第三十四話 地図
第3セットが始まっても、千尋がアップゾーンから呼ばれることはなかった。
伊織は2階席からコートを見下ろしながら、その理由を考えるまでもないと思った。
第1、第2セットで千尋の後衛3ローテは十分に機能していた。凜を休ませながらレセプションを支え、美緒と並べば後衛の穴までほとんど消した。
だから使わないのではない。
使えないのだ。
第3セットで、凜を3ローテもコートから外す余裕がない。
玄海のブロックを相手に点を取り切るには、沙耶先輩だけでは足りない。凜にも最初から最後まで、攻撃の1枚として立っていてもらう必要がある。
千尋本人も分かっているらしく、呼ばれないことを気にする様子はなかった。アップゾーンで身体を動かしながら、ずっと試合を見ている。
同学年で2階席にいるのは伊織だけだった。
千尋はアップゾーンにいて、凜と美緒はコートにいる。真帆はベンチ脇でマネージャーの仕事をしている。
伊織の周囲に座っているのは、12人には入れなかった3年生の先輩たちだった。
3年間、青嵐でバレーをしてきた人たち。
試合に出る機会こそ少なかったかもしれないが、だから試合が見えないわけではない。
「玄海、前のセットより止めに来てないね」
少し離れた席の先輩が言った。
伊織も同じところを見ていた。
「はい。ワンタッチだけ取って、後ろに渡す方が増えてます」
「だよね。沙耶が打ち切れない」
玄海は、全部のスパイクをシャットしようとしていない。
1枚しか間に合わなければ、その1枚でコースを限定する。
2枚揃えば、抜かせる場所を決める。
その先に後衛がいる。
玄海のブロックは壁というより、守備全体の入口だった。
青嵐が打つ。
玄海が触る。
拾う。
また攻撃してくる。
その繰り返しで、第3セットも少しずつ青嵐の方が苦しくなっていった。
11対13。
沙耶先輩がブロックアウトを取って1点差。
次は凜が2枚の間を抜く。
それでも玄海は離れない。
12対14。
そこで深見監督がベンチへ目を向けた。
「篠宮」
梓先輩が立つ。
伊織がローテーションを確認するのと、右隣の3年生が呟くのはほとんど同時だった。
「エース、ここが前衛最後か」
「ですね」
玄海のエースは次に回れば後衛へ下がる。
第2セットでも梓先輩をぶつけたところだった。
「鷹野と交代」
皐月先輩が出て、梓先輩が入る。
伊織は少しだけ眉を上げた。
高さだけなら、189cmある皐月先輩の方が上だ。
「純粋な攻撃力なら、皐月より梓なんだよ」
隣の3年生が言った。
伊織がそちらを見る。
「攻撃力?」
「うん。皐月は高さと速攻が強い。でも、多少トスがずれても打ち切れるのは梓。ブロックしたあとも、すぐ攻撃に入れるしね」
別の先輩も頷いた。
「点差あるからね。このローテで梓が攻撃でも何点か返せるかが鍵かな」
「……なるほど」
高さを足すための交代ではない。
この数ラリーを取りにいくための交代だ。
先輩が小さく笑った。
「知ってても嫌だろうなあ、あれ」
「ですね」
会話が妙に自然だった。
伊織がローテーションを説明する必要もない。
先輩も同じものを見ている。
玄海のレセプションが返る。
セッターが一度レフトを見る。
梓先輩がいる。
その瞬間、トスが中央へ変わった。
「避けた」
後ろの席から別の3年生の声がした。
「はい」
伊織も同じタイミングで答えた。
梓先輩はボールに触っていない。
それでも、そこにいるだけで玄海の選択を一つ変えた。
中央へ上がった速攻に青嵐のブロックが触れ、美緒が拾う。
綾香先輩が二段トス。
沙耶先輩がブロックアウトを取った。
13対14。
「触らなくても1点分だね」
3年生の先輩が言う。
「ですね」
伊織は短く返した。
その次のラリーは玄海が取った。
けれど、梓先輩はコートから出なかった。
伊織がベンチを見る。
皐月先輩も戻る準備をしていない。
「戻さないんですね」
「みたいだね」
隣の3年生が答える。
「このまま梓で行くのか」
「サーブまで回すんですか?」
「多分。梓、サーブも悪くないし」
別の先輩が少し身を乗り出した。
「それに、ここで皐月を戻すのにもう1回使わずに済むしね」
伊織は小さく頷いた。
前衛だけのワンポイントではない。
梓先輩を入れたまま、最後まで使う。
前ではブロックと攻撃。
後ろへ回れば、自分でサーブを打つ。
そのあと必要なら美緒と入れ替わればいい。
通常交代をもう1回使って皐月先輩を戻す必要はない。
青嵐は、残っている札を1枚ずつ使っていた。
千尋の3ローテは使わない。
皐月先輩に代えて、梓先輩を入れる。
そして、皐月先輩は戻さない。
やがて梓先輩自身がサーブ位置へ回った。
強く打ち込み、玄海の1球目を少しだけネットから離す。
そこから青嵐が切り返しを作る。
けれど、玄海も簡単には崩れない。
梓先輩を入れたことで、局所的には点を返せている。
それでも、流れそのものまでは戻らなかった。
玄海の方が先に20点へ近づいていく。
17対18。
美緒のレセプションがきれいに怜奈先輩へ返る。
梓先輩が中央へ入る。
速いトス。
玄海のミドルは遅れた。
1枚。
それでも最後まで手を残した。
梓先輩のスパイクが指先に触れる。
後衛が拾った。
切り返しを玄海のレフトに決められる。
17対19。
「今の、怜奈悪くないな」
左に座っていた3年生が言った。
「はい。中央も空いてました」
「でも触るんだよねえ」
次の1本も青嵐のレセプションは崩れなかった。
怜奈先輩が今度は沙耶先輩へ上げる。
さっき中央を使った。
だから次は外。
選択としては自然だった。
玄海も2枚を揃える。
沙耶先輩が外側の手を狙った。
触られた。
拾われた。
玄海が切り返す。
ライト。
青嵐のブロックの間を抜ける。
17対20。
2連続失点。
伊織は怜奈先輩を見た。
下を向いてはいない。
苛立っているようにも見えない。
ただ、考えている。
中央でも触られた。
沙耶先輩へ振っても揃った。
凜を使えば次はそこを見られる。
どうすれば1枚にできるのか。
どうすれば玄海のブロックを遅らせられるのか。
考えて、考えて、その答えをコートの中だけで探している。
梓先輩を入れて、攻撃力を上げた。
それでも足りない。
局所的に点を取り返すだけでは、試合全体の流れまでは立て直せない。
深見監督が振り返った。
「佐伯、高梨」
「はい!」
「はい!」
楓先輩と瑞穂先輩が立った。
通路側の3年生が言う。
「2枚替えか。流れ変えたいんだね」
伊織は、少しだけ間を置いた。
「……それだけじゃないと思います」
「ん?」
「怜奈先輩を、一回外から見せたいんじゃないですか」
先輩が伊織を見る。
伊織はコートから目を離さなかった。
「2本とも組み立て自体は悪くなかったです。でも、続けて触られた。多分、今かなり玄海のブロックの中に入っちゃってる」
「ああ」
別の3年生がすぐに納得した声を出した。
「一回、頭冷やして全体見せるのか」
「だと思います」
「なるほどね」
驚かれなかった。
1年生なのに、とも言われない。
説明すればすぐ通じる。
むしろ先輩たちも、少し違う方向から同じものを見ていた。
伊織はそれを不思議とは思わなかった。
3年間、青嵐でバレーをしてきた人たちなのだから、これくらい見えて当然だと思っていた。
怜奈先輩が前衛。
綾香先輩が後衛。
そこを瑞穂先輩と楓先輩で替える。
前衛には瑞穂先輩を置く。
後衛にはセッターの楓先輩。
前衛の攻撃枚数を減らさずに、セッターだけを入れ替える2枚替え。
そしてその時間、怜奈先輩はコートの外から玄海を見られる。
ただし、それは中を任せられる人間がいなければできない。
伊織は楓先輩を見た。
春からずっと見てきた。
自分が12人に入るなら、最初に奪うのはあの人の場所だと決めていた。
だから、楓先輩の試合もよく見てきた。
派手なセッターではない。
怜奈先輩のように、どの選択肢も最後まで本当に使うようなトスワークでもない。
でも、崩れた時に強い。
17対20。
2枚替え直後の1球目は少し乱れた。
楓先輩が走る。
中央は使わない。
無理に速い攻撃へ戻そうともしない。
高く瑞穂先輩へ預ける。
瑞穂先輩も無理に決めず、ブロックの外側を使ってつないだ。
ラリーになる。
美緒が拾う。
もう一度、楓先輩。
今度は凜。
凜がブロックアウトを取った。
18対20。
「楓、こういう時ほんと上手いよね」
3年生の先輩が言った。
伊織は頷いた。
「新しいこと、何もしてないんですよね」
「そうそう」
別の先輩が笑う。
「変なことしないんだよ、楓は」
「崩れたところを、1個ずつ戻してます」
伊織が言うと、隣の先輩が少しだけこちらを見た。
「伊織、同じところ見てるね」
「え?」
「いや。なんでもない」
すぐに視線はコートへ戻った。
伊織も深く考えなかった。
玄海が1点を取る。
18対21。
楓先輩は変わらない。
次の1球目が返れば、梓先輩の速攻。
19対21。
玄海が沙耶先輩を厚く見始めれば、次は凜へ振る。
20対21。
凜へ寄ったのを確認すると、今度は沙耶先輩。
2枚は来る。
それでも沙耶先輩が打ちやすい高さへ、きちんと上げる。
ブロックアウト。
21対21。
「……戻した」
伊織は呟いた。
隣の3年生が小さく笑った。
「でしょ。楓、ああいうの得意なんだよ」
その言葉を聞きながら、伊織の中に一つの形が浮かんだ。
崩れた城壁を、一つずつ積み直していくようだった。
欠けた場所を見つける。
そこを埋める。
歪んだ場所を直す。
無理に新しい城を作ろうとはしない。
元々あった強さを、ちゃんと元の形へ戻す。
楓先輩は、崩れた城壁を直す人なのだ。
17対20だった青嵐を、21対21まで戻した。
玄海がタイムアウトを取る。
伊織は楓先輩から視線を外し、ベンチにいる怜奈先輩を見た。
怜奈先輩は座っていなかった。
タオルを肩に掛けたまま、ずっと玄海のコートを見ている。
コートの中にいる時よりも、視線が広い。
3人のブロッカーを一度に見ている。
「怜奈、見つけたかな」
後ろから3年生の声がした。
「何かは見てそうですね」
「顔変わったよね」
「はい」
やっぱり同じところを見ている。
別の先輩は玄海のミドルを見ていた。
「真ん中の子、沙耶に寄る時だけ1歩目早いな」
伊織もそこを見る。
「本当ですね。逆に凜側へ行く時、一回中央残ります」
「だよね」
また一つ。
誰かが気づいたものを、伊織にも見ることができる。
伊織が気づいたものも、先輩たちはすぐに理解する。
試合を見ながら話していて、妙に話が早かった。
3年生の先輩たちは、それぞれ見るところが少し違う。
ローテーションを先に見る人。
ブロックと後衛の位置関係を見る人。
選手の表情から流れを読む人。
その全部の会話に、伊織は普通についていけた。
ただ、本人はそれを特別なことだと思っていなかった。
青嵐で3年もやれば、これくらい見えるものなのだろうと思っていた。
タイムアウトが終わる。
楓先輩と瑞穂先輩は、そのままコートに残った。
21対21。
玄海が1点。
21対22。
楓先輩が中央を使って返す。
22対22。
瑞穂先輩が崩れた二段をつなぐ。
美緒が拾う。
楓先輩が沙耶先輩へ。
ブロックアウト。
23対22。
玄海もすぐに取り返す。
23対23。
伊織は楓先輩のトスを見ながら、少しだけ眉を寄せた。
青嵐はもう崩れていない。
中央もある。
瑞穂先輩もいる。
凜も沙耶先輩も使えている。
楓先輩は本当に元へ戻した。
それなのに、玄海の壁はまだいる。
全部の攻撃に完璧についているわけではない。
1枚になる時もある。
1枚半になることもある。
それでも、決定的には崩れない。
正しい方を選ぶ。
その繰り返しだった。
24対24。
デュース。
2枚替えが戻る。
楓先輩と瑞穂先輩が出て、怜奈先輩と綾香先輩が戻った。
すれ違いざま、楓先輩が怜奈先輩へ何か短く伝えた。
上からでは聞こえない。
怜奈先輩は一度だけ頷いた。
その最初の攻撃で、伊織は外から見ていた時間が無駄ではなかったと分かった。
Aパス。
沙耶先輩が開く。
凜も走る。
梓先輩も中央へ入る。
怜奈先輩はすぐには上げなかった。
ほんの一瞬だけ、梓先輩の助走を玄海の中央に見せる。
ブロッカーが1歩動く。
その後ろから凜が入る。
トス。
「もってこーい!」
凜が1枚半の隙間を打ち抜いた。
25対24。
青嵐のマッチポイント。
「外から見せた意味あったね」
3年生の先輩が言った。
「はい」
伊織も頷いた。
でも玄海は、次の1本を取り切った。
25対25。
さらに玄海が切り返しで1点。
25対26。
玄海のマッチポイント。
最後のサーブが放たれた。
美緒が入る。
完璧なAパス。
これ以上ない1球目だった。
梓先輩が走る。
凜も入る。
沙耶先輩も開く。
全部使える。
怜奈先輩なら、全部を本当に使う。
だから玄海も一瞬だけ迷った。
トスは沙耶先輩。
2枚。
3枚ではない。
遅れてもいない。
沙耶先輩が跳ぶ。
強く振り抜く。
玄海の2枚も跳ぶ。
ボールが手にぶつかり、高く青嵐側へ跳ね返った。
「カバー!」
美緒が走る。
綾香先輩も入る。
凜が手を伸ばす。
届かない。
ボールが床へ落ちた。
25対27。
試合終了の笛が鳴った。
玄海女学院、勝利。
青嵐女学院、全国インターハイベスト8。
2階席の空気が、一度だけ止まった。
伊織の周囲にいた3年生たちも、しばらく何も言わなかった。
やがて1人が息を吐いた。
「最後まで2枚来たか」
「来ましたね」
別の先輩が言う。
「怜奈、ちゃんと三択作ってたんだけどね」
「はい」
「玄海が最後に沙耶選んだ」
伊織も同じものを見ていた。
最後の攻撃は悪くなかった。
美緒の1球目は完璧。
梓先輩も走った。
凜もいた。
沙耶先輩もいた。
怜奈先輩は全部を使える状態を作った。
それでも玄海は最後に正しい場所へ2枚を揃えた。
楓先輩だってそうだった。
17対20から、崩れた青嵐を戻した。
城壁を直した。
ちゃんと守れて、ちゃんと攻撃できる青嵐に戻した。
それでも玄海は止めた。
伊織は玄海のブロッカーを見る。
正しい場所へ跳ぶ。
それが、あのチームの強さだった。
全部を知っているわけではない。
迷うこともある。
遅れることもある。
でも最後には、危険な場所を選んで跳ぶ。
正しい地図を持っているみたいに。
「玄海、判断いいよね」
隣の3年生が言った。
「ですね」
「最後も沙耶だったし」
「はい」
そこまでは同じだった。
伊織にも見えている。
先輩たちにも見えている。
けれど、その次に浮かんだことだけは、誰も口にしなかった。
楓先輩は、崩れた城壁を直せる。
怜奈先輩は、今いる攻撃手を全部、本物の選択肢にできる。
なら、自分は。
伊織はしばらく玄海のブロックを見た。
自分も、もっと速く城壁を直せるようになればいいのか。
もっと綺麗に攻撃を組み立てればいいのか。
何か違う気がした。
玄海は、正しい場所が分かるからそこへ跳べる。
なら。
正しい場所を、間違えさせたらどうなる。
伊織の目が細くなる。
壁を壊す必要はない。
壁より高くする必要もない。
相手が持っている地図の方を、少しだけ狂わせる。
レフトに来ると思わせて、中央。
中央だと思わせて、ライト。
もっと前から。
もっと1球前から。
相手が「ここだ」と思って跳んだ場所を、正解ではなくしてしまう。
そこまで考えて、伊織は自分で少し驚いた。
まだ何も形になっていない。
具体的にどうするのかも分からない。
ただ、楓先輩と同じ道を進むだけではないことだけは、なぜか分かった。
「伊織、戻るよ」
3年生の先輩に声をかけられた。
「あ、はい」
立ち上がる。
コートでは青嵐の選手たちが整列を終え、ベンチへ戻ってくるところだった。
凜がいる。
沙耶先輩がいる。
怜奈先輩がいる。
楓先輩と瑞穂先輩もいる。
梓先輩もいる。
出番のなかった千尋は、戻ってくる選手たちを迎えるためにアップゾーンから歩いている。
真帆はもうタオルを準備していた。
伊織は、その光景を上から見た。
負けた。
それでも、春に初めて見た青嵐とはもう違っている。
その中に自分はまだいない。
だから入る。
楓先輩の場所を取る。
それは変わらない。
ただ、楓先輩と同じことができるようになるだけでは、きっと足りない。
階段へ向かいながら、伊織はもう一度だけ玄海のコートを振り返った。
正しい場所へ跳び続けた壁が、まだ頭に残っている。
その壁を壊す方法ではなく。
違う場所へ、跳ばせる方法を考えていた。




