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星脈の契約者  作者: 靉庭かさね
第2章「赤い心臓」

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第6話「白い海の向こう」

旧土区の灯に赤が混じった翌朝、リセアは再び星牢の黒い扉の前に立っていた。


 地下へ降りるほど地上の朝は遠ざかり、冷えた石壁と封鎖具の金属臭、その奥にわずかな焦げの匂いが混じる。昨夜の雨を含んだ外気とは無縁の乾いた空気が肺へ入るたび、ここだけが王都の時間から切り離されているように感じられた。


 扉の脇ではアイゼル・クロウが封鎖制御盤へ目を落としていた。ルゼンを拘束する各封鎖鎖の状態と、その鎖へ制御を伝える外側の魔力回路――外縁制御環の反応をまとめて監視する装置だ。第三封鎖鎖を含め、直近の調整値はすべて記録上の許容範囲に収まっていた。


「今日は予定通り定期観測だけだ。その後、第二実働班へ合流してもらう」

「旧土区の件ですか」

「正式な調査命令が下りた。お前の外勤については俺が承認した」

「ありがとうございます」

「礼を言われることじゃない。初動観測者を外す理由がなかっただけだ」


 相変わらず余分なものを挟まない返答だったが、それで十分だった。


 黒い扉が開くと、星牢の奥から押し出された熱が頬へ触れた。朝霧の向こうに一瞬だけ見えた旧土区の灯とはまるで違い、こちらは扉を一枚隔てただけでも身体の内側まで押し返してくるような密度を持っている。それでも、最初にここへ入った時のように足が止まることはなかった。


 幾重もの封鎖鎖の向こうで、金色の炎が揺れている。


 ルゼン・ヴァルハルトは壁際へ背を預けていた。白銀に近い髪へ炎の色が淡く映り、リセアたちが入ってきても、すぐには顔を上げない。


「……また来たのか」

「定期観測なので」

「この前も見ただろ」

「毎回同じなら、毎回同じだったと記録できます」

「面倒くさいな」


 ようやく開いた金色の目がこちらを向き、その視線が一度だけリセアの左手へ落ちた。医療区で巻かれた鎮静布はもう外していたし、外見だけで魔力焼けの名残が分かるはずもない。それでもルゼンは何かを思い出したように眉を寄せる。


「今日は触るなよ」

「触りません」

「この前も最初はそのつもりだったんじゃないのか」

「……それは否定できません」

「なら信用できないな」


 刺々しい言い方は変わらない。それでも、初日に向けられた拒絶とは少し違って聞こえた。警戒が消えたわけではないが、少なくともリセアが再びここへ来ること自体には、もう驚いていない。


「お前まで指導に回るな」


 制御盤から目を離さないまま、アイゼルが言った。


 ルゼンは不満そうに顔をしかめる。


「別に」

「なら黙っていろ」

「はいはい」


 返事だけは妙に素直だった。


 リセアは観測板へ目を落とし、現在の出力、第三封鎖鎖が正しい位置で魔力を受け止めているか、その力が外縁制御環へ滞りなく流れているかを順に確認していく。金色の炎は初回観測時より穏やかで、あの時感じた、魔力が逃げ場を失って内側へ折れ込むような異常も今は薄い。


 確認できた事実だけを記録し、最後にルゼンの様子を一度だけ見る。


 彼はすでにこちらから目を逸らしていた。炎の向こうへ視線を落とし、何かを考えているようにも、ただ時間が過ぎるのを待っているだけのようにも見える。


 そこから先は書けない。


 リセアは観測板を閉じた。


「観測終了です」

「もう帰るのか」


 思いがけずルゼンから言われ、足が止まる。


「このあと外勤があるので」

「外勤?」

「旧土区で魔力灯の異常が出ています。第二実働班と現地確認に」

「……新人を?」

「私が最初に見つけたので」


 ルゼンは一瞬だけリセアを見たあと、それ以上は尋ねなかった。


「そうか」


 短い返事だった。


 リセアも説明を足さず、アイゼルとともに出口へ向かう。黒い扉が閉じる直前、背後から低い声がした。


「今度は、勝手に触るなよ」


 振り返っても、金色の炎の向こうではルゼンの表情までは見えない。


「……努力します」

「そこは“触らない”って言え」


 黒い扉が閉じ、その最後の言葉だけが石造りの通路へ薄く残った。


   *


 第二実働班の詰所へ着くと、机の上には夜のうちに集められた資料が三種類広げられていた。都市管理局による旧土区第三街路の点灯記録、航路管理局から届いた雲海北路第七灯台の異常報告、そして今朝発行された封鎖局の現地調査命令書。


 窓の外には厚い雲が垂れ込め、朝だというのに光は鈍い。夜半の雨が窓枠へ細かな雫を残し、わずかに開いた隙間からは濡れた石と土の匂いが入り込んでいた。乾ききらない外套と革具の匂いが詰所の空気へ混じり、いつも机の隅に置かれている茶の香りさえ、今日は湿気の中に薄く溶けている。


 リセアは調査命令書へ目を落とした。


 旧土区第三街路北側灯塔 連動異常調査。


 担当――封鎖局第二実働班。


 その下には、同行者として自分の名前も記されている。


 初動観測者として、特異体管理局付・随伴封鎖官補佐リセア・アルヴェインの同行を許可する。


 正式な外勤命令の中に自分の名前が入っているのを見ると、任命式で名前を呼ばれた時とは違う重さがあった。あの日告げられたのは、これから就く仕事だった。今目の前にある紙には、実際に行くべき場所があり、確認すべき異常があり、その場所で今日も暮らしている人たちがいる。しかも、その異常を最初に拾ったのは自分だった。


「そんなに見ても名前は消えないぞ」


 隣からガレンの声がした。


 顔を上げると、すでに現場用の外套へ着替えたガレンが、錨鎖の留め具を確かめながらこちらを見ている。


「消えてほしいわけじゃありません。ただ、思ってたより早いなって。初めての外勤」

「現場の方は、新人が慣れるまで待ってくれないからな」


 軽い口調のまま、ガレンは錨鎖を腰へ戻した。


「今回は補助だ。異常の初動観測者で、旧土区の土地勘もある。今回の資料は封鎖局と航路管理局で共有してるから、特異体管理局から必要なのは、お前を外へ出す許可だけだ。そこはアイゼルさんから取ってある」

「星牢の観測は?」

「今日の分は終わったんだろ。留守の間は管理局側で回す。だから、お前は旧土区の方だけ見てればいい」

「分かりました」


 自分がルゼンの担当を外れるわけでも、旧土区の異常が特異体管理局の案件になったわけでもない。その境目がはっきりしたことで、リセアは目の前の仕事へ意識を切り替えられた。


「ただし、昨日までの訓練とは違う」


 ガレンの声音が少し低くなる。


「何か見つけたら、まず言え。封鎖具を使う前にも言え。自分の身体で受け止めようとするのは、その前にやめろ」

「はい」

「返事だけはいいな」

「今回はちゃんと守ります」

「今回は、じゃなく今後ずっと頼む」


 その横ではティナが符糸の束を一本ずつ確認し、傷みのあるものだけを抜いていた。壊れかけた術式を一時的に繋ぎ止めるためのものだ。カシルは自身の雷を細い流路へ整える時に使う導具を革袋へ収め、ノアは窓際で小型の測定盤に目を落としている。


 昨日まで同じ地図を囲んでいた四人なのに、現場へ出る朝には少し違って見えた。会話がなくなるわけではなく、ティナはカシルの荷物を覗いて「また余計なもの入れてる」と言い、カシルは「糖分は緊急時の生命線」と真顔で返している。それでも、何を持ち、どの順番で収め、どこへ手を伸ばせば必要なものが出てくるのか、一つ一つの動きに迷いがない。


 候補生時代には手順として覚えていた出動準備が、この人たちには身体へ染みついているのだろう。


「リセア」


 ティナが顔を上げた。


「水は?」

「あります」

「処置薬」

「持ってます」

「帰還札」

「今朝、宿舎を出る時に裏へ返してきました」

「ならいい」


 昨日までは覚えるべき規則の一つに過ぎなかった動作が、今日は初めて意味を持っていた。宿舎の入口では今、銀灰色の札が裏向きのまま掛かっている。


 自分はまだ帰っていない側にいる。


「行くぞ」


 ガレンが外套を羽織る。


 リセアも腰の封鎖具入れへ手を添え、留め具を一度だけ確認した。


「はい」


 封鎖官として初めての外勤へ向かった。


   *


 旧土区へ向かって王都の坂と階段を降りていくにつれ、街の空気は少しずつ湿り気を増し、景色もまた別の時代へ入り込むように変わっていった。


 上層区では、広い通りを挟んで白い石造りの建物が整然と並び、昨夜の雨を洗い流した壁が曇り空のわずかな光までよく弾いている。そこから下るほど道幅は狭まり、建物同士は互いへ身を寄せるように近づき、古い石材が溜め込んだ水気と、人の暮らしの匂いが路地へ残り始めた。


 昨夜の雨を吸った石畳にはところどころ浅い水溜まりができ、軒先から落ちた雫がその表面へ小さな輪を広げている。開き始めた店からは焼いた小麦や煮込みの香りが流れ、二階の窓から洗濯物を出す音や、路地の奥から子どもを呼ぶ声が聞こえてきた。


 五年離れていたはずなのに、目で確かめるより先に身体が思い出す場所がある。曲がり角へ着く前から、その先にパン屋の看板があることを知っていたし、三段目だけ少し沈んだ石段や、共同井戸跡へ抜ける細い道も覚えていた。知らない店は増え、古い壁はいくらか色褪せている。それでも、雨上がりの石と人の生活が混じった匂いは、記憶の底に残っていた旧土区そのものだった。


「ここから右です。真っ直ぐ行けば旧市場跡に出ますけど、灯塔なら次の路地を抜けた方が近いです。ただ、かなり狭いので、装備が引っかかるかもしれません」


 先頭を歩いていたガレンが腰の錨鎖へ視線を落とした。


「俺の鎖が一番邪魔そうだな」

「ガレンだけ大通りから回れば?」


 ティナが言うと、ガレンは露骨に嫌そうな顔をした。


「初めての外勤の新人に道案内されて、自分だけ置いていかれる責任者って格好悪くない?」

「知らない」

「冷たいなあ」


 そう言いながらも錨鎖を少し高い位置へ直し、全員で細い路地へ入った。


 子どもの頃にはエルネと並んで駆け抜けた道も、大人になった今では思っていたより狭い。肩を少し内側へ寄せながら進む頭上には洗濯紐が何本も渡り、まだ乾ききらない布から落ちた水滴がリセアの外套へ一つ弾けた。その冷たさに昔の雨の日が一瞬蘇ったが、今日は記憶の中へ帰ってきたわけではない。


 路地を抜けると、第三街路北側灯塔が目の前へ現れた。


 三階建ての建物より少し高い石柱は、近くで見ると遠景で受ける印象よりずっと古く、基礎部分には細かな欠けや補修の跡が幾重にも残っていた。頂部に収められた魔力灯は昼間のため出力を落とし、曇り空の下へ薄い青白さを滲ませている。昨夕に遠くから見た赤はどこにもなく、雨に濡れた灰色の石と、裏手へ伸びる細い路地まで含めれば、昨日自分が地図へ描いた景色とほとんど同じだった。


 ただ、灯塔の根元には都市管理局の規制札が張られ、数人の職員が測定具を広げている。


 見慣れた場所へ、知らない意味が加わっている。


「封鎖局第二実働班です」


 ガレンが管理局員へ声を掛け、調査引継ぎの確認を進める間、リセアは灯塔の基礎石へ視線を落とした。子どもの頃には雨宿りの壁くらいにしか思っていなかった石が、今は灯へ魔力を送る供給管と、地下に残された古い導線が近くを通る設備として目に入る。


「リセア、地図に描いてた排水路は?」

「裏側です」


 灯塔を回り込むと、鉄製の古い蓋が石畳へ埋め込まれていた。縁には薄い苔が生え、昨夜の雨水が錆びた溝へ細く残っている。昔より傷んではいるものの、位置も形も記憶のままだった。


「これです。灯塔の基礎までは地上なら七、八歩くらいですけど、地下ではもう少し近いかもしれません」


 ノアが灯塔と排水路を見比べた。


「管理図を見せてください」


 都市管理局員が折り畳まれた図面を石台の上へ広げる。


 現在、灯へ魔力を送っている供給管は東側から延びていた。その上へ古い整備図を重ねると、さらに深い位置を、四十年以上前まで補助として使われていた細い導線が横切っている。


「残ってるな」


 ガレンの言葉に、管理局員が頷く。


「四十七年前の改修時に使用停止となっています。ただ、撤去した記録はありません」

「流れだけ切って、そのまま埋めた可能性はあるね」


 カシルが図面へ目を落とした。


「先に周りを空けよう」


 ティナはすでに路地の人通りを確認していた。


「調査してる間だけ、この一角を止める。排水路側は特に踏ませない方がいい」


 短札が路地の入口と灯塔脇へ置かれ、そこを符糸が細く結んで住民の進入を防ぐ境界が作られる。遠巻きに人が集まり始め、買い物籠を抱えた老人や、子どもの手を引いた母親、店先から心配そうにこちらを覗く店主の姿が見えた。


 その中に覚えのある顔が混じっているような気がして、リセアは一度だけ視線を逸らしかける。すると曲がり角から、昨日地図へ描いたパン屋の香ばしい匂いが流れてきた。


 看板は昔とは違うものに掛け替えられている。それでも匂いだけは、幼い頃の雨の日とほとんど変わらない。


 ここは故郷だった。そして今日は任務区域でもあるのだと、今度は前ほど居心地悪く感じなかった。


 二つの見方は、互いを消すものではない。


 リセアは湿った空気をゆっくり吸い込み、灯塔へ向き直った。


「供給を落とします」


 管理局員の操作によって、頂部の青白い光が少しずつ弱まっていく。昼の曇り空へ溶けるように明度を失い、やがて灯塔には石柱だけが残った。


「カシル」

「了解」


 カシルが細く絞った雷を、現在使われている供給管へ沿わせた。雷導線は、魔力を撃ち込むためではなく、管の中に残った余分な魔力へ安全な逃げ道を作るためのものだ。細い雷光に引かれて残留魔力が用意された受け皿へ移り、数秒後にはその光も完全に消えた。


 ノアが測定盤へ目を落とす。


「今使ってる供給管からの魔力は止まった」

「なら古い方を見るか」


 ガレンが灯塔基部へ錨鎖を一本固定すると、鎖の先端が石へ噛み合い、もし灯塔側で急な異常が起きても基礎が動かないよう固定点を作った。低い金属音が狭い街路へ響き、その音にリセアの肩が僅かに強張る。星牢とは違う場所でも、封鎖が始まる時の音には身体が先に反応するらしい。


「リセア。お前が言ってた旧線を確認する。ただし、触る前に?」

「報告します」

「よし」


 管理局員の協力で排水路脇の石を一枚外すと、その下から黒ずんだ細い導線が姿を現した。長い間、地上の光に晒されていなかった金属には土がこびりつき、周囲からは濡れた石と錆、それに地下水の生ぬるい匂いが立ち上がった。


 リセアはその場へしゃがみ込み、導線へ手を伸ばす前に状態を確かめた。


「補助札越しに確認してもいいですか」


 ガレンがノアを見る。


「今の状態は?」

「今ここを流れている魔力はほとんどない。ただ、完全に何も通さない線になっているとは言い切れない」

「一呼吸分だけだ。違和感があったらすぐ離せ」

「はい」


 リセアは薄い補助封鎖札を古い導線へ重ね、その上から指先を添えた。


 最初に伝わってきたのは、湿った石に奪われた冷たさだけだった。札を挟んでも金属の温度は皮膚へゆっくり染み込み、魔力らしい反応はすぐには感じられない。


 やはり、ただ残されているだけの古い線なのかもしれない。


 そう考えかけたところで、指先の下にごく僅かな圧が生まれた。


 流れてくる、と呼ぶには弱い。もっと遠くで何か重いものが動き、その力の端だけがこの場所へ伝わってきたような感触だった。一度押され、わずかな間を置いて、同じ力がもう一度返ってくる。


 リセアは呼吸を浅くし、その間隔だけを確かめた。


「……反応があります」

「どんな?」

「圧です。方向までは分かりませんけど、一定の間隔で繰り返してます。この線、完全には死んでないと思います」


 もう一度だけ同じ感触が返ってくるのを待ち、今度はガレンに言われる前に手を離した。補助札ごと指先を引き、左手を軽く握ってみても、痛みも痺れもない。


「下から来てるか?」

「そこまでは分かりません。私に分かるのは、今触れた場所に繰り返す圧があることだけです」


 遠くの魔力を辿れるわけではない。


 触れている場所に現れたものを、感触として拾えるだけだ。


 ノアが入れ替わるようにしゃがみ込み、古い導線の周囲へ蒼重域を薄く広げた。範囲の中へ重さを加える蒼い魔法陣が石畳へ低く開くと、排水路に残っていた雨水が、目に見えない傾斜へ引かれるようにゆっくりと形を変えていく。


 ノアが見ているのは水そのものではない。重さを掛けた時に生じる偏りから、地下のどちらへ力が寄っているかを確かめているのだ。


「……均一じゃないな」

「何が見える?」


 ガレンが尋ねる。


「魔力そのものじゃない。地下の圧が偏ってる。水だけなら、こんな形にはならないと思う」


 測定盤へ目を落としながら、ノアは周囲の値を確かめる。


「北側の方が重い」


 昨日届いた記録を、この場にいる全員が思い浮かべたのが分かった。


 雲海北路の、その先にある第七灯台。


 それでも、まだ同じ方向にあるというだけだった。誰もすぐには二つを結びつけない。


 その時、供給を断っていたはずの灯塔へ、青白い光が戻った。


 管理局員がすぐに操作盤を確認する。


「今の供給管は切れています!」


 カシルも、自分が逃がしていた魔力の流れを確認した。


「こっちからも一切入ってない!」


 灯は一度弱まりかけたものの、消える代わりに内側から押し広げられるように明度を増していった。曇天の下に冷たい青白さが広がり、石壁や濡れた路面を不自然な色へ染めていく。


 やがて、その中心を細い赤が走った。


 昨日遠くから見たものと同じ色だったが、今回はすぐには消えない。青白い灯の内側で細い筋となり、一度だけ脈を打つように明滅した。


「全員、灯塔から距離を取れ!」


 ガレンの声と同時に、基礎石へ固定されていた錨鎖が強く張り、異常な力を受けた灯塔そのものが動くのを押さえる。ティナは符糸で作った境界を路地の奥まで広げ、集まり始めていた住民を安全な位置まで下げた。カシルは雷導線の受け皿を切り替え、灯から外へ溢れた魔力だけを拾って人家とは逆へ逃がせる流れを探す。


「ノア、押さえられるか」

「やる」


 蒼重域が灯塔の周囲へ広がった。膨らみ続けていた光へ重さが掛かり、外へ広がる勢いが目に見えて鈍る。青白い光の中を走っていた赤い筋も同じように動きを遅くし、灯の奥へ細く沈んだ。


 リセアは数歩離れた位置から灯を見上げていた。今は何にも触れていない。それでも、古い導線へ指を置いた時に感じた圧の間隔が、記憶の中で目の前の明滅と重なっていく。


「ガレンさん」

「どうした」

「さっき導線で感じた圧と、今の明滅の間隔が似てます」

「同じだった?」

「一度しか触れてないので断定はできません。でも、近いと思います」


 ガレンはそれ以上の言葉を要求せず、短く頷いた。


「記録しとけ」


 リセアが観測板へ手を伸ばしたのと、ガレンの腰に下がった通信札が鋭い警告音を鳴らしたのはほぼ同時だった。


 連続する短い音に、全員の意識がそちらへ向く。


 緊急通信だった。


「ガレン・ローク」


 通信札を開くと、雑音を含んだ航路管理局の声が流れ込んできた。


『雲海北路第七灯台より緊急報告。灯火出力が規定値を大幅に逸脱し、外縁術式の制御不能を確認。現地管理員は現在、灯台内部より退避中です』


 その報告の途中で、旧土区の灯がもう一度赤く脈打った。


 リセアは反射的に時刻記録へ目を落とす。


『周辺航路を一時閉鎖。異常発生時刻および波形について、旧土区第三街路の現在観測値との一致を確認しました』


 そこまで聞いたところで、詰所から持ち出していた簡易記録盤を確認していたノアが顔を上げた。


「同時だ」


 昨日までは、二つの異常に似た波形があるというだけだった。けれど今、離れた二つの灯が同じ時刻に、同じ形で動いている。


 ガレンの顔から、わずかに残っていた軽さが消えた。


「第二実働班への指示は?」

『旧土区現場は後着する封鎖局員へ引き継いでください。引継ぎ完了後、雲海北路第七灯台へ急行。リセア・アルヴェインについても、封鎖局より同行を正式許可します』


 自分の名前を聞いた途端、リセアは先ほどまで見ていた故郷の路地から、意識だけがさらに遠くへ引かれるような感覚を覚えた。旧土区の灯を調べて終わるはずだった初めての外勤は、このまま王都を出て雲海へ向かい、異常がより強く現れている場所まで続くことになる。


 ガレンが通信を切り、灯塔の状態を確かめた。


 ノアの蒼重域に押さえられていた光は、少しずつ青白さを取り戻しつつあった。赤は細くなり、やがて灯の内側へ沈むように消えていく。


「身体は?」


 ガレンがリセアへ尋ねた。


「問題ありません。さっきの接触でも、熱や痺れは出てません」

「なら、行けるか」


 問われているのは、覚悟でも恐怖でもない。今の身体と頭で、次の現場でも判断を続けられるかどうかだった。


 リセアは左手を一度開き、指先まで感覚があることを確かめる。


「行けます」


 ガレンは一度だけ頷いた。


「なら、次だ」


   *


 後着した封鎖局員への引継ぎを終えて旧土区を離れた頃には、昼を少し過ぎていた。


 北側灯塔は、普段の供給管から魔力が入らないよう完全に遮断した状態で封鎖され、周辺には一時的な立入制限が敷かれている。住民には設備異常の調査中とだけ伝えられ、先ほどまで赤を宿していた灯も今は沈黙していた。


 それでも、異常が終わったとは誰も考えていない。


 止まったのではなく、次にいつ動くのか分からなくなっただけだった。


 第二実働班は魔導院へ戻らず、そのまま王都北端の航路発着場へ向かった。


 雲海航路用の小型飛空艇が一隻、すでに出航準備を終えている。細長い船体の下には、艇を空へ浮かせる術式を刻んだ環が並び、側面には航路管理局の白い紋章が描かれていた。大型旅客艇のような優美さはなく、甲板も狭い。緊急輸送用らしく、乗降口の脇には固定用の革帯や救命具が実用本位に積まれている。


 王都の端まで来ると、風の匂いが変わった。


 濡れた石や炊事の煙、人の暮らしが混じった街の匂いは次第に薄れ、代わりに冷たい水気を含んだ風が頬を撫でていく。浮島の縁の向こうには白い雲海が広がり、遠目には穏やかな海のように見える表面が、ところどころゆっくりと盛り上がっては青灰色の影へ沈んでいた。


 その下に何があるのかは見えないからこそ、底のない深さだけが際立って見えた。


 リセアは乗降口へ足を掛ける前に、一度だけ王都を振り返った。


 上層区の白い塔、その下に魔導院があり、さらに低い場所には旧土区の屋根が折り重なっている。ここからでは第三街路の灯塔を見分けられない。それでも、昨日自分が地図へ描いた路地も、曲がり角のパン屋も、雨水が集まる古い排水路も、あの建物の隙間に確かにある。


 そして街の地下深くには星牢があり、黒い扉の向こうでは、金色の炎を抱えたルゼンが今日も同じ場所にいる。


 今朝、扉が閉じる直前に聞いた声がふと蘇った。


 ――今度は、勝手に触るなよ。


 少しだけ可笑しさが込み上げそうになり、リセアは口元を抑える代わりに小さく息を吐いた。


「リセア」


 飛空艇の中からティナに呼ばれる。


「置いてくよ」

「今行きます」


 乗り込むと扉が閉じ、外を流れていた風音が一枚隔てられた。


 発進を知らせる低い鐘が鳴り、船底の浮揚環が震え始める。足の裏から伝わる振動が次第に深くなり、飛空艇は地面からゆっくりと浮かび上がった。


 王都の建物が少しずつ小さくなり、浮島の縁を越えた瞬間には、窓の下から石の大地が消えて白い雲の海が視界いっぱいに広がった。


 リセアは窓枠へそっと手を添えた。


 幼い頃、『わたしが魔法使いになったら』のノートに、空を飛んでみたいと書いたことがある。魔法で雲の上まで行き、自分の住む街を遠くから眺めてみたい。あの頃は、それがどんな景色なのかも分からず、青い空と白い雲を何度も紙の端へ描いていた。


 実際に空へ出た今、自分は魔法使いではない。濃紺の封鎖官の外套を着て、原因の分からない異常灯火を追っている。子どもの頃に思い描いた未来とはずいぶん違うのに、窓の向こうへ広がる空は、昔想像していたものより遥かに大きかった。


「第七灯台まで一時間弱」


 前方からガレンの声が届いた。


「着いたら、まず灯台の外側を支えている術式と、管理員の状態を確認する。建物そのものが不安定なら中へは入らない。人を出すことが最優先だ」


 向かいに座ったティナも続ける。


「リセアは私かガレンから離れないで。変なものを見つけても、先に口で教えること」

「はい」

「触る前にも?」

「言います」

「今度こそ?」

「今度こそ」


 カシルが向かいで小さく笑った。


「完全に問題児扱いされてるね」

「誰のせいだと思ってる」

「少なくとも俺ではないなあ」

「誰もあんたとは言ってない」


 いつもの調子のやり取りが続いていても、窓の外では王都が着実に遠ざかっていく。


 白い雲海の上には、航路を示す灯台が点々と並んでいた。昼間でも飛空艇から判別できるよう、それぞれが一定の間隔で淡い光を送り、雲の海の上へ目に見えない道筋を描いている。


 リセアはその光を北へ辿っていった。


 規則正しく明滅する灯が一つ、その先にまた一つと続き、やがて遠い雲の向こうに、一つだけ光を失った細い塔が浮かび上がった。周囲の灯台が航路へ光を送り続けている中で、そこだけが黒い影のまま沈黙している。


「あれですか」


 リセアが尋ねると、窓際にいたノアが頷いた。


「第七灯台だ」


 まだ距離はある。それでも、その塔だけが暗いことははっきり分かった。


 リセアが黒い輪郭を目で追っていると、その頂部へ突然、光が浮かんだ。


 周囲の灯とは明らかに違う色だった。


 白い雲海の上に、濃い一点が滲む。


 赤。


 一拍だけ灯った色は、すぐに消えた。


 リセアは無意識に左手を握っていた。熱を感じたわけでも、魔力へ触れたわけでもない。それでも、旧土区の古い導線へ指を置いた時に感じた規則的な圧だけが、身体の記憶として鮮明に蘇る。


 窓の向こうでは、第七灯台が再び黒い影へ戻っていた。


 その根元を白い雲がゆっくりと流れ、見えない下方へ続くものを覆い隠すように、塔の足元を深く包んでいった。

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