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水瀬千尋はエースじゃない―青嵐女学院バレーボール部―  作者: まるちーるだ
第二章 エースの隣

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第三十九話 椿山の平均


 風呂から戻ると、大広間の様子が少しおかしかった。


 青嵐と椿山が使うことになった大広間には、すでに人数分の布団が並べられている。


 青いジャージと赤いジャージ。


 とはいえ、今は風呂上がりなので、どちらもTシャツやスウェット姿だ。


 ここまではいい。


 問題は、その赤い集団だった。


「……何してるの?」


 私は入口で足を止めた。


 椿山の選手たちが、長机を囲んでいた。


 ノート。


 教科書。


 問題集。


 単語帳。


 筆箱。


 一人や二人ではない。


 かなりの人数が、当然のように勉強している。


 栞までいた。


「勉強」


 栞が顔を上げる。


「それは見れば分かる」


「じゃあ大丈夫」


「大丈夫じゃなくて。なんで?」


「宿題あるから」


「合宿なのに?」


「合宿でも宿題は消えない」


「……それはそうだけど」


 正論だった。


 私の後ろから入ってきた凜も、大広間を見て固まった。


「え、何これ」


「椿山が勉強してる」


「なんで!?」


「私も今聞いた」


 栞がもう一度言う。


「宿題あるから」


「合宿なのに!?」


「同じところ引っかかった」


 美緒もその後ろから覗き込んだ。


「風呂上がったら寝る時間じゃないの?」


「まだ寝ないですよ」


 真帆が言う。


「じゃあ、だらだらする時間」


「それも違います」


「えー」


 青嵐側を見る。


 すでに布団の上で髪を乾かしている選手。


 飲み物を片手に雑談している選手。


 荷物を枕元に放り出して、そのまま寝転んでいる選手。


 対して椿山側では、風呂上がりとは思えない勢いでシャープペンが動いていた。


 もちろん、全員が静かに黙々と机へ向かっているわけではない。


「そこ違う」


「え?」


「符号逆」


「あ、ほんとだ」


「それ昨日も間違えてたよ」


「昨日の私は今日の私じゃないから」


「反省して」


 普通に喋っている。


 笑ってもいる。


 机の上にはお菓子もある。


 でも、その間にも問題は進んでいた。


 少し離れたところでは、結子が数学の問題集を前に手を止めていた。


「あれ? ここって……」


 隣にいた栞が、ちらりと結子の手元を見る。


「斜めの数字」


「あ」


 結子がもう一度問題を見る。


「あ、そっか」


 それだけだった。


 栞はすぐに自分の問題集へ戻り、結子も何事もなかったように続きを解き始める。


 答えを聞いたわけではない。


 見る場所を一つ教えてもらっただけだ。


 それだけで、あとは自分で先まで進んでいく。


「椿山って、やっぱりこうなんですね……」


 真帆が感心したように言った。


 そこへ伊織が髪をタオルで拭きながら入ってくる。


「まあ、椿山だし」


「そんなに違うの?」


 私が聞く。


 伊織が私を見る。


「受験で入るの、かなり大変よ」


「へえ」


「へえ、じゃなくて。千尋が受けてたら結構危ないと思う」


「なんで急に私?」


「現実的な話」


「私、そんなに成績悪くないよ?」


「悪くはないわね」


「ほら」


「でも椿山だから」


 その言い方が少し気になった。


 真帆が椿山側の長机を見ながら言う。


「椿山でしたら、私も受験で入れたか……」


「真帆は行けるでしょ」


 伊織は即答した。


「そうですか?」


「真帆は受験で青嵐入ってるんだから。怪しいのは千尋」


「また私」


 伊織はそこで、少し遠くを見る。


 私もつられて視線を追った。


 凜がすでに布団の上で大の字になっている。


 その隣では、美緒が枕を抱えて転がっていた。


「……あっち2人は無理ね」


「何が?」


 凜が顔だけ上げた。


「椿山」


「何が椿山?」


「もういいわ」


「なんで!?」


「美緒は?」


 私が聞く。


「何が?」


「椿山受験」


「受けない」


「そういう話じゃないのよ!」


 伊織が珍しく声を大きくした。


     ◇


 私も自分の荷物から宿題を出した。


 別に椿山に対抗したわけではない。


 ただ、目の前でこれだけ勉強されると、何もしないで寝転がるのが少し落ち着かなかった。


 数学の問題集を開く。


 数分後。


「……ここ、何だっけ」


 早速止まった。


 二次関数。


 見覚えはある。


 授業でもやった。


 やったはずだ。


「どれ?」


 横から声がした。


 成美先輩だった。


 風呂上がりで、普段は結んでいる髪を下ろしている。


「これです」


「あー、これね」


 成美先輩が私の問題集を覗き込む。


「いきなり代入しようとしてるでしょ」


「はい」


「先にこっち整理した方が楽」


 私のシャープペンを借りて、別の紙に式を書く。


「ここをこうして」


「はい」


「で、これをこっち」


「あ」


「そしたら、ほら」


「……分かりやすいです!」


「でしょ?」


 私は自分でもう一度解いてみる。


 さっきまで止まっていた場所を、今度はすんなり越えた。


「できた」


「おっけー」


「成美先輩、教えるの上手いですね」


「まあねー」


 成美先輩が得意そうに笑った。


 その時。


 少し離れた場所で、何かの気配が動いた。


 私は気づかなかった。


 沙耶先輩は気づいた。


「あ」


 楽しそうな声を出す。


「出た」


 怜奈先輩が顔を上げた。


「何が?」


「怜奈の負けず嫌い」


「何の話?」


「千尋、成美に勉強教えてもらってるよ」


「沙耶先輩?」


 なんでわざわざ報告するのだろう。


 怜奈先輩の視線が、ゆっくりこちらへ向く。


「へえ」


 私は少しだけ嫌な予感がした。


「分かりやすかった?」


「はい」


「そう」


 声は普通。


 なのに、なぜか怖い。


 沙耶先輩は完全に楽しんでいる。


「怜奈、千尋にずっと勉強教えてるもんねー」


「別に」


「取られた?」


「取られてない」


「じゃあ気にしなくていいじゃん」


「気にしてない」


 怜奈先輩が問題集を閉じた。


「千尋」


「はい」


「どこ分からないの?」


「今は解けました」


「次は?」


「え?」


「次」


「まだ見てません」


「見て」


「はい」


 成美先輩が目を丸くする。


「何これ」


「怜奈先輩、たまにこうなるんです」


 私が小声で説明した。


「聞こえてるよ」


「はい」


 沙耶先輩がますます笑う。


「怜奈、私たちに教えても理解しないからつまんないんだって~。その辺、千尋は理解できるから嬉しいんじゃない?」


 ケラケラ笑う沙耶先輩を、怜奈先輩がじっと見た。


 それから、


「はあ……」


 と、盛大な溜息を吐く。


 大広間にいる青嵐の2年生たちを見回した。


「千尋に教えられる頭がある2年がいたら出てきなさい?」


 沈黙。


 沙耶先輩は天井を見た。


 皐月先輩は窓の外を見た。


 梓先輩は自分の爪を見た。


 瑞穂先輩は、急にペットボトルの成分表示を読み始めた。


 全員、見事なくらい違う方向を見ている。


「なんで誰も目合わせないんですか!?」


 私が言った。


「いやー」


 沙耶先輩が笑う。


「適材適所って大事じゃん?」


「今それ言います?」


「千尋には怜奈がいるから大丈夫」


「何のフォローにもなってないです」


 少し離れたところから、綾香先輩が声を飛ばした。


「3年も怪しいぞー」


 今度は青嵐の3年生たちが、それぞれ思い思いの方向へ視線を逸らした。


「先輩たちまで!?」


「綾香、余計なこと言わないで」


 萌々香先輩が言う。


「萌々香、数学教えられる?」


「眠くなければ」


「今は?」


「眠い」


「はい駄目ー」


 成美先輩が青嵐の一団を見回した。


「青嵐、大丈夫か?」


「バレーは強いよ」


 沙耶先輩が胸を張る。


「知ってるよ!」


     ◇


「でも成美、人のこと言えないよねー」


 椿山側から声が飛んできた。


 成美先輩が振り返る。


 同じ2年生の2人が、長机で問題集を広げながら笑っていた。


「あ?」


「同級生で一番成績悪いじゃん」


「そうそう」


 もう1人も続ける。


「成美は全部平均点だもんねー」


「私たちの方が頭いいよね」


「はいはい。そうですねー」


 成美先輩が肩を竦めた。


 私の手が止まる。


「……成美先輩」


「ん?」


「一番成績悪いんですか?」


「うん」


「同級生で?」


「そう」


「椿山の2年生で?」


「そうだよ」


 私は自分の数学の問題集を見る。


 さっき、ものすごく分かりやすく教えてもらった。


 もう一度、成美先輩を見る。


「これで?」


「これでって何だよ!」


「いや」


「失礼だな、水瀬ちゃん!」


「すみません。でも普通に頭いいですよね?」


 成美先輩は少し考える。


「全部、学校の平均くらい」


「……平均」


「国語も数学も英語も、大体真ん中」


 私は椿山の机を見た。


 椿山の平均。


 その意味が、ようやく少し分かってきた。


「平均でこれなんだ……」


「だから椿山だって言ったでしょ」


 伊織が横から言う。


 成美先輩が笑った。


「まっ、バレーボール偏差値高いからいいのー」


「自分で言うんですね」


「そっちは自信あるからね」


「そこは否定できないです」


 今日、一緒に2対2をやった。


 172cmで、あれだけ高く跳ぶ。


 守備もする。


 二段トスも上げる。


 栞が中心でも、結子が中心でも、その横で同じように機能していた。


 確かに、バレーボール偏差値は高い。


「ほら」


 成美先輩が得意そうに笑った。


「水瀬ちゃん公認」


「何の資格にもなりませんよ」


「でも一個増えた」


「何がですか」


「褒めてくれる後輩」


「栞がいるじゃないですか」


 2人同時に栞を見る。


 栞は黙々と問題集を解いていた。


「栞」


「何ですか」


「私のこと褒めて」


 栞が一度、成美先輩を見る。


「成美先輩はツッコミが速いです」


「バレーの話しろよ!」


     ◇


「杏奈」


「何?」


「これ分からない」


 今度は別の場所から声がした。


 茉里奈だった。


 問題集の一か所を指している。


 杏奈が隣へ移動した。


「どれ?」


「これ」


「国語?」


「うん」


「……また?」


「また」


 杏奈が問題文を読む。


 しばらくして、茉里奈へ向き直った。


「この時、主人公がなんで黙ったと思う?」


「喋ることなかったから」


「違う」


「書いてない」


「書いてある!」


「『喋ることがなかった』とは書いてない」


「そういう意味じゃない!」


 杏奈が早くも頭を抱えた。


 私は思わずそちらを見る。


 茉里奈は真剣だった。


 ふざけている様子はない。


「ここまで読んで。この前に友達と喧嘩したでしょ?」


「した」


「で、仲直りしたいけど自分から謝れない」


「うん」


「だからここで黙ったの!」


「どこに書いてある?」


「流れで分かるだろ!!」


 大広間に杏奈の声が響いた。


「国語、怖い」


 布団の上から美緒が言う。


「違う。茉里奈が怖いんだよ」


 杏奈が返した。


 茉里奈が首を傾げる。


「英語なら分かるんだけど」


「なんで!?」


「英語は書いてあること聞いてくるじゃん」


 杏奈の顔が引きつった。


「国語もそうだよ!!」


「書いてないこと聞いてくる」


「書いてあるんだって!!」


 椿山の1年生たちが笑い始める。


「またやってる」


「杏奈、頑張れ」


「前より点上がってるじゃん」


「8点上がった」


 茉里奈が言う。


「そう! 8点上がった!」


 杏奈が一瞬嬉しそうな顔をして、


「そのために私の国語がもっと上がったんだけど!」


「良かったね」


「私の成績上げてどうする!」


 今度は青嵐側からも笑いが起こった。


 私も笑いながら、茉里奈の手元を見る。


 隣には英語の問題集も置かれていて、そちらはかなり進んでいる。


「茉里奈、英語は得意なの?」


「うん」


「国語は?」


「苦手」


「それは今分かった」


「日本語の方が難しい」


「英語得意なのになんで日本語わからないんだ!」


 杏奈がまた叫んだ。


     ◇


「ちなみに1年で一番頭いいの誰?」


 凜がいつの間にか起き上がって聞いた。


 勉強する気はなさそうだが、話には興味があるらしい。


「愛梨」


 栞が即答した。


「愛梨!?」


 凜が驚く。


 少し離れたところで、愛梨が静かに問題集を解いていた。


 小柄な身体で机に向かい、周囲の騒ぎにもあまり混ざらず、淡々とペンを動かしている。


「そんなすごいの?」


「すごい」


 栞が言う。


「次が杏奈かな」


 多恵子が付け加える。


「その下が私と栞。テストによって前後するけど」


「多恵子と栞が同じくらいなんだ」


「得意科目違うからね」


 私は頷く。


「で、結子は?」


「結子は全部安定してる」


 栞が答えた。


「得意不得意があんまりない」


「ああ」


 私はさっきのやり取りを思い出した。


『あれ? ここって……』


『斜めの数字』


『あ、そっか』


 栞からもらったのは、それだけだった。


 なのに結子はその先を1人で解いていた。


「ちょっとヒントあれば、そのまま行けるんだね」


「うん」


「分からないっていうより、見るところ迷ってるだけ?」


「そういう時多い」


 結子本人が顔を上げた。


「何の話?」


「結子は平均って話」


「平均?」


「成績」


「ああ」


 結子はそれだけで納得して、また問題集へ戻った。


「全部平均くらい?」


 私が栞に聞く。


「うん」


 私は一瞬、さっきの成美先輩を見る。


「椿山の平均?」


「椿山の平均」


「……強いな」


「何が?」


「平均が」


 成美先輩が遠くから、


「平均を悪口みたいに言うなー!」


 と叫んだ。


「で」


 杏奈が遠い目で茉里奈を見る。


「最後が茉里奈」


「国語さえ……」


 私が言う。


「そう。国語さえ……!」


 杏奈が強く頷いた。


「英語は得意」


 茉里奈が念を押す。


「知ってる!」


 また笑いが起こった。


 私はしばらく、椿山の長机を眺めていた。


 愛梨は1人で黙々と問題を解く。


 多恵子と栞は、時々互いのノートを覗き込む。


 結子は少し手掛かりをもらえば、あとは自分で先へ進む。


 杏奈は茉里奈に国語を教える。


 2年生同士でも、分からない問題を気軽に聞き合っている。


 分からなければ聞く。


 分かる人が説明する。


 でも、答えそのものをもらうわけではない。


 少し考え方を渡して、あとは自分で解く。


 それが特別なことではないようだった。


 昼間、椿山の試合を見て感じたことを思い出す。


 選手が替わる。


 役割が替わる。


 相手が変わる。


 それでも、誰も長い説明を待たない。


 今どうなっているのかを見る。


 自分に何が求められているのか考える。


 隣の選手と少し言葉を交わして、すぐ次のプレーへ行く。


「……似てる」


 私が呟いた。


「何が?」


 伊織が聞いた。


「椿山のバレーと、これ」


「勉強?」


「うん」


 私は少し考えてから続ける。


「頭いいからバレー上手いって意味じゃなくて」


「それはそうね」


「分からないことがあった時に、自分で考えるのが普通なんだなって」


 伊織も赤い集団を見る。


「試合中も、監督に全部言われるまで待ってないじゃん。誰か入ったら、その人が何できるか見て、周りも変わるし」


「……そうね」


「全部教えてもらうんじゃなくて、ちょっと分かれば、その先は自分たちでやる感じ」


 私は、さっきの結子を思い出した。


「こういうの、普段からやってるのかも」


 伊織は少しの間、何も言わなかった。


 やがて、小さく口元を上げる。


「面白いわね」


「何が?」


「別に」


「なんで伊織まで栞みたいになるの」


「一緒にしないで」


 即座に否定された。


「千尋」


 怜奈先輩の声が飛んでくる。


「はい?」


「問題進んでる?」


「……あ」


 ほとんど進んでいない。


 話を聞いたり、椿山を見たりしているうちに、最初のページから数問しか解けていなかった。


 怜奈先輩がにっこり笑う。


「こっち来なさい」


「はい……」


「水瀬ちゃん頑張れー」


 成美先輩が手を振る。


 その横で、栞が顔を上げた。


「勉強は明日の自分への投資」


「お前まだ使うの!?」


 成美先輩のツッコミが、大広間に響いた。


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