけではないと思う。


 でも、自分の名前が呼ばれるのを待っている顔には見えなかった。


 そう思っている間に、深見先生が最初のユニフォームを取った。


「1番、御子柴綾香」


「はい!」


 綾香先輩が前へ出る。


「2番、白石萌々香」


「はい」


 萌々香先輩。


「3番、桜井佳穂」


「はい!」


 佳穂先輩がユニフォームを受け取った。


 深見先生が名簿へ目を落とす。


 私は何気なく、3年生の列を見た。


 楓先輩がいる。


 いつものように立っている。


 次に呼ばれるのだろうと思った。


「次、2年」


 ほんの一瞬。


 体育館の空気が止まった。


 3年生の列の後ろで、小さなざわめきが起きた。


「え……」


 誰かの声が漏れる。


 私も反射的に楓先輩を見た。


 呼ばれなかった。


 楓先輩の名前が。


 隣を見ると、伊織も同じ方向を見ていた。


 さっきまで普通だった顔から、表情が消えている。


 そこで初めて気づいたように見えた。


 自分が瑞穂先輩と2枚替えで使われる回数が増えたことと。


 楓先輩が呼ばれなかったこと。


 その二つが、同じ場所に繋がっていることに。


 楓先輩自身は驚いていなかった。


 少しだけ目を伏せたあと、すぐに顔を上げた。


 萌々香先輩も、一度だけ楓先輩を見る。


 2人とも、私にはどこか「やっぱり」と思っているように見えた。


「4番、九条沙耶」


「はい!」


 深見先生の声で、私も慌てて前へ向き直った。


 発表は止まらない。


「5番、一ノ瀬怜奈」


「はい」


「6番、鷹野皐月」


「はい!」


「7番、篠宮梓」


「はい」


「8番、高梨瑞穂」


「はい!」


 2年生が5人。


 由梨先輩の名前はない。


 それは最初から分かっていた。


 ようやく普通に歩けるようになってきたところで、まだコートへ戻れる状態ではない。


 それでも由梨先輩は、いつもの穏やかな顔で発表を聞いていた。


「次、1年」


 私の心臓が一つ大きく鳴った。


「9番、神崎凜」


「はい!」


 凜が勢いよく前へ出る。


 9番のユニフォームを受け取り、戻ってきた。


 私と目が合うと、にっと笑う。


「10番、速水美緒」


「はい」


 美緒が呼ばれる。


 返事はいつも通り淡々としていた。


 けれど、受け取った10番を一度見下ろした時、美緒の口元がほんの少しだけ緩んだ。


 私もつられて笑いそうになる。


「11番、水瀬千尋」


「はい!」


 自分の名前が呼ばれた。


 前へ出る。


 深見先生から渡されたユニフォームには、11。


 両手で受け取った瞬間、胸の奥がふわっと熱くなった。


 全国インターハイでは、必要な時にコートへ入る役目をもらった。


 それでも最後のセットでは使われなかった。


 あの時、自分でも同じ判断をすると思った。


 だからもっと、使えることを増やしたいと思った。


 その途中にいる。


「ありがとうございます!」


 頭を下げて戻る。


 嬉しい。


 もちろん嬉しい。


 けれど自分の場所へ戻る途中で、私の目は伊織へ向いた。


 伊織が、初めて緊張した顔をしていた。


 少し前までとはまるで違う。


 たぶん。


 さっき楓先輩が呼ばれなかった、その瞬間からだ。


 深見先生が最後のユニフォームを持った。


「12番、黒川伊織」


 伊織の肩がほんの少し揺れた。


「……はい!」


 返事が、一拍だけ遅れた。


 前へ出る。


 12番を受け取る。


 伊織はすぐには戻らず、一瞬だけ手元の数字を見ていた。


 嬉しいはずだ。


 だって、伊織はずっと上手くなろうとしていた。


 怜奈先輩とも楓先輩とも違うセッターになろうとしていた。


 最近は練習試合でも何度も使われている。


 でも。


 その顔は、私が想像していたものとは違った。


 喜んでいいのか分からないような。


 そんな顔だった。


 伊織が戻ってくる。


 私は何か声を掛けようかと思った。


 けれど、その前に別の声がした。


「伊織」


 楓先輩だった。


 伊織が振り向く。


「楓先輩」


 楓先輩は笑っていた。


 いつも通りだった。


 少なくとも、私にはそう見えた。


 伊織は12番を抱えたまま、何か言おうとする。


「……あの、私――」


 むにっ。


「ふぁ?」


 楓先輩が伊織の口を、親指と人差し指で摘まんだ。


 突然のことに、伊織の目が丸くなる。


「何その顔」


「ふぁ、ふぁえへふはい」


「何言ってるか分かんない」


「楓先輩がやってるんじゃないですか!」


 指を離された伊織が、思わず抗議する。


 楓先輩は楽しそうに笑った。


「その方がいつもの顔じゃん」


「……でも」


 また伊織の顔が曇りかける。


 楓先輩はそれを見て、今度は静かに言った。


「伊織」


「はい」


「私の場所、宣言通りに獲ったんだ」


 伊織が息を止めた。


 私も、少し驚いた。


 宣言通り。


 いつの話なのかは分からない。


 でも伊織なら言いそうだと思った。


 楓先輩は、伊織が持っている12番を指差す。


「点数、稼いで来い」


「……」


 伊織はしばらく楓先輩を見ていた。


「……はい」


「小さい」


 楓先輩がすぐに返す。


 伊織が顔を上げた。


「はい!」


「よし」


 楓先輩は満足そうに笑った。


 それを見て、私もようやく息を吐いた。


 楓先輩が何を思っているのか、私には分からない。


 伊織だって、きっと全部は分からない。


 ただ。


 伊織が手にした12番は、空いていた場所にたまたま入ったものではない。


 そこには、昨日まで楓先輩がいた。


 そして楓先輩は、その場所を取った伊織に「悪いと思え」とは言わなかった。


 点数を稼いで来い、と言った。


 私は自分の11番を見る。


 9番、凜。


 10番、美緒。


 11番、千尋。


 12番、伊織。


 真帆は呼ばれなかった。


 同じ春に青嵐へ入った5人でも、今いる場所はもう同じではない。


 それでも。


 たぶん、この先もずっと同じではない。


 伊織は12番を握ったまま、まだ少しだけ困った顔をしている。


 その横で楓先輩は笑っていた。


 私は2人を見ながら、自分のユニフォームを抱き直した。


 春高予選が、始まる。


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