第二十九話 全国
全国大会の体育館に入っても、バレーボールそのものが別の競技になるわけではなかった。
シューズの裏が床を噛む感触も、ネットの高さも、手に触れるボールの重さも、いつもと変わらない。それでも、アップゾーンで身体を動かしながら周囲へ目を向ければ、ここが普段とは違う場所だということだけは嫌でも分かった。
隣のコートにも、その向こうにも、大きな選手がいる。アップで軽く打っているだけなのに、思わず振り返るような音をさせる選手もいた。どの学校も簡単なボールではほとんど乱れず、観客席を見上げれば、知らない学校の色がいくつも並んでいる。
「千尋、また見てる」
隣で軽くステップを踏んでいた美緒に言われ、私は苦笑した。
「だって全国だよ。美緒は気にならないの?」
美緒は少し考えたあと、試合前のコートへ目を向けた。
「相手は6人」
「……そうなんだけどさ」
急にいつもの試合みたいに言われてしまった。
その時、コートの中から聞き慣れた声が響いた。
「もってこーい!」
凜だった。
全国大会でも、凜は凜らしい。
その声を聞いただけで、私の中にあった妙な緊張も少しだけ薄れた。
高校総体本選の1回戦を、青嵐は危なげなく勝った。
相手も県を勝ち抜いてきたチームなのだから弱いはずはない。それでも試合が始まれば、一つ一つの精度で青嵐が上回っていた。
怜奈先輩が相手のブロックを見ながら中央を使い、萌々香先輩と皐月先輩がミドルに意識を向けさせる。そこへ沙耶先輩が走れば、ブロックが2枚ついていても強引に打ち切った。
相手が沙耶先輩へ寄れば、今度は10番を着た凜にトスが上がる。
由梨先輩が怪我をした直後には、凜を捨てて沙耶先輩へブロックを寄せる相手もいた。今は、そんな守り方をすれば凜に決められる。凜を見れば沙耶先輩が空き、両サイドを意識しすぎれば中央が残る。
誰か1人で押し切っているわけではない。6人で相手に選択を迫り続けて、そのどこかにできた隙を使う。
全国でも、それが通じていた。
私はアップゾーンで身体を冷やさないように動きながら、何度も手を叩き、声を出した。出番はなかったけれど、それで焦ることもなかった。
凜が後衛でも崩れず、そのまま前衛に戻っていつも通り打ち続けられるなら、自分が代わる必要はない。12人に入ったからといって、全員が同じだけコートへ立つわけではない。
必要な時に、自分の仕事をする。
そのための12番だ。
1回戦をストレートで終えると、凜はコートから戻ってくるなり私のところへやってきた。
「千尋、全国で勝った!」
「凜はね」
「千尋も!」
「私、ずっとアップゾーンにいたけど」
「応援してたじゃん!」
「それはしてたけど」
「じゃあ一緒に勝った!」
凜の中ではそれで決まりらしい。私も笑って、それ以上訂正するのはやめた。
2回戦も、青嵐は大きく崩れなかった。
1回戦より相手のサーブは強く、ブロックも高い。それでも青嵐は、1本目を崩されたくらいでは簡単にラリーを終わらせなかった。トスが乱れれば誰かがつなぎ、高い二段しか上げられなくても簡単には相手へ返さない。
全国へ来て改めて感じたのは、青嵐には「簡単に1点を渡さない選手」が多いことだった。
派手に点を取るのは沙耶先輩や凜かもしれない。でも、その1本までには、拾った人がいて、つないだ人がいて、相手の攻撃を限定したブロックがある。その小さな仕事が積み重なって、最後には点差になっていた。
その2回戦の終盤、深見監督から声がかかった。
「水瀬」
「はい!」
私はすぐにアップゾーンから監督のところへ寄った。
「次、白石と交代。サーブ」
「はい!」
ほとんど同時に、真帆が選手交代用のパドルを差し出した。
そこには萌々香先輩の背番号が書かれている。
「千尋」
「ありがとう」
高校総体の12人には入れなかった真帆も、この大会ではマネージャーとしてベンチに入っていた。飲み物やタオルを用意し、交代の準備を手伝いながら、試合中はずっとコートを見ている。
私はパドルを受け取ると、交代ゾーンの近くへ移動した。
萌々香先輩は前衛での仕事を終え、次のローテでサーブ順に回る。そこで私が入る。
青嵐がサイドアウトを取った。
「行け」
「はい!」
交代ゾーンへ入り、萌々香先輩と入れ替わる。
全国大会で初めて、自分がコートの6人に入った。
エンドラインでボールを受け取った時だけは、少し指先が硬かった。
けれど相手コートを見れば、やるべきことは普段と変わらない。レシーバーの位置を確認すると、1人だけ少し前にいる選手がいた。
その後ろ。
狙う場所が決まれば、緊張も薄れた。
サーブを打つ。
エースにはならなかった。相手も全国まで来たチームなのだから、簡単には落としてくれない。それでも1球目はネットから離れ、攻撃は高いレフト1本になった。
青嵐のブロックが揃う。後ろで拾い、怜奈先輩が切り返したボールを、最後は沙耶先輩が決めた。
笛が鳴った。
青嵐の得点。
私は一瞬だけ動きを止め、それからすぐにエンドラインへ戻った。
まだ自分のサーブだ。
2本目は相手にきれいに返された。中央から速い攻撃が来たものの、それも拾う。長くなったラリーの最後は、今度は凜がレフトから打ち切った。
もう一度、私のサーブ。
3本目で相手にきっちりと1球目を返され、そのままサイドアウトを取られた。
そこで、このローテーションでの私の仕事は終わった。
相手のサーブになる前に美緒が入り、私はコートを出た。萌々香先輩のローテーションで私に求められていたのは、あくまでサーブだった。その後のレセプションまで任されているわけではない。
戻ってくると、真帆がすでにタオルとボトルを用意して待っていた。
「お疲れさまです。ナイスサーブでした」
「ありがとう」
タオルを首にかけ、ボトルを受け取る。2口ほど飲んでから、私は少しだけ笑った。
「3本打てた」
「2点続きましたね」
「私が取った2点じゃないけどね」
真帆は小さく首を振った。
「でも、千尋のサーブから始まった2点です」
そう言われると、少し嬉しかった。
「……そっか」
ボトルを真帆へ返し、私はまたアップゾーンへ向かった。
全国での最初の仕事は、3本のサーブ。
短かったけれど、ちゃんと役に立った。
3試合目になって、初めて青嵐は簡単には前へ進ませてもらえなくなった。
序盤は青嵐が先行した。怜奈先輩が中央を絡め、沙耶先輩が続けて決める。相手が沙耶先輩へ寄れば、今度は凜にも上がった。
凜が1枚の横を打ち抜く。
「よし!」
いつも通り拳を握る。
ところが相手がタイムアウトを取って戻ってくると、サーブの狙いが明らかに変わった。
凜だった。
1本目は正面。凜が受け、そのままレフトへ開く。
次は少し深い。下がって受けてから、もう一度前へ走る。
その次も凜。
「……狙ってる」
私が呟くと、近くで身体を動かしていた美緒も同じ場所を見ながら頷いた。
「うん」
凜はレシーブができないわけではない。むしろ1年生のOHとして考えれば十分にできる。
だから相手も、1本で崩そうとしているだけではなかった。
受けさせる。
そこから助走させる。
また受けさせる。
繰り返して、少しずつ脚を使わせる。
以前の練習試合で見たのと同じだった。
凜はまだ決めている。点数だけを見れば、それほど大きな問題には見えない。
それでも、私には少しずつ違いが見えてきた。
レシーブから開く1歩目が小さい。助走が少しだけ短くなり、いつもなら余裕を持って合わせるトスに、最後の2歩が近くなっている。
「もってこーい!」
声だけはいつもと変わらない。
本人だって、まだ打てると思っているはずだった。
実際、打てている。
けれど、このまま最後まで続けたら。
「水瀬」
深見監督に呼ばれ、私はすぐにアップゾーンから離れた。
監督のところへ着いた時には、真帆がもうパドルを差し出していた。
私は受け取る。
書かれている数字を見た。
10。
2回戦で受け取った萌々香先輩の番号ではない。
凜の番号だ。
「3ローテだ」
「はいっ!」
胸の奥が一気に熱くなった。
説明はそれだけで十分だった。
私は10番のパドルを握って交代ゾーンの近くへ移動し、足を止めずにコートを見る。
まだ入らない。
今は相手のサーブだ。
青嵐がサイドアウトを取れば、次は凜のサーブ順になる。その瞬間に入る。
また凜へサーブが飛んだ。
少し前。
凜が入り、腕に当てる。そのままレフトへ開いた。
怜奈先輩が最初は沙耶先輩へ上げる。2枚。打つ。相手が拾う。
切り返されたボールに萌々香先輩が触り、美緒が後ろでつないだ。
もう一度、怜奈先輩へ返る。
今度は凜が走った。
「凜!」
トスが上がる。
ブロックは3枚。
凜は真正面からぶつからず、外側の手を使った。ボールがブロックに触れ、そのままコートの外へ飛んでいく。
笛が鳴った。
青嵐の得点。
サーブ権が戻る。
「水瀬、行け」
「はい!」
私は10番のパドルを持って交代ゾーンへ入った。
ブザーが鳴る。
そこで凜がこちらを見た。
「え、私?」
少し不満そうな顔で走ってくる。
まだ打てる。
その顔には、そう書いてあった。
私も分かっている。
打てないから代わるんじゃない。
もっと打ってもらうために代わるのだ。
交代ですれ違う直前、私は凜に言った。
「3ローテ休んで。前衛戻ったら、バンバン決めて」
凜が一瞬だけ目を丸くした。
それから、すぐに笑った。
「うん。任せた!」
「任された」
手を合わせる。
私はそのままコートへ入り、エンドラインへ向かった。
2回戦でも立った場所だった。
でも、今度は違う。
サーブを打って、それで終わりではない。
サーブを打つ。
そのあとも残る。
拾う。つなぐ。必要なら後ろから打つ。
3ローテ。
その間だけ、凜の代わりに後ろを引き受ける。
私はボールを受け取った。
自分の背中には12番。
アップゾーンへ向かう凜の背中には10番。
前には沙耶先輩がいて、怜奈先輩がこちらを見ていた。
12番を受け取った日に、深見監督から言われたことを思い出す。
12番を着るなら、12番の仕事をしなさい。
全国大会で、その仕事がようやく始まる。
私はボールを持ち直し、相手コートを見た。




