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水瀬千尋はエースじゃない―青嵐女学院バレーボール部―  作者: まるちーるだ
第二章 エースの隣

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第四十二話 正しい場所

 合宿最終日。


 午前最後の練習試合で、先に17点へ届いたのは椿山だった。


「ナイス、結子!」


「次1本!」


 赤いユニフォームの選手たちが声を掛け合いながら、それぞれの位置へ戻っていく。


 スコアは17対14。3点リードしているのは椿山だった。


 しかも、今日の椿山は1年生が多い。


 栞が打ち、結子が繋ぐ。杏奈は相変わらず身体の向きとは逆へ嫌らしく打ち分け、多恵子が相手の守備を見ながらトスを散らす。後衛では愛梨が1球目を安定させ、その中に成美先輩たち上級生が入って全体を繋いでいる。


 初日に見ていたら、伊織も「1年生に経験を積ませているのか」と考えたかもしれない。


 今はもう、そうは思わなかった。


 必要だから使っている。


 この相手に勝つために、この組み合わせを選んでいる。


 1年生が多いことと、全国ベスト8の青嵐相手に17対14でリードしていることは、椿山にとって何も矛盾していない。


 伊織はベンチからコートを見つめていた。


 栞だけを止めればいいわけではない。結子を無視すればラリーが長くなる。杏奈の前にブロックを置けば、そのブロックの位置を見て逆を取ってくる。多恵子もこちらの並びを見ながら攻撃を変えていた。


 1人を意識すると、別の1人が生きる。


 やはり面倒なチームだ。


「高梨、黒川」


 不意に深見先生の声がした。


 伊織と瑞穂先輩が、ほとんど同時に振り向く。


「2枚替え。準備」


「はい!」


 2人の返事が重なった。


 伊織は立ち上がりながら、一度だけスコアボードを見た。


 17対14。


 青嵐が負けている。


 昨日、サブ体育館で試していた攻撃は、今朝の練習前に深見先生にも見せていた。深見先生は長々と感想を言わなかった。


『使えそうなら使う』


 いつもの調子で、それだけだった。


 そして本当に、この3点差で使うらしい。


「黒川」


「はい」


 深見先生はコートから視線を外さないまま言った。


「やりたいことがあるなら、点にしなさい」


 伊織は一瞬だけ息を呑んだ。


「はい!」


 隣で瑞穂先輩が笑う。


「行こっか」


「はい」


 2人でコートへ向かった。


     ◇


 2枚替えで入った伊織は後衛。


 瑞穂先輩は前衛。


 伊織が後ろからセットすることで、ネット際には3人の攻撃手を残せる。


 昨日、何度も頭の中で組み直した形だった。


 とはいえ、最初から変なことをするつもりはない。


 椿山だって伊織が入ったことを見ている。栞も多恵子も、こちらのローテーションを確かめていた。


 だからこそ、まず普通にやる。


 椿山のサーブが入る。


 青嵐のレシーブが返り、伊織はボールの下へ入った。


 前にはレフト、センター、ライト。


 3枚とも、本当に打てる。


「皐月先輩!」


 中央へ速いトスを送る。


 皐月先輩が高い打点から叩いた。椿山のブロックが触り、ボールは後ろへ跳ねる。


「ワンタッチ!」


 椿山が拾った。


 切り返しから栞が打つ。青嵐も拾い、再び伊織へ返る。


 今度はレフト。


「沙耶先輩!」


「はいよ!」


 高く伸ばしたトスを、沙耶先輩が2枚ブロックの上から打ち切った。


 笛が鳴る。


 15対17。


「ナイス!」


 伊織は声を返しながら、すぐ次の位置へ移った。


 普通に点を取れる。


 まず、それが大事だった。


 奇策のために通常の攻撃を捨てたら意味がない。皐月先輩も沙耶先輩も瑞穂先輩も、全部本命でなければならない。その中へ別のものを混ぜるからこそ、相手は困る。


 次のラリーでは、椿山の攻撃を拾ったボールが少しネットから離れた。


 以前なら、サイドへ高い球を持っていく場面だった。


 けれど昨日、美緒に何十本も出してもらった距離でもある。


 伊織は流れながらボールの下へ入り、中央へ速いトスを飛ばした。


「皐月先輩!」


「はい!」


 皐月先輩が入り、椿山のブロックがわずかに遅れた。


 スパイクが床へ突き刺さる。


 16対17。


 1点差。


 伊織は小さく息を吐いた。


 使える。


 昨日練習したことは、試合でも使える。


 ただ、まだこれでは足りない。速攻を使える範囲が少し広がっただけで、玄海のような相手が持つ「正しい答え」を壊すほどではない。


     ◇


 次のラリーで、椿山の攻撃を拾ったボールが返ってきた時、皐月先輩が中央から走り出した。


 伊織の背後を回り込み、ライト方向へ流れていく。


 ブロード。


 189cmのミドルが長い助走へ本気で入れば、それだけで十分な圧があった。


 椿山の中央も、当然そこを見る。


 皐月先輩は本当に打てる。


 伊織も本当に上げられる。


 だから、ついていくのが正しい。


 その助走路を開けるため、瑞穂先輩が大きく後ろへ下がった。


 昨日と同じ形。


 今度は偶然ではない。


 伊織は一度だけ皐月先輩とブロックを見てから、指先でトスを後方へ逃がした。


 ライトバック寄り。


 瑞穂先輩が走る。


 1歩、2歩、3歩。


 前衛の選手とは思えないほど長い助走から、3mライン付近で踏み切った。


「アタックライン踏んだ!!」


 椿山コートから、成美先輩の声だけが飛んだ。


 誰も返事をする暇はない。


 瑞穂先輩はすでに空中にいた。


 腕を振り抜く。


 ドンッ、と鋭い音が響き、皐月先輩のブロードへ引っ張られたブロックの後ろへボールが突き刺さった。


 笛が鳴った。


 17対17。


「よしっ!」


 瑞穂先輩が拳を握る。


 追いついた。


 伊織も思わず口元を緩めた。


 そこでようやく、杏奈が成美先輩を振り返った。


「成ちゃん、ライト前衛!!」


「……あっ」


 成美先輩が固まる。


 栞が妙に真面目な顔で頷いた。


「成ちゃんの気持ち、わかる」


「栞……!」


 成美先輩の顔がぱっと明るくなる。


「でも、セッター、バック」


「お前も結局こっち側じゃねえか!!」


 椿山側から笑いが起こった。


 伊織も笑いかけて、それから少しだけ考える。


 成美先輩はローテーションを分かっていない選手ではない。むしろ状況判断の速い選手だ。


 それでも、一瞬だけ瑞穂先輩を「バックアタック」と認識した。


 長く後ろへ下がり、そこから大きな助走を取る。


 それだけで見た目の印象が変わる。


「……なるほど」


「黒川、今の『なるほど』何!?」


 成美先輩がネット越しに反応した。


「いえ。成美先輩でも一瞬間違えるんだなって」


「お前まで言うの!?」


「すみません」


「顔が謝ってない!」


 すると、椿山の1年生たちから次々に声が飛んだ。


「成ちゃん、ファイト」


「成ちゃん、切り替え」


「大丈夫です、成ちゃん」


「次ありますよ、成ちゃん」


「お前らさあ!」


 成美先輩が思い切り振り返る。


「私が失敗した時に限って成ちゃんって呼びやがって!」


 杏奈、栞、多恵子、愛梨が顔を見合わせた。


「「「「成ちゃん、ファイト」」」」


「今言ったそばから!!」


 また笑いが広がる。


 成美先輩は味方を探すように周囲を見回し、結子を見つけた。


「結子! お前、何とか言ってやれ!」


 結子は少しだけ考え、真面目な顔で言った。


「ドンマイです、成ちゃん」


「お前までか!!」


 さらにベンチから、椿山の3年生キャプテンが笑いながら声を掛ける。


「まあ、そういう日もあるよ、成ちゃん」


「キャプテンまで!?」


 伊織には、不思議と成美先輩が笑いものにされているようには見えなかった。


 誰も失敗を責めていない。大げさに慰めもしない。少し茶化して本人に騒がせ、そのまま次の1本へ向かわせる。


 成美先輩本人は、本気で抗議しているようだったけれど。


「お前ら覚えてろよ!」


「はい、成美先輩」


 杏奈が何事もなかったように呼び方を戻す。


「急に戻すな!」


 それでも次のサーブの準備に入る頃には、椿山の空気もすっかり試合へ戻っていた。


 そして、瑞穂先輩を見る目だけは、さっきまでとは変わっていた。


     ◇


 笑って終わらない。


 そこが椿山だった。


 次のラリー。


 皐月先輩が再びブロードへ入る。


 瑞穂先輩も、同じようにその助走路を開けるため後ろへ下がった。


 伊織は返球へ入りながら、ボールだけでなく椿山のブロッカーを見る。


 視線が、瑞穂先輩へ動いた。


 ほんの一瞬。


 それでも確かに、さっきまではなかった確認が一つ増えている。


 さっきの1本が、まだ相手の頭に残っている。


 伊織は瑞穂先輩へ上げなかった。


 トスはそのまま、ブロードへ走る皐月先輩へ伸びる。


 椿山の中央が半歩だけ遅れた。


「はい!」


 皐月先輩が打ち切る。


 笛。


 18対17。


 青嵐が初めて逆転した。


 伊織は位置を戻しながら、瑞穂先輩を見る。


 今の得点で、瑞穂先輩はボールに触っていない。


 それでも確実に、あの1点に参加していた。


 1球前に打ったから。


 相手が覚えていたから。


 そこで、伊織の中で何かが繋がり始めた。


 欲しかったのは、新しい攻撃を一つ増やすことではない。


 一度見せた攻撃を、その次の1本にも残すこと。


 相手が覚えている限り、終わったはずの攻撃はまだ終わっていない。


 ただし、椿山も簡単には離されなかった。


 次に同じ形を見せれば、今度は瑞穂先輩へ意識を残しすぎない。皐月先輩を優先しながら、それでも後ろを完全には捨てない。


 伊織が沙耶先輩へ振れば2枚がつき、打球を拾われた。


 切り返し。


 多恵子のトスがライトへ飛ぶ。


 杏奈が入った。


 身体はクロスを向いている。


 青嵐のブロックが内側を締める。


 杏奈は逆へ打った。


 ストレート際へ落ちる。


 笛。


「ナイス杏奈!」


 18対18。


 伊織は次の位置へ戻りながら苦笑した。


「……本当に嫌ですね、あれ」


 瑞穂先輩も笑う。


「真帆、昨日ずっと嫌がってたよ」


「気持ち分かります」


 簡単には離してくれない。


     ◇


 そこからは互いに点を取り合った。


 19対19。


 20対20。


 椿山の1年生たちは、青嵐が新しいことを始めたからといって混乱し続けるような選手ではなかった。


 栞は一度見た攻撃を次のラリーではもう確認し、多恵子も前衛と後衛の位置を見ながら攻撃を組み直してくる。結子はブロックを利用して簡単にはラリーを切らせず、愛梨が後ろに入れば1球目がさらに安定する。


 だからこそ、試す相手としては申し分ない。


 そしてローテーションが進み、皐月先輩がサーブ位置へ下がった。


 伊織の胸が少しだけ高鳴る。


 昨日、最後に思いついた形だった。


 前衛の瑞穂先輩が後ろから入れるのなら、そもそも後衛にいる選手だって使えばいい。


 サーブを打った直後のミドル。


 普通なら、攻撃手として数えられない選手。


 皐月先輩がボールを持ったまま伊織を見る。


 伊織は小さく合図を出した。


 皐月先輩の口元が上がる。


「やる?」


「やります」


「最高」


 瑞穂先輩まで笑った。


「最高」


 深見先生から止める声はない。


 皐月先輩がサーブを打つ。


 椿山がレシーブし、攻撃へ移る。栞のスパイクを青嵐が拾った。


「伊織!」


 十分な高さでボールが返ってくる。


 伊織がその下へ入る。


 前衛には3枚。


 全員が攻撃へ入れる。


 相手ブロックがまず見るべきなのは、当然そちらだ。


 その時、後ろから足音がした。


 皐月先輩。


 サーブを打ったミドルブロッカーが、3mラインの後ろで助走へ入っていた。


 椿山の前衛の視線が揺れる。


 伊織は後方へトスを伸ばした。


 皐月先輩が3mラインの後ろから踏み切る。


 前衛から後衛へ回ったところで、189cmの高さが消えるわけではない。


 長い腕が振り抜かれた。


 ブロックが完全に揃う前に、打球がその脇を抜けて床へ突き刺さる。


 笛。


 21対20。


「っしゃあ!」


 皐月先輩が大きく拳を握った。


「最高!」


 瑞穂先輩が叫ぶ。


「最高です!」


 伊織も思わず返してから、ネットの向こうを見た。


 栞が皐月先輩を見ている。


 多恵子も。


 結子も。


 もう、さっきまでと同じ目ではなかった。


 今ので覚えた。


 皐月先輩は、後衛に回っても攻撃手になる。


     ◇


 皐月先輩の次のサーブもラリーになった。


 伊織はボールを追いながら、椿山のブロッカーを見る。


 前衛3枚を確認している。


 それでも、一瞬だけ後ろの皐月先輩へ視線が動いた。


 ほんの一瞬。


 昨日までなら見る必要すらなかった場所だ。


 青嵐にボールが返る。


 皐月先輩がまた後ろから助走に入った。


 椿山の中央が、わずかにそちらを気にする。


 伊織は皐月先輩へ上げなかった。


 前。


 瑞穂先輩へ速いトス。


 椿山の反応が、ほんの半歩だけ遅れた。


 瑞穂先輩が1枚の外側から打ち込む。


 笛。


 22対20。


「よし!」


 瑞穂先輩が振り返る。


 伊織は笑いを抑えられなかった。


 さっき皐月先輩のバックアタックが決まった瞬間よりも、今の方がずっと面白い。


 皐月先輩はボールに触っていない。


 ただ走っただけだ。


 それなのに、椿山のブロッカーから一瞬だけ視線を奪った。


 一度見せただけで、次の1本の条件が変わった。


「……面白い」


「伊織」


 後ろから美緒に呼ばれた。


「何?」


「顔怖い」


「怖くない」


「楽しそうに怖い」


「何それ」


 ネットの向こうでは、椿山の選手たちが次のサーブまでの短い時間に声を掛け合っていた。


 栞が前を指し、多恵子が頷く。成美先輩も一度だけ皐月先輩を見てから、前衛へ視線を戻した。


 言葉までは届かない。


 けれど、伊織には何となく分かる。


 後ろを見すぎない。


 まず前を優先する。


 おそらく、そんな修正だ。


 皐月先輩が振り返った。


「次どうする?」


「もう一回、あります」


 伊織が答えると、皐月先輩はにっと笑った。


「了解」


     ◇


 3本目のサーブ。


 椿山が攻撃し、青嵐が拾う。


 皐月先輩はまた後ろから助走へ入った。


 今度の椿山は前を優先した。


 さっきほど皐月先輩を追わない。


 一つ前の失点を考えれば、その判断は正しい。前衛3枚への反応を遅らせない方がいい。


 だから伊織は、その正しい判断の反対へ上げた。


 後ろ。


 皐月先輩。


 椿山も完全には捨てていなかった。端のブロッカーが何とか寄り、皐月先輩の打球へ指先を当てる。


「ワンタッチ!」


 椿山が拾った。


 ラリーは終わらない。


 それでも伊織は、面白くて仕方がなかった。


 後ろを見れば、前への反応が遅れる。


 前を優先すれば、今度は後ろから来る。


 どちらも悪い判断ではない。


 椿山はちゃんと見て、ちゃんと考えている。


 だからこそ、その答えを次の1球で変えられる。


 全国インターハイで、上の観客席から見ていた玄海のブロックを思い出す。


 あの時は、正しい場所にいつも壁があった。


 なら、その正しい場所を固定させなければいい。


 1球前に何を見せたか。その前に誰が決めたか。誰が助走へ入ったか。それを相手がどう覚えたか。


 そこまで全部、次のトスに使える。


「伊織!」


 声に我へ返る。


 まだラリーは続いている。


 伊織は返ってきたボールへ走った。


 ネットから離される。


 それでも中央への速いトスは残してある。


 椿山が中央を意識した。


 伊織はサイドへ振る。


 沙耶先輩が高く跳び、ブロックの上から叩き込んだ。


 そこでようやく笛が鳴った。


 23対20。


     ◇


 そこから椿山も崩れなかった。


 結子がブロックを利用して1点を返し、23対21。


 続いて杏奈が身体の向きとは逆へ打って、23対22。


 さらに長いラリーの最後を栞が高い打点から決め切った。


 23対23。


 次の1点も椿山。


 23対24。


 再び、赤が先にマッチポイントへ届いた。


「1本!」


 沙耶先輩の声が青嵐コートに響く。


「はい!」


 伊織も返した。


 楽しい。


 新しいものが、どんどん見えてくる。


 でも、面白がっているだけでは駄目だ。


『やりたいことがあるなら、点にしなさい』


 深見先生の言葉を思い出す。


 椿山のサーブ。


 青嵐のレシーブが大きくネットから離れた。


 伊織はそこへ走った。


 椿山のブロックがサイドへ意識を広げる。普通なら速攻を使いにくい位置だ。


 だからこそ。


「皐月先輩!」


「はい!」


 伊織は離れた位置から中央へ速いトスを飛ばした。


 皐月先輩が入り、ブロックが完成する前に叩く。


 笛。


 24対24。


 デュース。


 次のラリーでは、皐月先輩が再びブロードへ入った。


 瑞穂先輩は助走路を開けるため、大きく後ろへ下がる。


 椿山の中央は、その両方を見ていた。


 一度後ろから打った瑞穂先輩も。


 本当に打てる皐月先輩も。


 どちらも無視できない。


 伊織は、どちらにも上げなかった。


「沙耶先輩!」


「はいよ!」


 レフトへ高く伸ばす。


 椿山のブロックが完成する前に、沙耶先輩が叩き込んだ。


 25対24。


 皐月先輩も瑞穂先輩も、今の得点ではボールに触っていない。


 それでも2人が動いたから、沙耶先輩の前から壁が減った。


 その事実が、伊織にはたまらなく面白かった。


     ◇


 最後のラリーも長くなった。


 栞が打つ。


 青嵐が拾う。


 椿山へ返れば、結子が繋ぎ、杏奈が狙う。


 また青嵐が上げる。


 一度では終わらない。


 お互い、この3日間で見てきたものを使っている。


 再びボールが青嵐へ返ってきた。


 伊織はその下へ走りながら、ネットの向こうを見る。


 椿山のブロックもこちらを見ている。


 皐月先輩を見ている。


 瑞穂先輩も。


 沙耶先輩も。


 後ろの選手まで気にしている。


 ちゃんと見ている。


 なら、その視線の中で一番嫌な場所を選ぶ。


 伊織はライトへ上げた。


 瑞穂先輩が跳ぶ。


 2枚が寄る。


 振り抜いたスパイクが、ブロックの指先へ当たった。


 ボールは大きくコート外へ飛んでいく。


 笛。


「アウト!」


 26対24。


 青嵐。


「よっしゃあ!」


 瑞穂先輩が声を上げた。


 伊織はその場で一度、大きく息を吐いた。


 17対14。


 1年生中心の椿山に押されていた試合を、ひっくり返した。


     ◇


「ありがとうございました!」


「ありがとうございました!」


 ネットを挟んで礼をする。


 顔を上げると、成美先輩が少し渋い顔でこちらを見ていた。


「……なんか嫌だなあ」


「何がですか?」


「黒川のトス」


「褒め言葉ですか?」


「多分」


 成美先輩は頭を掻きながら、少し考えた。


「こっち、ちゃんと見てるんだよ。皐月も、瑞穂も、沙耶も見る。後ろも見るし、前も見る」


「はい」


「なのに、見るほど嫌になる」


 伊織は少しだけ目を見開いた。


 ちゃんと見ている。


 それなのに、見るほど嫌になる。


 自分が欲しかったものを、相手の口から言われた気がした。


「……ありがとうございます」


「やっぱ褒め言葉だったのか、それ」


「私には」


 隣から栞が口を挟んだ。


「次は止める」


 伊織は栞を見る。


「じゃあ、その次を考える」


「うん」


 栞はあっさり頷いた。


「それがいい」


 伊織はコートを出た。


 1球前も、その前の1本も使える。


 誰がどこから打ったのか。誰が助走へ入ったのか。相手が何を見て何を覚え、その結果として次にどこを警戒するのか。そういうもの全部が、次のトスの材料になる。


 トスは、ボールに触れた瞬間から始まるものではないのかもしれない。


 相手の頭の中に少しずつ地図を描かせる。


 ここが危ない。


 次はここへ来る。


 この場面なら、この選択が正しい。


 そう信じてもらった上で、次の1球では別の場所を正解にする。


「……面白い」


 伊織は小さく笑った。


 自分がどんなセッターになりたいのか、まだ全部は分からない。


 それでも、その入口だけは見えた気がした。


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