第11話「名前」
「……何してる」
怒鳴るでもなく、ひどく低い声だった。
リセアは何か答えようとして口を開いたが、息を吸っただけで胸の奥まで熱が走り、結局まともな言葉にはならなかった。左腕にはまだ星封杭が刺さったままで、根元を濡らす血は封鎖札の下へじわじわと広がっている。指先にはほとんど感覚がなく、腕そのものが自分の身体から少し離れたところにあるようだった。
「今それやらないで。リセア、喋らなくていいから」
ティナが間へ入るように言い、腰へ回していた符糸を短く引いて身体を支え直した。もう片方の手では星封杭の周囲へ封鎖札を重ね、流路が完全に落ち着いているかを慎重に確かめている。
「杭は救護が来るまで抜けない。あんたも近づきすぎないで。まだ残ってるかもしれないから」
「……俺の魔力だろ」
「だから近づかないでっつってんの。まだ腕に残ってる可能性がある」
ティナの返答に、ルゼンは黙った。金色の瞳は血に濡れた左腕からなかなか離れず、握り込んでいた手だけがゆっくり下がっていく。
「ルゼン」
後ろからアイゼルが呼んだ。
「下がれ。お前も出力が戻り切ってない」
「平気だ」
「平気かどうかは俺が見る。」
短い応酬のあと、ルゼンは一歩だけ後ろへ下がった。不満げに眉を寄せたまま、それでも今度は逆らわない。
リセアが浅く息を吐いたところで、背後からガレンの声がした。
「ティナ」
呼び方だけで、ティナの顔つきが変わる。
ガレンは男のそばに膝をついたまま、こちらを振り返っていた。
「意識が戻る」
リセアは反射的に身体を起こしかけ、左腕を貫いた痛みに顔を歪めた。すぐにティナが肩を押さえる。
「急に動かない」
「……でも」
「見るだけ。絶対こっちから触らないで」
符糸に支えられたまま身体の向きを変えると、岩盤に横たわる男の姿が見えた。
先ほどまで全身へ広がっていた赤い光はほとんど消えている。裂けた衣服の奥、胸元にある硬い赤だけが、長い間隔を置いて弱く明滅していた。ガレンの錨鎖も完全には外されず、両腕の外側と足元へ緩く残されている。
「聞こえるか」
ガレンが低く問いかける。
すぐには返事がなかった。やがて男の喉が僅かに動き、息を探すような掠れた音が漏れる。ゆっくり持ち上がった瞼の奥で視線が揺れ、何度か瞬いたあと、ようやくガレンの方へ向いた。
「ここは第七灯台だ。暴走は止めた。動くな」
必要なことだけを伝え、ガレンは男の胸元へは触れなかった。
赤い光が弱く一度脈打つ。
男の唇が僅かに開いた。
「……返せ」
リセアの胸の奥が重くなる。
あれほど激しく繰り返していた言葉は、もう叫びにはならなかった。掠れた声が一度落ちただけで、男はそれ以上続ける力を失ったように目を閉じる。
「何をされた。分かるか」
ガレンが問う。
男の瞼が僅かに動いたものの、返事にはならなかった。胸元の赤へ手を伸ばそうとした指先がほんの少し持ち上がり、そのまま力を失って岩盤へ落ちる。
ガレンは数秒待ったあと、それ以上問いを重ねなかった。
「……無理だな」
誰に聞かせるでもなく呟き、男の呼吸を見守る。リセアも何も言えなかった。心臓を返せという言葉の意味を知りたかった。胸の赤が何なのか、誰に何をされたのかも聞きたかった。それでも目の前の男には、もう一つの問いへ答えるだけの力さえ残っていないように見える。
だったら、せめて。
そこまで考えた時、ガレンがもう一度男へ顔を近づけた。
「名前は分かるか」
リセアは息を止めた。
第七灯台で最初に男を取り押さえた時から、ガレンは何度も名前を聞いていた。あの時は答えがなかった。返ってきたのは「返せ」という言葉だけで、自分たちはずっと彼を男や対象としか呼べなかった。
男の目がゆっくり開くが、すぐには何も言わない。ガレンも急かさず、壊れた灯室の窓から響く低い風の音だけがしばらく二人の間を流れた。
ティナに身体を支えられながらその様子を見ていたリセアは、胸の奥に残っていた問いの中で、一つだけ他とは違う重さを持つものがあることに気づいた。何をされたのか分からなくても、この人が誰なのかまで分からないままにしたくなかった。
息を吸うと、胸の奥にまだ熱が引っかかった。リセアは一度浅く息を吐いてから、どうにか声を出す。
「……名前を、教えてください」
それだけで息が続かなくなり、口を閉じた。
男の視線がゆっくり動く。焦点が合っているのかは分からない。それでも一度だけリセアの方で止まり、掠れた息が漏れた。
長い間を置いて、唇が動く。
「……ラウム」
それだけは、はっきり聞こえた。
「……ラウム」
リセアも同じ名前を小さく繰り返した。続けて何か言おうとしたものの、息を吸ったところで胸が痛み、それ以上は声にならなかった。
男の瞼が僅かに下がる。肯定だったのか、ただ力が抜けただけなのかは分からない。それでも、その名前を否定する声はなかった。
リセアはもう一度、ラウムという名前を胸の内でなぞった。最初からあった名前を、自分たちがようやく知ったのだ。堕星体として封鎖対象になったことも変わらない。ただ、その呼び方だけではもう足りなかった。
ラウムの視線が僅かにこちらへ戻る。
リセアは痛みを堪えながら、ごく小さく頷いた。
「……聞きました」
今は、それ以上言えなかった。けれど名前を尋ねておきながら、そのまま失くしてしまうことだけはしたくなかった。
ラウムの唇がもう一度動いたものの、音にはならなかった。それでも、その口元がほんの少しだけ緩んだように見えた。
次の瞬間、胸元の赤い光が弱く脈打ち、ラウムの身体が小さく震えた。
「ラウム?」
ガレンが声をかけるが、返事はない。胸の上下がさらに浅くなり、一度息を吐いてから、次の呼吸までの間が長く伸びていく。
リセアは無意識に身体を前へ動かしかけたが、ティナの腕に止められた。
「行かないで」
「……でも」
「今のリセアが行っても何もできない」
厳しい言葉だったが、間違ってはいなかった。リセアはその場に留まり、ただラウムを見る。
名前以外のことは、まだ何一つ分からない。心臓のことも、赤い光のことも、第七灯台へ来た理由も分からない。それでも今は、もう問いを投げることさえ違うような気がした。
ラウムの胸がゆっくりと沈んだ。
次の呼吸は来なかった。
ガレンが首元へ手を伸ばし、そのまましばらく動かない。周囲の誰も声を出さず、やがてガレンが僅かに俯いた、その時だった。
ラウムの右手の指先に細い亀裂が走った。
「下がれ!」
ガレンの声と同時に錨鎖が強く張り、ティナもリセアを抱えるように後方へ引いた。ノアの蒼い光が反射的に開きかける。
「ノア、待て!」
ガレンの制止で蒼重域が止まった。
ラウムの身体に走った亀裂は光っていない。皮膚が少しずつ色を失い、乾いた灰のように崩れ始めていた。風に触れた指先から細かな粒がこぼれ、白い雲海の方へ運ばれていく。
崩れは腕から肩へ、足元から胴へと静かに広がった。皮膚と裂けた衣服との境目さえ次第に分からなくなり、先ほどまでそこにあった人の形そのものが、音もなく灰色の粒へ変わっていく。
「……こんな消え方、するのか?」
「少なくとも普通じゃねえ。触るな」
カシルの声からはいつもの軽さが消え、ガレンも目を離さないまま答えた。
リセアも、ただ見ていた。
少し前まで声を出し、自分の名前を答えた人の身体が、目の前で形を失っていく。呼び止めたところで何も変わらないことくらい分かっている。それでも頭の中では、さっき聞いたばかりの名前だけが消えずに残っていた。
灰色の粒が風へ散っていく中で、胸元の赤だけは残り続けた。身体の崩れがそこまで届いても硬い赤は形を失わず、最後に胸のあった場所が崩れると、小さな音を立てて岩盤の上へ落ちた。
拳よりひと回り小さな赤い石だった。表面はいくつもの不自然な面が重なったような形をしていて、先ほどまでの激しい明滅はなく、奥に僅かな赤だけを残している。ラウムの身体はもうどこにもなく、岩盤にはその石だけが残されていた。誰もすぐには近づかず、ガレンもその場から動かないまま様子を見ている。
少し離れた場所で立っていたルゼンが、一歩だけ前へ出た。
「ルゼン」
アイゼルに呼ばれ、その足が止まった。ルゼンは返事をせず、赤い石を見つめたまま顎の奥を噛み締めるように僅かに顔を強張らせている。その表情を見て、リセアは暴走の最中に聞いた声を思い出した。
――またかよ。
何を知っているのかは分からない。ただ、あの石を見つめるルゼンの反応が、単なる驚きだけではないことはリセアにも分かった。
「それ、どうする」
「封鎖して持ち帰る。調査はその後だ」
「……そうか」
ガレンは赤い石から目を離さず、ルゼンもそれ以上は何も言わなかった。けれど赤い石から視線を外すまでには、少し時間がかかった。
遠くから飛空艇の駆動音が聞こえてくる。第七灯台へ近づくにつれて音が大きくなり、やがて救護用の青い標識灯が雲の向こうから見えた。
「救護来た」
ティナが空を見上げて息を吐き、すぐにリセアへ視線を戻した。
「次はあんた。もう気抜かないでね」
「……はい」
短く答えた途端、それまでどうにか保っていた身体から一気に力が抜け、視界が揺れて膝が落ちた。
「リセア!」
ティナの腕と符糸が身体を支えた。近づいてきた救護班がすぐに駆け寄り、左腕の状態を確認しながら固定器具と新しい封鎖札を取り出していく。
「杭は抜かないで。そのまま固定してます」
「脈が落ちてる。先に艇へ運ぶぞ」
交わされる声を聞いているうちに、岩盤も空も少しずつ遠くなった。
身体を担架へ移されようとした、その時だった。
救護員の腰に下げられていた通信具から、短い雑音が走った。
誰も気に留めない程度の小さな音だったが、続いて聞こえた声だけが不自然なほどはっきりと耳へ届いた。
『――リセア・アルヴェイン』
閉じかけていた瞼が僅かに開いた。
知らない声だった。
「……誰……」
掠れた声が届いたのかは分からない。
近くにいた救護員が通信具へ手を伸ばす。
「今の、どこの回線だ?」
「こちらからは繋いでません」
「救護回線に割り込んでる。切れ」
雑音がもう一度だけ揺れた。
『聞こえるか』
今度は、それより先を聞き取ることができなかった。
通信が切れたのか、自分の意識が遠のいたのかも分からないまま、音が薄れていく。誰かがリセアの名前を呼び、左腕へ触れないよう身体を持ち上げる気配だけが残った。
最後にもう一度だけ岩盤の向こうへ目を向けたが、そこにいた男の姿はもうどこにもなく、赤い石だけが残っていた。
それでも、彼がラウムという名前だったことまで消えたわけではない。少なくとも、それだけはもう「不明」ではなかった。




