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星脈の契約者  作者: 靉庭かさね
第2章「赤い心臓」

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第9話「星牢の外」


 第七灯台の外壁から明かりが失われても、男の胸元だけは赤く脈打ち続けていた。


 ノアの蒼重域が足場を低く軋ませ、ガレンの錨鎖が男の動きを辛うじて留めている。塔との接続を切ったことで先ほどまでのような激しい明滅はいったん収まっていたが、男は片膝をついた姿勢から少しずつ身体を起こし、重さへ逆らうように肩を持ち上げていた。


「専用艇が来るまで持たせる。ノア、対象だけに絞れ。塔はもう支えなくていい」

「分かった」


 ノアが腕を僅かに動かすと、蒼い光の範囲が狭まった。男の足元に溜まっていた水がさらに薄く押し広げられ、鉄板が低い音を立てて沈む。


 その瞬間、リセアの両足にも急に重さが掛かった。


「……っ」


 膝が沈みかけ、咄嗟に壁へ手をつく。すぐに重さは消えたが、ガレンの視線は男ではなくノアへ向いていた。


「ノア、漏れてる」

「……分かってる」

「分かってるならちゃんとやれ。範囲を狭めろ。出力まで上げるな」

「まだいける」

「それを決めるのはお前だけじゃない」


 ノアは短く息を吐き、右手を握り直した。その指先は僅かに震えている。


 任命された日の訓練場で見たノアは、必要な指示へ短く応じ、余計な言葉を返すことのない男だった。今も言葉数そのものは変わらない。ただ、その短い返事に混じる硬さが以前とは明らかに違っていた。


 蒼重域は再び男の周囲だけへ収まり、リセアの身体へ重さが及ぶことはなくなる。


 ガレンがノアの担当代理官だということは知っていた。けれど、普段のノアからは見えなかったものが、今は少しずつ表へ出始めている。


「ティナ、退路は」

「一本残してる。管理棟側まではまだ通れる」

「そのまま維持。カシル、塔との流れは?」


 測定具から顔を上げたカシルが、顎で外壁を示す。


「こっちから繋いでた分は全部切った。でも、あれはまだ勝手に動いてる」


 青白い術式はほとんど消えている。それでも男の胸元で赤が強くなるたび、暗くなった外壁の一部へ細い光が浮かび、数拍遅れて消えていた。供給を止め、こちらからの接続も切ったあとで残っている以上、正常な反応ではない。


 リセアは壁際からその明滅を見つめた。灯室で補助封鎖札を通して触れた時、確かに二つの感触があった。細かく短い間隔で繰り返す圧と、その奥に重なっていた遅く重いもの。接触はもう切れているため、今のリセアにその感触を新しく確かめることはできない。ただ、記憶に残った間隔と目の前の赤い明滅を比べることならできた。


「……返せ」


 男が胸元を押さえた。


「何を返す。誰に取られた」


 ガレンの問いに反応はない。男は指を布へ食い込ませたまま、蒼重域の中でまた片足を前へ出そうとする。


 ノアがすぐに重さを増した。男の膝が再び鉄板へ落ちる。けれど、その直後に蒼い光が僅かに外側へ揺らいだ。


「ノア」

「分かってる」


 名前を呼ばれると、ノアは一度目を閉じた。呼吸を整えてから蒼重域の範囲を戻したものの、声には先ほどよりも明らかな苛立ちが滲んでいる。まだ崩れてはいない。それでも、いつまでも同じことを続けられる状態ではないのだとリセアにも分かった。


 ガレンはそれ以上責めず、範囲が戻ったことだけを確かめて錨鎖を引き直す。


 その時、白い雲海の向こうから低い機関音が届いた。


「来た」


 最初に顔を上げたティナを追って、リセアも空を見る。


 雲の層を割って現れたのは、ここまで自分たちが乗ってきた飛空艇より一回り小さな機体だった。細い船体は速度を落としながら岩盤へ近づき、発着場に残る別の飛空艇を避けるように旋回すると、第七灯台の外側へ機首を寄せる。


 アイゼルが通信で言っていた通り、専用艇は投入要請より前から第七灯台北方の待機航路まで来ていた。正式な要請が出るまでは灯台へ近づけず、必要になった瞬間に現場へ入れられる位置で待機させていたのだろう。


 艇は完全には着陸せず、岩盤へ固定具を掛けた。側面の扉から最初に姿を現したのはアイゼルだった。その後ろに管理局の職員が一人続き、最後に一人の少年が降りる。


 岩盤へ足を下ろした瞬間、少年は一度だけ顔を上げた。


 灰色の空へ向いた金色の瞳は、ほんの僅かな間だけそこに留まった。けれど次にはもう正面へ戻り、赤い光をまとった男と、崩れかけた灯台へ向けられている。雲海から吹き上げる風に淡い白金色の髪が揺れ、星牢の薄暗い観測室で何度も見た顔が、今は壁も格子も隔てずにそこに立っていた。


 リセアはすぐに、それがルゼンだと分かった。


 星牢で会った時には、いつも彼の後ろに石壁があった。高い天井と幾重もの封鎖があり、あの金色の炎がどれほど大きくなっても、その先には必ず何かがあった。けれど今、ルゼンの頭上には灰色の空がどこまでも広がっている。その光景が、リセアにはひどく奇妙に見えた。


「……あれがルゼンか」


 蒼重域を維持したまま、ノアが低く呟く。


 ティナとカシルも一瞬だけ視線を向けた。名前も、星牢に収容されている特異体だということも知っているのだろう。それでも実際に目の前へ現れた本人を見るのは初めてらしく、カシルの表情には僅かな緊張が浮かんでいた。


 ただ、立ち止まって見ている余裕はない。


 ルゼンはまず男を見て、崩れかけた灯台と第二実働班の配置を確認した。そのまま最後にリセアを見ると、金色の瞳が僅かに細くなる。


「なんでお前がいる」

「第七灯台の調査に随伴してて――」

「そういう意味じゃない」


 返された言葉にリセアは口を閉じた。ルゼンはそれ以上何も言わず、一度だけリセアの手元へ視線を落としてから、すぐに男へ戻した。


「再会は後にしろ」


 錨鎖を握ったままガレンが割って入り、ルゼンが初めて彼を見た。


「封鎖局のガレン・ロークだ。ここの現場指揮は俺が取る」

「聞いてる」


 そこへアイゼルが歩みを進め、ガレンの横へ並んだ。


「対象と灯台はお前が見ろ。ルゼンは俺が管理する」

「そのつもりだ」


 それだけで話は終わった。通信越しのやり取りを聞いていた時にも感じたが、二人の間には改めて役割を説明しなくても通じるものがあるらしい。


 ガレンの意識はすぐ男へ戻る。


「ルゼン、状況を伝える。対象は人型、堕星体の可能性あり。ただし身元も原因も確定してない。胸部に赤色の異常反応がある。第七灯台との連動も確認したが、仕組みは不明だ」

「生かして止めるんだな」

「ああ。殺すのは、他に手がなくなってからだ」


 錨鎖を握る手に力を込めたまま、ガレンは続ける。


「ノアの蒼重域でも完全には止まらない。赤い反応はこっちの術式や魔力経路へ入り込む。塔もかなり傷んでる。火力を広げるな」

「細かいことはできない」

「どこまでならできる」

「向きと、大体の範囲までだ」

「出したあとは」

「低ければ戻せる」

「高くなったら?」

「すぐには戻らない」


 ガレンの眉間に皺が寄った。


「先に言え」

「今言った」

「お前ら、その話はそこまでだ」


 アイゼルはルゼンへ視線を戻す。


「最初は低く入れろ。対象の右側、塔から外へ向ける。細かく狙おうとするな」


 返事はない。ルゼンは男へ視線を戻した。


「ガレン、通す場所を作れ。出力の管理は俺がやる」

「了解」


 アイゼルはルゼンの両手首へ手を伸ばした。星牢からここまで残されていた封鎖を一つずつ確かめ、最後に本人の顔を見る。


「解除する。自分で上げるな」


 ルゼンの眉が僅かに寄った。


「下げろと言ったら下げろ」

「すぐ戻るとは限らない」

「それでも戻せ」


 ルゼンは答えなかった。アイゼルもそれ以上返事を求めず、そのまま両手首の封鎖を解除した。


 その瞬間、リセアは周囲の空気が変わったように感じた。


 魔力そのものを遠くから感じ取ったわけではない。男の胸元へ触れた時のような圧が身体へ入ってきたわけでもなかった。ただ、ルゼンの周囲にあった冷たい風が急に乾き、濡れていた足場から薄い水蒸気が立ち始める。熱が肌へ届いたことで、何かが解放されたのだと分かった。


 次の瞬間、光が広がった。


 金色の炎。


 星牢で見たものと同じはずなのに、リセアにはまるで別のものに見えた。あの場所とは違い、ここには炎を閉じ込める壁も天井もない。


 ルゼンの背後から溢れた炎は白い雲を照らしながら大きく広がり、灯台の黒ずんだ外壁へ長い影を落とした。最初から低く抑えるよう命じられていたはずなのに、炎はルゼン自身の身体より遥かに大きい。雲海の表面まで一瞬だけ黄金に染まり、熱を含んだ風がリセアの頬を打った。


「ルゼン、抑えろ」


 アイゼルの声が飛ぶ。


 ルゼンは答えず、僅かに腕を下げた。それでも炎はすぐには小さくならない。


「まだ高い」


 眉間の皺がさらに深くなり、ルゼンの指先へ力が入る。数秒遅れて、ようやく炎が外側から縮み始めた。


「……抑えてるだろ」


 低く吐き捨てるような声だった。


 これで抑えている状態なのだと思うと、リセアは背筋に冷たいものが走るのを感じた。王国でも最大級の魔力出力だということは知識として知っていたが、星牢の中で見ていた時には、その言葉が意味する大きさを本当には理解していなかったのだと思う。


「……これで低いのか?」


 ノアの視線が黄金の光を追う。


「本人の中ではな」


 アイゼルはルゼンから目を離さない。


「見るな。お前は自分の方を保て」

「分かってる」


 ノアが男へ意識を戻した直後、蒼重域の端がまた揺れ、足場の別の場所に小さな凹みができた。


「ノア」


 ガレンの声が鋭くなる。


「分かってる」

「分かってるならちゃんとやれ。さっきから同じことを言わせるな」

「上げてない。勝手に広がった」

「それを漏れてるって言うんだ。もう一段落とせ」

「落としたらこいつが動く」

「その分はルゼンに持たせる。全部自分で抱えるな」

「まだ俺で押さえられる」


 返事が早かった。


 ガレンは一瞬だけノアの顔を見る。


「それだ。お前、余裕がなくなると全部自分で持とうとするだろ」

「……」

「だから今は落とせ。張り合う場面じゃねえ」


 ノアの顎に力が入り、表情がわかりやすく固くなったのが分かる。それでも数秒後には、蒼重域が僅かに弱まった。


「……分かった」


 ガレンはそれ以上何も言わず、今度はルゼンへ男の右側を示した。


「右側へ押す。細くする必要はない。男の身体には直接当てるな」


 ルゼンが示された先へ視線を移す。


「どこまでなら寄せられる」

「身体に当たらなきゃいい。後は俺たちが合わせる」

「大体なら」


 それだけ残し、片手を上げる。


 金色の炎が動いた。


 一本の細い線にはならない。ルゼンの右側から広がった炎の塊が大きな弧を描き、男の身体へ直接触れない幅を残しながら、その周囲へまとわりつく赤へ迫る。


「そこだ。それ以上寄せるな!」


 ルゼンの腕が止まった。


 赤と金が触れる。


 爆発は起きなかった。代わりに低い振動が足場を伝い、男の身体が大きく仰け反る。胸元の赤が激しく明滅し、周囲へ広がっていた光の一部が金色に押し退けられるように薄くなった。


「反応下がってる!」


 測定具を覗き込んでいたカシルが声を上げる。


「ノア、今だ」

「分かった」


 弱められていた蒼重域が男の周囲だけへ集中し、同時にガレンの錨鎖が腕を引く。ティナの符糸も固定へ加わり、先ほどまで押し返され続けていた男の身体が初めて明確に足場へ沈んだ。


 リセアの胸に僅かな安堵が浮かぶ。


 ルゼンの力なら止められるのかもしれない。


 そう思った直後、男が低く呻いた。


「……返せ」


 胸元の赤が強く光る。


「ルゼン、落とせ!」


 ルゼンの腕がすぐに下がった。


 けれど、金色の炎は消えない。


「まだ下がってねえぞ!」


 表情が歪む。


「下げてるだろ!」


 炎の端が一度大きく膨らみ、灯台の外壁へ熱が走った。


「ルゼン、こっちを見ろ」


 騒ぎの中でも、アイゼルの声だけは変わらない。


「対象から目を切れ。俺を見ろ」

「今切ったら押し返される」

「それでも見ろ」


 ルゼンは数秒その場を動かなかった。


「ルゼン」


 二度目に名前を呼ばれ、ようやく苛立ったようにアイゼルへ視線を向ける。


「呼吸を戻せ。出力を追うな。手を下げたままにしろ」


 何も返さないまま、ルゼンが強く息を吐く。数秒遅れて金色の炎がようやく縮み始めた。


 ガレンはその結果を待たず、すでに外壁へ走った赤を追っていた。


「カシル!」

「切る!」


 雷導線が術式へ伸びる。赤が走った経路の途中へ細い雷が差し込まれ、古い線を焼き切った。


 赤はそこで一度途切れた。


 だが、カシルの指先には青白い火花が残り、二本の指の間を細く走り続けている。


「カシル、切って」

「切ってる」

「残ってる。手、見て」


 ティナに促され、自分の右手へ目を落としたカシルの顔が僅かに強張った。


「……ああ、くそ」

「下げて。次は私が言うまで繋がないで」

「まだいけるって」

「私が見てるから言ってるの。切って」


 ティナの符糸が一本だけカシルの手首へ巻きつき、外へ残っていた雷の流れを遮るように締まる。青白い火花が二度ほど弾けたあと、ようやく消えた。


 カシルは息を吐き、拳を開いたり閉じたりする。


「感覚ある?」

「ある」

「痺れは?」

「少し」

「じゃあ一回休む。次は短く」

「はいはい、了解」


 リセアは、そのやり取りを見ていた。ノアの隣ではガレンが、カシルの隣ではティナが、それぞれ本人の出力だけでなく身体の変化まで見ている。そして今、ルゼンのそばにはアイゼルが立っていた。誰も魔導士の代わりに魔法を使っているわけではない。それでも出力が広がり始めた瞬間に止めるべきところを本人より先に見つけ、使い続けるのか下げるのかを一緒に判断している。


 魔導代理官が魔導士の隣にいる意味を、訓練で聞いた説明とは違う形で初めて理解した気がした。


「もう一度やる」


 ガレンは男の動きを見たまま、次の配置を決めていく。


「ノアは今の出力を越えるな。カシルは待機。ティナ、足場を優先しろ」

「了解」

「アイゼル、ルゼンはいけるか」


 問いを受けても、アイゼルが確認したのは本人だった。


「どうだ」

「……まだいける」

「どこまで戻った」

「さっきよりは下だ」

「自分の感覚だけで決めるな。もう一度広がったら止める」


 ルゼンは答えない。


 数秒その様子を見てから、アイゼルがガレンへ短く頷いた。


「一回だけだ」

「十分だ」


 ガレンは男と塔を見比べる。


「ルゼン、今度は外側へ押すだけでいい。削ろうとするな」

「それだけでいいのか」

「塔との間を空けたい。細かく狙えないなら、狙わなくていい」


 ルゼンの目が僅かに細くなる。


「……それなら」


 金色の炎が再び広がった。


 先ほどより明らかに小さい。それでも男の周囲を覆うには十分な大きさがあり、ガレンが作った錨鎖の間を通るように赤へ迫る。


 第二実働班だけで押さえていた時とは違い、ルゼンの力が一つ加わったことで男を制御できる時間は明らかに伸びていた。それでも簡単には終わらない。金色の炎に押された赤は消えるのではなく、別の場所へ逃げようとした。塔へ走ったかと思えば男の身体へ戻り、ノアの蒼重域を押し返すような力を生む。


「ノア、追うな!」

「また起きる」

「分かってる。範囲を守れ」

「俺が押さえれば――」

「ノア!」


 鋭く名前を呼ばれ、ノアの口が止まる。


「お前の仕事は全部止めることじゃない。今決めた範囲を守れ」

「……分かった」

「分かってるなら、やれ」


 ノアは奥歯を噛みながら蒼重域を維持した。今度は外へ漏れなかったが、腕の震えは先ほどより大きくなっている。


 一方、カシルは雷導線を出さず、ティナの横で塔を睨んでいた。赤が別の術式へ走るたび指先が僅かに動くが、そのたびにティナが視線だけで制する。


 リセアはその動きを追いながら、いつの間にか男の足元ではなく胸元ばかりを見ていた。


 見ているうちに、僅かな違和感を覚える。赤い光が塔へ走る時には、短い間隔で何度も脈打っていた。その周期は灯室で触れた細かな圧に近いように見える。けれど男が身体を起こそうとする時の動きは、それより明らかに遅かった。胸元を押さえて声を漏らし、それから重さへ逆らうように動く。赤の明滅と身体の動きが重なる時もあれば、僅かにずれる時もある。


 偶然かもしれない。そもそも灯室で触れた感触と、今見えている光の間隔を比べること自体が正しいのかも分からない。


 それでも、すべてが一つの周期で動いているようには見えなかった。


「ガレンさん」


 錨鎖を引いていたガレンが、一瞬だけこちらを見る。


「なんだ」

「確認したいことがあります」

「言え」

「男の胸から塔へ走る赤い反応と、本人が動くタイミングが少しずれています」


 視線が再び男へ戻った。


「どれくらいだ」

「一定じゃありません。でも、塔へ走る方が細かいです。灯室で触れた時も、短い間隔の圧と、それより遅い圧が重なっていました」


 ガレンは答えず、数秒だけ男を見た。


「同じものかどうかは分かりません。今は触れていないので、感触を確かめることもできません。ただ、少なくとも見えている動きは全部同じ間隔じゃないです」

「つまり、赤とこいつ自身の反応を一緒に押さえてる可能性がある?」

「……そこまでは断定できません」


 自分から言い出したことなのに、口の中が乾いた。


「分かるのは、ずれていることだけです」


 僅かな沈黙のあと、ガレンが短く頷く。


「それでいい。分からないものまで分かったことにするな。今見えたことだけ寄越せ」

「はい」


 胸の奥に入っていた力が僅かに抜けた。正解を求められたわけではない。今の自分に見えるものを、見える範囲で伝えればいい。


「ノア」


 呼ばれた本人の眉がわずかに寄った。


「次に対象が自分から動くまで、一段落とせ」

「また緩めるのか」

「一瞬だけだ。お前も休める」

「……分かった」


 今度は反論しなかった。


 ガレンは続いてルゼンとアイゼルへ視線を送る。


「赤が塔へ走っても追わない。本人が先に動くか、赤が先に動くかを見る」

「ルゼン、聞いたな」


 アイゼルに確認されても、ルゼンは返事をせず男を見ていた。その視線が一度だけリセアへ向く。


「こいつが気づいたのか」

「そうだ」

「新人だろ」

「だから確認する」


 ガレンは対象から目を逸らさない。


「新人だから間違ってるとも限らんし、当たってるとも限らん。確かめればいい」


 リセアは何も言えなかった。


 ノアが蒼重域を僅かに緩めると、男の身体へ掛かっていた重さが減り、沈んでいた肩が少し上がる。


 胸元の赤が一度光った。


 男は動かない。


 もう一度、細かく光が脈打つ。外壁の一部へ赤が走っても、身体はまだ膝をついたままだった。


「……違う」


 ノアが呟いた直後、男がゆっくり顔を上げた。塔から赤が戻ってくるより先に右手が動く。


「今!」


 蒼重域が一気に強まり、それと同時に錨鎖が男の腕を引いて身体を足場へ押さえ込んだ。


 ノアの蒼い光が一瞬だけ大きく広がる。


「ノア、戻せ!」

「戻してる!」

「分かってるならちゃんと戻せ!」


 ガレンも一歩も引かない。


 数秒後、蒼重域は男の周囲へ収まった。ノアは大きく息を吐き、額を流れた汗を拭おうともせずに対象を睨んでいる。


「次はないぞ」

「……分かった」


 その返事だけは、先ほどより小さかった。


 ガレンはそれ以上何も言わず、ルゼンへ向き直る。


「塔じゃない。こいつの周りへ押せ!」


 返事の代わりに、ルゼンの片手が動いた。


 金色の炎が男の周囲へ広がる。今度は無理に細く絞らず、まとわりついていた赤を外側から押し込むように迫った。炎が触れると赤が大きく揺らぎ、男の身体が震える。


「戻ってない!」


 カシルの視線が測定具を走る。


「今の反応、塔へ回ってない!」

「続けろ!」


 ガレンの錨鎖が強く張った。


「ルゼン、今のままだ。上げるな!」


 アイゼルの指示にも、返事はない。ルゼンは奥歯を噛むように顎へ力を入れ、炎を抑えようとしていた。


 それでも金色は僅かに膨らむ。


「上がってるぞ」


 ルゼンの指が強く握り込まれた。


「ルゼン、落とせ」

「……やってる」


 低い声だった。


「まだ上がってる」


 そこで初めて、金色の瞳がアイゼルを睨む。


「だから抑えてるだろ!」


 アイゼルの表情が僅かに変わった。


「ガレン、長くは持たせるな。出力の戻りが遅くなってる」

「分かった。あと少しだ!」


 白い雲海の上で金と赤がぶつかり合う。


 男の顔が初めて大きく歪んだ。


「……返せ」


 先ほどより明瞭な声だった。


 ルゼンの炎が僅かに揺れる。


「何をだ」


 男の目が動いた。


 焦点の合っていなかった視線が、初めて金色の炎を越えてルゼンへ向く。


「……返せ」


 胸元の赤が、それまでより深く脈打った。外壁に残っていた術式が一斉に赤く浮かび上がり、足元の岩盤を走る古い線まで暗闇の中から次々と染まっていく。


「ルゼン、下げろ!」


 ルゼンは何も返さず、腕を下げようとする。それでも金色の炎は縮まない。


「ルゼン!」

「やってるだろ!」


 初めて声を荒らげた瞬間、炎の外縁が大きく揺れた。


「ノアも落とせ! カシルは出すな! ティナ、退路優先!」


 ガレンの指示が重なる。


 蒼重域が弱まり、ティナの符糸が足場と退路へ集まる。カシルは雷導線を出さず、痺れの残る右手を左手で押さえた。


 その中心で、赤と金だけが強く光っている。


 リセアは二つの光を見つめた。完全に同じものではない可能性は、さっきより強くなった。それでも何が違うのか、なぜ重なっているのかまではまだ分からない。


 ただ、このまま続けばルゼンだけではない。ノアも、カシルも、今の封鎖そのものも長くは持たないことだけは、もうリセアにも分かった。


 男は胸を強く掴んだまま、ゆっくりと口を開いた。


「返せ……」


 赤い光が、もう一度大きく脈打った。

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