第六話 声
「見えているんです。でも、身体が追いつきません」
榊原さん――真帆ちゃんは、そう言った。
コートの外から聞いていた梓には、その言葉が妙にすんなり腑に落ちた。
やっぱり、そうなんだ。
真帆ちゃんは遅い。
少なくとも、青嵐のミドルとして見ればかなり遅い。横への一歩目も、そこから踏み切りへ入るまでの速さも足りていない。跳躍力も高くはなく、180cmという身長の割には最高到達点もまだ物足りない。
それでも、手を上げれば高い。
腕も長い。
だからさっきも、沙耶のスパイクに指先だけは届いていた。
あと半歩。
あと一瞬。
身体さえ追いつけば、ちゃんとしたブロックになる。
ただ、梓が気になっていたのはそこではなかった。
「見えてるんだ」
隣から声がした。
「ですよね」
梓は振り向かずに答えた。
横に立っているのは、3年生の佐伯楓先輩だった。
今は怜奈が正セッターを務めているけれど、楓先輩も1年生の頃には春高で正セッターとしてコートに立っていた人だ。今でもBチームではセッターを務めるし、試合が崩れた時には瑞穂と2枚替えで入って流れを立て直すことも多い。
梓にとっては、普段から一緒に練習するセッターでもある。
「足は全然間に合ってないですけど」
「うん」
「行く場所、ほとんど間違えてないんですよね」
「私もそう見える」
楓先輩が腕を組む。
「怜奈にあれだけ動かされて、それでも次がどこか追えてるなら、かなり見えてるよ」
「ですよね」
梓はもう一度、真帆ちゃんを見る。
まだ入部初日。
しかも、中学では強豪校にいたわけでもない。
それなのに、怜奈の組み立てを完全に見失ってはいない。
身体が追いつけば。
「恐ろしい才能かもしれないですね」
「うん?」
「ミドルとして」
「ああ」
楓先輩が少し笑った。
「怜奈、ああいうタイプ嫌がりそう」
「嫌がりそうですね」
「全部見られてるの、嫌いだからね。あの子」
「楓先輩もでしょう」
「私は見られたら見られたで、裏をかくの楽しいから」
「性格悪いですね」
「セッターに言う?」
「伊織もそんな感じですし」
「あれはもっと性格悪くなりそうだねえ」
2人でコートを見る。
その伊織は今、真帆ちゃんの隣にしゃがみ込んでいた。
短いタイムの最中だ。
千尋ちゃんが少し考えるように首を傾げている。
「じゃあさ」
千尋ちゃんが言った。
「声出して」
「……声、ですか?」
「うん」
真帆ちゃんが戸惑った。
「何を言えばいいんですか?」
「見えたこと」
「見えたこと?」
「誰に上がりそうとか、どっちに打ちそうとか。あと、ブロック触った時にどっち飛びそうとか」
「それを……水瀬さんに?」
「私だけじゃなくて、みんなに」
梓は少し眉を上げた。
そっちなんだ。
真帆ちゃんの足が遅い。
だったら、一歩目を早くしよう。
今は全部についていけないなら、読む場所を絞ろう。
あるいは中央を優先するのか、サイドへの寄りを優先するのか決めよう。
梓なら、そう考える。
真帆ちゃん本人を、どう動かすか。
「でも、私が言ったところで……」
「榊原さんが動くのは間に合わないんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ、別の人が動けばいいよ」
「え?」
あっさりと言った。
「見えてるなら、それ先に教えて。私、代わりに追いつくから」
梓は思わず楓先輩を見た。
楓先輩も少しだけ目を丸くしていた。
「楓先輩、今の考えてました?」
「いや」
即答だった。
「私も榊原をどう動かすか考えてた」
「ですよね」
「面白いね、水瀬」
声は小さい。
コートの中には聞こえない。
「千尋が行くなら私も行く!」
凜ちゃんが即座に手を上げた。
「凜は前衛だからブロックして」
「えっ」
「榊原さんの隣でしょ」
「あ、そうだった」
「自分のローテーション忘れないで」
「忘れてない!」
「今忘れてたじゃん」
「一瞬だけ!」
瑞穂が笑った。
「凜ちゃん、元気だねえ」
「はい!」
「褒めてる褒めてる」
千尋ちゃんは今度は後ろを向いた。
「速水さんも、聞こえたら動いてもらっていい?」
「はい」
美緒ちゃんは迷いなく頷いた。
「でも、水瀬さんと同じところに入ったら?」
「その時は私がずれる」
「分かりました」
「ちょっと待って」
伊織が割って入った。
「そのままじゃ声が長い」
「長い?」
「『誰々に上がりそうです』とか言ってる間に打たれるでしょ」
「ああ、そっか」
「誰に上がるかなら『レフト』『センター』『ライト』。コースなら『クロス』『ストレート』。これだけでいい」
「なるほど」
千尋ちゃんが頷く。
「タッチした時は?」
「右とか左だと、向きによって分かりづらい」
「じゃあライト側に飛んだら『タッチ、ライト』」
「レフトなら『タッチ、レフト』」
「奥なら?」
「『奥』」
「前なら?」
「『前』」
「分かりやすい」
真帆ちゃんも頷いた。
「それなら言えると思います」
「無理に全部言わなくていい」
伊織が続ける。
「自信がある時だけ。間違った情報を出される方が危ないから」
「分かりました」
「最初は榊原さんが見る。千尋と速水さんが動く。凜はブロック優先。瑞穂先輩は――」
「私は普通に打てばいい?」
「お願いします」
「一番楽な役きた」
「点を取ってもらう役なので一番大事です」
「いいこと言うねえ、伊織!」
ほんの少し前まで、何もなかった。
千尋ちゃんが思いついた。
伊織が必要な言葉を削った。
真帆ちゃんが頷いて、美緒ちゃんはもう自分が動く範囲を確認している。
凜ちゃんだけはたぶん半分くらいしか分かっていないけれど、その半分で全力を出すから、それはそれで問題がないらしい。
「……水瀬、伊織と合うね」
楓先輩が呟いた。
「ですね」
「この僅かな休憩で、もう連携しちゃうんだ」
梓も同じことを考えていた。
千尋ちゃんが思いついただけなら、まだ作戦ではない。
伊織が整理しただけでも、まだ机上の話だ。
なのに2人の間では、千尋ちゃんの思いつきが伊織へ渡った瞬間、使える形になっている。
「綾香と怜奈も相当だけど」
楓先輩が少しだけ目を細めた。
「あの2人の掛け算、頭脳だけなら綾香と怜奈以上かもね」
「……そこまでですか?」
「今の時点で上って意味じゃないよ」
「ですよね」
「綾香と怜奈は、もうずっと青嵐の試合を作ってるからね。完成度なら比べものにならない」
楓先輩はそう言ってから、楽しそうに続けた。
「でも、水瀬が変なこと思いついて、伊織がすぐ形にする。形にしたら水瀬がそのまま動ける」
「掛け算、ですか」
「うん。相手にしたら嫌そう」
「それは分かります」
特に怜奈は嫌がりそうだ。
「そろそろいいー?」
向こうから綾香先輩の声が飛んできた。
「タイム長くない?」
「キャプテンが認めたタイムですよ」
すぐ横から怜奈の声。
「分かってるけど!」
「今作ったルールなんだから、急かさなくても」
「怜奈はどっちの味方なんだよ!」
「青嵐です」
「私も青嵐!」
「知ってます」
瑞穂が吹き出した。
「相変わらずですね」
「キャプテンになってから余計ひどくなったよ」
楓先輩が笑う。
「真帆ちゃん」
梓はコートへ戻る真帆ちゃんへ声をかけた。
「はい」
「全部止めなくていいからね」
「はい」
「今は触れるだけでも十分」
真帆ちゃんが少し考えてから頷く。
「分かりました」
「あと、声は大きく」
「はい!」
「それくらい」
さっきよりずっと大きかった。
「いいね」
真帆ちゃんがコートへ戻った。
試合が再開する。
スコアは8-12。
向こうのレセプションがきれいに返った。
怜奈が入る。
真帆ちゃんがネット越しに相手を見る。
「センター!」
早い。
相手ミドルが助走へ入った。
凜ちゃんが中央へ寄る。
真帆ちゃんも動く。
やっぱり足は遅い。
でも。
「レフト!」
声が変わった。
怜奈のトスは外。
由梨が入ってくる。
凜ちゃんが戻る。
真帆ちゃんも追う。
2枚は揃わない。
「クロス!」
打たれる直前。
その声が飛んだ時には、千尋ちゃんはもう動いていた。
由梨のスパイクがブロックの脇を抜ける。
「千尋!」
腕に当たった。
上がる。
「ナイス!」
伊織が入る。
「凜!」
「はい!」
凜ちゃんが跳んだ。
高いトスを思い切り叩く。
ブロックに当たり、外へ弾かれた。
「よし!」
9-12。
「ナイス凜!」
「ナイス千尋!」
凜ちゃんが叫ぶ。
千尋ちゃんは真帆ちゃんを見る。
「榊原さんも!」
「え?」
「今のクロス!」
「……はい」
「合ってた!」
真帆ちゃんが少し目を見開く。
「もう1本!」
凜ちゃんも声を上げた。
「真帆、ナイス声!」
「ありがとうございます」
「そこは『うん』でいいよ!」
「今それ必要?」
千尋ちゃんが言う。
「必要!」
試合中なのに忙しい。
梓は少し笑った。
「1本目」
楓先輩が言う。
「ですね」
まだ1本。
偶然かもしれない。
次のラリー。
また怜奈がボールの下へ入る。
「ライト!」
真帆ちゃんの声。
綾香先輩が助走へ入った。
凜ちゃんがブロックへ寄る。
「ストレート!」
千尋ちゃんが動く。
綾香先輩が打った。
真帆ちゃんの手に当たる。
ほんの少し。
「タッチ、ライト!」
声が飛ぶ。
千尋ちゃんが走った。
美緒ちゃんもその後ろへ入る。
「私!」
千尋ちゃんが片腕を差し込んだ。
上がった。
「……拾った」
梓の口から漏れた。
伊織が追いつく。
ネットから遠い。
それでも高く外へ送る。
「凜!」
「もってこーい!」
凜ちゃんが思い切り入った。
2枚。
構わず振り切る。
ブロックアウト。
10-12。
「ナイスー!」
瑞穂が一番大きな声を上げた。
「いいじゃん!」
「榊原さん!」
床から起き上がった千尋ちゃんが言う。
「はい」
「今の、めっちゃ分かりやすかった」
「そうですか?」
「うん。もうちょっと早くてもいい」
「分かりました」
「要求増やすねえ」
瑞穂が笑う。
「だって使えそうなので」
「真帆ちゃんを?」
「声を」
「そっち?」
「榊原さんも」
「ついでみたいに言わないであげて!」
真帆ちゃんは少し困った顔をしていた。
でも、さっきより顔が上がっている。
「成立してますね」
梓が言う。
「まだ2本だけどね」
楓先輩は慎重だった。
「怜奈ももう気づいてる」
その言葉通りだった。
次の一本から、怜奈の組み立てが変わった。
中央へ入る選手を増やす。
助走の入りをずらす。
誰に上げるのか、見極める時間を少しだけ遅らせる。
「セン――」
真帆ちゃんの声が止まった。
トスはライト。
「遅い!」
綾香先輩が打ち切る。
千尋ちゃんも美緒ちゃんも間に合わない。
床。
10-13。
「よし!」
綾香先輩が拳を握る。
「そんな簡単に攻略されないぞ!」
「ですよね」
千尋ちゃんが頷いた。
悔しそうというより、楽しそうだった。
「伊織」
「分かってる」
すぐに伊織が真帆ちゃんへ向く。
「榊原さん、迷った時は言わなくていい」
「はい」
「当てようとしないで。確信した時だけ」
「分かりました」
「千尋も、声だけで決め打ちしないで」
「うん」
「相手も声を利用してくるかもしれない」
「ああ、なるほど」
「速水さんは千尋が動いた後を優先」
「はい」
また変わった。
「……早いなあ」
梓が呟く。
「だから掛け算なんだよ」
楓先輩が笑った。
次のラリー。
真帆ちゃんは黙っていた。
中央。
外。
怜奈が迷わせる。
言わない。
最後の瞬間。
「レフト!」
由梨。
「クロス!」
美緒ちゃんが動く。
拾った。
「ナイス!」
伊織。
瑞穂。
ライトから打つ。
ブロックアウト。
11-13。
「よし!」
瑞穂が拳を握る。
「今の私も褒めて!」
「ナイス瑞穂ー!」
ベンチから梓が声を飛ばした。
「もっと気持ち込めて!」
「注文多い!」
「先輩なんだから我慢してください!」
「梓まで先輩風吹かせ始めた!」
笑い声が上がる。
それでも試合は止まらない。
11-14。
12-14。
向こうも取る。
こっちも返す。
真帆ちゃんがコートへ戻ってきてから一度開いた点差が、それ以上離れなくなっていた。
動きが速くなったわけではない。
ブロック技術が急に上手くなったわけでもない。
相変わらず、真帆ちゃんの足は半歩遅い。
それでも。
「タッチ、奥!」
「はい!」
千尋ちゃんが下がる。
拾う。
「ナイス!」
「伊織!」
「はい!」
伊織がボールの下へ入る。
もう凜が助走を始めている。
梓はその光景を見ながら、腕を組んだ。
身体が追いつけば。
この子は、恐ろしいミドルになる。
相手のセッターを見て、アタッカーを見て、コースを読んで、その長い腕を正しい場所へ出せるようになったら。
きっと厄介だ。
でも。
梓はコートの後ろを走り回る千尋ちゃんを見る。
真帆ちゃんの身体が追いつくようになるのは、まだずっと先だ。
だから普通なら、それまでは待つしかない。
練習して。
足を作って。
何百本、何千本とブロックを跳んで。
ようやく、見えている場所へ身体が届くようになる。
けれど、この子たちは違うらしい。
真帆ちゃんが見つける。
声にする。
千尋ちゃんが走る。
美緒ちゃんがその先を埋める。
伊織が形を整える。
最後は凜ちゃんや瑞穂が打つ。
1人の身体が追いつかないなら。
6人で追いつけばいい。
「……面白いですね」
梓が言った。
「うん」
楓先輩が笑う。
「今年の1年、かなり面白いかもね」
コートの中で、真帆ちゃんがまた声を上げた。
「レフト!」
千尋ちゃんが動き出す。
まだ、トスが上がるよりも前に。




