第四話 君と出会う前の
水瀬尋長は、体育館の2階からコートを眺めていた。
保護者用に用意された椅子には、ほとんど座っていない。手すりへ軽く腕を乗せ、ネットの向こう側にいるAチームと、手前側のBチームを交互に見ている。
Aチームには凜、Bチームには千尋。どちらも高校生に混ざり、ゲーム形式の練習へ入っていた。
「神崎さん、楽しそうですね」
隣から声をかけられた。
「凜は昔からああだよ」
尋長はコートから目を離さずに答える。
「強い相手を見ると喜ぶ」
「普通は緊張するものですけどね」
「緊張もしてると思うよ」
「してます?」
「たぶん」
「全然見えませんけど」
そう言って笑ったのは、青嵐女学院女子バレー部のコーチ、相沢だった。
現役時代のポジションはオポジット。そして、かつて尋長と同じチームでプレーしていた男でもある。
「あの子、小学生の時から変わらないなあ」
「凜?」
「はい」
「身体は、だいぶ大きくなったけどね」
今では179cmある凜も、昔はもっと小さかった。
とはいえ、同年代の女の子の中では昔から大きい方だったし、何よりよく跳んだ。上がってきたボールを見れば、とりあえず全力で打つ。失敗したら、もう一回欲しがる。
それが神崎凜という選手だ。
「神崎さんは分かりやすいですよ」
相沢が言った。
「高さがある。打点が高い。決定力もある。何より、あれだけ打つことを怖がらない」
「うん」
「推薦する側としては、欲しい理由を説明しやすい」
「そうだね」
「問題は――」
相沢の視線が、Bチームへ移った。
「娘さんの方ですけど」
「問題なの?」
「そういう意味じゃないです」
尋長は少し笑った。
千尋は168.8cm。本人は169cmと言い切るのを嫌がる。別に誰も気にしない0.2cmを、本人だけが妙に気にしている。
尋長からすると、実に千尋らしかった。
「実際、どうなんです?」
「何が?」
「水瀬千尋という選手」
「父親に聞く?」
「父親じゃなくて、元セッターに聞いてます」
「面倒くさい聞き方をするね」
「誰の影響だと思ってるんですか」
相沢が呆れたように言う。
尋長は答えず、コートへ目を戻した。
ちょうど千尋が前衛へ回り、対角のセッターが後衛へ下がったところだった。
「黒川伊織」
尋長が、その名前を口にする。
「気になります?」
「うん」
青嵐中等部3年。178cmの大型セッターで、高等部への内部進学候補。
事前に多少の話は聞いていたけれど、選手のことは実際にコートで見る方がずっと分かりやすい。
「あの子、面白いね」
「黒川ですか?」
「うん」
「そうでしょう?」
相沢の声に、少しだけ嬉しそうな響きが混じった。
「うちの中等部では、かなり期待されてます」
「トスが上手いから?」
「それもありますけど」
「違うね」
「分かります?」
「分かるよ」
黒川がトスを上げる。
1本前にレフトを使い、その助走につられて相手のミドルブロッカーが外を意識すれば、今度はセンター。その次には、またレフトへ戻す。
「相手に何を見せたのか、ずっと覚えてる」
尋長が言う。
「はい」
「今、どこが空いているかだけじゃない。次にどこを空けるかまで考えてる」
「そうなんですよ」
「性格悪そう」
「それ、本人には言わないでくださいね」
「褒めてるんだけど」
「昔、あなたも同じことを言われてたでしょう」
「そうだっけ?」
「言われてました」
相沢は即答した。
コートでは、黒川が千尋に何かを説明している。
長い。
千尋が何かを尋ねると、黒川はさらに話し続ける。やがて千尋が口を挟み、黒川の言葉が止まった。
「……何を言ったんでしょう」
「さあ?」
「聞こえてる顔してますけど」
「聞こえてないよ」
「じゃあ、なんで笑ってるんです?」
「なんとなく」
尋長は、わずかに口元を緩めた。
次のラリーが始まる。
黒川の説明は、さっきまでより明らかに短くなっていた。黒川が一言だけ声をかけ、千尋が頷く。
それだけだった。
「黒川、説明をやめましたね」
「うん」
「珍しいな」
「普段は多いの?」
「多いですよ。かなり」
「だろうね」
おそらく黒川には、周囲より多くのものが見えている。
自分が何を見ているのか。何をしたいのか。どこへ動いてほしいのか。それをすべて言葉にして伝えなければ、周囲がついてこないのだろう。
「……あの子は俺だね」
尋長が呟いた。
「え?」
相沢が横を見る。
「黒川」
「あなたに似てるってことですか?」
「うん」
尋長は少しだけ間を置いてから、続けた。
「君と出会う前の」
「…………」
相沢が黙った。
「何ですか、その言い方」
「変?」
「ものすごく分かりにくいです」
「君には分かるでしょ」
「いや、まあ……」
相沢は言葉を濁した。
その時、コート上のボールが乱れた。
AチームのスパイクをBチームの後衛が弾き、ボールが大きくネットから離れる。
「伊織!」
黒川がボールを追って走った。
ネットからかなり遠い。あの位置なら、普通はレフトへ高く上げる。相手のブロッカーもそう判断し、既にレフト側へ寄り始めていた。
黒川もそちらを見ている。視線も肩も、レフトへ向いていた。
それなのに。
「お」
尋長が小さく声を漏らした。
千尋が動いた。
攻撃のカバーへ入ろうとしていた足を止め、ライトへ走る。
「……なんで?」
相沢が呟いた次の瞬間、黒川のトスが背中側へ飛んだ。
千尋は既にそこにいた。
助走から踏み切る。ブロックは遅れて1枚しかついていない。
バチンッ!
乾いた音が体育館へ響き、クロスへ打ち抜かれたボールが床へ突き刺さった。
「ナイス!」
高校生たちの声が上がる。
千尋は着地すると、すぐに黒川を見た。何かを言われた黒川が目を丸くし、今度は黒川が言い返す。
千尋が笑った。
「……今の、打ち合わせしてました?」
「してないんじゃない?」
「黒川、何も言ってなかったですよ」
「うん」
「娘さん、なんでライトにいたんです?」
「黒川が使いたかったからじゃない?」
「いや、それは見れば分かりますけど」
「千尋にも見えたんだろうね」
「簡単に言いますね」
「簡単だよ」
尋長は、まるで当たり前のことのように答えた。
少なくとも、千尋にとっては難しいことではない。
「なるほどねえ」
尋長は少し笑った。
「何です?」
「いや」
尋長には、ずっと分かっていた。
千尋は、決まった答えを渡された時よりも、答えがいくつもある時の方がよく動く。
ボールが崩れた時。予定が変わった時。誰かが、それまで考えていたこととは違う何かを始めた時。
そういう時ほど、千尋は楽しそうだった。
「尋長さん」
「ん?」
「さっきの」
「何?」
「『君と出会う前の俺』って」
「ああ」
「それって――」
相沢はそこで言葉を止め、もう一度コートを見た。
黒川が何かを言い、千尋が短く返す。それだけで2人ともすぐに相手コートへ視線を移した。
「……いや」
「何?」
「そもそも、娘さんが青嵐に来るかどうかも分からないでしょう?」
「そうだね」
「他にも声がかかるでしょうし、本人もまだ決めてない」
「そうだね」
「それなのに、なんでそんな顔してるんです?」
「どんな顔?」
「もう来るって分かってるみたいな顔」
「そんな顔してる?」
「してます」
尋長は少し考えてから、相沢を見た。
「じゃあ、逆に聞くけど」
「はい?」
「君は初めて俺を見た時、どう思った?」
「……何ですか、急に」
「覚えてるでしょ」
「何年前の話をしてるんですか」
「忘れた?」
「忘れてませんけど」
「どう思った?」
相沢は黙った。
数秒の沈黙の間にも、コートからはシューズが床を踏む音が響いている。
「……変なセッターだな、と」
「うん」
「何をするか分からないし」
「うん」
「こっちに説明している途中で、自分で予定を変えるし」
「うん」
「打つ側としては迷惑でしたよ」
「そうだった?」
「そうでした」
「でも?」
「……」
相沢が露骨に嫌そうな顔をした。
「何です?」
「それだけだった?」
「……」
「相沢」
「分かってて聞いてるでしょう」
「何のこと?」
尋長は、絶対に分かっている顔で笑っていた。
相沢がため息をつく。
「……面白そうだな、と思いましたよ」
「でしょ?」
尋長が嬉しそうに笑った。
「あなた、昔からその顔が腹立つなあ」
「褒めてる?」
「褒めてません」
相沢は再びコートを見る。
千尋と黒川が、何かを話していた。さっきよりも互いの距離が近い。
今度は黒川が笑い、それを見た千尋も笑った。
「……ああ」
相沢が声を漏らす。
「なるほど」
「ね?」
「だから」
「うん」
「娘さんが青嵐に来るとは限りませんよ」
「そうだね」
「黒川とずっと組むとも限らない」
「そうだね」
「そもそも、まだ今日初めて会ったばかりです」
「知ってるよ」
尋長はコートへ目を向けた。
黒川が相手を見る。
千尋も相手を見る。
黒川が何も言わずに立ち位置をわずかに変えると、千尋もそれに合わせて動いた。
「でも」
尋長は小さく笑った。
「もう、面白いって思っちゃったでしょ」
「……」
「一緒にやったら、もっと面白そうだって」
相沢は答えなかった。
けれど、否定もしなかった。
◇
ネットの向こう側から、凜の声が響いた。
「もってこーい!」
相沢が吹き出す。
「神崎さんは、本当に分かりやすいですね」
「でしょ?」
「黒川とは真逆だ」
「だから面白いんじゃない?」
「……あなた、誰と誰を組ませようとしてます?」
「俺は何も」
「その言い方をする時は、だいたい何か考えてるんですよ」
「俺、保護者だよ?」
「元セッターでしょう。しかも、全日本の」
「ふふっ。もう、とっくに引退してるよ」
「関係ない」
尋長は笑った。
確かに、セッターを辞めてから随分と経つ。今では、自分でトスを上げることもほとんどない。
それでも、コートを見れば、人と人との間に何があるのかを考えてしまう。
誰と誰を組ませたら、何が起きるのか。
それだけは、どうやら今でも変わっていないらしい。
黒川伊織。
神崎凜。
そして、水瀬千尋。
まだ、3人が同じチームになると決まったわけではない。
それでも尋長は、彼女たちが同じユニフォームを着て立つ、その先のコートを少しだけ見てみたいと思った。




