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水瀬千尋はエースじゃない―青嵐女学院バレーボール部―  作者: まるちーるだ
第二章 エースの隣

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第三十八話 明日の自分

 ずももももももももも。


 そんな音が、本当に聞こえる気がした。


 千尋は体育館の壁際で正座したまま、目の前に立つ由梨先輩を見上げていた。


 右隣には栞。


 その隣には成美先輩。


 さらにその向こうに沙耶先輩。


 4人並んで、正座。


 対する由梨先輩は、笑っていた。


 とてもきれいな笑顔だった。


「夕飯」


「「「「……はい」」」」


「18時からなんだけど?」


「「「「……はい」」」」


 4人の返事が、きれいに揃った。


 私は壁の時計を見なかった。


 見なくても分かる。


 とっくに過ぎている。


 最後に確認した時には、確か17時40分くらいだった。


 そこから、


「あと一回!」


「今の良かった!」


「じゃあ2対2戻ろう!」


「今度こそ勝つ!」


 などとやっていた記憶はある。


 その間に時計を見た記憶はない。


「それと」


 由梨先輩の笑顔が深くなった。


「深見先生、なんて言ってたっけ?」


 誰も答えない。


「『自主練する人も自由。ただし、明日も朝から動くので――』」


「……やりすぎないこと」


 私が小さく答えた。


「そう。よく覚えてるね、千尋」


「ありがとうございます」


「褒めてないよ?」


「はい」


 由梨先輩の左足には、まだ装具がついていた。


 夏前にアキレス腱を切って手術をしてから、ようやく自分の足で歩ける距離が増えてきたところだ。


 まだ歩き方は慎重だった。


 方向を変える時も、以前のようにぱっと身体を返すことはない。


 それなのに。


 どうしてこんなに怖いのだろう。


「沙耶」


「はい」


「2年生だよね?」


「はい」


「成美」


「はい」


「あなたも2年生だよね?」


「はい」


「1年生2人を止める側だよね?」


 沙耶先輩と成美先輩が黙った。


「なんで一緒になって時間忘れてるの?」


「……楽しくて」


 沙耶先輩が言った。


「聞いてない」


「はい」


 成美先輩がそっと隣を見る。


「いや、でも千尋がさ」


「成美先輩!?」


「最後の2歩覚え始めたら、もう一回、もう一回って止まらなくなって!」


「売りましたね!?」


「事実だろ!」


「成美も付き合ってたんでしょ?」


 由梨先輩が笑顔のまま言った。


「……はい」


「沙耶は?」


「2対2再開しようって言いました」


「栞」


「やりました」


「千尋」


「やりました」


 由梨先輩が一つ頷いた。


「全員同罪」


「「「「はい」」」」


 しばらく沈黙が落ちた。


 由梨先輩は4人を順番に見てから、小さく息を吐く。


「自主練するなって言ってるんじゃないからね」


 声音が、少しだけ変わった。


「でも、疲れてる時って、自分で思ってるより身体動かないから。最後の1本で着地ずれたり、踏み込み遅れたりすることもあるし」


 4人とも黙って聞く。


 由梨先輩が自分の左足をちらりと見た。


「……今の私が言うと、ちょっと説得力あるでしょ?」


「あります」


 私は即答した。


 沙耶先輩も今度はふざけずに頷く。


「うん」


「だったら、ご飯食べて、お風呂入って、ストレッチして休む。それも練習のうち」


「はい」


「分かった?」


「「「「はい」」」」


「よし」


 由梨先輩が満足そうに頷いた。


 それから1歩動こうとして、少しだけ顔をしかめる。


 沙耶先輩がすぐ反応した。


「由梨、座った方がよくない?」


「誰のせいで立ってると思ってるの?」


「すみません」


「でも座る」


 近くの椅子を引いて、由梨先輩がゆっくり腰を下ろす。


 足を楽な位置へ置いて、一息。


 私たち4人はまだ正座したままだった。


「……あの」


 成美先輩がおそるおそる手を上げる。


「私たちは?」


「何?」


「もう説教終わったかなー、って」


「うん」


「じゃあ足崩していい?」


「いいよ」


「ありがとうございます!」


 4人が一斉に足を崩した。


「いったぁ!」


「しびれた!」


 沙耶先輩と成美先輩が同時に呻く。


 栞は無言で足を伸ばしている。


 私も立とうとして、


「……っ」


 両足に走った痺れでその場に座り直した。


 由梨先輩が呆れた顔をする。


「その状態でまだ練習続けるつもりだったの?」


「その時はしびれてませんでした」


「そういう話じゃないよ」


     ◇


 食堂に着いた時には、当然ながらほとんどの選手が食べ始めていた。


 入口へ入った瞬間、何人かがこちらを見る。


 青嵐の選手からは特に、何とも言えない視線を向けられた。


「お、帰ってきた」


 萌々香先輩が箸を持ったまま笑う。


「問題児4人」


「4人まとめないでくださいよ~」


 沙耶先輩が言う。


「まとめて由梨に怒られてたじゃん」


「見てたんですか?」


「途中から」


「助けてくださいよ」


「なんで?」


 正論だった。


 深見先生も少し離れた席からこちらを見たが、由梨先輩が一緒なのを確認すると、それ以上何も言わなかった。


 多分、もう話がついていると判断されたのだろう。


 私たちは空いているテーブルを探した。


 由梨先輩を含めて5人。


 私、栞、成美先輩、沙耶先輩、由梨先輩で座る。


「いただきます」


 手を合わせた途端、成美先輩が勢いよく箸を取った。


「うっま」


 一口。


「怒られた後のご飯うっま」


「反省してる?」


 由梨先輩が聞いた。


「してる」


「今の返事早かったね」


「生存本能」


「成美先輩、正直ですね」


「水瀬ちゃんも食べな。あれだけ跳んだんだから」


「はい」


 私もご飯を口へ運ぶ。


 普通にお腹が空いていた。


 むしろ自主練を始める前よりずっと空いている。


 正面では栞も淡々と食べている。


 沙耶先輩も、普段の量を普通に食べ始めていた。


 しばらくして、私は1人だけ箸の進みが遅いことに気づいた。


 由梨先輩だった。


 一口食べては止まり、少し汁物を飲む。


 また箸が止まる。


「由梨先輩」


「ん?」


「食べないんですか?」


「食べてるよ」


「全然減ってないです」


「千尋ってそういうとこよく見てるよね」


 由梨先輩は苦笑した。


「ちょっと食欲なくてね」


「具合悪いんですか?」


「そういうんじゃないよ」


 一度、自分の左足を見る。


「前みたいに動かなくなったからかな。練習してた頃ほど全然お腹空かないんだよね」


「ああ」


「1日座ってる時間も長いし。リハビリはしてるけど、それでも前とは比べ物にならないし」


 由梨先輩がご飯を箸で少しだけ寄せる。


「動いてないのに、こんなに食べなくてもいいのかなって思っちゃって」


 私は味噌汁を一口飲んだ。


 その言葉を頭の中で少し考える。


 そして、昔から聞かされていた言葉を思い出した。


「父の受け売りですけど」


「うん?」


「『食事は明日の自分への投資』らしいです」


 由梨先輩が瞬いた。


「明日の自分?」


「はい」


 私はご飯を一口食べる。


「今日動いた分だけ食べるんじゃなくて、明日動く身体を作るために食べるって」


「へえ」


「だから、食べられるなら食べた方がいいですよ」


 別に大したことを言ったつもりはなかった。


 父が家で何度も言っていたことだ。


 練習後に食欲がなかった時も。


 大会前に緊張して箸が止まった時も。


 凜や悠真まで一緒に食卓を囲んでいた頃も。


 父、尋長はよく、


『食事は明日の自分への投資だからね』


 と言っていた。


「……父?」


 成美先輩の箸が止まった。


「はい?」


「今、父って言った?」


「言いました」


「水瀬ちゃんのお父さん?」


「はい」


「何やってる人?」


「今はスポーツシューズの開発です」


「今は?」


 成美先輩が引っかかった。


 私は首を傾げる。


 由梨先輩が横から何でもないことのように言った。


「千尋のお父さん、水瀬尋長だよ」


「…………」


 成美先輩が止まった。


 本当に、ぴたりと。


 箸を持ったまま動かなくなる。


 3秒ほど経った。


「はああああ!?」


 食堂中に声が響いた。


 何十人かが一斉にこちらを見る。


「成美先輩、うるさい」


 栞が言う。


「いや、うるさくもなるだろ!!」


 成美先輩が私へ身を乗り出した。


「全日本の!?」


「はい。元ですけど」


「セッターの!?」


「はい」


「水瀬尋長!?」


「はい」


「はい、じゃないんだよ!」


「でも父ですし」


「水瀬ちゃんからしたらそうだろうけど!!」


 成美先輩が両手で頭を抱える。


「ちょっと待って。あの水瀬尋長? 相手ブロックが『こっちだ』って動いたら普通に別のとこ上げる、あの?」


「多分」


「多分!?」


「父が現役だった頃、私は小さかったので」


「いや、1歳しか変わらんだろ!? 今でも有名だよ!?」


「そうなんですね」


「そこ本人の娘から『多分』で返されることある!?」


 沙耶先輩が笑っている。


「成美、知らなかったんだ」


「知るわけないだろ!」


「名字一緒じゃん」


「水瀬って名字の高校生見かけるたびに『もしや元全日本の娘……?』って疑えってのか!?」


「確かに」


「そこ納得するんだ!」


 栞が静かにご飯を食べながら言う。


「私は知ってた」


「お前は昔から水瀬ちゃんのこと知ってるだろ!」


「そうだった」


「今思い出したみたいに言うな!」


 周囲で笑いが起きている。


 どうやら他の学校の選手にも聞こえていたらしい。


「水瀬尋長の娘ってマジ?」


「え、あの1年?」


「知らなかった」


 私は少し居心地が悪くなって、ご飯を食べた。


 こういうことは時々ある。


 私からすると、父は父だ。


 今では家で靴の話ばかりしているし、新しい試作品を持ち帰っては、


『千尋、これ履いてちょっと走ってみて』


 と平気で娘を試験要員にする人でもある。


 だから周囲が驚くたびに、少し不思議な気分になる。


「……食事は、明日の自分への投資か」


 由梨先輩がぽつりと言った。


 私はそちらを見る。


 由梨先輩は、自分の皿を見ていた。


「動かないから食べられないって思ってたけど」


 少しだけ間を置く。


「明日の身体のため、か」


「はい」


「今の私も、明日リハビリするもんね」


「そうですね」


 由梨先輩が箸を持ち直した。


「じゃあ、ちょっと頑張って食べようかな」


 一口。


 ゆっくり噛む。


 それから、もう一口。


 私はそれを見て、特に何も言わずに自分の食事へ戻った。


 食べられるなら食べた方がいい。


 ただ、それだけの話だと思っていた。


「……全日本の水瀬尋長の娘……」


 隣では、成美先輩がまだ立ち直っていなかった。


「成美先輩」


「何……?」


「ご飯、冷めますよ」


「今それどころじゃないんだよ……」


 その時。


 成美先輩の反対側で、栞が味噌汁を一口飲んだ。


「食事は明日の自分への投資らしいですよ」


「お前が言うな!!」


 成美先輩が即座に復活した。


 栞が首を傾げる。


「いい言葉だった」


「今聞いたばっかだろ!」


「覚えた」


「知ってるよ!」


「成美先輩も明日のために食べた方がいいです」


「急に説教する側に回るな!」


「父の受け売りです」


「お前の父じゃねえ!!」


 沙耶先輩が机に突っ伏して笑い始めた。


 由梨先輩まで肩を揺らしている。


 私も笑いながら、ご飯をもう一口食べた。


 さっきまで少ししか減っていなかった由梨先輩の茶碗も、いつの間にか、ちゃんと減り始めていた。


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