第二十一話 もう一回
由梨先輩は、そのまま病院へ行くことになった。
相沢コーチが付き添うことになり、深見監督は残った部員たちに練習終了を告げた。
意識ははっきりしている。話も普通にできている。ただ、自分で歩かせるのは駄目だと言われて、由梨先輩は相沢コーチに抱き上げられて体育館の外へ運ばれていった。
「大丈夫だから」
出ていく前、由梨先輩はそう言った。
誰に向けて言ったのかは分からなかった。
沙耶先輩かもしれないし、怜奈先輩かもしれない。私たち1年生かもしれない。
もしかしたら、自分自身に言っていたのかもしれなかった。
でも、誰も「大丈夫です」とは返せなかった。
由梨先輩がいなくなったあとも、体育館にはさっきまでの空気だけが取り残されていた。
ほんの少し前まで、6人で笑っていた。
凜が沙耶先輩に張り合って、伊織が怜奈先輩に褒められて、由梨先輩が私たちの間にバックアタックを叩き込んだ。
14-14になって、あと1本だとか、まだ終わらないとか言っていた。
それが今は、誰も何も言わない。
床にはボールが1つ残っていた。
由梨先輩が倒れた時、誰も追わなかったボールだ。
凜が拾いに行こうとして、一度足を止めた。
代わりに怜奈先輩が歩いていって、それを持ち上げる。
「……片付けようか」
いつもの声に戻そうとしているのが分かった。
「はい」
伊織が答えた。
私もボールを集める。
凜も手伝った。
沙耶先輩だけは、しばらくその場から動かなかった。
由梨先輩が倒れた場所を見ていた。
「沙耶」
怜奈先輩が呼ぶ。
少し遅れて、沙耶先輩が顔を上げる。
「……うん」
それだけだった。
誰もさっきの3対3の続きを話さなかった。
片付けを終えて、着替えて、学校を出た。
いつもなら帰り道でも誰かが喋っている。
凜が一番うるさくて、伊織が呆れて、美緒がたまにぼそっと刺して、真帆が笑う。
今日は、足音ばかりが聞こえた。
美緒と真帆は由梨先輩が怪我をした瞬間を見ていない。それでも病院へ行ったことはもう知っている。
「……明日には分かるでしょうか」
真帆が言った。
「何が?」
凜が聞く。
「怪我が、どのくらいなのか」
「……うん」
それで会話は終わった。
途中で美緒と真帆が別れ、伊織とも駅で別れた。
最後に凜と2人になる。
小学校の頃から何度も歩いてきた道なのに、今日は妙に長く感じた。
「千尋」
「何?」
「……由梨先輩、大丈夫だよね」
凜の声は小さかった。
いつもの凜なら、「大丈夫だよね!」と自分から答えまで決めるように言う。
今日は違った。
「分かんない」
私はそれしか言えなかった。
「……そっか」
凜も、それ以上は聞かなかった。
神崎家の前まで来る。
「じゃあね」
「うん」
凜が門を開ける。
いつもならここで「また明日」で終わる。
でも今日は、凜が門の中へ入ってからもう一度振り返った。
「千尋」
「何?」
何か言おうとしている。
でも、結局出てきたのは、
「……また明日」
だった。
「うん。また明日」
凜が家へ入る。
そこから少し歩けば、もう家だった。
「千尋?」
声をかけられて顔を上げる。
悠真がいた。
ちょうど自分の家へ帰ってきたところらしい。スポーツバッグを肩にかけている。
「悠真」
「何だ、その顔」
「どんな顔?」
「すげえ沈んだ顔」
「……そう?」
「そう。凜まで静かだったし。何かあった?」
その言葉を聞いた瞬間、喉の奥に引っかかっていたものが動いた。
「由梨先輩が……」
「由梨先輩?」
悠真も知っている。
小学校も中学校も同じだった。学年は違っていても、昔から体育館で顔を合わせてきた相手だ。
「怪我、しちゃった」
「え?」
悠真の顔が変わる。
「どこ?」
「左足」
「どのくらい?」
「まだ分かんない。病院行った」
「……マジか」
少し間を置いて、悠真が言った。
「全国、決まったばっかりなのに」
「うん」
「由梨先輩、レギュラーだよな?」
「うん」
その返事をしたところで、胸の奥がまた重くなった。
私たちは歩き出した。
と言っても、もうほとんど家の前だった。
久我家と水瀬家は隣同士だ。
悠真が自分の門を開け、私はその隣の門へ手をかける。
そこで足が止まった。
「……私が言ったの」
悠真が振り返る。
「何を?」
「バックアタック、見せてって」
「由梨先輩に?」
「うん」
門を開けたまま、私はその場に立っていた。
悠真も自分の家へ入らずに待っている。
「私がバックアタックの練習してて。沙耶先輩が教えてくれて、由梨先輩も得意だからって一緒にやってくれて。それで、3対3になって」
「うん」
「由梨先輩と沙耶先輩と怜奈先輩の連携、すごかったの。沙耶先輩に絶対上がるって思うのに、後ろから由梨先輩が来て」
話しているうちに、またあの光景が浮かんでくる。
楽しそうに笑っていた由梨先輩。
もう一回。
今度は取る。
そんなことを言っていた。
「それで、もう一回って」
声が小さくなった。
「もう一回見せてって言ったの?」
「……うん」
「それで怪我した?」
「そのあと。もう少し続けて、また由梨先輩がバックアタック打とうとして」
バチン。
耳の奥で、また音が鳴る。
「私、もう一回なんて言わなきゃよかった」
悠真が黙った。
「言わなかったら、あの時は跳ばなかった」
「千尋」
「私がバックアタックやりたいなんて言わなかったら、そもそもあの練習だって――」
「千尋」
さっきより少し強く呼ばれて、口を閉じた。
悠真は自分の門の内側に立ったまま、こっちを見ている。
「それ、お前が怪我させたのか?」
「そんなこと言ってない」
「じゃあ何で自分のせいみたいに言ってんだよ」
「でも、私が言わなかったら」
「その時は跳ばなかったかもしれない」
「ほら」
「でも由梨先輩、バックアタック得意なんだろ?」
「……うん」
「試合でも打つんだろ」
「うん」
「練習でも普段から跳ぶんだろ?」
「……うん」
「じゃあ、お前が頼まなくても跳んでるじゃん」
分かっている。
頭では。
由梨先輩はアウトサイドだ。
毎日助走して、跳んで、打つ。
バックアタックだって試合で何度も使う。
私があの時『もう一回』と言わなくても、次の日には同じように踏み切っていたかもしれない。
それでも。
「あの瞬間は、私が言ったから」
「だから?」
「だから……」
その先が出てこなかった。
悠真が小さく息を吐く。
「お前さ」
「何」
「今、自分が悪いことにしたいだけじゃねえの」
顔を上げる。
「何それ」
「その方が理由が分かりやすいから」
「……」
「怪我した。本当の原因はまだ分かんない。でも『私がもう一回って言ったから』なら、お前の中では理由が1個になるだろ」
言い返そうとして、言葉が出なかった。
「でも、それ違うだろ」
悠真が続ける。
「由梨先輩、嫌がってたの?」
「違う」
「千尋が無理やりやらせた?」
「違うよ」
「楽しそうだった?」
胸の奥が痛んだ。
「……うん」
楽しかった。
由梨先輩は笑っていた。
私も笑っていた。
みんな笑っていた。
「じゃあ、その時間まで悪かったことにすんなよ」
「でも怪我した」
「怪我したのはよくない」
悠真はすぐに言った。
「でも、その前にみんなでバレーして楽しかったことまで悪かったことにするのは違うだろ」
私は門を握ったまま俯いた。
何も言えない。
「診断もまだなんだろ?」
「うん」
「じゃあ明日、ちゃんと聞いてから考えろよ」
「……うん」
「今のお前、何も分かってないのに一番悪いことばっか想像してる」
「……うん」
「しかも全部自分のせいにしてる」
「……うん」
「聞いてる?」
「聞いてるよ」
「ならいいけど」
少しだけ腹が立った。
でも、そのくらいの方が楽だった。
悠真がずっと優しい声だったら、多分もっと苦しくなっていた。
私は門をくぐった。
悠真も隣の家の門を閉める。
玄関までの距離もほとんど同じだ。
隣同士の玄関前まで歩いていく。
「千尋」
ドアノブに手をかけたところで、また呼ばれた。
「何?」
「飯食えよ」
「食べるよ」
「ちゃんと寝ろ」
「悠真もね」
「俺は普通に寝る」
「私だって普通に寝るし」
「その顔で?」
「寝る!」
少しだけ声が大きくなった。
悠真が笑う。
「じゃあ大丈夫だな」
「何が?」
「ちょっといつもの千尋に戻った」
「何それ」
私も、ほんの少しだけ笑った。
「じゃあ、おやすみ」
「おう。おやすみ」
悠真が玄関を開ける。
私も自分の家のドアを開けた。
入る直前、もう一度だけ隣を見る。
悠真もちょうど家へ入るところだった。
それぞれのドアが閉まる。
自分の家に入っても、由梨先輩が倒れた時の音はまだ耳に残っていた。
バチン。
簡単には消えてくれそうにない。
でも、その前に聞いた声も覚えている。
『じゃあ、取ってみて』
由梨先輩は笑っていた。
『取ります!』
私も笑っていた。
あの時間まで、なかったことにはしたくなかった。
明日になれば、病院から連絡が来る。
何の怪我なのか。
どれくらいかかるのか。
まだ、何も分からない。
だから今は。
『もう一回』と言った自分だけを責め続けるのは、やめようと思った。




