第三十七話 最後の二歩
全体練習が終わると、体育館の中が一度大きく動いた。
それまで2面で使っていたネットを外し、支柱の位置を変える。
青嵐の選手だけでなく、椿山、鳩山、常盤の選手たちも手慣れた様子で手伝い、10分もしないうちに体育館には4面の小さなコートが出来上がった。
そこから先は自由だった。
夕食は18時。
それまでは、身体のケアをしてもいいし、自主練をしてもいい。
ただし、やりすぎないこと。
深見先生から念を押されていたはずなのだが、4校の選手が揃った体育館で本当に大人しく休む人間は、それほど多くなかった。
1面では、各校のリベロや守備の得意な選手が集まっていた。
アタッカーが次々にボールを打ち込み、それをリベロたちが拾う。学校が違うので遠慮するかと思えば、むしろ普段受けない打球を楽しんでいるようだった。
別の1面では、ミドルブロッカーが集まってブロック練習をしている。
皐月先輩と梓先輩もそこにいた。
その向かいでは、アウトサイドやオポジットが順番に助走へ入っている。高いブロックを相手に好きなだけ打てるので、打つ側まで楽しそうだった。
さらに奥では、セッターが何人か集まってトスを上げている。
伊織の姿もそこにあった。
瑞穂先輩が何かを言い、伊織が首を振る。もう一度トスを上げる。
どうやら、あそこはあそこで何か始まっているらしい。
私は少し迷ってから、ボールを1つ取った。
「サーブにしよ」
今日は試合でかなり動いている。
今から打ち込みを始めたら、明日に響く。
なら、狙う位置を決めてサーブを何本か打つくらいがちょうどいい。
体育館の端では、すでに何人かがサーブ練習を始めている。
私はそちらへ向かった。
その途中だった。
「千尋、ちょっと借りるねー」
背後から両肩を掴まれた。
「え?」
そのまま進行方向を変えられる。
「ちょ、沙耶先輩?」
「はーい」
「私、今からサーブ練習するんですけど」
「うんうん」
「聞いてます?」
「聞いてるよ」
「じゃあなんで逆方向なんですか」
「自主練するから」
「私も自主練するところだったんです!」
「ちょうどいいじゃん」
何一つ噛み合っていない。
「自分で歩けますから離してください」
「逃げるかもしれないし」
「何からですか」
「楽しいことから?」
「それなら普通逃げませんよ」
沙耶先輩は笑うだけだった。
私は半ば諦めて、連れていかれる先を見る。
赤いジャージが2人いた。
1人は栞。
もう1人は成美先輩。今日の練習試合でも、何度もその跳び方が目についた。
栞が私を見る。
「凜と一緒じゃないの、珍しい」
「私もさっき探したんだけど」
「凜なら怜奈が連れてったよ」
沙耶先輩が言った。
「怜奈先輩が?」
「トス合わせるって」
「ああ……」
それなら戻ってこない。
凜も喜んでいるだろう。
「久しぶりだね、水瀬ちゃん」
成美先輩が笑った。
「お久しぶりです」
「高校入ってからは初めてだっけ?」
「多分そうですね」
その横で、栞がふと思い出したように言う。
「そういえば万尋、元気?」
「まあ元気だよ」
「そっか」
栞はそれだけで納得した。
成美先輩が私を見る。
「……相変わらず栞の会話って急だね」
「昔からです」
「だよねえ」
成美先輩が一度私を見て、今度は栞を見る。
また私を見る。
「なんでうちには、こういう礼儀正しい1年がいないんだろうと思って」
「いますよ」
栞が言った。
「誰が?」
「私」
「どの口が言ってんだよ」
「礼儀はある」
「私に?」
「あります」
「今の返しがもう後輩じゃないんだよ!」
私は思わず笑った。
「栞から水瀬ちゃんの話、結構聞いてるよ」
成美先輩が言う。
私は栞を見る。
「何を?」
「色々」
「その言い方怖いんだけど」
「大体凜」
「私じゃないじゃん」
「千尋も出てくる」
「どんな感じで?」
「凜を止める人」
「私、そんな役職なの?」
成美先輩が吹き出した。
「分かるわー。こいつ昔からそうなんだよ」
「何がですか?」
「いきなり小柄なの連れてきて」
栞が答える。
「愛梨、今リベロ」
「病弱なのも連れてきて」
「多恵子、今元気」
「結果論なんだよ!」
「ストッパー連れてきたのは褒めてやる」
「杏奈は昔からお菓子上手」
「関係ないけど同意する!」
成美先輩の突っ込みが速い。
横で沙耶先輩が楽しそうに笑い始めた。
「成美って昔から面白いんだよねー」
「沙耶にだけは言われたくない」
「なんで?」
「なんでスーパーエースって呼ばれる人間って、揃いも揃ってネジ飛んでんだよ」
「あ、分かります」
私は反射的に答えた。
成美先輩の目が見開かれる。
「水瀬!!」
「え?」
そのまま抱きしめられた。
「分かってくれるか!」
「ちょ、成美先輩!」
「私、ずっと1人だったんだよ!」
「何がですか!」
「振り回される側が!」
「分かりますけど、苦しいです!」
どうにか顔だけ出して沙耶先輩を見る。
笑っている。
助けてくれる気はないらしい。
その横で栞が両腕を広げた。
「成美先輩。栞のここ、開いています」
「いや、なんでだよ!」
「抱きしめたいなら」
「お前を抱きしめたいなんて一言も言ってない!」
「じゃあ私がー」
沙耶先輩が飛び込んだ。
栞が普通に受け止める。
「わあ」
「なんで沙耶が行くんだよ!」
「空いてたから」
「わあ、じゃない!」
成美先輩が頭を抱える。
私は、なんとなくこの人が栞の前のキャプテンだった理由が分かった気がした。
多分、昔から大変だったのだ。
◇
「それで、何するんですか?」
ひとしきり騒いだあと、私が聞いた。
沙耶先輩が近くのボールを拾う。
「2対2」
「2対2?」
「ちょうど4人いるし」
「やる」
栞が即答した。
「いいね」
成美先輩も頷く。
「チームどうする?」
沙耶先輩と成美先輩が顔を見合わせた。
2人同時に右手を出す。
「「最初はグー!」」
「「じゃんけんぽん!」」
成美先輩がパー。
沙耶先輩がグー。
「よし!」
成美先輩が私の肩を掴んだ。
「じゃあ、水瀬ちゃん頂くわ!」
「いいよ。栞ちゃん貰うね」
「何で私たち、商品みたいになってるんですか」
「負けた沙耶に言って」
栞はすでに沙耶先輩の隣へ移動していた。
「栞はいいの?」
「どっちでも」
「適応力が高すぎる」
4面に分けられたうちの一角を使う。
サーブから始め、2人で3本つなぐ。
ブロックあり。
コートが狭い分、普通の6人制とは違う駆け引きになる。
「よろしくお願いします」
「よろしく、水瀬ちゃん」
私は向こうを見る。
沙耶先輩と栞。
「……あっち、強くないですか」
「強いよ」
「即答なんですね」
「でも勝つ」
「策は?」
「気合い」
「今日1日見た椿山の印象が崩れそうです」
「大丈夫。私、バレーボール偏差値高いから」
「自分で言うんですね」
「言っていいやつだから」
沙耶先輩がボールを持つ。
「じゃ、いくよー」
◇
始まって数点もしないうちに、周りがざわつき始めた。
何しろ片方には沙耶先輩と栞。
もう片方には成美先輩と私。
近くで自主練していた選手が、嫌でも気づく。
「何やってんの、あそこ」
「2対2じゃない?」
「九条と栞って、普通にずるくない?」
「でも朝倉いるよ」
「水瀬もいる」
聞き覚えのない他校の声まで混ざってくる。
サーブ練習をしていた選手が、1球打ってはこちらを見る。
ブロック練習をしていたミドルまで、休憩の合間に覗いていた。
「どっち勝つと思う?」
「沙耶の方でしょ」
「いや、2対2なら成美側あるぞ。朝倉、守れるし」
「水瀬も拾うしね」
「でも九条だよ?」
「栞もいるぞ」
「だからずるいって」
いつの間にか、勝敗予想が始まっていた。
私はレシーブ位置につきながら眉を寄せる。
「なんか見られてません?」
「気にしたら負け」
成美先輩が言う。
「もう勝敗予想されてますけど」
「じゃあ勝つしかないね」
「そういうところは前向きなんですね」
「キャプテン経験者だからね」
沙耶先輩のサーブが来る。
私が受けた。
「成美先輩!」
「はいよ!」
成美先輩が2本目へ入る。
私が打つ。
栞が拾った。
沙耶先輩が上げる。
栞。
私と成美先輩が並んで跳ぶ。
栞は2人の指先へ当てて外へ出した。
「あー!」
「いつもの」
「それが腹立つんだよなあ!」
周りから笑いが起こる。
「栞うま!」
「やっぱ赤青ペアじゃない?」
「勝手にチーム名つけないで!」
成美先輩が外へ叫んだ。
「じゃあ朝倉チーム!」
「沙耶チーム!」
「なんで向こうだけ名前なんだよ!」
「成美先輩、集中しましょう」
「水瀬ちゃん冷静だね!?」
次のラリー。
今度は成美先輩が1球目を取った。
私が2本目へ入る。
「成美先輩!」
「おっけ!」
トスを上げる。
その瞬間、私の目は自然に成美先輩の足へ向かった。
今日の試合中から、ずっと気になっていた。
1歩。
次。
最後の2歩。
踏み切る。
高い。
沙耶先輩と栞の間へ打ち込む。
沙耶先輩が反応したが、腕を弾かれた。
「よし!」
「ナイスです!」
手を合わせる。
「朝倉チーム1点!」
「だから勝手に――まあいいや!」
成美先輩がもう諦めた。
私は笑いながら定位置へ戻る。
でも、頭の中では今の助走を繰り返していた。
やっぱり何か違う。
次の攻撃。
また成美先輩が助走へ入る。
今度は足だけではなく、身体全体を見る。
最後から2歩目。
大きく入る。
腰が沈む。
両腕が後ろへ振られる。
最後の1歩。
踏み切る。
その瞬間。
「あ」
私は小さく声を出した。
腕だ。
成美先輩の両腕が、後ろから一気に前、そして上へ振り抜かれている。
脚だけで地面を蹴っているのではない。
踏み切りと同時に腕が上へ走って、その勢いに身体ごと引っ張られている。
次のラリーでも見る。
やっぱり同じ。
最後の2歩で身体が沈む。
腕が後ろへ入る。
足が地面を押すのとほとんど同時に、腕が上へ。
まるで、自分で自分の身体を引き上げているみたいだった。
「水瀬ちゃん」
「はい」
「さっきから私の足ばっか見てない?」
「見てます」
「即答!?」
「あと、今は腕も見てました」
「増えた!?」
成美先輩が半歩引く。
私は改めて成美先輩を見る。
自分より少し高い。
でも、それほど大きな差には見えない。
「成美先輩、身長いくつですか?」
「172」
「やっぱり」
「何が?」
「私よりちょっと高いぐらいなんですね」
「うん」
「なのに、打点すごく高いですよね」
「今『なのに』って言った!?」
「え?」
「無意識!?」
沙耶先輩が吹き出した。
「千尋、そういうとこあるよねー」
「沙耶は笑ってんじゃない!」
「だって成美、めっちゃ気にしてるじゃん」
「185あるやつに言われたくないんだよ!」
「私は別に何も言ってないよ?」
「存在が比較対象として強すぎんの!」
栞が首を傾げる。
「成美先輩、172あるのに」
「お前も黙れ!」
また周囲から笑いが起きる。
「朝倉、頑張れー!」
「何をだよ!」
私は笑ったあと、もう一度成美先輩の足を見る。
「でも、本当にどうやって跳んでるんですか?」
「どうやってって?」
「さっき見てたんですけど」
私は自分で軽く腕を後ろへ振った。
「踏み切る時、腕で身体引っ張り上げてません?」
成美先輩の表情が少し変わった。
「……ああ」
「やっぱり?」
「よく見てるね」
成美先輩がボールを置いた。
「それもあるよ。腕使わないと、私の場合かなり損する」
少し離れる。
「でも、その前に足かな。水瀬ちゃん、最後の2歩見てて」
「はい」
成美先輩がゆっくり助走する。
1歩。
次。
最後から2歩目。
そこだけ少し大きく入った。
腰が自然に下がる。
両腕は後ろ。
そして最後の1歩を素早く入れる。
踏み切り。
腕が上へ振り抜かれ、身体が浮いた。
「最後の2歩……」
「そう。特に最後から2個目」
成美先輩が戻ってくる。
「助走で前に走ってくるでしょ?」
「はい」
「そのまま跳んだら、前に飛ぶじゃん」
「はい」
「だから最後で止める」
「止める?」
「前に行ってた力を、そこで上にする」
私は足元を見る。
「最後から2歩目を長くするのは、そのため?」
「うん。ここでちゃんと沈む。で、最後を早く入れる」
成美先輩がもう一度見せる。
「前に流れたら、その分高さが逃げるから」
「止まるんですか?」
「止まるんだけど、止まらない」
「どっちですか?」
「……待って」
成美先輩が眉間に皺を寄せる。
「私も説明してて分かんなくなった」
「成美」
沙耶先輩が笑っている。
「うるさい! 感覚でやってること言葉にするの難しいんだよ!」
「私はバンって入って、グッて上がる感じ」
「沙耶はもっと黙ってろ!」
「なんで!?」
私は2人を無視して考える。
止める。
でも勢いを殺すわけではない。
前へ向かっていた身体を最後の2歩で受ける。
前に流さず――。
「上へ逃がす?」
「そう!」
成美先輩が私を指差した。
「それ。で、さっき水瀬ちゃんが言った腕も一緒」
両腕を後ろへ振る。
「足で地面押すのと、腕が上がるのを合わせる。腕だけ遅れてももったいないし、早すぎてもダメ」
「身体全部で跳ぶ」
「そうそう」
「私はバンって――」
「沙耶先輩は黙っててください」
「千尋まで!」
栞が頷く。
「私は沙耶先輩の説明分かる」
「ほら!」
「感覚派が増えただけです」
「それな」
成美先輩が即座に同意した。
◇
「1回やってみる?」
「はい!」
「食いつき早いなあ」
試合はいったん中断した。
周りから、
「あ、技術指導始まった」
「朝倉塾?」
「さっきの勝負どうなった?」
「沙耶チーム優勢じゃない?」
「まだ終わってないから!」
成美先輩が叫ぶ。
「自主練なんだから好きにやらせろ!」
「朝倉チーム頑張れー!」
「だからチーム名!」
私は助走位置へ立つ。
「最初は打たなくていいよ。跳ぶだけ」
「はい」
成美先輩の動きを思い出す。
最後の2歩。
1つ前を少し大きく。
身体を沈める。
腕は後ろへ。
最後を素早く入れる。
そして――。
「んっ」
跳ぶ。
着地。
「うーん」
成美先輩が首を傾げた。
「前に流れてる」
「分かります」
「最後でもうちょっと受けて」
「止める?」
「そう」
「でも止まらない?」
「そう!」
「難しいです」
「私も言ってて難しい!」
2度目。
今度は止めることを意識しすぎた。
身体が詰まる。
「あ」
「今度は本当に止まった!」
周りから笑いが飛んできた。
「水瀬、頑張れー!」
「難しそう」
「朝倉のジャンプってああやってんだ」
私は気にせず、また位置へ戻る。
3度目。
最後から2歩目。
大きく。
身体を沈める。
腕を後ろへ。
最後の1歩。
地面を押す。
同時に、腕で身体を引っ張り上げる。
「っ!」
一瞬、身体が軽くなった。
いつもと違った。
頑張って上へ跳ぼうとしたのではない。
足で地面を押した力と、腕が上がる勢いが、同じ方向へ揃った。
身体が自然に浮く。
着地。
「お」
成美先輩が笑った。
「今の!」
「良かったですか?」
「良かった。さっきより高い」
私はすぐに元の位置へ戻った。
「もう1回いいですか?」
「いいけど、ちょっと休――」
「今の忘れそうなので」
「聞いて!」
私はもう構えていた。
助走。
踏み切り。
「腕遅い!」
「はい!」
もう一度。
「最後近い!」
「はい!」
もう一度。
「今いい!」
「もう1回お願いします!」
「水瀬ちゃん休まない!?」
「あと1回!」
「何回目のあと1回!?」
沙耶先輩が楽しそうに笑っている。
「千尋ってこうなると止まんないよ」
「先に言ってよ!」
「言ったらやめた?」
「やめないです」
「ほら!」
成美先輩が額を押さえた。
そして沙耶先輩を見る。
「沙耶」
「ん?」
「……こいつもネジ飛んでない?」
「だから言ったじゃん」
沙耶先輩が笑う。
「千尋もこっち側だよ」
「勝手に分類しないでください」
そう言いながら、私はまた助走位置へ戻っていた。
周りではいつの間にか2対2の勝敗予想が、
「これ再開するの?」
「水瀬がジャンプ覚えたら朝倉チーム有利じゃない?」
「いや、相手九条だぞ」
「栞もいる」
「やっぱずるいな」
と、別の方向へ発展している。
私はほとんど聞いていなかった。
最後の2歩。
足。
腕。
タイミング。
まだ成美先輩のようにはいかない。
足を意識すると腕が遅れる。
腕を急ぐと、今度は最後の1歩が乱れる。
前への勢いを止めすぎれば低くなる。
残しすぎれば前へ流れる。
でも、一度だけ。
確かに、いつもより身体が高く浮いた。
私の身長は168.8cm。
明日になったからといって、それが突然伸びるわけではない。
でも、今の身体で届く高さなら増やせる。
スパイクでも。
ブロックでも。
今まで自分には足りないと思っていた前衛の仕事にも、もう少し手が届くかもしれない。
「成美先輩、もう1回お願いします!」
「はいはい! でも本当に夕飯前に脚終わらせんなよ!」
「はい!」
「返事だけはいい!」
成美先輩が笑う。
「最後の2歩。あと腕。1個ずつ合わせてこ」
私は頷いた。
そして、もう一度走り出した。




