第三十五話 呼ばれる時
試合終了の笛が鳴った時、千尋はコートの外にいた。
玄海のブロックに弾き返されたボールが床へ落ち、25対27の数字が電光掲示板に残る。玄海の選手たちが歓声を上げ、その向こうで沙耶先輩たちが動きを止めた。
私はアップゾーンの前で、両手を握ったまま立っていた。
最後のラリーは見えていた。
美緒の1球目はきれいに怜奈先輩へ返った。梓先輩が中央へ入り、凜も走り、沙耶先輩も開いた。どこへでも上げられる形だった。
怜奈先輩が沙耶先輩を選び、玄海は最後まで2枚を揃えた。
悪い攻撃ではなかった。
それでも止められた。
整列のために両チームがネット際へ向かう。私も反射的に1歩踏み出しかけたが、すぐに止まった。
自分はそこへ行く選手ではない。
今は、戻ってくる人たちを迎える側だ。
隣では真帆がもう動いていた。タオルを出し、新しいボトルを手前へ並べている。私もアップ用の上着を拾い、ベンチの背に掛けた。
その途中で、交代用のパドルが目に入った。
10番。
第1セットと第2セットで、真帆から何度も手渡された番号だった。
凜の番号。
第3セットでは、一度も使われなかった。
私は少しだけ、その数字を見た。
理由は分かっている。
分かりすぎるくらいだった。
第3セットで深見先生が切ったカードを、私は全部外から見ていた。
玄海のエースが前衛にいるところで、皐月先輩に代えて梓先輩を入れた。ブロックだけではなく攻撃力も上げ、そのまま梓先輩をコートに残した。
2連続で点を失ったところでは、楓先輩と瑞穂先輩の2枚替えを使った。崩れかけた流れを戻し、その間に怜奈先輩を一度コートの外へ出した。
そして最後は、怜奈先輩を戻した。
凜も残した。
沙耶先輩も当然残った。
私は呼ばれなかった。
それは、第1セットや第2セットで役に立たなかったからではない。
むしろ役割は果たせたと思う。
凜を3ローテ休ませた。
サーブを打った。
狙われたレセプションも崩れなかった。
美緒と一緒に後衛を守り、バックアタックでも1点を取った。
だからこそ、第3セットで呼ばれなかった理由もはっきりしていた。
凜を下げられなかった。
ただ、それだけだった。
第3セットの玄海を相手に、沙耶先輩1人で点を取り切るのは難しい。前衛に凜がいるだけで、玄海のブロックは2つのサイドを同時に考えなければならなくなる。
その凜を3ローテ休ませてまで、今の私を入れる価値があるか。
ない。
私はそう思った。
深見先生が私を信用していなかったとは思わない。
判断を間違えたとも思わない。
もし私が監督でも、第3セットでは凜を残す。
それが、一番悔しかった。
選手たちがコートから戻ってくる。
最初に来た綾香先輩が、「ありがと」と言って真帆からタオルを受け取った。皐月先輩は何も言わずボトルを取って、一気に半分ほど飲んだ。
沙耶先輩は悔しそうだった。
それでも下を向いてはいない。最後の1本を止められた右手を一度見てから、タオルで顔を拭いた。
怜奈先輩は戻ってくる途中で楓先輩と何か短く話していた。
楓先輩が頷く。
瑞穂先輩がその隣で、まだコートを見ている。
梓先輩もいる。
みんな、最後のセットで何かをした人たちだった。
そして凜が戻ってきた。
「千尋」
「お疲れ」
私はタオルを差し出した。
凜は受け取ったものの、すぐには顔を拭かなかった。
「……負けた」
「うん」
「最後、決めたかった」
「うん」
「2枚だった」
「見てた」
「打てると思った」
「私も思った」
凜が唇を噛んだ。
泣くのを我慢している、というより、まだ試合の中に気持ちだけ残っているように見えた。
「くっそー……」
ようやく出てきた言葉がそれだったので、私は少しだけ笑った。
「凜らしいね」
「笑うな!」
「ごめんごめん」
「千尋は悔しくないの?」
不意に聞かれて、私は瞬きをした。
「悔しいよ」
「なんか普通じゃん」
「凜と悔しいところが違うだけ」
「違う?」
私は一度、10番のパドルを見た。
「私、第3セット出てないから」
凜が少し黙った。
「でも、第1、第2セット、めっちゃ助かったじゃん」
「うん。私も頑張ったと思う」
「自分で言うんだ」
「そこはちゃんと評価しないと」
「何それ」
凜が少しだけ笑った。
その顔を見てから、私はもう一度コートを振り返った。
「でもさ」
「うん」
「最後は、私じゃなかったんだよね」
凜の表情から笑いが消えた。
私は続けた。
「玄海のエースを止めたい時は梓先輩だった。流れを戻したい時は楓先輩と瑞穂先輩。最後に攻撃を作るのは怜奈先輩で、点を取るのは沙耶先輩と凜だった」
「……うん」
「私は、凜を休ませたい時に呼ばれた」
口にすると、自分でもずいぶんはっきり分かった。
それが今の私の役割だ。
悪い役割ではない。
むしろ全国の試合で任されたことは嬉しい。
でも。
「まだ私は、佳境になった時に使われる選手じゃないんだなって」
凜が何か言おうとした。
私は先に笑った。
「別に落ち込んでるわけじゃないよ」
「でも悔しいんでしょ?」
「めちゃくちゃ」
「じゃあ落ち込めばいいじゃん」
「なんで?」
「悔しい時くらい!」
「凜はそうしたら?」
「してる!」
「知ってる」
今度は2人とも少し笑った。
笑ったところで、負けた事実は何も変わらない。
全国ベスト8。
あと1試合勝てば、ベスト4だった。
届かなかった。
それでも私の頭は、もう少しずつ次へ動き始めていた。
第3セットでもし自分を入れるなら、どこだっただろう。
凜を下げる。
それは違う。
なら、他の誰かと替わる。
サーブだけか。
守備だけか。
それとも、別の何かができればいいのか。
今は分からない。
でも、問題は見えた。
「凜」
「何?」
「次は、凜を下げなくても私を使いたくなる選手になる」
「……どういうこと?」
「まだ分かんない」
「分かんないのに言ったの?」
「うん」
凜が呆れたような顔をした。
「千尋ってたまに適当だよね」
「適当じゃないよ。これから考えるんだよ」
「じゃあ何できるようになるの?」
「だから、それを考える」
「サーブもっと強くするとか?」
「それもいいね」
「バックアタックもっと打つとか?」
「それも」
「ブロック?」
「それもあり」
「全部じゃん」
「全部できたら便利じゃない?」
「欲張り」
私は肩をすくめた。
「だって、できること多い方が使いやすいでしょ」
凜はしばらく私を見て、それから少し笑った。
「じゃあ私、もっと点取る」
「うん」
「千尋を休ませる必要ないくらい」
「それは困るなあ」
「なんで!」
「私の出番なくなるじゃん」
「じゃあ何なの!」
今度は近くにいた美緒まで吹き出した。
「2人とも、負けた直後なのに元気だね」
「美緒も聞いてよ。千尋がめんどくさい」
「凜にだけは言われたくないよ」
「何で!」
その声に、真帆も顔を上げた。
ほんの少しだけ、ベンチの空気が緩んだ。
そのあと深見先生に呼ばれ、全員が集まった。
深見先生は長い話をしなかった。
「ベスト8。今の私たちは、ここまでだった」
誰も口を挟まない。
「よくやった、で終わりたい人はそれでもいい。ただ、今日見えた差を埋めたい人は、ちゃんと覚えて帰りなさい」
深見先生は一度、全員を見た。
「勝てなかった理由を、1人に押しつけないこと。自分1人で背負うのも同じ。帰ったら映像も見る。今日は身体を戻すこと」
「はい!」
声が揃った。
解散すると、私は荷物をまとめ始めた。
青いユニフォーム。
12番。
全国大会で着た番号だった。
2回戦ではサーブを打った。
3回戦では3ローテ回った。
準々決勝でも2セット、凜と入れ替わって後ろを守った。
自分なりに、この番号でやれることはやった。
でも最後のセットでは、使われなかった。
私はユニフォームを畳み、バッグへ入れた。
今の自分が必要とされる場面は、もう分かっている。
なら、増やせばいい。
凜を休ませたい時だけではなく。
レセプションを固めたい時だけでもなく。
サーブが欲しい時だけでもなく。
試合が一番苦しくなった時に、深見先生がコートを見て、
――千尋を入れよう。
そう思う理由を作る。
何をすればそこまで行けるのかは、まだ分からない。
だから面白い。
「千尋、行くよ!」
先に通路へ出た凜が呼んでいる。
「今行く!」
私はバッグを肩へ掛けた。
最後に一度だけコートを見る。
玄海の選手たちはもういなかった。
さっきまであれほど硬かった壁も、今はどこにもない。
次に会った時も、同じ形とは限らない。
だったら自分も、同じままでいる理由はなかった。
私は凜を追って歩き出した。
まだ自分は、佳境になった時に呼ばれる選手ではない。
それが今日、分かった。
なら次は、その時に呼ばれる選手になればいい。




