第二十七話 三枚目
瑞穂は、自主練に混ざるつもりはなかった。
全体練習はもう終わっている。登録メンバーの発表まで済んで、あとは片付けて帰るだけ――のはずだったのだが、ネット際では梓と真帆がブロック練習を始め、その隣では1年生たちが別の練習を始めていた。
片付けを終えた瑞穂は、コート脇で怜奈や沙耶、皐月と一緒にもう一度軽く身体を伸ばしていた。練習後に身体を固めたくないという怜奈に付き合って、足を投げ出したまま他愛のない話をしていたのだが、少し前から瑞穂の返事は明らかに雑になっていた。
「瑞穂、聞いてる?」
「聞いてる聞いてる」
「絶対聞いてないでしょ」
怜奈に言われて、瑞穂は笑った。
「半分くらい聞いてる」
「半分じゃん」
沙耶が呆れたように言う。
それでも瑞穂の目は、自然とコートへ戻ってしまった。
気になったのは、最初は伊織ではなかった。
美緒だった。
伊織がセッター位置の近くから、美緒へ軽くボールを打つ。美緒が受け、その返球を伊織がトスにする。
ただそれだけの練習だ。
少なくとも、最初はそう見えた。
「……あれ」
瑞穂が小さく呟いた。
「何?」
皐月が聞く。
「美緒」
もう1球、伊織が打つ。
今度は少し右へずれた。
美緒が1歩動く。
腕に当てる。
返球は伊織の頭上へ戻る。
その次は左。
また同じ場所。
少し短いボールにも、美緒は前へ入った。返ってくる場所は変わらない。
「さっきから全部同じじゃない?」
瑞穂が言うと、怜奈もコートを見た。
「ああ、1球目?」
「うん」
怜奈は何本か見てから、あっさり頷いた。
「ほんとだ」
「軽く打ってるとはいえさ。伊織、毎回同じところに打ってないよね」
「打ってない」
セッターである怜奈は、瑞穂より早くそこまで見ていたらしい。
沙耶が肩を伸ばしながら鼻で笑った。
「美緒でしょ?」
「いや、そうなんだけど」
「今さらじゃない?」
「拾うのがすごいのは知ってるよ」
瑞穂だって、美緒の反応速度が異常なのは嫌というほど知っている。
沙耶のスパイクを正面で受けても崩れない。ブロックに当たってコースが変わったボールにも、見てから身体が動く。
でも今やっているのは、それとは少し違う。
取るだけではない。
取ったあとを、全部揃えている。
「セッターからしたら、あれ楽だろうなあ」
瑞穂が言うと、怜奈が笑った。
「すごく楽」
「だよね」
ところが、向こうで伊織が何か美緒へ話しかけた。
美緒が首を傾げる。少し会話をして、また練習が始まった。
次の1球。
返球が伊織の右へずれた。
伊織が動いて上げる。
次は左。
その次は前。
「……今度は散り始めた」
皐月が言った。
「美緒がミスり始めた?」
沙耶が見る。
瑞穂は少しだけ身を起こした。
「違うと思う」
返球はばらばらになった。
でも、ばらばら過ぎない。
伊織が2、3歩で入れる範囲にきっちり収まっている。右へ返せば右へ。前なら前へ。高さも、伊織が触れないような球にはならない。
しかも美緒は、どこへ返すか迷っている様子すらない。
「……あれも狙ってるじゃん」
瑞穂が言う。
怜奈も今度は少し笑った。
「伊織が頼んだんじゃない?」
「だろうね」
「何してるんだろ」
「いろんな位置から上げたいんじゃない?」
その答えはすぐ分かった。
伊織が返球を追って右から入り、千尋へトスを上げる。次は少しネットから離れた位置から。さらに次は前へ踏み込みながら。
千尋はそのたびに助走を調整して、後ろから打っていた。
瑞穂はしばらくその様子を見ていたが、やがて凜がコートへ入っていくのが見えた。
「あ、凜も行った」
「そりゃ行くでしょ」
沙耶の言い方に、瑞穂は笑った。
「なんで分かるの」
「打てる場所あったら行くもん、あいつ」
「確かに」
凜がレフトへ入る。
千尋は後衛。
2人がほとんど同じタイミングで助走を始めた。
瑞穂の視線が、そこで止まった。
伊織が美緒へ打つ。
美緒が返す。
伊織が1歩動いてボールの下へ入る。
前では凜が走っている。
後ろでは千尋も走っている。
伊織が上げたのは凜だった。
次は千尋。
また凜。
梓と真帆まで反対側へ移り、ブロックがついた。
「へえ」
今度の声は、瑞穂自身にも少し楽しそうに聞こえた。
怜奈が横目で見る。
「今度は何?」
「伊織」
「伊織?」
「うん」
もう1本。
美緒からの返球が少し右へずれる。
伊織が入った。
凜が前から走り、千尋が後ろから入る。
真帆は2人を見ている。
伊織の身体は、わずかに前を向いた。
真帆が凜側へ動きかける。
トスは後ろ。
千尋が打った。
「性格悪いねえ」
瑞穂は思わず笑った。
「誰が?」
「伊織」
怜奈も今の1本を見ていたらしい。
「ああ」
「怜奈もブロック振るじゃん」
「振るよ」
「でも、ちょっと違うんだよね」
瑞穂は上手く言葉を探した。
怜奈は、どこにでも上げられる。
沙耶がいる。凜もいる。皐月の速攻も、瑞穂のライトも使える。どこへ上がっても本当に攻撃になるから、相手は全部を見なければならない。
伊織も当然、選択肢を増やそうとしている。
でもそれだけではないように見えた。
「怜奈って、全部あるから迷う感じじゃない?」
「私に聞く?」
「本人だから聞く」
「まあ、そうしようとはしてるけど」
「伊織はなんかさ。『こっちだよ』って一回思わせようとしてない?」
怜奈が少しだけ目を細めた。
もう1本を見る。
今度は伊織が後ろへ上げそうな身体を作った。
梓の重心がわずかに千尋側へ寄る。
前。
凜が打つ。
「……確かに」
怜奈が言った。
「でしょ?」
「伊織、嫌なセッターになりそう」
「怜奈に言われると相当だね」
「どういう意味?」
笑いながら答えたものの、瑞穂はもう別のことを考えていた。
前に凜。
後ろに千尋。
2人とも本当に打てるから、ブロックはどちらも捨てられない。
そこへ、美緒が伊織の欲しい範囲へ1球目を作っている。
伊織は、その状況を使って相手に間違った方を選ばせようとしている。
2枚。
瑞穂はライト側の空いたコートを見た。
もう1枚あったら?
「…………」
「瑞穂?」
沙耶に呼ばれて、瑞穂は立ち上がった。
「何?」
「いや、急に立つから」
瑞穂はジャージについた埃を軽く払った。
「私、ちょっと伊織のトス打ってくるわ」
「は?」
沙耶の声を置き去りにして、コートへ向かう。
「瑞穂、ストレッチ途中!」
怜奈が後ろから言った。
「あとでやるー」
「そういうの一番駄目だから!」
「ちゃんとやるって!」
振り返らずに手だけ振る。
ネット際では、また伊織が美緒からの返球に入ったところだった。
凜と千尋が走る。
今度は凜。
梓と真帆の間を抜けたボールが床を叩く。
「もう1本!」
凜が声を上げる。
「待って」
瑞穂がコートへ入ると、伊織が振り向いた。
「瑞穂先輩?」
「伊織」
「はい」
「これさ」
瑞穂はレフトの凜を指し、次に後衛の千尋を見る。それから空いているライト側へ歩いた。
「もう1枚、騙す枚数増やしてみない?」
伊織が黙った。
その目が、凜、千尋、瑞穂の順に動く。
「……瑞穂先輩が入るんですか?」
「うん」
「毎回走ってもらっても?」
「いいよ」
「トス来なくても?」
「もちろん」
瑞穂はライトの助走位置を確かめながら笑った。
「上がるかもって思わせたいんでしょ?」
伊織の表情が変わった。
さっきまで楽しそうだった目が、さらに一段深くなる。
「お願いします」
「うん」
ネットの向こうでは、梓が露骨に嫌な顔をしていた。
「瑞穂まで入るの?」
「入るよ」
「2枚でも面倒だったんだけど」
「じゃあ3枚ならもっといい練習になるね」
「攻撃側の理屈じゃん」
その隣で真帆は、もう瑞穂の助走位置を見ていた。
「レフトとライトと、バックアタック……」
「真帆、全部見るよ」
「はい」
伊織がボールを持つ。
「瑞穂先輩、最初は普通にライトから入ってもらえますか」
「いいよ」
「凜はそのまま。千尋も今まで通り」
「はい!」
「了解」
「美緒も同じでお願い」
「うん」
全員が位置についた。
瑞穂は少し笑った。
別に、自分にトスが欲しくて来たわけではない。
上がらなくてもいい。
自分が走ることで、梓と真帆が一瞬でもこちらを見るなら、それで一つ増える。
相手に選ばせる間違いが。
伊織が美緒へ軽く打った。
美緒が受ける。
返球は伊織の左前。
伊織が入る。
凜がレフトから走った。
千尋も後ろから助走を始める。
瑞穂はライトから踏み込んだ。
3人が同時に攻撃へ入る。
ネットの向こうで、梓と真帆の視線が揺れた。
伊織が跳ぶ。
瑞穂も最後の1歩を踏み込んだ。
自分へ来るつもりで、腕を引く。
トスは前へ飛んだ。
「凜!」
「はい!」
凜が1枚になったブロックの横を打ち抜いた。
床にボールが弾む。
瑞穂は助走を止めてから、伊織を見た。
伊織もこちらを見ていた。
「……今、梓先輩こっち見ました」
「見てたね」
梓がネットの向こうから抗議する。
「聞こえてるよ!」
瑞穂は笑った。
「じゃあ、使えそうだね」
伊織も笑った。
「はい」
そしてすぐ、次のボールを拾う。
「もう一回お願いします」
「今度は上げてくれる?」
「それは分かりません」
「いいね」
瑞穂はもう一度ライトへ戻った。
トスが来るかどうかは、どうでもいい。
来ると思わせればいい。
そして本当に来た時には、決めればいい。
美緒が構える。
凜と千尋も助走位置へ戻る。
瑞穂はライトから3人を眺めて、少しだけ口元を上げた。
2枚でも面倒なら。
3枚にしたら、もっと面白い。




