第10話「身代わり」
赤い光が大きく脈打った瞬間、第七灯台の岩盤そのものが下から突き上げられたように揺れた。外壁だけではない。足元を走る古い術式まで暗闇の中から浮かび上がり、蜘蛛の巣のような赤い線が岩盤の裂け目へ広がっていく。ティナの符糸が強く張り、リセアは咄嗟に壁際の手摺を掴んだ。
「全員、塔から距離取れ! ノア、落とせ!」
蒼重域が僅かに弱まり、その分だけ男の肩が浮いた。ノアの表情が歪む。それでも押し返そうとはせず、外へ滲みかけていた蒼い光を男の周囲へ収める。
「カシル、赤が塔へ戻るなら一回だけ切れ。長く繋ぐな」
「一回だけな」
「ティナ、お前が見ろ」
「見てる」
カシルの右手が僅かに持ち上がり、その横ではティナが自分の符糸だけでなく彼の指先まで視界に入れていた。ルゼンの金色の炎もまだ完全には落ちていない。本人は腕を下げているのに、背後の炎は呼吸より遅れて膨らみと縮みを繰り返している。
「ルゼン、もう追うな」
アイゼルの指示に返事はなかった。ルゼンは男から視線を外さないまま、握り込んでいた指をゆっくり開く。数秒遅れて金色の外縁が僅かに縮んだものの、その間にも男の胸元では赤が短い間隔で明滅を続けていた。
「……返せ」
掠れていた声が、今度ははっきりと耳へ届いた。男は胸元を押さえたまま顔を上げ、何かを吐き出そうとするように唇を震わせる。
「返せ……俺の……」
その身体が大きく震えた。
赤が弾けた。
ガレンの錨鎖が一斉に張り、男の両腕と足元を留めていた固定点の一つが岩盤ごと抉れた。跳ねた金属片がリセアの頬の横を掠めて後ろの壁へ激しくぶつかり、砕けた岩片が足元へ散る。
「ガレンさん!」
「下がってろ!」
ガレンは宙へ跳ねた錨鎖の一本を切り離し、その勢いのまま別の支点へ打ち直した。だが、新しく鎖が触れた岩盤にもすぐ赤い線が這い始める。
「くそ、足場まで回ってる」
「赤が固定点を拾ってる! 塔だけじゃない。岩盤側の古い線にも繋がってる!」
測定具へ視線を走らせたカシルの報告を聞くや否や、ガレンが短く指示を飛ばす。
「切れ!」
青白い雷導線が赤い術式の途中へ差し込み、一箇所を焼き切った。カシルは今度こそすぐに手を下ろし、指先へ残った火花も長引かせない。横から手元を見ていたティナが何も言わないことを確かめるように一度だけ拳を開き、すぐに測定具へ意識を戻した。
男が再び身体を起こそうとする。
ノアの蒼重域が深く沈んだ。
「ノア、それ以上は上げるな!」
声に応じて蒼い光が一瞬揺れる。それでも範囲は男の周囲から外れず、ノアは歯を食いしばったまま、その場に留めた。
リセアも壁際から赤の動きを追う。胸元で細かく脈打つ赤が先に塔へ走り、そのあとで男の身体が重さへ逆らって動く。重なる時もあるが、やはり完全には一致していない。皆で確かめたずれが、今はさらに大きくなっているように見えた。
やがて男が胸元を掴んだ拍子に衣服が裂れ、その下から赤い光の中心が一瞬だけ覗いた。傷なのか、何かが埋まっているのか、それすらリセアには分からない。ただ、身体の奥から滲んでいる光というより、その中心に硬い何かが存在しているように見えた。
「……俺の」
指が裂けた衣服の内側へ食い込む。
「俺の心臓を……返せ!」
心臓。
その言葉だけが、リセアの耳に強く残った。返してほしいのは何かではない。男は今、自分の心臓を返せと言った。
「……心臓?」
ガレンの視線が一瞬だけ男の胸元へ落ちる。裂けた衣服の奥では、硬い輪郭を持った赤い光が脈打っていた。
「ガレンさん、あれ――」
「後だ!」
問いを続ける暇はなかった。
けれど、ルゼンも動きを止めていた。
ほんの一瞬だった。背後の金色が揺れ、男へ向けられていた金色の瞳が胸元の赤へ落ちる。
「……心臓」
確かめるように低く繰り返した声へ、アイゼルが横目を向けた。
「ルゼン。今はそっちに引かれるな」
返事はない。それでもルゼンは赤から目を離すまでに、ほんの僅かな間を置いた。
「……またかよ」
小さく落ちた言葉の意味を、リセアには考える余裕がなかった。
胸元の赤が一気に膨れ上がり、それまで男の周囲へまとわりついていた光が外へ弾けた。塔へ、岩盤へ、まだ残っている術式という術式へ赤が一斉に走る。
「全員伏せろ!」
ガレンの声とほぼ同時に赤い線が塔を駆け上がり、灯室の窓が内側から吹き飛んだ。砕けた硝子が雲海へ散り、こちらへ飛んだ破片だけをティナの符糸が幾重にも受け流す。けれど、足場そのものを揺らす衝撃までは止められない。
「もう足場が持たない! ガレン、固定が取れない!」
「分かってる!」
錨鎖を打ち込もうとした先を赤が走り、ガレンが舌打ちして手を止める。塔だけではなく岩盤まで侵され、男を囲むもののほとんどが赤い反応に触れ始めていた。
「出力を落としたまま待て」
アイゼルがルゼンの横へ一歩寄る。
「待ってたら崩れる」
「お前が広げても崩れる」
「じゃあどうする」
「ガレンが道を作る」
「作れる場所がねえんだよ!」
錨鎖を引きながら返したガレンの声を掻き消すように、赤い線が再び岩盤を走った。男を拘束していた固定点の一つが弾け、その瞬間、失われた拘束を埋めようとノアの蒼重域が強くなる。
蒼い光が男の足元から外へ滲んだ。
「ノア!」
ガレンに呼ばれても、今度はすぐには戻らない。リセアの身体へ掛かった重さが肩まで押し下げ、息が詰まりそうになった。
「ここで落としたら出る!」
ノアが初めて、押し殺していたものを吐き出すように声を荒らげた。
「じゃあどう止める!」
「だからお前一人で止めるな! 落とせ!」
短い命令が響く。
ノアの顔が歪んだ。それでも数秒かけて蒼重域は男の周囲へ縮まり、ようやくリセアの身体から重さが抜けていく。
「……くそ」
「それでいい。今は持たせろ。勝とうとするな」
初めて聞く低い悪態にも、ガレンはそれ以上触れなかった。出力が戻ったことだけを確かめ、すぐに男へ意識を戻している。
リセアの胸は速く打っていた。ガレンの錨鎖は支点を失い始め、ノアはこれ以上出力を上げれば範囲を保てなくなる。カシルの右手にはまだ痺れが残り、ティナは足場と退路の両方を維持している。ルゼンの炎も下げようとするほど戻りが遅くなっているのに、男の胸元にある赤だけは弱まるどころか少しずつ明るさを増していた。
誰か一人が、もう少し頑張れば済む状況ではなかった。
「ガレンさん」
呼びかけたものの、何を伝えればいいのか自分でもまだまとまっていなかった。
「なんだ」
「赤が……さっきより塔側へ広がってます。でも、本人の動きとはやっぱりずれてます」
「見えてる」
ガレンは男と、その周囲を走る赤い線を見比べる。
「身体ごと押さえてるから、赤の逃げ先まで一緒に潰してるのかもしれねえ」
その言葉に、リセアは男の周囲へ広がる金色へ目を向けた。ルゼンの炎なら赤を押し返せる。けれど、それを今以上に広げれば塔も足場も巻き込む。押す力が足りないのではなく、押した先に安全な場所がない。
「ルゼンの炎を……もっと外側へ向けられませんか」
「今以上に広げたらこっちまで焼く」
「じゃあ……炎の方に、別の抜け道があれば」
自分で口にしながら、リセアは周囲を見渡した。塔はすでに赤く、岩盤にも古い術式を伝う光が走っている。管理棟側へ続く足場はティナの符糸が辛うじて守っているが、そこへ流せば退路を自分たちで潰すことになる。炎を男の外側へ回しながら、塔にも岩盤にも触れさせずに抜く場所が必要だった。
視線を巡らせた先に残っていたのは、灰色の空だけだった。
「上……。上へ抜ければ、塔には繋がらない」
リセアにつられるように、ガレンも一度だけ空を見上げる。
「その流路を取る支点がねえ」
否定されたわけではない。ただ、方法がない。
その言葉を聞いた瞬間、リセアの視線が腰の封具袋へ落ちた。中には任務用の封鎖札と楔、それから緊急時に強い魔力流へ一時的な支点を作るための星封杭が一本入っている。訓練で扱ったことはあるが、本来打ち込む先は対象か、魔力が通っている構造物だ。少なくとも、自分の身体へ使うものではない。
「リセア」
低い声に顔を上げると、ガレンがこちらを見ていた。
「考えるな」
心臓が跳ねた。まだ何もしていないのに、視線の先だけで見抜かれたらしい。
「でも」
「駄目だ」
「まだ何も――」
「その顔で封具袋見る奴が考えることなんざ大体同じだ。やめろ」
リセアは一度、袋から手を離した。
直後に男の胸元が大きく光り、錨鎖が一本切れた。ガレンの身体が前へ引かれ、残る鎖を両腕で引きながら男の肩が持ち上がるのを辛うじて止める。
ノアの蒼重域も即座に深くなるが、今度はガレンに言われるより先に外側へ漏れかけた光を自分で戻した。腕の震えは止まらない。それでも、もう「まだいける」とは言わなかった。
代わりに、男の身体が少しずつ持ち上がる。
それに反応するようにルゼンの金色の炎が膨らんだ。
「ルゼン、まだ出すな!」
アイゼルが制止する。だが、男の胸から走った赤が炎の外縁へ触れた瞬間、金色はさらに大きく広がり、ルゼンの顔が歪んだ。腕はすでに下がっている。それでも炎は止まらない。
「対象から目を切れ。呼吸を戻せ」
アイゼルの声に、ルゼンは返事をしなかった。荒くなり始めた呼吸を押さえようとするように一度深く息を吐くが、炎は縮むどころか灯台側へ押し広がっていく。
その向こうで、男が顔を上げた。
「……返せ!」
先ほどよりも掠れた声だった。それでもルゼンの目がもう一度、男の胸へ向く。
赤が金色の炎へ絡みつくように伸び、光が弾けた。
熱風が岩盤を走り、リセアは片腕で顔を庇った。足元に残っていた水が一瞬で白い蒸気へ変わり、周囲の輪郭が霞む。
「切れ、ルゼン!」
アイゼルの声が鋭くなる。
「切ったらこいつが――」
「お前まで持っていかれるぞ!」
一喝に、ルゼンが言葉を失った。
それでも赤は金色へ触れ続けている。
リセアには魔力そのものを遠くから感じ取ることはできない。けれど、このまま炎が広がれば第七灯台も足場も、そこにいる全員も無事では済まないことくらいは見れば分かった。ルゼンの炎なら赤を押せる。それなのに、炎を通す場所がないせいで使い切れない。
上へ抜く道さえあれば。
塔にも岩盤にも繋がっていないところへ、一時的にでも流路を作れれば。
そう思った時には、リセアの手はもう一度封具袋へ伸びていた。
「リセア!」
ガレンの声が届く。それでも指は星封杭へ触れ、冷たい金属を掴んだ。
「やめろ!」
今度は別の方向から声が飛んだ。
ルゼンがこちらを見ている。金色の瞳が大きく開かれ、炎を抑えていたはずの意識まで一瞬こちらへ引かれたように見えた。
「それを打つな」
今までとは違う声だった。命令されて苛立った時とも、星牢でリセアを追い返そうとした時とも違う。怒っているように聞こえるのに、その奥に何があるのかまでは分からない。
「リセア、それ置いて!」
ティナの符糸がこちらへ伸びる。けれど、その瞬間に男が再び動き、足場を支えていた糸が大きく張った。ティナはすぐにそちらへ力を戻さざるを得ず、伸びかけた一本も途中で止まる。
「上へ抜ければ、まだ押せるんですよね」
自分の声が震えた。
ガレンの表情が変わる。
「リセア、それは支点じゃない。身代わりだ!」
錨鎖を引いたまま、一歩こちらへ踏み出そうとする。その言葉で、頭の中だけにあった選択が急に現実の形を持った。
怖い。どれだけ痛いのかも、そのあと身体に何が残るのかも、本当には知らない。ただ、塔にも岩盤にも繋がっていない流路が必要だった。赤に侵されていない場所から、ルゼンの炎を上へ抜かなければならない。
リセアは星封杭の先端を左腕へ押し当てた。
「やめろ!」
ルゼンの声がもう一度重なる。
それでも手を止められなかった。
杭を押し込んだ瞬間、鈍い抵抗のあとに皮膚が破れ、遅れて鋭い痛みが左腕を貫いた。金属の根元から鮮やかな血が滲み出し、腕の内側を細く伝って手首へ落ちていく。
「――っ、あ……!」
痛みに息を詰める間もなく、その奥から別の熱が膨れ上がった。何かが皮膚の内側を一気に走り抜け、肩から首筋まで焼けるような感覚が駆け上がる。視界の端が白く弾け、杭の周囲から溢れる血が指先へ向かって流れているのに、左腕の感覚は逆に急速に遠くなっていった。
星牢で初めてルゼンの魔力へ触れた時とは比べものにならない。あの時は、まだ熱いものへ触れていると分かった。今は痛みと熱と痺れが重なり、どこからどこまでが自分の腕なのかさえ曖昧になっていく。
「リセア、抜くな! 今抜いたら流れが跳ねる!」
ガレンの声が遠く聞こえた。さっきまで打つなと言っていたのに、もう止めるための言葉ではない。始めてしまった以上、途中で止める方が危険なのだと、その切り替わりだけは理解できた。
「ルゼン!」
今度はアイゼルの声が響く。
「こいつへ流すな! 上だ! 抜ける先だけ見ろ!」
「ふざけるな! 誰がそんなこと――」
「もう打った! 今止めた方が死ぬ!」
アイゼルの一喝に、ルゼンの言葉が止まった。
リセアはどうにか顔を上げる。視界は定まらず、頬には冷たい汗が伝っている。それでも白い雲と、その上に広がる灰色の空だけは見えた。
「上……。上に……」
掠れた声と同時に、血で濡れた星封杭に刻まれた細い封鎖線が光った。
何かを操っている感覚はなかった。魔法を使えたわけでもない。ただ、左腕を貫く熱が今までとは違う方向へ引かれ、そのまま身体の外へ抜けようとしている。その感覚だけが、そこに一時的な道ができたことをリセアへ知らせていた。
直後、男と塔の間へ広がっていた金色の炎の一部が折れた。
炎はリセアの左腕へ引かれるように流れを変え、星封杭を通ったあと、その先から空へ向かって噴き上がる。
身体の中を炎が通った。
「――ぁっ!」
声にならない息が漏れた。左腕から肩、胸の奥まで熱が突き抜け、指先の感覚がほとんど消える。杭の周囲からはまだ血が流れ続け、熱に濡れた皮膚を伝って赤い筋を作っていた。膝が崩れそうになったところでティナの符糸が腰へ巻きつき、倒れかけた身体を横から支える。
「リセア、立たなくていい! 倒れるならこっちに倒れて!」
返事をする余裕はなかった。
「ガレン、今だ!」
アイゼルの声を受け、錨鎖が男の身体ではなく、その周囲へ走った。ガレンは残っていた支点を一気に組み替え、赤が塔へ戻ろうとする経路の外側を固定する。
「ノア、身体だけだ! 赤を追うな!」
蒼重域が男の身体だけを沈める。腕の震えはさらに強くなっていたが、ノアは今度こそ何も返さず、決められた範囲だけを守った。
「カシル、一回だけ!」
「待ってました!」
雷導線が走り、赤が塔へ戻ろうとした一本の経路だけを切る。カシルはすぐに手を引き、ティナもその動きを確認しながら符糸を開いた隙間へ滑り込ませた。
「切った!」
「そのまま!」
赤の逃げ道が一つずつ塞がれていく。
「返せ……俺の……!」
男の胸元に残った赤だけが激しく脈打つ。
「ルゼン! 身体じゃない! 周りの赤だけ押せ!」
ガレンが叫んでも、すぐに返事はなかった。
ルゼンはリセアを見ていた。
「ルゼン!」
「……分かってる」
低く絞り出した声とともに、金色の瞳が男へ戻る。
炎が動いた。細くはない。精密でもない。それでも今までより明らかに狙いを絞り、男の身体そのものではなく、周囲へ残った赤を外側から押し込んでいく。
赤が塔へ戻ろうとすればガレンの錨鎖が止め、岩盤へ逃げようとすればカシルが切った経路とティナの符糸が塞ぐ。男自身が立とうとするたびにノアの蒼重域が身体だけを沈めた。行き場を失った赤へ金色が重なり、その一部が再びリセアの腕へ流れ込む。
身体が大きく跳ねた。
「っ……!」
「リセア、もう少し! 聞こえる?」
ティナの声は近い。聞こえているのに、返事ができない。左腕から流れた血が指先まで達して一滴ずつ足元へ落ちているのは見えるのに、自分の腕そのものがどこにあるのか分からなかった。痛みも、熱も、痺れも、もう別々には感じ取れない。
「アイゼル、ルゼンの出力は!」
「上がってる!」
「落とせるか!」
「今落としたら押し返される!」
ガレンがそれ以上問い返す前に、アイゼルはルゼンの肩の上下と炎の広がりを見比べた。
「長くは持たない。決めろ!」
ルゼンの肩が大きく上下している。炎を抑えているはずなのに、空へ噴き上がる金色はさらに高くなっていた。
「……だから、やめろって言っただろ……!」
掠れた声が聞こえる。
誰に向けた言葉なのか、考えるまでもなかった。
リセアが顔を上げると、視界の向こうで金色の瞳がこちらを睨んでいた。怒っている。それなのに、その顔は星牢で見たどの表情とも違っている。
その時、男の胸元の赤が再び激しく脈打った。
「俺の心臓を返せ!」
叫びと同時に、赤い光が最後に大きく膨れ上がる。
「来るぞ!」
赤が外へ弾けた。
けれど今度は塔へ走らなかった。錨鎖と符糸に塞がれ、雷導線で経路を切られ、蒼重域に身体を押し留められた赤は行き場を失い、そのまま金色の炎へぶつかる。
次の瞬間、とてつもない熱がリセアの左腕へ流れ込んだ。視界が真っ白になり、血で濡れた星封杭が腕の中で軋む。
「リセア、持たせようとするな! 流せ! お前が受けるな、上へ抜け!」
遠くからガレンの声が届く。
受けるなと言われても、その意味を身体が理解できない。何が自分の中にあって、何が外へ出ているのかも分からなくなっていた。
それでもリセアは空だけを見た。
灰色の空。ルゼンが星牢を出た時、一度だけ見上げた空。
そこには塔も壁もない。
左腕から流れた血で滑りそうになる星封杭を、右手で強く押さえる。止めるのではない。抱えるのでもない。ただ、自分の中へ留めずに通す。
金色の炎が真上へ伸びた。
白い雲を突き抜けるように巨大な光が空へ昇り、その中で赤が砕けていく。男の身体が大きく仰け反り、胸元の光が一瞬だけ露出した。炎の向こうに浮かんだのは、皮膚の下から光っているだけとは思えない、硬い赤色の輪郭だった。
次の瞬間、塔と岩盤を走っていた赤が途切れた。
蒼重域が消え、錨鎖が緩み、力を失った男の身体が前へ崩れる。ガレンが残った鎖で落下を止め、ティナの符糸が足場へ引き戻す。先ほどまで第七灯台を侵していた赤い線は、遅れて一つずつ暗闇へ沈んでいった。
けれど、男の胸にある赤だけは消えなかった。
先ほどまでの激しさはない。それでも裂けた衣服の奥で、弱い光が一度、長い間を置いてもう一度と脈打っている。
「……止まった?」
カシルの声に、ガレンはすぐには答えなかった。男の胸元と塔の双方を確認してから、錨鎖を緩めずに息を吐く。
「暴走はな。まだ触るな」
男は動かない。それでも完全に止まってはいなかった。胸がほんの僅かに上下している。呼吸と呼ぶにはあまりに浅く、間隔も長かったが、まだ生きている。
「ノア、解除。カシルもそのまま。ティナ、対象とリセア両方見ろ」
「分かった」
ティナは男の状態を一度確認し、僅かに表情を強張らせた。それでも何も言わず、すぐにリセアの身体を支え直す。
「リセア、聞こえる?」
「……はい」
「左手、動かせる?」
「……分かりません」
自分で答えてから、その言葉の意味が遅れて怖くなった。
リセアは左腕へ視線を落とした。星封杭はまだ刺さったままで、根元から滲み続ける血が手首まで腕を濡らしている。その血の下では、杭の周囲から細い金色の痕が枝分かれするように皮膚へ残っていた。
「触らないで。絶対、自分で抜かないで」
ティナの声が低くなる。リセアは頷こうとしたものの、身体にはもうほとんど力が入らなかった。それでも視界の端には、男のそばを離れずにいるガレンの姿が映っている。倒れた身体は動かず、裂けた胸元では赤い光だけが弱く脈打っていた。途切れそうなほど浅い呼吸も、まだ完全には止まっていない。
――心臓を返せ。
あの叫びが、もう一度リセアの中に蘇る。どうして自分の心臓を返せと言ったのか。胸に残っている赤は何なのか。誰に、何をされたのか。何一つ分からないまま、それでも息があるのなら、まだ聞けるかもしれない。
そして何より、この人が誰なのかを。
その時、正面から足音が近づいてきた。リセアが重い頭を持ち上げると、ルゼンがこちらへ歩いてくるのが見えた。炎はもう消えている。それでも金色の瞳にはまだ鋭さが残っていて、すぐ後ろにはアイゼルがついている。
ルゼンはリセアの前まで来ると、まず左腕に刺さったままの星封杭を見た。そこから血に濡れた腕を辿り、皮膚へ残った黄金の痕へ視線を止める。
何も言わない。
リセアも、何を言えばいいのか分からなかった。助かったと言うのも違う気がしたし、背後ではまだ名も知らない男が辛うじて息をしている。
長い沈黙のあと、ルゼンがようやく口を開いた。
「……何してる」
怒鳴るでもなく、ひどく低い声だった。




