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水瀬千尋はエースじゃない―青嵐女学院バレーボール部―  作者: まるちーるだ
第二章 エースの隣

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第二十一話 もう一回

 由梨先輩は、そのまま病院へ行くことになった。


 相沢コーチが付き添うことになり、深見監督は残った部員たちに練習終了を告げた。


 意識ははっきりしている。話も普通にできている。ただ、自分で歩かせるのは駄目だと言われて、由梨先輩は相沢コーチに抱き上げられて体育館の外へ運ばれていった。


「大丈夫だから」


 出ていく前、由梨先輩はそう言った。


 誰に向けて言ったのかは分からなかった。


 沙耶先輩かもしれないし、怜奈先輩かもしれない。私たち1年生かもしれない。


 もしかしたら、自分自身に言っていたのかもしれなかった。


 でも、誰も「大丈夫です」とは返せなかった。


 由梨先輩がいなくなったあとも、体育館にはさっきまでの空気だけが取り残されていた。


 ほんの少し前まで、6人で笑っていた。


 凜が沙耶先輩に張り合って、伊織が怜奈先輩に褒められて、由梨先輩が私たちの間にバックアタックを叩き込んだ。


 14-14になって、あと1本だとか、まだ終わらないとか言っていた。


 それが今は、誰も何も言わない。


 床にはボールが1つ残っていた。


 由梨先輩が倒れた時、誰も追わなかったボールだ。


 凜が拾いに行こうとして、一度足を止めた。


 代わりに怜奈先輩が歩いていって、それを持ち上げる。


「……片付けようか」


 いつもの声に戻そうとしているのが分かった。


「はい」


 伊織が答えた。


 私もボールを集める。


 凜も手伝った。


 沙耶先輩だけは、しばらくその場から動かなかった。


 由梨先輩が倒れた場所を見ていた。


「沙耶」


 怜奈先輩が呼ぶ。


 少し遅れて、沙耶先輩が顔を上げる。


「……うん」


 それだけだった。


 誰もさっきの3対3の続きを話さなかった。


 片付けを終えて、着替えて、学校を出た。


 いつもなら帰り道でも誰かが喋っている。


 凜が一番うるさくて、伊織が呆れて、美緒がたまにぼそっと刺して、真帆が笑う。


 今日は、足音ばかりが聞こえた。


 美緒と真帆は由梨先輩が怪我をした瞬間を見ていない。それでも病院へ行ったことはもう知っている。


「……明日には分かるでしょうか」


 真帆が言った。


「何が?」


 凜が聞く。


「怪我が、どのくらいなのか」


「……うん」


 それで会話は終わった。


 途中で美緒と真帆が別れ、伊織とも駅で別れた。


 最後に凜と2人になる。


 小学校の頃から何度も歩いてきた道なのに、今日は妙に長く感じた。


「千尋」


「何?」


「……由梨先輩、大丈夫だよね」


 凜の声は小さかった。


 いつもの凜なら、「大丈夫だよね!」と自分から答えまで決めるように言う。


 今日は違った。


「分かんない」


 私はそれしか言えなかった。


「……そっか」


 凜も、それ以上は聞かなかった。


 神崎家の前まで来る。


「じゃあね」


「うん」


 凜が門を開ける。


 いつもならここで「また明日」で終わる。


 でも今日は、凜が門の中へ入ってからもう一度振り返った。


「千尋」


「何?」


 何か言おうとしている。


 でも、結局出てきたのは、


「……また明日」


 だった。


「うん。また明日」


 凜が家へ入る。


 そこから少し歩けば、もう家だった。


「千尋?」


 声をかけられて顔を上げる。


 悠真がいた。


 ちょうど自分の家へ帰ってきたところらしい。スポーツバッグを肩にかけている。


「悠真」


「何だ、その顔」


「どんな顔?」


「すげえ沈んだ顔」


「……そう?」


「そう。凜まで静かだったし。何かあった?」


 その言葉を聞いた瞬間、喉の奥に引っかかっていたものが動いた。


「由梨先輩が……」


「由梨先輩?」


 悠真も知っている。


 小学校も中学校も同じだった。学年は違っていても、昔から体育館で顔を合わせてきた相手だ。


「怪我、しちゃった」


「え?」


 悠真の顔が変わる。


「どこ?」


「左足」


「どのくらい?」


「まだ分かんない。病院行った」


「……マジか」


 少し間を置いて、悠真が言った。


「全国、決まったばっかりなのに」


「うん」


「由梨先輩、レギュラーだよな?」


「うん」


 その返事をしたところで、胸の奥がまた重くなった。


 私たちは歩き出した。


 と言っても、もうほとんど家の前だった。


 久我家と水瀬家は隣同士だ。


 悠真が自分の門を開け、私はその隣の門へ手をかける。


 そこで足が止まった。


「……私が言ったの」


 悠真が振り返る。


「何を?」


「バックアタック、見せてって」


「由梨先輩に?」


「うん」


 門を開けたまま、私はその場に立っていた。


 悠真も自分の家へ入らずに待っている。


「私がバックアタックの練習してて。沙耶先輩が教えてくれて、由梨先輩も得意だからって一緒にやってくれて。それで、3対3になって」


「うん」


「由梨先輩と沙耶先輩と怜奈先輩の連携、すごかったの。沙耶先輩に絶対上がるって思うのに、後ろから由梨先輩が来て」


 話しているうちに、またあの光景が浮かんでくる。


 楽しそうに笑っていた由梨先輩。


 もう一回。


 今度は取る。


 そんなことを言っていた。


「それで、もう一回って」


 声が小さくなった。


「もう一回見せてって言ったの?」


「……うん」


「それで怪我した?」


「そのあと。もう少し続けて、また由梨先輩がバックアタック打とうとして」


 バチン。


 耳の奥で、また音が鳴る。


「私、もう一回なんて言わなきゃよかった」


 悠真が黙った。


「言わなかったら、あの時は跳ばなかった」


「千尋」


「私がバックアタックやりたいなんて言わなかったら、そもそもあの練習だって――」


「千尋」


 さっきより少し強く呼ばれて、口を閉じた。


 悠真は自分の門の内側に立ったまま、こっちを見ている。


「それ、お前が怪我させたのか?」


「そんなこと言ってない」


「じゃあ何で自分のせいみたいに言ってんだよ」


「でも、私が言わなかったら」


「その時は跳ばなかったかもしれない」


「ほら」


「でも由梨先輩、バックアタック得意なんだろ?」


「……うん」


「試合でも打つんだろ」


「うん」


「練習でも普段から跳ぶんだろ?」


「……うん」


「じゃあ、お前が頼まなくても跳んでるじゃん」


 分かっている。


 頭では。


 由梨先輩はアウトサイドだ。


 毎日助走して、跳んで、打つ。


 バックアタックだって試合で何度も使う。


 私があの時『もう一回』と言わなくても、次の日には同じように踏み切っていたかもしれない。


 それでも。


「あの瞬間は、私が言ったから」


「だから?」


「だから……」


 その先が出てこなかった。


 悠真が小さく息を吐く。


「お前さ」


「何」


「今、自分が悪いことにしたいだけじゃねえの」


 顔を上げる。


「何それ」


「その方が理由が分かりやすいから」


「……」


「怪我した。本当の原因はまだ分かんない。でも『私がもう一回って言ったから』なら、お前の中では理由が1個になるだろ」


 言い返そうとして、言葉が出なかった。


「でも、それ違うだろ」


 悠真が続ける。


「由梨先輩、嫌がってたの?」


「違う」


「千尋が無理やりやらせた?」


「違うよ」


「楽しそうだった?」


 胸の奥が痛んだ。


「……うん」


 楽しかった。


 由梨先輩は笑っていた。


 私も笑っていた。


 みんな笑っていた。


「じゃあ、その時間まで悪かったことにすんなよ」


「でも怪我した」


「怪我したのはよくない」


 悠真はすぐに言った。


「でも、その前にみんなでバレーして楽しかったことまで悪かったことにするのは違うだろ」


 私は門を握ったまま俯いた。


 何も言えない。


「診断もまだなんだろ?」


「うん」


「じゃあ明日、ちゃんと聞いてから考えろよ」


「……うん」


「今のお前、何も分かってないのに一番悪いことばっか想像してる」


「……うん」


「しかも全部自分のせいにしてる」


「……うん」


「聞いてる?」


「聞いてるよ」


「ならいいけど」


 少しだけ腹が立った。


 でも、そのくらいの方が楽だった。


 悠真がずっと優しい声だったら、多分もっと苦しくなっていた。


 私は門をくぐった。


 悠真も隣の家の門を閉める。


 玄関までの距離もほとんど同じだ。


 隣同士の玄関前まで歩いていく。


「千尋」


 ドアノブに手をかけたところで、また呼ばれた。


「何?」


「飯食えよ」


「食べるよ」


「ちゃんと寝ろ」


「悠真もね」


「俺は普通に寝る」


「私だって普通に寝るし」


「その顔で?」


「寝る!」


 少しだけ声が大きくなった。


 悠真が笑う。


「じゃあ大丈夫だな」


「何が?」


「ちょっといつもの千尋に戻った」


「何それ」


 私も、ほんの少しだけ笑った。


「じゃあ、おやすみ」


「おう。おやすみ」


 悠真が玄関を開ける。


 私も自分の家のドアを開けた。


 入る直前、もう一度だけ隣を見る。


 悠真もちょうど家へ入るところだった。


 それぞれのドアが閉まる。


 自分の家に入っても、由梨先輩が倒れた時の音はまだ耳に残っていた。


 バチン。


 簡単には消えてくれそうにない。


 でも、その前に聞いた声も覚えている。


『じゃあ、取ってみて』


 由梨先輩は笑っていた。


『取ります!』


 私も笑っていた。


 あの時間まで、なかったことにはしたくなかった。


 明日になれば、病院から連絡が来る。


 何の怪我なのか。


 どれくらいかかるのか。


 まだ、何も分からない。


 だから今は。


『もう一回』と言った自分だけを責め続けるのは、やめようと思った。


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