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星脈の契約者  作者: 靉庭かさね
第2章「赤い心臓」

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第7話「第七灯台」

 第七灯台へ近づくほど、窓の外を流れる白は深さを増していった。


 王都を離れたばかりの頃には、雲海は遠くまで平らに広がる白い大地のように見えていた。けれど北へ進むにつれて、その表面には緩やかな高低が生まれ、大きく盛り上がった雲の塊が飛空艇の窓を掠めては、船体の後ろへ音もなく沈んでいく。時折その切れ間から覗く下方は青灰色に暗く、どこまで落ちても底へ届かないような奥行きを持っていた。


 その白の中に、第七灯台は立っていた。


 細長い岩盤の上へ建てられた黒ずんだ石塔。その隣には管理棟と小さな発着場があり、それ以外には人が暮らせそうな土地もない。航路上から見れば一本の灯台にしか見えなかったが、近づくほど、その場所が雲海の中へ無理やり打ち込まれた杭のように孤立していることが分かった。


 頂部の灯は今は消えており、先ほど見た赤もどこにもない。何事もなかったように沈黙した塔を眺めながら、リセアは窓枠へ添えていた左手を離した。旧土区の古い導線へ触れた時の圧が残っているわけではなく、指先に熱も痺れもない。ここまで来る間に新しく何かを感じたこともなかったが、赤を見た瞬間に蘇った感触だけは、まだ身体の記憶として残っていた。


 一度押され、間を置いて、もう一度。こちらから触れたはずの導線の向こうから返ってきた、あの薄い圧だった。


「着陸する。装備確認」

 ガレンの声に、リセアは視線を窓から戻した。


 飛空艇が岩盤へ近づくにつれて船体の揺れが強まり、窓の外を流れる白が一度大きく跳ね上がる。接地と同時に船底から低い衝撃が伝わり、固定具の噛み合う金属音が続いた。


 扉が開いた途端、冷たい風が一気に入り込んできた。王都の外縁で感じた風よりさらに湿り気が強く、雲そのものを吸い込んだような冷たさだった。岩盤は雨に濡れたように黒く光り、空気には濡れた石と錆、それからごく薄い焦げの匂いが混じっている。


 リセアは外套の襟元を押さえながら飛空艇を降り、改めて塔を見上げた。


 近くで見る第七灯台は、旧土区の灯塔とは比べものにならないほど大きかった。何度も改修されたらしく、古い灰色の石材の上へ新しい補強材が重なり、外壁には灯や建物を支える術式の線が塔を縦横に走っている。けれど、そのいくつかは途中で色を失い、まるでそこだけ血の通わなくなった血管のように灰色の線を残していた。


「封鎖局第二実働班です!」


 発着場の向こうから男が駆けてきた。五十代ほどの痩せた男で、航路管理局の厚い防寒外套を着ている。風に煽られながらこちらまで来ると、胸元の徽章を見せた。


「第七灯台管理主任、ダリオ・エルバです」

「ガレン・ローク。第二実働班責任者です。管理員は?」

「私を含めて常駐三名。全員、管理棟へ退避しています。怪我はありません。ただ一人、退避後から吐き気と眩暈を訴えていて」

「魔力への曝露は?」

「医療班の到着待ちです。本人は灯室へ最後まで残っていました」

「分かりました。中へは戻さないでください。こちらで確認するまで、三人とも管理棟で待機をお願いします」


 ガレンの指示にダリオが強く頷く。リセアはその横で観測板を開き、風に煽られないよう片手で押さえながら記録の準備をした。


「最初から確認します。異常が始まったのはいつですか」

「三日前です。最初は一日に二、三度、灯が僅かに強くなる程度でした。古い設備なので、補正の範囲だと思っていました」

「昨日は?」

「間隔が短くなりました。夜には十数分おきに明滅して……今朝、規定値を大きく超えました」

「供給は?」

「すぐ落としました。それでも灯が消えなかった」

「完全に?」

「はい。通常の供給を止めて、残っていた魔力も外へ逃がしました。それでもしばらく点灯が続いたんです」


 通常の供給を止めても灯が消えなかった。その一点は、旧土区で起きたことと同じだった。


 リセアは記録を続けながら顔を上げた。


「その時、赤い光は見ましたか」

「赤?」

 ダリオが眉を寄せる。

「私は……分かりません。灯室では白い光が強すぎて、色までは」

「振動は?」

「ありました。塔の下からです。最初は風だと思ったんですが、今朝は何度も」

「灯が明滅するのと同じ間隔でしたか」


 ダリオは口を開きかけ、そこで止まった。


「……そこまでは見ていません」


 リセアは一度だけ頷き、観測板へそのまま書き込んだ。確認なし。見ていないことは、見ていないまま残せばいい。分からない部分を推測で埋めれば、あとで事実と区別できなくなる。


「他に変わったことは?」

「音がしました。塔の下の方です。何かが壁に当たるような……ただ、設備が振動していた可能性もあります」

「確認には?」

「行っていません。退避を優先しました」


 今度はダリオの返事が早かった。


「その判断で正解です。誰も確認しに戻さないでください。管理棟から出る場合も、こちらへ連絡をお願いします」


   *


 塔の内部へ入ると、外の風音が厚い石壁に遮られ、代わりにどこか低い場所から続く微かな唸りが耳に残った。


 古い油と金属、湿った石、それに焦げた術式の匂い。円筒状の塔内には上階へ続く螺旋階段が巻きつき、壁には何世代分もの設備が重なるように取りつけられている。新しい操作盤の裏側から古い導線が覗き、そのさらに奥には、今では使われていないらしい術式の跡が石へ直接刻まれていた。


「ティナ、退路」

「確保する」


 ティナが入口から階段へ符糸を伸ばし、途中の扉や分岐を一つずつ繋いでいく。崩落や術式異常が起きても、戻る方向を見失わないための線だった。


「カシル、供給と排出」

「もう見てる。今使ってる供給は完全に落ちてる。非常時に残してた分も、ほぼ空」


 操作盤を確認しながらカシルが眉を寄せる。


「この状態じゃ、さっき飛空艇から見た光量は出せない」

「外から入ってる可能性は?」

「少なくとも、普段使ってる経路からは入ってない」


 ノアは壁際へ手をかざし、蒼重域を薄く広げた。床と壁へ均等に重さが加わると、石の継ぎ目に溜まっていた水が僅かに一方向へ寄り、古い固定具の一つが低く軋んだ。ノアはその反応を追い、螺旋階段のさらに下へ目を向ける。


「下だな」

「何が?」

 ガレンが尋ねる。

「塔の下半分に物理的な圧が掛かってる。一定じゃないけど、上より強い」

「地下?」

「たぶん。ただ、魔力を見てるわけじゃない。建物に掛かってる力の偏りだけ」


 リセアも螺旋階段の中心へ目を向けた。塔の底はここからでは見えないが、足元から伝わる低い唸りだけが石の中をゆっくり上がってきている。


 旧土区では、子どもの頃に何度も歩いた石畳の下へ、古い魔力の道が隠れていた。今度はその異常の先にあるかもしれない場所へ、自分の足で入っている。知らないものへ近づいている感覚はあった。胸の奥は落ち着かず、冷たい空気を吸うたびに、いつの間にか呼吸も浅くなっている。怖いのだと思う。けれど、その怖さをどう扱えばいいのかまで、リセアにはまだよく分からなかった。ただ、ガレンたちが進む中で、自分だけここで足を止めたいとも思わなかった。


「まず灯室から確認する」


 ガレンの声で、全員が螺旋階段へ向かった。


   *


 灯室の操作盤は、一部が黒く焼けていた。


 カシルがその前へしゃがみ込み、焦げた線へ測定具を近づける。しばらく追ったあと、訝しげに眉を寄せた。


「中心じゃないな」

「何が?」

 ティナが隣から覗き込む。

「焼け始めた場所。普通、灯そのものが過出力なら中心側が一番傷む。でもこれは逆だ。外側から内へ焼けてる」

「外から押された?」

「形だけ見ればね」


 リセアも少し離れた位置から盤面を眺めた。灯を安定させるための術式が円を描くように幾重にも重なり、その外周部分だけが黒く焼けて、内側へ向かうにつれて損傷が薄くなっている。


 まるで、塔の外側から何かが術式を押し潰そうとしたように見えた。けれど、「そう見える」ということと、本当にそうだったということは違う。


「一本だけ生きてる」


 ノアの声に視線を向けると、焼けた線の隙間に淡い光を残した術式が一本だけ残っていた。弱い。それでも、完全には消えていない。


 リセアは少し迷ってからガレンを見た。


「補助封鎖札越しに触れてもいいですか」

「身体は?」

「問題ありません」

「時間は?」

「一呼吸」

「その前に離せ」


 リセアは補助封鎖札を取り出し、残っている術式線へそっと重ねた。


 指先を置くと、最初に伝わってきたのは素材そのものの冷たさだった。旧土区の導線と同じように、すぐには何も感じない。そのあと、ごく細い圧が一度押し寄せ、少し間を置いてもう一度返ってきた。旧土区で古い導線へ触れた時に感じたものと、よく似ている。


 けれど、その細かな反応を追いかけている途中で、さらに奥から、もっと遅く重い別の圧が重なった。短い圧が二度、三度と繰り返す間に一度だけ、もっと大きな力が術式全体を押してくる。指先だけではなく、札を通して触れている場所そのものが一瞬深く沈んだような感覚に、リセアの呼吸が止まりかけた。二つの反応は、明らかに同じものではなかった。


「離せ」


 ガレンの声に、リセアはすぐ手を引いた。指先を握り込んで確認しても熱や痺れはなく、魔力焼けの時のような違和感もない。


「何があった」

「二つあります」


 口にしながら、自分の中でも拾った感覚を整理していく。


「旧土区で触れた時に近い、細かく繰り返す圧。それとは別に、もっと間隔が長くて、重いものが重なってます」

「二つの発生源?」

 ティナが尋ねた。

「分かりません」


 リセアはすぐに首を振った。


「今触れていた術式へ、違う間隔の圧が二種類掛かっていることしか分からないです。別々の場所から来ているのか、一つのものが違う反応を出しているのかも判断できません」

「それでいい。記録」


 ガレンに促され、リセアは観測板を開いた。


 短い間隔で繰り返す反応は、旧土区第三街路で古い導線へ触れた時のものと近い。そこへ、それよりも間隔が長く、強い圧が重なっている。発生源も方向も、二つの反応がどう関係しているかも現時点では不明。


 そのままの意味になるよう記録をまとめ、最後の文字を書いたところで、足元が小さく揺れた。今度は触れている術式から感じたものではない。灯室そのものが僅かに震え、壁へ掛けられていた小さな工具が触れ合って硬い音を立てた。


「下だ」

 ノアが階段へ目を向ける。

「さっきより強くなってる」


 リセアは無意識に左手へ視線を落としたが、そこに新しい感覚はなかった。自分が分かるのは、建物そのものが今確かに揺れたということだけだ。


「降りるぞ」


   *


 塔を下るほど、空気は冷たくなっていった。


 一階を過ぎ、そのさらに下へ続く整備階段へ入る。石壁には水滴が浮き、靴底が濡れた段を踏むたびに低い音が響いた。ここまで来ると外の光はほとんど届かず、壁へ一定間隔で取りつけられた小さな照明だけが狭い通路を青白く照らしている。


 床や壁には、塔の下部を支えるための補助術式がいくつも刻まれていた。その一部にも、上階と同じような焦げ跡が残っている。


「やっぱり外から内だ」

 カシルがしゃがみ込む。

「普段の供給が逆流した跡じゃない。少なくとも俺にはそう見える」

「今も何か流れてる?」

「測定値は安定しない。拾っては消える」


 カシルは測定具を一度軽く叩いた。


「壊れてる?」

「たぶん機械は正常。反応の方が重なりすぎてる」


 その時、通路の先から低い音が響いた。ごん、と何か重いものが鉄へ当たるような音で、少し間を置いて同じ音がもう一度続く。


「……あれです」

 リセアが声を落とす。

「管理主任が言っていた音」


 ガレンは答えず、腰の錨鎖を外した。鎖の先を床へ打ち込んで固定点を作ると、ノアもすぐに蒼重域を通路へ薄く広げる。塔の下へ掛かっている力そのものを消すことはできなくても、建物へ伝わる動きを少しでも鈍らせるためだった。


 ティナは後方へ符糸を伸ばし、カシルも測定具を持ったまま位置を変える。


 任命された日の午後、訓練盤の上で初めて見た第二実働班の連携が、今はリセアの周りで実際に動いていた。ガレンが支点を取り、ノアが動きを抑える。ティナが戻る道を守り、カシルは異常な魔力の流れが現れた時に備えている。四人がそれぞれ違う場所を受け持つ中で、リセアはガレンの一歩後ろへ立った。


 自分の役目まで、同じではない。まだ何かを一人で止めるために、ここへ連れてこられたわけではなかった。


「行くぞ」


 通路の奥には、外部整備用の鉄扉があった。灯台の裏側を回る細い足場へ出るための扉らしく、音はその向こうからしている。


 再び鈍い衝撃が響き、鉄扉が僅かに内側へ揺れた。


「外に作業員は?」


 ガレンが通信札で管理棟へ尋ねる。


『いません。今日は誰も外部作業へ出していません』

「管理員三名は全員そちらに?」

『確認済みです。全員います』

「分かりました。そのまま待機してください」


 ガレンは通信を切り、扉へ視線を戻した。


「鍵は?」

「内側からしか開かない」

 ティナが機構を確認する。

「術式錠も切れてない。少なくとも、ここから誰かが出た記録はない」


 もう一度、扉が押された。リセアの喉が僅かに乾き、何がいるのだろう、と考えそうになってすぐに止める。まだ何かがいると決まったわけではない。ここまで来ても、分からないものは分からないままにしておかなければならなかった。


「開ける」


 ガレンが扉の前へ立った。


「ティナ、退路。ノア、抑えろ。カシルは何か出たら魔力測定。リセアは俺より前へ出るな」

「はい」


 鉄扉の錠が外され、ガレンがゆっくり押していく。数センチ開いた隙間から白い霧が流れ込み、冷気が通路の床を這ったが、扉は途中で何かに引っかかるように止まった。


「何かあるな」


 ガレンが錨鎖を支点にしながらさらに力を加えると、外側にあったものが鉄板の上を擦る低い音とともに動いた。最初に見えたのは濡れた黒い布で、その下から人間の手が現れたのを見て、ティナが僅かに息を呑む。


「……人?」


 扉をさらに開くと、外の整備足場に一人の男が倒れていた。


 若い。少なくとも老人ではなく、濡れた暗色の衣服を身につけ、白い霧と冷たい風に晒されたまま、石と鉄でできた細い足場へ横たわっている。


 リセアは倒れている男から視線を外さないまま、その周囲を確かめた。飛空艇は見当たらず、ここへ降りられる別の発着場所もない。塔の内側からこの足場へ出られる扉は今、自分たちが開けたものだけで、管理員三人は全員管理棟へ退避していると確認したばかりだった。それなのに、そこには一人の人間が倒れている。


 目の前の男は、少なくとも見た目だけなら普通の人間だった。濡れた髪も、冷気に晒された青白い皮膚も、力なく床へ落ちた手も、リセアが知る人間の姿から外れてはいない。それだけに、どうやってここへ来たのか、いつからこんな場所にいたのか、そもそも今も生きているのかという疑問ばかりが先に浮かび、何か一つの答えへ結びつけることができなかった。


「誰も近づくな」


 ガレンが低く言い、自分だけが一歩前へ出る。


「まず生存確認する。リセアはそこにいろ」

「はい」


 カシルが測定具を男へ向けると、針が大きく右へ振れたあとすぐに戻り、間を置かず再び激しく揺れた。


「魔力反応あり」

「どれくらい?」

「待って……取れない」

「機械が?」

「違う。反応が重なってる。数値が一定にならない」


 その言葉に、灯室で触れた二つの圧が一瞬だけリセアの頭を過った。けれど今は何にも触れておらず、カシルの測定具が拾っているものと、自分が術式越しに感じたものが同じだという根拠もない。左手が僅かに強張ったのを意識しながらも、それ以上は結びつけなかった。


 ガレンが倒れた男まで数歩の位置へ近づいた、その時だった。


 男の指が動いた。


「ガレン!」


 ティナの声と同時に、ノアが蒼重域を強めた。整備足場へ溜まっていた細かな水滴が一斉に押し潰され、鉄板の上へ薄く広がる。


 それでも男は止まらず、ゆっくりと腕をついて身体を起こしていく。その動作は鈍く、明らかに蒼重域の影響を受けているように見えるのに、再び床へ伏すことはなかった。


 ガレンがすぐに距離を取る。


「止まれ!」


 返事はない。


 男の首が僅かに上がり、濡れた髪の隙間から青白い顔が見えた。目は開いていたが、誰を見ているのかは分からない。


 その動きに合わせて胸元の濡れた布が少しずれ、隙間から赤い光が滲んだ。


 リセアの呼吸が止まりかける。


 灯台の術式が反射しているのではない。けれど、その場からでは何が光っているのかまでは見えなかった。傷口なのか、身体に刻まれた術式なのか、それともまったく別の何かなのか。分かるのは、胸骨の中央に近い場所、その奥から硬質な赤が漏れているように見えることだけだった。


 赤は、ゆっくりと一度脈を打った。


 旧土区の灯より遅く、第七灯台で繰り返していた細かな明滅よりも長い。その間隔を見た瞬間、リセアの中へ灯室で触れた二つの圧が蘇った。細かく繰り返していたものと、その奥で遅く重く動いていたもの。そのどちらかが今、目の前の男の胸で脈打ったのかもしれないという考えが浮かんだが、それもまだ推測でしかなかった。


 何も判断できないまま、男の身体が大きく震えた。


「下がれ!」


 ガレンの声と同時に赤い光が一気に強まり、足元の岩盤から腹の底へ響くような振動が突き上げた。整備足場が激しく揺れ、塔の壁を走っていた術式が一斉に明滅する。


「ノア!」

「押さえてる!」


 蒼重域がさらに濃くなり、男の膝が一度沈む。それでも次の瞬間には、見えない何かに身体を引き上げられるように再び立ち上がった。


 直後、周囲の空気が弾け、衝撃が通路の奥まで突き抜けた。リセアの身体が後ろへ押され、ティナの符糸が咄嗟に腰へ絡みついて、壁へ叩きつけられる寸前で止める。


「リセア!」

「大丈夫です!」


 息を整えながら顔を上げると、男の周囲では第七灯台の外側を支えていた術式が青白く光り、その中へ赤い筋が走っていた。カシルの測定具からは甲高い警告音が鳴り続け、針は一つの値へ落ち着くことなく激しく揺れている。


「上がってる! でも一つじゃない、波形が――」

「解析は後!」


 ガレンが錨鎖を足場へ打ち込む。鎖が強く張り、塔と足場へ新たな固定点が作られた。


「ティナ、管理棟へ連絡! 現場区分を上げる!」

「了解!」


 ティナが通信札を開く。


 男の胸で赤がもう一度脈打った。今度は旧土区の灯とは比べものにならないほど強く、光と同時に岩盤の周囲を覆っていた白い雲海が大きく沈み込んだ。


 リセアは自分の左手を強く握った。触れてはいないし、魔力そのものを感じているわけでもない。それでも、目の前で起きていることが単なる設備異常ではなくなったことだけは、もう疑いようがなかった。


「特異体管理局にも回せ!」


 ガレンの声が飛ぶ。


「人型堕星体の可能性あり。第二段階投入待機を要請! まだ投入は必要ない、そう伝えろ!」


 人型堕星体。その言葉を聞いた瞬間、候補生時代に資料の中で何度も見た文字が、初めて目の前の男の姿と重なった。それでもリセアには、すぐ同じものだとは思えなかった。訓練や講義で見た記録の多くは、すでに人の形を大きく失ったものや、魔力の異常によって身体そのものを変質させたものだった。今、蒼重域の中で立ち上がっている男には、少なくとも外見だけならそうした特徴がほとんど見当たらず、あまりにも普通の人間に見えた。


 けれどガレンが口にしたのは、あくまで「可能性」だった。その言葉の違いに縋るように一度だけ息を吸ったところで、続いた「第二段階投入待機」という指示の意味が遅れて胸へ落ちてきた。


 リセアの頭へ、一人の名前が浮かんだ。


 ルゼン・ヴァルハルト。


 今朝まで黒い扉の向こうにいた少年が、ここへ来るかもしれない。あの金色の炎が、星牢の外へ出る。その光景をうまく想像できないまま、リセアは目の前の男を見た。


 男の口が僅かに開いた。声になる前の息が漏れ、喉の奥で何かが引っかかるように震える。


「……かえ……」


 赤が弾けた。


 岩盤全体が深く沈み込むように揺れ、第七灯台の壁を走る術式が一斉に赤く染まった。


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