第二十六話 二択
美緒から返ってくる1球目の位置を変えてもらうようになってから、伊織は露骨に楽しそうになった。
最初は右へ2歩。次は少し前。その次は左後ろ。美緒は伊織に言われた通り、セットに入れる範囲から外さず、それでいて同じ場所には返さない。
伊織が美緒へ軽く打つ。美緒が受ける。伊織が返球を追ってトスを上げ、私が後ろから打つ。
単純な繰り返しだったはずなのに、1球目の位置が変わるだけで毎回トスの形が違った。
ネットから離れたボールには足を使って入る。少し前へ返れば、身体をネットへぶつけないように止めながら上げる。右へ流れれば向きを作り直し、左なら逆足から入る。
それでも私へ届くトスは、大きく崩れない。
「伊織、さっきから楽しそうだね」
1本打ち終えて私が言うと、伊織は次のボールを拾いながら答えた。
「だって、同じところから上げるだけよりこっちの方が面白いでしょ」
「私は打つ場所も合わせないといけないんだけど」
「試合でもそうなるよ」
「正論で返すのやめて」
美緒が少し笑った。
その時、コートの横から大きな声が飛んできた。
「何してるの?」
声だけで誰か分かる。
凜がタオルを首にかけたまま、こちらへ歩いてきた。片付けを手伝っていたらしいが、私が打っているのを見つけて気になったようだった。
「バックアタックの練習」
「私もやる!」
「なんで?」
「打ちたいから!」
「理由が真っ直ぐだなあ」
凜はもうレフト側へ目を向けている。ネットが残っていて、トスを上げる伊織がいて、ボールもある。それだけで参加する条件は十分らしい。
伊織は最初こそ呆れた顔をしたものの、凜がレフトの助走位置へ向かうのを見ているうちに、その表情が変わった。
「……凜」
「ん?」
「ちょっと待って。そのままそこ入って」
「打っていい?」
「打っていいけど、千尋も一緒に入る」
伊織に言われ、私はアタックラインの後ろで足を止めた。
「一緒に?」
「うん。凜は前からレフト。千尋は後ろから。なるべく同じくらいのタイミングで打てるように助走してみて」
何をしたいのか、私にもすぐ分かった。
「どっちか分からなくする?」
「そう」
伊織は頷いた。
「今までは千尋しか打つ人がいなかったから、私がどこから上げてもブロック側は後ろを見ればいい。でも前に凜がいたら、そうはいかないでしょ」
凜が嬉しそうに胸を張った。
「私、囮?」
「打つかもしれない囮」
「じゃあ打つ!」
「だから打つかもしれないって言ってるでしょ」
「自分に来ると思って走ればいいんだよね?」
そこだけは理解が早かった。
伊織は少し笑ってから、「そう」と答えた。
「2人とも、どっちに上がるかは言わない。自分に来るつもりで最後まで助走して」
「分かった!」
「了解」
美緒がいつもの位置へ構え直した。
伊織が軽くボールを打つ。美緒のレシーブは、伊織の左へ1歩半。
伊織が移動する。
前では凜がレフトから助走を始め、私もアタックラインの後ろから入った。
今までなら、自分へ来ると分かっていた。
でも今は、トスが上がるまで分からない。
伊織がボールの下へ入る。
身体はネットに正対したまま。
凜が最後の1歩を踏み込んだ。
私も踏み切りへ入る。
トスは前へ上がった。
「凜!」
「はい!」
凜が勢いよく跳び、誰もいない相手コートへ叩き込んだ。
「よし!」
着地した凜が嬉しそうに拳を握る。
「次は千尋ね!」
「いや、伊織が決めるから」
「交代でいいじゃん」
「交代にしたら練習の意味なくなるでしょ」
伊織が美緒へ次のボールを打った。
今度の返球は、少しネットから離れた。
伊織が追う。
凜と私が同時に動く。
私は伊織を見る。
身体は少し前へ向いていた。凜へ上げるように見える。
それでも自分に来るつもりで走る。
伊織が両手を上げた。
トスは、その身体の向きとは逆に後ろへ伸びた。
「あっ」
一瞬遅れた。
それでも私は最後の1歩を踏み込み、アタックラインの後ろから跳ぶ。少し身体が詰まったが、腕を振り抜いてコートへ落とした。
「危なかった……」
着地して息を吐くと、前にいた凜が目を丸くしていた。
「今の、千尋だったの?」
「見れば分かるでしょ」
「伊織、私に上げると思った!」
「私も思った」
私が言うと、伊織は少し得意そうに笑った。
「打つ人まで騙されないでよ」
「味方を騙しておいて何言ってるの」
「ちゃんと自分に来ると思って走ってれば打てるでしょ」
言われてみれば、その通りだった。
伊織がどちらへ上げるのかを予想しようとしたから、一瞬遅れた。
自分に来るかどうかを考える必要はない。来る前提で走ればいい。
「もう1本」
私が言った。
次は予想しない。
伊織がどんな顔をしていても、どんな身体の向きをしていても、自分に上がると思って走る。
美緒のレシーブが今度は右へ返る。伊織が2歩動く。
凜が前から入る。
私も後ろから入る。
伊織が跳んだ。
今度は後ろへ来る。
私は迷わなかった。
トスに合わせて前へ跳び込み、打ち切る。
「今の」
伊織が言った。
「うん?」
「さっきよりいい」
「私もそう思う」
凜は自分に上がらなかったのに、なぜか満足そうだった。
「私もちゃんと打つつもりだったよ!」
「それでいいんだよ」
伊織はそう答えたあと、少し考えてから凜を見た。
「ただ、凜。千尋に上がった時も最後まで跳んで」
「今も跳んだよ?」
「ちょっと力抜いたでしょ」
「……分かった?」
「分かる。トスが後ろに行った瞬間、助走が緩んだ」
凜が口を尖らせる。
「だって千尋に上がったし」
「ブロックにもそれが見えたら意味ないから。千尋が打つ時ほど、本当に自分が打つみたいに入ってほしい」
「なるほど」
凜はすぐに頷いた。
「じゃあ千尋の時も全力で跳ぶ!」
「そうして」
「でも私に上がったらもっと全力で打つ!」
「それは好きにして」
何本か続けるうちに、2人の助走のタイミングが少しずつ揃っていった。
凜はレフトから前へ入る。私はその後ろからバックアタックへ入る。完全に同時ではない。それぞれのトスの高さも助走距離も違う。
けれど、ブロック側から見れば、伊織がボールへ触れる直前まで2人とも攻撃の可能性が残っている。
それだけでも今までとは違った。
「ちょっといい?」
今度はネットの反対側から声がした。
梓先輩だった。
真帆とのブロック練習を止めて、こちらを見ている。
「それ、せっかくだからブロックつけない?」
「お願いします」
伊織は即答した。
梓先輩は楽しそうに笑って、真帆へ手招きする。
「真帆、こっちやろう。前と後ろの二択」
「はい」
2人がネットの向こう側へ入った。
真帆は凜と私を交互に見ながら位置を取る。梓先輩はその隣で、伊織の立ち位置まで確認していた。
「伊織、普通に上げていいよ。どっちに来るかは教えないで」
「分かりました」
「真帆も最初からどっちかに決めない。最後まで両方残すよ」
「はい」
美緒が腰を落とした。
伊織が打つ。
返球は左前。
伊織が入る。
凜と私が走った。
真帆の視線が一瞬、凜へ寄った。
伊織が上げる。
後ろ。
私が踏み切った時、ネットの向こうには梓先輩の手だけが遅れて寄ってきた。真帆は凜側に残ったままだった。
私は空いたところへ打ち込む。
着地してネットの向こうを見ると、真帆がもう考え込んでいた。
「もう1本お願いします」
「早いね」
梓先輩が笑う。
「今、凜しか見てませんでした」
「うん。伊織が凜に上げそうな身体してたからね」
「身体の向きで判断しました」
「で、騙された」
「はい」
真帆は素直に頷いた。
次の1本。
今度は真帆が私を意識していた。
伊織のトスは前へ。
凜が打つ。
真帆はまた遅れた。
「難しいです」
着地してから、真帆が呟いた。
「でしょ?」
なぜか梓先輩が嬉しそうだった。
「でも、これいいよ。セッターだけ見ても駄目だし、アタッカーだけ見ても駄目。全部見ながら最後に決めないと」
「はい」
「伊織の身体の向き、あんまり信用しない方がいいかも」
「聞こえてますよ」
伊織がネット越しに言った。
「褒めてるんだけどなあ」
「そう聞こえません」
「騙すの上手いってことじゃん」
伊織は少し微妙そうな顔をした。
私は思わず笑った。
でも、梓先輩が言っていることは分かる。
怜奈先輩も当然、ブロックを振るのは上手い。どこからでも攻撃を成立させて、相手に全部の選択肢を見せ続ける。
伊織は少し違った。
どこに上げるかを隠すだけではない。
こっちだと思わせようとしている。
その違いを上手く言葉にはできなかったけれど、さっき自分まで一度騙された私にはなんとなく分かった。
「もう1本お願いします」
真帆が構える。
今度は梓先輩と少し位置を相談していた。
美緒が返す。
伊織が走る。
凜と私が入る。
真帆は伊織だけを見なかった。
凜の助走を見る。私の入りも視界に残す。
伊織が触る。
前。
真帆の1歩目が、さっきより早かった。
完全には間に合わない。
それでも凜が打つ瞬間には、真帆の手がコースの端へ出ていた。
凜のスパイクがその指先をかすめ、後ろへ飛んだ。
「あっ!」
真帆が振り返る。
「触った!」
梓先輩の方が大きな声を出した。
「今の! 今のいい!」
真帆は自分の手を見てから、少しだけ笑った。
「はい」
「もう一回やろう!」
「お願いします!」
今度はブロック側が勢いづいた。
「なんか止める方が楽しそうになってない?」
凜が不満そうに言う。
「じゃあ決めればいいでしょ」
伊織が返す。
「決める!」
「千尋も」
「はいはい」
「返事軽い」
「さっきから何本打ってると思ってるの」
それでも私はまたアタックラインの後ろへ下がった。
美緒は変わらず構えている。
伊織の球出しを何本受けても、疲れた様子もなく、指定された範囲へ1球目を返し続けていた。
右へ。左へ。少し前へ。
そのたびに伊織が違う場所から入る。
凜が前を走る。
私が後ろを走る。
梓先輩と真帆が、それをどう止めるか考える。
最初は私のバックアタックを練習するだけだった。
それが、美緒が1球目を作って、凜が前に入り、ブロックまでついたことで、もう別の練習になっていた。
伊織が美緒へ次のボールを打つ。
返球は少し右。
伊織がそこへ入った。
「行くよ!」
凜と私が同時に動き出す。
ネットの向こうでは、梓先輩と真帆も2人を追う。
どちらへ上がるのか。
伊織がボールに触れる、その瞬間まで。
今度は誰にも分からなかった。




