第四十一話 これだ
サブ体育館は、メイン体育館よりずっと静かだった。
2日目の全体練習が終わったあと、ほとんどの選手はそのままメイン体育館で自主練を始めている。わざわざこちらまで来る者は少ない。
伊織にとっては、その方が都合がよかった。
「美緒、もう1球」
「はい」
美緒が両手でボールを投げる。
わざと綺麗には出さない。
ネットから4mほど離れた場所。少し低く、少し右。
伊織はそこまで走り、身体をネットへ向け切る前に両手を上げた。
トンッ。
中央へ低いトスが飛ぶ。
誰もいないネット際を通り、そのまま床へ落ちた。
「……低い」
「今の誰が打つの?」
「ミドル」
「遠くない?」
「だから練習してるの」
「ふーん」
美緒は落ちたボールを拾い、また籠へ戻る。
伊織が練習しているのは、ネットから離された時の速攻だった。
レシーブが乱れる。
セッターがネットから離れる。
普通なら、速攻の選択肢は薄くなる。
相手のミドルブロッカーだってそう判断する。中央から意識を外し、サイドへ寄りやすくなる。
全国インターハイで玄海と戦った時もそうだった。
相手は、こちらが何をするのかを当てずっぽうで読んでいたわけではない。
状況を見て。
ローテーションを見て。
それまで何をしてきたかを見て。
正しく判断して、正しい場所へ壁を作っていた。
なら。
正しい判断をしたのに、正しくない場所へ行かせられないか。
「美緒、もう少し前」
「注文多い」
「お願い」
「はい」
またボールが来る。
伊織は走る。
上げる。
落ちる。
美緒が拾う。
また上げる。
何本目だったか。
「そのトス、打っていい?」
突然、声がした。
「え?」
伊織が振り向く。
サブ体育館の入口近くに、瑞穂先輩が立っていた。
「……瑞穂先輩」
「うん」
「いつからいました?」
「ちょっと前」
美緒がボールを抱えたまま言う。
「気づかなかった」
「美緒はずっとボールしか見てないもんね」
「伊織に出せって言われてるから」
「私のせいにしないで」
「伊織のせい」
瑞穂先輩は笑いながらネットへ近づいてきた。
「で、打っていい?」
「速攻ですよ?」
「見れば分かる」
「瑞穂先輩、ミドルじゃないですよね」
「知ってる」
「じゃあ、なんでですか?」
伊織が聞くと、瑞穂先輩はすぐには答えなかった。
足元のボールを一つ拾い、手の中で回す。
「インターハイからさ」
「はい」
「ずっと考えてるんだよね」
「何をですか?」
「もっと違う攻撃、できなかったかなって」
伊織は口を閉じた。
「沙耶がもっと決めればとか、凜にもっと打たせればとか、そういう話じゃなくて」
瑞穂先輩がネットを見る。
「私が、もっと違うことできなかったのかなって」
少しだけ、声が低くなった。
「私、色々できるじゃん」
「はい」
「レシーブもするし、二段も上げるし、ライトからも打つ。別にそれが嫌なわけじゃないよ」
そこで瑞穂先輩は、もう一度伊織を見る。
「でも玄海相手に、もっと何かできなかったかなって。ずっと自問自答してる」
伊織にも、その感覚は分かった。
自分はあの試合でベンチにすら入っていない。
上の観客席から見ていただけだ。
それでも、ずっと考えている。
あの壁を、どうすれば違う場所へ動かせたのか。
「それで」
瑞穂先輩が少し笑った。
「何かが見えそうな伊織のトス、打ちに来た」
「……私、まだ何も見えてませんけど」
「だからいいんじゃん」
「どういう理屈ですか」
「一緒に見つければいい」
あっさり言って、瑞穂先輩はライト側へ歩いていく。
「どこ入ればいい?」
伊織は一瞬だけ、その背中を見た。
それからボールを取った。
「……とりあえず、ライトから少し中へお願いします」
「了解」
美緒が伊織を見る。
「続ける?」
「続ける」
「私の仕事増えた」
「お願い」
「はい」
◇
最初の1本は、見事に合わなかった。
美緒がネットから離れた場所へボールを出す。
伊織が追う。
そこからライト寄りへ低いトス。
瑞穂先輩が入ってくる。
「低っ!」
何とか右手を出し、ボールだけネットの向こうへ押し込んだ。
「瑞穂先輩、遅いです」
「今の私!?」
「打点に入れてません」
「初見で入れるか!」
「じゃあ次、少し早くお願いします」
「はいはい」
2本目。
「早いです」
「さっき遅いって言ったじゃん!」
「ちょうどよくしてください」
「伊織、怜奈に似てきたよ!?」
「それはちょっと嬉しいです」
「褒めてない!」
美緒が無言でボールを拾う。
「美緒」
「何?」
「次」
「はい」
「何してるの?」
今度は別の声。
皐月先輩だった。
「皐月先輩」
入口から中を覗き込んでいる。
「なんで瑞穂が速攻打ってるの?」
「分かんない」
瑞穂先輩が答えた。
「分からないんですか!?」
「今探してるところ」
美緒が淡々と説明する。
「伊織がネットから遠いところで速攻上げる練習してて、瑞穂先輩が打ちに来た」
「へえ」
皐月先輩の視線が、伊織へ向く。
「それ、私も打っていい?」
「皐月先輩もですか?」
「だって速攻でしょ?」
「そうですけど」
「じゃあ私の仕事じゃん」
言われてみれば、何も間違っていない。
「お願いします」
「うん」
◇
そこから、実験は一気に増えた。
「皐月先輩、まず真ん中お願いします」
「はい」
美緒が乱したボールを出す。
伊織がネットから離れた位置へ走る。
そこから中央へ。
皐月先輩が入る。
ドンッ!
高い打点から、あっさり床へ叩き込んだ。
「……普通に打てますね」
「打てるよ」
「ちょっと低かったですよ?」
「打てたからいい」
「189cmずるい」
美緒が言った。
皐月先輩が振り返る。
「美緒、それ褒めてる?」
「多分」
「多分なんだ」
次は瑞穂先輩。
ライトへ速め。
これも何本か合わせれば、普通に打てるようになった。
「次、皐月先輩。ライトまで流れてください」
「ブロード?」
「はい」
皐月先輩が伊織の後ろを回り、ライト側へ長く走る。
トス。
跳ぶ。
打つ。
これも決まる。
「どう?」
「打てます」
「さっきから感想それだけ?」
「いや、すごいですよ」
「後付け感ある」
瑞穂先輩が笑った。
何本も試した。
中央の速攻。
ライトの速い球。
皐月先輩のブロード。
瑞穂先輩を少し中へ入れる。
入りの順番を変える。
高さを変える。
テンポを変える。
どれも打てた。
どれも、使おうと思えば使える。
でも。
「……違いますね」
伊織が言った。
瑞穂先輩も腰へ手を当てる。
「違うね」
「え、今の普通に強くない?」
皐月先輩が聞く。
「強いです」
「じゃあいいじゃん」
「でも、起死回生にはならないです」
伊織はネットを見た。
「玄海みたいな相手が、本気でこっちを読んできた時に……これ一個増えたくらいじゃ、たぶん対応されます」
「ああ」
皐月先輩も少し考える。
「普通に選択肢が一個増えただけか」
「はい」
欲しいのは、攻撃の種類を一つ増やすことではない。
正解そのものを変えたい。
「もう一回、皐月先輩ブロードお願いします」
「うん」
「美緒、お願い」
「はい」
美緒からボールが出る。
伊織が追う。
皐月先輩が走り始める。
中央から伊織の後ろへ。
ライト方向へ大きく流れる。
長い身体が本気でブロードに入れば、それだけで十分に攻撃だった。
伊織も、その皐月先輩へ上げるつもりだった。
だから瑞穂先輩は、皐月先輩の助走路から外れた。
邪魔にならないよう、大きく後ろへ下がる。
伊織はボールの下へ入った。
皐月先輩を見る。
上げる。
そのはずだった。
視界の端に。
何かが入った。
遠い。
ライトバック。
瑞穂先輩。
皐月先輩のルートを開けるために下がっただけのはずなのに、そのまま腰を落としている。
足が前後に開いていた。
今から、長い助走へ入れる。
――あ。
伊織の指先が変わった。
皐月先輩へ伸ばすはずだったトスを。
ふわっ。
もっと後ろへ。
3mラインの向こう。
ライト側へ上げた。
「え?」
美緒の声がした。
皐月先輩も、ブロードへ走りながら目だけでボールを追った。
瑞穂先輩が驚いた顔をする。
けれど、すぐに走り出した。
1歩。
2歩。
3歩。
バックアタックと同じ長い助走。
3mラインの後ろから踏み切る。
前衛の瑞穂先輩が、高く跳んだ。
伊織のトスを。
思い切り、叩く。
ドンッ!!
それまでで一番気持ちのいい音が、サブ体育館に響いた。
ボールが相手コートへ突き刺さる。
瑞穂先輩が着地した。
皐月先輩が振り返った。
伊織は、2人を見た。
一瞬。
3人とも、何も言わなかった。
「「「これだ!!」」」
声が重なった。
先輩も後輩もなかった。
美緒だけがボール籠の横で首を傾げる。
「何が?」
◇
「もう一回!」
「はい!」
「皐月、同じ!」
「分かった!」
空気が一変した。
皐月先輩がブロードへ入る。
今度は伊織も最初から、後ろへ下がる瑞穂先輩を視界へ入れている。
皐月先輩が走る。
瑞穂先輩が下がる。
伊織が後ろへ上げる。
瑞穂先輩が走り込む。
ドンッ!
「これ!」
瑞穂先輩が着地して振り返る。
「これだよ!」
「皐月先輩が、本気で打ちに入ってるのがいいんです!」
伊織自身、声がどんどん大きくなっていた。
「私、普通に打つ気だけど」
「そこです!」
「そこなの?」
「皐月先輩が本当に打つつもりだから、相手も見ます!」
伊織は手を動かしながら説明する。
「皐月先輩のブロードは本物なんです。だから相手のミドルがついていくのは正しい」
「うん」
「でも、ついていったら瑞穂先輩が後ろから来る」
瑞穂先輩が目を輝かせる。
「じゃあ私を警戒して、後ろ気にしたら?」
皐月先輩が即答する。
「私が空く」
「そうです!」
瑞穂先輩が両手を叩いた。
「最高!」
「最高じゃん!」
皐月先輩も笑う。
「ですよね!?」
伊織も笑っていた。
自分でも少し驚くくらい、楽しかった。
誰かに上げる。
誰かを囮にする。
それだけではない。
皐月先輩へのブロックは、間違いではない。
むしろ正しい。
それなのに、その正しさを選んだ瞬間、瑞穂先輩が空く。
相手が正解を選ぶ。
その正解を。
あとから、間違いにする。
「面白そうなことやってるね」
また声がした。
入口に萌々香先輩が立っていた。
いつもの柔らかい笑顔で、中を覗いている。
「萌々香先輩」
「今の、もう一回見せて」
「見てたんですか?」
「最後の1本だけ」
「一番いいところだけ見てる!」
皐月先輩が言う。
「得した」
萌々香先輩は笑いながら近づいてきた。
「何やってたの?」
「皐月がブロード入るじゃないですか」
瑞穂先輩が身振りを交えて説明する。
「私が道空けるために後ろ下がったら、伊織がそこに上げてきたんです」
「へえ」
「で、後ろから打ったらめっちゃよくて」
「へええ」
萌々香先輩もネットの向こうを見る。
「面白いね、それ」
伊織は聞きながら、まだ頭の中でさっきの形を繰り返していた。
前衛が後ろへ下がって打つ。
後ろから、普通なら来ない攻撃が来る。
普通なら、来ない。
「……あ」
口から声が漏れた。
瑞穂先輩がすぐに反応する。
「また何か思いついた?」
「ピンポイントですけど!」
伊織は勢いよく顔を上げた。
「ミドルがサーブの時に、バックアタック組み込んだらどうでしょう!?」
「私?」
皐月先輩が自分を指した。
「はい!」
「ミドルのバックアタック?」
「そうです!」
伊織の頭の中で、ローテーションが回り始める。
「ずっと使えるわけじゃないです。かなり限定されます。でも、ミドルがサーブを打って、そのまま後衛に残ってるラリーなら!」
「そのまま私も攻撃に入る?」
「はい!」
「でも普通、後ろのミドルって守備じゃない?」
瑞穂先輩が聞く。
「だからです!」
伊織はもう止まらなかった。
「普通は攻撃に来ないと思われてるから、来たら嫌じゃないですか!」
「なるほど」
「それに――」
もう一つ。
形が繋がった。
「あの、2枚替え想定での話なんですけど!!」
伊織がそう言った瞬間。
萌々香先輩の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
「……?」
伊織は一瞬だけそちらを見る。
だが、すぐに瑞穂先輩の声が飛んできた。
「2枚替え?」
「はい!」
伊織の意識は、また頭の中のコートへ戻った。
「2枚替えで私が後衛に入ったら、前衛3枚を残せますよね」
「うん」
「そこに、サーブを打ったミドルまで後ろから攻撃参加したら」
皐月先輩が指を折る。
「前3枚」
「はい」
「後ろから私」
「はい!」
「4人?」
「4人です!」
瑞穂先輩が笑う。
「それ嫌だわ」
「ですよね!」
「でも皐月がサーブのローテって、美緒いないよ?」
「まあね」
「それなんです!」
伊織が勢いよく皐月先輩を見る。
「相手に切り返された時、1本目がAまで返らないことも増えますよね」
「……まあ、あるね」
「そうなると、前衛のミドルの速攻も使いにくくなる」
皐月先輩が少し考える。
「Aじゃないと、真ん中使うのきついもんね」
「はい。でもそこで、サーブを打ったミドルまで後ろから攻撃に入ったら――」
瑞穂先輩が目を細める。
「1本目がネットから離れても、攻撃枚数を減らしにくい?」
「そうです!」
伊織が大きく頷いた。
「前3枚が全部使えなくても、後ろからもう1枚来る。しかも普通なら攻撃に入らないミドルが!」
皐月先輩が自分を指す。
「それ、私がディグ上げられなかった時は?」
「その時は打てません」
「即答!」
「でも皐月先輩が触ってない時なら!」
「そりゃそうだけど!」
瑞穂先輩が吹き出した。
「伊織、容赦ないね」
「違います! 役割の話です!」
「必死に言い直してる」
「皐月先輩!」
皐月先輩も笑い始めた。
「いや、でも面白い」
「ですよね?」
「うん。最高!」
瑞穂先輩もすぐに乗る。
「最高じゃん!」
「ですよね!?」
3人で笑う。
その横で、萌々香先輩は少しだけ黙っていた。
伊織はまた、ちらりと見る。
さっきもそうだった。
2枚替え、と言った瞬間。
ほんの一瞬だけ。
何かを考えるような顔をした。
けれど、伊織にはその理由までは分からなかった。
萌々香先輩はネットを見る。
皐月先輩を見る。
瑞穂先輩を見る。
そして伊織を見る。
少しして。
いつものように、ふっと笑った。
「じゃあ、やろう!」
「萌々香先輩もですか?」
「私もミドルだよ?」
「あ」
「今忘れてた?」
「忘れてません」
「間があったよ?」
萌々香先輩が笑う。
「私がサーブの時もできるでしょ?」
「できます!」
伊織の頭がまた回り始める。
「皐月先輩と萌々香先輩なら、助走の入り方も違いますし――」
「伊織」
美緒が呼んだ。
「何?」
「私、まだ必要?」
「必要」
即答した。
「もう少しボール出して」
瑞穂先輩も笑顔で手を合わせる。
「お願い、美緒」
皐月先輩も続く。
「もうちょっとだけ」
萌々香先輩まで、
「お願い」
と笑う。
美緒は4人を順番に見た。
「人は増えたのに」
「うん」
「私だけ仕事増えた」
誰も否定できなかった。
美緒は小さく息を吐いて。
それでも、次のボールを手に取った。




