第二十話 その一歩
「行くよ」
怜奈先輩が言った。
私たちは構えた。
さっきまでと同じ3対3のはずなのに、ネットの向こう側が急に狭くなったような気がする。
沙耶先輩。
由梨先輩。
怜奈先輩。
青嵐の試合で何度も見てきた3人だ。
でも、コートの外から見るのと、自分たちに向けて構えられるのでは全然違った。
「千尋」
「何?」
隣の伊織が小さな声で言う。
「沙耶先輩だけ見ないで」
「分かってる」
「凜も」
「分かってる!」
凜はそう答えながら、どう見ても沙耶先輩を見ていた。
「絶対分かってないでしょ」
「だって打ってきそうなんだもん!」
「それが囮だったら?」
「その時考える!」
「遅い!」
ネットの向こうで由梨先輩が吹き出した。
「なんか作戦会議、全部聞こえてるよ」
「凜が大きいんです!」
「千尋も大きいよ!」
「今は凜のせい!」
「はいはい」
怜奈先輩が笑いながらボールを持った。
「じゃ、本当に行くよ」
ボールが入る。
伊織が1本目を上げた。
「凜!」
「はい!」
私が2本目を高く上げる。
凜が後ろから助走に入った。
思い切り振る。
沙耶先輩が腕を出した。
バンッ、といい音がして、ボールが上がる。
「由梨!」
「はい!」
由梨先輩がつなぐ。
怜奈先輩がネット際へ入った。
その瞬間だった。
沙耶先輩が走る。
速い。
前から大きく助走に入る。
私は反射的に身体をそちらへ向けた。
凜も完全に沙耶先輩を見ている。
「凜、そっち!」
「分かってる!」
沙耶先輩が跳ぶ。
怜奈先輩も跳んだ。
トス。
――じゃない。
「後ろ!」
伊織が叫んだ。
由梨先輩だった。
沙耶先輩の後ろ。
アタックラインよりさらに後方から、もう助走に入っている。
止まらない。
最後の2歩で身体を前へ運び、ラインの手前から踏み切る。
空中へ上がりながら、そのまま前へ。
怜奈先輩のトスが、由梨先輩の右肩の少し前へ落ちてきた。
ドンッ!
私と伊織の間をボールが抜けた。
誰も触れなかった。
9-8。
「……速」
思わず口から出た。
さっき伊織が由梨先輩に上げた時も、同じような攻撃だった。
でも、違う。
何かが全然違った。
「何が違った?」
伊織に聞く。
「タイミング」
返事が早い。
「怜奈先輩、沙耶先輩に上げるのとほとんど同じところまで待った」
「ああ」
「私より由梨先輩が入ってくるのも遅い。だから最後まで後ろが見えない」
ネットの向こうで怜奈先輩が笑う。
「正解」
「聞こえてたんですか」
「聞こえるよ」
「でも」
伊織は悔しそうに眉を寄せた。
「分かってても、さっきのは反応できない」
「だから本気のやつ」
怜奈先輩は楽しそうだった。
由梨先輩も笑っている。
「沙耶見たでしょ?」
「見ました」
「でしょ?」
「だから囮扱いするのやめてくれない?」
沙耶先輩だけ少し不満そうだった。
「でも沙耶先輩、本気で跳んでましたよね?」
私が聞く。
「跳ぶよ。囮だからって適当に入ったらバレるじゃん」
「……なるほど」
「私に上がっても打つしね」
そう言って沙耶先輩が笑う。
余計に嫌だった。
沙耶先輩に上がっても決まる。
由梨先輩に上がっても決まる。
どっちかを捨てることができない。
「伊織」
「何?」
「これ止めるの無理じゃない?」
「最初から諦めないで」
「でもさ」
「次は由梨先輩も見る」
「沙耶先輩は?」
「凜」
「任せて!」
凜が胸を張った。
不安だった。
次の1本。
また沙耶先輩が走る。
「凜!」
「見てる!」
私は由梨先輩を見る。
まだ動いていない。
怜奈先輩がボールの下へ入る。
由梨先輩が1歩目。
来る。
「後ろ!」
声を出した。
でも、怜奈先輩のトスは前だった。
「え」
沙耶先輩。
凜が跳ぶ。
「うおおっ!」
「声!」
バンッ!
凜の手に当たった。
ボールが後ろへ飛ぶ。
「千尋!」
走る。
何とか腕を入れた。
上がった。
「伊織!」
伊織が追いつく。
「凜、もう一回!」
「もってこーい!」
高いトス。
凜が振り抜いた。
由梨先輩が拾う。
また怜奈先輩。
「今度こそ後ろ!」
私が由梨先輩へ寄る。
トスは――沙耶先輩。
「また!?」
「凜!」
「分かってる!」
凜が飛ぶ。
今度は触れない。
ボールが床へ叩きつけられた。
10-8。
ネットの向こうで3人が笑っていた。
「ずるくないですか?」
私が言う。
「何が?」
怜奈先輩が聞く。
「どっち見ても逆に上げるじゃないですか」
「それがセッターだよ」
「伊織」
「何?」
「怜奈先輩怖い」
「知ってる」
「聞こえてるよ、2人とも」
怜奈先輩は笑っている。
伊織はネットの向こうを睨むように見ていた。
悔しいんだと思う。
でも、それ以上に。
楽しそうだった。
「10点終わったけど、どうする?」
由梨先輩が聞いた。
「続ける!」
凜が即答した。
「でしょうね」
沙耶先輩が笑う。
「じゃあ2点差つくまで?」
「やります!」
「千尋は?」
「やります」
「伊織」
「やります」
聞く必要もなかった。
そこから、もっと面白くなった。
10-9。
私が何とかバックアタックを決めた。
「入った!」
「コース甘い!」
沙耶先輩に即座に言われる。
「決まったからいいじゃないですか!」
「試合だったら拾われる!」
「今も試合形式です!」
「じゃあ次拾う!」
「やめてください!」
10-10。
凜が沙耶先輩の強打をワンタッチにして、伊織が追いついた。
私が2本目を上げる。
凜が後ろから入って決めた。
「ほら!」
凜がネットの向こうへ向かって叫ぶ。
「私もバックアタック打てます!」
「知ってるよ!」
沙耶先輩も笑っていた。
11-10。
由梨先輩が私の前へフェイントを落とす。
「ずるい!」
「また言ってる」
「バックアタックの練習ですよ!」
「3対3の試合でしょ?」
「そうだけど!」
11-11。
今度は伊織だった。
凜に上げると思わせて、私へ低めのトスを持ってくる。
「千尋!」
「はい!」
前への勢いを殺さない。
踏み切る。
打った。
由梨先輩の手を弾いた。
「よし!」
着地した瞬間、伊織を見る。
伊織も笑った。
今のは気持ちよかった。
「伊織」
ネットの向こうから怜奈先輩が呼ぶ。
「はい」
「今のいいね」
「ありがとうございます」
伊織の顔が一瞬で真面目になった。
「千尋にはちょっと速いけど」
「え」
「でも、あれくらいの方が助走止めなくなるかも」
「……なるほど」
伊織がもう考えている。
「千尋、次も同じのやる」
「待って、私の意見は?」
「打てたでしょ」
「打てたけど」
「じゃあやる」
やっぱりちょっと性格が悪い。
12-11。
沙耶先輩。
12-12。
凜。
13-12。
由梨先輩。
13-13。
私。
点がなかなか離れない。
いつの間にか、全員かなり本気になっていた。
たった6人の自主練なのに、1本落とすたびに悔しい。
拾えば嬉しい。
打てばもっと強く打ちたくなる。
伊織も、さっきまでよりずっと積極的にトスを散らしていた。
「凜!」
大きく呼ぶ。
凜が助走する。
でも私へ。
「また!?」
今度は私が驚いた。
「打って!」
「はい!」
返される。
沙耶先輩。
拾えない。
13-14。
「あと1点!」
沙耶先輩が言う。
「終わらせるよ!」
「嫌です!」
凜が大声で返した。
「15-15まで行きます!」
「勝手に点増やさないで」
「じゃあ追いつく!」
私は笑いながら位置についた。
息が上がっている。
でも、やめたくなかった。
もう一回。
もう1本。
もっとやりたい。
そんな空気だった。
14-14。
ラリーが続く。
私が沙耶先輩のスパイクを触った。
高くは上がらない。
伊織が走る。
「ナイス、千尋!」
凜が後ろへ下がる。
伊織のトス。
バックアタック。
由梨先輩が拾った。
「怜奈!」
「はい!」
怜奈先輩がネット際へ。
沙耶先輩が前から走る。
来る。
でも。
もう、私たちはさっきみたいに沙耶先輩だけを見ていなかった。
「由梨先輩も!」
「分かってる!」
凜が沙耶先輩。
私は由梨先輩。
伊織はその間。
由梨先輩が後ろから入る。
怜奈先輩が跳んだ。
トス。
沙耶先輩。
「凜!」
「触る!」
凜が手を出した。
ワンタッチ。
ボールが後ろへ飛ぶ。
「千尋!」
飛び込む。
上がった。
「よし!」
伊織がつなぐ。
今度は私が後ろから入る。
「千尋!」
トスが来た。
打つ。
由梨先輩が拾う。
「もう一回!」
由梨先輩が声を出した。
怜奈先輩が走る。
沙耶先輩がまた前へ。
由梨先輩はその後ろへ下がっていく。
「来るよ!」
私も声を出した。
今度は見えている。
由梨先輩が笑った。
さっきまで簡単に抜かれていた1年生が、ようやく自分まで見るようになったのが嬉しいみたいに。
「じゃあ、取ってみて」
「取ります!」
由梨先輩が下がる。
怜奈先輩がボールの下へ入った。
沙耶先輩が助走を始める。
由梨先輩も。
1歩。
2歩。
前への速度が上がる。
いつもの助走。
さっき何度も見た、由梨先輩のバックアタック。
最後の2歩。
踏み切る。
バチン。
変な音がした。
「……え?」
誰の声だったか分からない。
ボールを打った音じゃなかった。
床を踏んだ音でもない。
何か太いものを、思い切り弾いたような音。
由梨先輩が跳ばなかった。
左足を踏み込んだところで、身体が突然崩れた。
「由梨!?」
沙耶先輩が叫んだ。
由梨先輩が床へ倒れる。
ボールが何もないところへ落ちた。
誰も追わなかった。
「由梨先輩!」
私は走った。
でも、沙耶先輩の方が早かった。
「動かないで!」
「……え?」
由梨先輩は自分でも何が起きたのか分かっていない顔をしていた。
自分の左足を見る。
「何、今……」
息を飲む。
「誰か、後ろから蹴った?」
誰もいなかった。
由梨先輩の後ろには。
誰も。
「由梨、立たないで」
怜奈先輩の声が変わった。
さっきまで笑っていた人の声じゃない。
体育館の空気が、一瞬で冷たくなった。
「でも、何か――」
由梨先輩が床に手をついて、身体を起こそうとする。
「待って!」
沙耶先輩が肩を押さえた。
「立たないでって!」
「沙耶、大丈夫。ちょっと――」
「由梨!」
その声で、由梨先輩が止まった。
相沢コーチが走ってくる。
「どうした!」
「踏み切った瞬間に」
怜奈先輩が答える。
「音がしました。バチンって」
相沢コーチの顔が変わった。
「由梨。そのまま」
「相沢コーチ」
「左?」
「……はい」
「動かさなくていい」
由梨先輩が自分の左足を見た。
それから、ごく小さく動かそうとする。
床を押そうとして。
表情が止まった。
「……あれ」
もう一度。
でも、左足ではうまく床を蹴れない。
「なんで」
さっきまで楽しそうだった声が、震えた。
「なんで、力入らないの」
誰も答えなかった。
沙耶先輩は、由梨先輩のすぐ横にしゃがんだままだった。
凜も。
伊織も。
怜奈先輩も。
私も。
少し前まで14-14だった。
あと1点取るとか。
追いつくとか。
もう1本やろうとか。
そんな話をしていた。
床の上を、ボールが1つだけ転がっていく。
誰にも拾われないまま、ゆっくりと止まった。
このシーン……本当にアキレス腱を切った先輩と私の弟に聞いた話をそのまま書きました。




