第二十八話 ただいま
由梨先輩が体育館へ戻ってきたのは、高校総体本選へ向けた練習が始まって数日後だった。
その日も、私たちは全体練習が終わったあとに少しだけ残っていた。
きっかけは伊織と美緒だった。美緒が1球目を好きな位置へ返せると分かってから、伊織は右から、左から、ネットから離れた位置からと、いろいろな場所からトスを上げるようになった。
そこに凜が加わり、前の凜と後ろの私を同時に走らせるようになった。さらに瑞穂先輩までライトから入るようになって、今では3方向から攻撃へ入る形を、梓先輩と真帆がどう止めるかという練習になっている。
最初は私のバックアタック練習だったはずなのに、数日ですっかり別物になっていた。
「美緒、次もうちょい右!」
「うん」
伊織が軽く打ったボールを、美緒が腕に当てる。返球は指定通り伊織の右へ2歩ほど。伊織がそこへ入り、前では凜と瑞穂先輩、後ろでは私が助走を始めた。
トスはライト。
瑞穂先輩が打ち、梓先輩の手に当たったボールが後ろへ飛ぶ。
「触ったー!」
「ワンタッチ!」
真帆が振り返ってボールを追おうとした、その時だった。
体育館の扉が開いた。
大きな音がしたわけではない。
それでも、なぜか私はそちらを見た。
最初に見えたのは、松葉杖だった。
それから、左脚を包む大きな黒い装具。
1歩ずつ、ゆっくりと体育館へ入ってくる人を見て、私の身体が止まった。
「……由梨先輩」
自分でも驚くくらい小さな声だった。
けれど近くにいた凜がそれを聞いた。
「え?」
凜も入口を見る。
次の瞬間には、コートにいた全員が気づいていた。
「由梨!」
沙耶先輩の声が響いた。
由梨先輩は松葉杖をついたまま、少し困ったように笑った。
「ただいまー」
一瞬だけ、誰も動かなかった。
手術をしたことは聞いていた。退院したことも、学校にはもうすぐ戻るらしいことも聞いていた。
それでも、実際に見るのは違った。
いつもなら体育館へ入ってくるなりボールを触っていた人が、大きな装具をつけている。歩く速度も、以前とはまるで違う。
私の頭には、あの日の音が一瞬だけ蘇った。
バチン、と。
由梨先輩が床へ倒れた時の音。
「千尋」
呼ばれて、はっとした。
由梨先輩がこちらを見ている。
「そんな顔しないの」
「え?」
「今にも泣きそう」
「泣きませんよ!」
「じゃあ大丈夫」
由梨先輩は笑った。
いつもの笑い方だった。
それだけで少し安心した。
沙耶先輩が入口まで歩いていく。
「今日来るなら言えよ」
「言ったら迎えに来るでしょ」
「行くに決まってんじゃん」
「だから言わなかったの」
「アホ」
「怪我人にアホって言う?」
「言う」
言い合いながらも、沙耶先輩は由梨先輩の歩幅に合わせて体育館の中へ戻ってきた。
怜奈先輩もすぐそばへ行ったが、松葉杖にも装具にも不用意には触れなかった。
「痛くない?」
「今は大丈夫。病院からも、装具つけて決められた範囲なら体重かけていいって」
「ほんとに?」
「ほんと。ちゃんと言うこと聞いてます」
「由梨が?」
「失礼だなあ」
そのやり取りを聞いて、ようやく周りからも笑いが出た。
凜はさっきから由梨先輩の前まで行きたそうにしていたのに、なぜか少し離れた場所で止まっている。
由梨先輩が気づいた。
「凜」
「はい!」
「声でか」
「あ、ごめんなさい」
「別にいいけど」
凜が少しだけ近づく。
「……おかえりなさい」
「ただいま」
由梨先輩はそれだけ言った。
沙耶先輩の対角に入るようになったことも、凜がそこでどれだけ打っているかも、当然知っているはずだった。
それでも、その場では何も言わなかった。
凜も何も言わない。
ただ、由梨先輩が笑って、凜も少しだけ笑った。
「由梨先輩、座りますか?」
美緒がいつの間にかベンチの端を空けていた。
「ありがと。さすがに立ちっぱなしはまだ怒られる」
由梨先輩はゆっくりとベンチまで移動した。装具のついた脚を少し前へ出して座り、松葉杖を壁際へ立てかける。
座るまでの動きを、私はどうしても見てしまった。
以前なら数秒で済んだはずのことに、時間がかかる。
それでも由梨先輩は、自分の脚を見るより先にコートを見た。
「で」
少しだけ目を細める。
「何それ」
伊織が瞬きをした。
「何がですか?」
「今やってたやつ。凜と瑞穂が前から入って、千尋が後ろから来てたでしょ」
「ああ」
伊織の顔が少し明るくなる。
「ちょっと試してます」
「ちょっと?」
由梨先輩が笑う。
「ずいぶん面倒くさそうなことしてるね」
「褒めてます?」
「褒めてる褒めてる」
伊織は、どうやってこの練習が始まったのかを簡単に説明した。
美緒に1球目を頼んだこと。美緒が毎回同じ位置へ返してくるので、わざと2、3歩の範囲で散らしてもらうようにしたこと。そこへ凜を前から走らせ、千尋と二択にしたこと。瑞穂先輩が自分から「もう1枚増やそう」と入ってきたこと。
由梨先輩は途中から、ずっと美緒を見ていた。
「美緒、それ狙って散らしてるの?」
「はい」
「全部?」
「はい」
「……すごいね」
美緒が少しだけ首を傾げる。
「そうですか?」
「そうだよ。私なら普通にセッターのところ返すだけでいっぱいいっぱいだもん」
「由梨先輩はレセプション上手いじゃないですか」
「上手いのと、それは別」
由梨先輩は笑いながら、今度は伊織を見た。
「もう一回やってみて」
「見ます?」
「見る。今はそれしかできないし」
言い方は軽かった。
けれど、私には少しだけ引っかかった。
それしかできない。
由梨先輩自身も、それを分かっている。
「じゃあやります」
伊織がボールを持った。
美緒が構える。
凜がレフト、瑞穂先輩がライトへ。私もアタックラインの後ろへ戻った。
ネットの向こうには梓先輩と真帆が入る。
「真帆、由梨が見てるよ」
「だから何ですか」
「緊張しない?」
「します」
「するんだ」
「でも止めます」
梓先輩が笑った。
「いいね」
伊織が美緒へ打つ。
美緒の返球は少し前。
伊織が入る。
3人が走った。
トスは私。
梓先輩が遅れて寄り、真帆は瑞穂先輩側へ引かれた。
私が打つ。
「もう1本」
由梨先輩の声が飛んできた。
伊織が振り向く。
「何かあります?」
「今の千尋、ちょっと早い」
「私?」
私はベンチを見る。
「うん。伊織がまだボールの下に入る前に、もう最後の2歩へ入ってた」
「でもトスには合いましたよ?」
「合ってた。でも、千尋が先に走りすぎると、ブロックから見て『後ろ使うかも』って早めに分かる」
私は自分の助走位置を見た。
「じゃあ、もう少し待つ?」
「ほんのちょっと。伊織が入るの見てからでも、千尋なら間に合うと思う」
「やってみます」
次の1本。
今度は私が少しだけ助走の開始を遅らせる。
伊織が美緒の返球へ入る。
凜と瑞穂先輩が先に動く。
伊織が両手を上げる直前、私も入る。
トスは凜。
真帆の足が、一瞬だけ止まった。
凜が打ち抜いた。
「……さっきより嫌です」
真帆が言った。
「でしょ?」
由梨先輩が得意そうに笑った。
「由梨先輩、外から見ると分かるんですね」
私が言うと、由梨先輩は一瞬だけ黙った。
それから、自分の装具をちらりと見た。
「そりゃ今、外からしか見られないからね」
「あ」
私は言葉に詰まる。
「そんな顔しないって」
また言われた。
「別に嫌味じゃないから」
「……すみません」
「だから謝らない」
由梨先輩は笑ってから、もう一度コートを見た。
「でも面白いね、それ。続けてよ」
「はい」
伊織が返事をする。
それからしばらく、由梨先輩はベンチから練習を見ていた。
口を出す回数は多くなかった。
凜の入りが少し内側に寄った時に指摘したり、瑞穂先輩が囮だと分かった瞬間に助走を緩めた時には「今のは分かる」と言ったりする程度だった。
けれど、そのたびに練習が少しだけ変わった。
「由梨」
途中で沙耶先輩が隣に座った。
「ん?」
「疲れてない?」
「座ってるだけだよ」
「それでも」
「大丈夫」
由梨先輩はそう答えながら、コートから目を離さなかった。
私が後ろから入る。
凜が前から跳ぶ。
瑞穂先輩も走る。
伊織が上げる。
美緒がその1球目を作る。
少し前までなら、自分もあの中にいた。
沙耶先輩の隣で走って、怜奈先輩のトスを打っていた。
私には、由梨先輩が何を考えているのかまでは分からなかった。
ただ、その横顔がいつもより静かに見えた。
練習が一区切りついたところで、凜がボールを抱えて由梨先輩のところへ来た。
「由梨先輩」
「なに?」
「戻ったら、一緒に打ちましょう」
沙耶先輩が一瞬だけ凜を見た。
私も息を止めた。
けれど由梨先輩は、少し驚いただけだった。
それから笑った。
「うん」
「バックアタックも」
「それはリハビリの先生に聞いてからね」
「じゃあ聞いてください!」
「分かった分かった」
凜は満足そうに頷いて、またボールを持ってコートへ戻っていった。
由梨先輩はその背中をしばらく見ていた。
それから装具に包まれた自分の脚へ目を落とし、そっと膝の上に手を置いた。
「……早く戻りたいな」
すぐ隣にいた沙耶先輩にも届くかどうかという声だった。
私には、聞こえた。
だから何も言わなかった。
今の由梨先輩が帰ってきた場所は、まだコートの中ではない。
それでも。
由梨先輩は、ちゃんと体育館へ帰ってきた。




