第三話 対角
「水瀬さんは、ここ」
コーチが指差した位置を見て、私は少しだけ首を傾げた。
「ここですか?」
「うん」
ネットを挟んだ向こう側では、Aチームがゲーム形式の準備を始めている。
こちらはBチーム。高校生の先輩たちに混ざって、今日初めて青嵐の練習へ参加する私が立っている。
そして、私から3つ先。ローテーション上、ちょうど対角の位置にいるのが、さっき挨拶したばかりの黒川伊織だった。
「私、ライトですか?」
「ローテーション上は、黒川の対角に入ってもらう」
「セッター対角?」
「そう」
コーチが頷く。
「レフトもライトもできるって聞いてるから」
「まあ、一応」
「じゃあ問題ない」
軽い。
私はもう一度、自分が入る位置を確かめた。
セッターの対角は、中学で固定して入ることがほとんどなかった位置だ。
私は基本的にはアウトサイドだけれど、チーム事情によってライトへ回ることもある。セッターが1本目を触れば2本目を上げるし、崩れた時には後衛からでもトスに入る。
結局、どこへ置かれても、それなりにはやる。
それが私だった。
「何か問題ある?」
横から声をかけられた。
黒川伊織。さっき私を頭から足まで値踏みしてきた、感じの悪いセッターだ。
「別に」
「ならいいけど」
「黒川は、ずっとセッター?」
「そうだけど」
「へえ」
「何?」
「背が高いから」
近くで見ると、やはり大きい。
「何cm?」
「178cm」
「大きいね」
「水瀬は?」
「168.8cm」
「細か」
「今朝、測ったから」
「そこまで言うなら、169cmでよくない?」
「さっきも同じこと言われた」
「じゃあ、169cmでいいじゃん」
「でも、169cmって言ったら嘘になるでしょ」
「0.2cmで?」
「0.2cmを笑う者は、0.2cmに泣くよ」
「何それ」
「知らない?」
「知らない」
「今作った」
「……やっぱり変な人」
「今日会ったばかりの人に言われたくないな」
そっちは、さっき私を値踏みしてきたくせに。
「それより」
黒川が私の立ち位置を確かめる。
「対角なら、私が前衛の時は水瀬が後衛。私が後衛の時は、水瀬が前衛になるから」
「うん」
「私が1本目を触ったら、2本目をお願い」
「分かった」
「あと、前衛でライトにいる時は、レセプションから――」
「黒川」
「何?」
「始まる前から、全部説明するの?」
黒川の眉がわずかに動いた。
「必要なことだから」
「覚えるけどさ」
「じゃあ聞いて」
「はいはい」
「返事が軽い」
やっぱり細かい。
私たちと同じ中学3年生なのに、なんとなく先輩から指示を受けているような気分になる。
感じが悪い。
というより、ちょっと面倒くさい。
◇
「始めるよ!」
「はい!」
ゲーム形式が始まった。
最初のローテーションで、私は後衛。黒川は前衛にいる。
ネットの向こうに目を向けると、Aチームには凜がいた。
「千尋!」
こちらに気づいた凜が、大きく手を振る。
「敵に手を振らない」
「別にいいじゃん!」
「よくない」
「私に来たら拾ってね!」
「拾うよ」
「じゃあ、私も千尋のスパイク止める!」
「味方になってから言って」
楽しそうだ。
というより、もう完全に青嵐の練習へ馴染んでいる。
「神崎、行くよ!」
「はい!」
Aチームの先輩に呼ばれ、凜が慌てて自分の位置へ戻った。
「知り合い?」
黒川が聞く。
「幼馴染」
「へえ」
「家も3軒隣」
「近」
「ずっと一緒」
「だから、セットで推薦?」
「知らない」
私は肩をすくめた。
「私も、それが知りたい」
審判役の先輩が笛を鳴らし、ボールが放たれた。
試合が始まる。
最初の数本で、私は黒川伊織というセッターが、かなり上手いことを知った。
「ナイスレシーブ!」
Bチームのレセプションが、きれいに黒川へ返る。
黒川がボールの下へ入るのと同時に、ミドルの先輩が速攻へ走った。Aチームのミドルブロッカーが反応し、中央へ残る。
けれど、黒川が上げたのはレフトだった。
「はい!」
先輩が跳ぶ。
相手のブロックは、揃いきらないまま1枚半。スパイクはその脇を抜け、コートへ落ちた。
「ナイス!」
次のレセプションも、きれいに返る。
またミドルの先輩が助走へ入り、レフトも大きく開いた。Aチームのミドルブロッカーは、さっき使われたレフトを気にして、ほんの少し外側へ意識を向けている。
今度こそ、黒川は中央へ上げた。
速攻が決まる。
「ナイス!」
私は後衛から一連の攻撃を眺めていた。
上手い。
でも、たぶん、それだけではない。
「……ああ」
なんとなく分かった。
「何?」
ローテーションの合間に、黒川がこちらを見る。
「別に」
「何か言ったでしょ」
「性格悪いなって」
「は?」
黒川の顔が思いきり歪んだ。
「水瀬、今日会ったばかりだよね?」
近くにいたアウトサイドの先輩が笑う。
「はい」
「黒川にそれを言えるの、すごいね」
「だって」
私は黒川を見る。
「さっきレフトを使ったから、今度は相手が外を気にすると思って、センターを使ったでしょ?」
「それが?」
「その前の攻撃でも、センターの助走はちゃんと見せてたし」
「……普通じゃない?」
「普通なの?」
「セッターなら考えるでしょ」
「でも、絶対楽しいでしょ」
「何が」
「相手が『次はこっちだ』って思ってるところに、違うトスを上げるの」
「…………」
「ほら」
「何が、ほらなの」
「顔」
「顔?」
「今、ちょっと笑った」
「笑ってない」
「笑ってた」
「笑ってない!」
分かりやすい。
この子は、たぶん、相手が嫌がることをするのが好きだ。
「やっぱり性格悪い」
「それ、褒めてるの!?」
「一応」
「一応って何!」
面白い。
さっきより少しだけ、黒川を見るのが楽しくなった。
◇
ローテーションが回り、今度は私が前衛へ上がった。対角の黒川は後衛へ下がり、私はライト側へ入る。
「千尋」
「ん?」
さっきまで水瀬と呼んでいたのに、いきなり名前を呼ばれたせいで、一瞬だけ反応が遅れた。
「今、千尋って言った?」
「水瀬」
「あ、戻した」
「どっちでもいいでしょ」
「それで、何?」
「次のレセプション。きれいに返ったら、最初はセンターを使うから」
「うん」
「その次、相手のミドルが中に残ったらレフト。外へ流れたら――」
「黒川」
「何?」
「そんなに事細かく言わなくていいよ」
黒川の言葉が止まった。
「……は?」
「何をやりたいのかだけ言ってくれれば、合わせるから」
一瞬、本当に何を言われたのか分からないという顔をされた。
「いや」
「うん」
「今、それを説明してるんだけど」
「全部はいらない」
「なんで?」
「だいたい分かるから」
「何が?」
私はコートを見た。
今のローテーション。相手の前衛。こちらのミドルとレフト。それから、ライトに入っている私。
「最終的に、ライトを1枚にしたいんでしょ?」
黒川が黙った。
「違う?」
「……最初にセンターを使う」
「うん」
「相手のミドルに、中央を意識させる」
「うん」
「次にレフトを使って、外にも意識を振る」
「そのあとライト」
私は自分を指差した。
「ここを空けたいんでしょ?」
黒川がじっと私を見ている。
「……なんで分かったの?」
「見れば分かるよ」
「普通、そこまで分からないけど」
「でも、そうなんでしょ?」
「そうだけど」
「じゃあ、いいじゃん」
「よくない」
「なんで?」
「途中が大事でしょ」
「そこは、黒川が変えるかもしれないじゃん」
言ってから、私は黒川を見た。
「相手の動きを見て」
「……」
「だったら、先に全部決めても意味ないでしょ?」
黒川の目が、ほんの少し変わった。
「だから、何をやりたいのかだけ言って」
「……ライトを空けたい」
「了解」
「本当に、それだけで?」
「うん」
「失敗したら?」
「その時は説明して」
「……分かった」
短い返事だった。
でも、その声は少しだけ楽しそうだった。
◇
サーブが放たれ、レセプションがきれいに黒川へ返る。
最初に使ったのはセンターだった。
相手のミドルブロッカーが中央へ跳ぶ。速攻は拾われ、そのままラリーが続いた。
相手から返ってきたボールを、今度は黒川がレフトへ上げる。先輩が打ったスパイクはブロックに触れ、再びボールがつながった。
私はライトから、相手のブロッカーを見ていた。
センターを使われ、次にレフトを使われた。相手のミドルは、さっきよりもわずかに外側を意識している。
そうなるよね。
「千尋!」
黒川からトスが上がった。
速い。
それまで黒川がライトへ上げていたトスよりも、明らかに低い。
――変えた。
すぐに分かった。
この子は、私が「合わせる」と言ったから試している。
「ほんと、性格悪い!」
最後の2歩を速め、トスに合わせて踏み切る。
まだブロックは完成していない。
伸びてきた指先へボールを打ちつけ、そのままコートの外へ弾き出した。
「ナイス!」
得点を確認して着地すると、すぐに黒川を見る。
「変えたでしょ!」
「何が?」
「トス!」
「打てたじゃん」
「打てたけど!」
「なら、合わせられたね」
黒川が笑った。
「あ」
「何」
「今は笑った」
「うるさい」
「やっぱり性格悪い」
「もうトス上げないよ」
「それは困る」
「じゃあ黙って」
「はいはい」
そう返しながら、私も笑っていた。
◇
その次のラリーで、少しだけ不思議なことが起きた。
AチームのスパイクをBチームの後衛が弾き、ボールが大きくネットから離れる。
「伊織!」
先輩の声が響いた。
黒川がボールを追って走った。
かなり遠い。
こういう場面なら、無理をせずレフトへ高く上げるのが一番安全だ。私もそう思い、ライトから攻撃のカバーへ入ろうと一歩だけ中へ寄った。
けれど、跳び上がろうとする黒川の身体が、ほんの少しだけ違う方向を向いた。
視線も肩もレフトへ向いている。それなのに、踏み切る直前、腰だけがわずかにライト側へ残った。
「……あ」
黒川が次にやろうとしていることが分かった。
私はすぐに向きを変え、ライトへ走った。
「え?」
後ろから先輩の声がした。
黒川が跳ぶ。
相手のブロッカーは、黒川の身体と視線につられてレフトへ寄っている。
それなのに、ボールは黒川の背中側へ飛んだ。
「千尋!」
「はい!」
私はもう、そこにいた。
助走から踏み切る。ブロックは1枚しかなく、しかも反応が遅れている。
クロスへ向かって、思いきり腕を振り抜いた。
バチンッ!
ボールが床へ突き刺さる。
「ナイス!」
着地して振り返ると、黒川が妙な顔で私を見ていた。
「何?」
「……なんで、そこにいたの?」
「ライトだから」
「そうじゃなくて」
「使いたかったんでしょ?」
「言ってないけど」
「言ってないね」
「じゃあ、なんで?」
「見えたから」
「何が?」
「黒川」
「私?」
「身体の向き」
黒川が固まった。
「あと」
「まだあるの?」
「顔」
「顔!?」
「ちょっとだけ」
「顔でトスを読まないでくれる!?」
「相手にはばれてないじゃん」
「そういう話じゃない!」
「なんで怒ってるの」
「気持ち悪い!」
「ひどい!」
横で先輩が吹き出した。
「何、その会話」
「聞いてくださいよ」
黒川が先輩へ訴える。
「私、何も言ってないのに、勝手にライトへ入ってきたんですよ」
「いいじゃん。決まったんだから」
「そうですけど!」
「ほら」
「水瀬まで!」
「千尋」
「え?」
黒川が私を見た。
「千尋って呼んでいい?」
唐突だった。
「今さら? さっき、もう呼んだじゃん」
「だから確認してるの」
「別にいいけど」
「じゃあ、千尋」
「何?」
「いや」
「何?」
「黒川って呼ぶのもやめて」
「なんで?」
「なんとなく」
「曖昧」
「伊織でいい」
私は少しだけ目を瞬いた。
でも、別に嫌ではなかった。
「じゃあ、伊織」
「うん」
「なら改めて。私は千尋」
「知ってる」
「一応ね」
「よろしく」
「よろしく」
さっき一度したはずの挨拶を、今度は名字ではなく、名前でもう一度交わした。
◇
「黒川、水瀬」
コーチの声が飛んできた。
「話してないで戻れ」
「はい!」
「はい」
それぞれの位置へ戻り、ローテーションを確認する。
伊織。
その対角に、私。
さっきまでは、ただコーチに言われて入っただけの位置だった。
セッター対角。それ以上の意味はなかったはずなのに、今は少しだけ違って見える。
「千尋」
「何?」
「次」
伊織が相手コートを見る。
「ブロックを動かしたい」
「どっちへ?」
「まだ決めてない」
「あ、了解」
「それで分かるの?」
「やってみよう」
「……うん」
笛が鳴り、ボールが飛んでくる。
伊織を見て、相手を見る。空いている場所と、これから空きそうな場所を探す。
伊織が何をするのか。私に何ができるのか。その次には、どこが空くのか。
考えるほど、楽しくなった。
この子とバレーをしていると、次の1本が少しだけ楽しみになる。
この日の私は、もちろん知らなかった。
その日、たまたまゲーム形式の人数を合わせるために入っただけの位置。
黒川伊織の対角。
何年か後、その場所を、今度は私自身が選ぶことになるなんて。




