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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
9/33

千代見草・後


雪が解け、また積もり、草が伸び、刈られ、蝉が鳴き、虫の声に変わり、白い息が戻ってくる。

そうやって季節がいくつか巡るあいだに朝凪は少しずつ大きくなり、美菊もまた、離れの中で静かに育っていった。


育つ、といっても、外から見れば奇妙な子ではあった。

三つになるころには、ふつうの子ならもっと喋る。

言葉を真似、意味もなく繰り返し、誰かの声に乗っかって笑う。

だが美菊はそうならなかった。声をまるきり出さないわけではない。

喃語のような、短い、あやふやな音はある。

朝凪が「みず」と言えば、それに似た音を返すこともある。

けれど言葉として身につく気配はひどく薄く、汀も朝景もそのことを気にしているらしかった。


朝凪は、あまり気にしなかった。

もともと美菊は、そういうものだとしか思っていなかったからだ。

静かで、泣かず、要求も少なく、ただこちらを見ている。

そういう子が、喋るのも少ない。べつに不思議ではない。そう考えていた。

朝凪にとって大事なのは、美菊が自分を見れば目を向けることと、自分が「美菊」と呼べば、それがこの子の名として届いていることだった。


七つになった朝凪はもう六つのころのような無遠慮さだけでは動かなくなっていたが、それでも離れへ入り込む癖は変わらなかった。

汀に見つかればため息をつかれ、朝景には「朝凪も飽きないな」と笑われる。

それでも止める言葉が出なかったのは、あの離れの中で朝凪だけが美菊にとっていちばん自然な人間になっていることを、二人とももう分かっていたのだろう。


その日も、朝凪は離れにいた。

季節は初夏へ傾きかけていた。日中はもう暑いくらいで、離れの戸を半ば開けておかねば息が詰まる。

朝凪は床に腹ばいになり、朝景から借りた古い木札を並べて、美菊の前で字の真似をしていた。


「これが、よ、だ」


美菊は座ったまま、それを見ている。


「で、これが、し」


反応はない。朝凪は慣れている。


「おまえは、よ、し、あ、き」


ゆっくり一文字ずつ区切って言うと、美菊の目が少しだけ動く。その反応が朝凪には分かる。

だから、喋らなくてもいいかと思ってしまうのだ。

分かっているなら、それで十分だろう、と。


「言ってみろよ」


それでもまあ、声は聞けたほうが楽しい。

朝凪が木札をひとつ指で叩く。

美菊は唇をわずかに動かした。


「……よ…し、……」


そこまでで止まる。

朝凪は笑う。


「まだ難しいかぁ」


それだけで、いつもなら終わるはずだった。

けれど、その日は違った。


突然、美菊が顔を上げた。

動きが、妙に唐突だった。

さっきまで木札の方を見ていた目が、ふっとどこでもない場所へ向く。

焦点が合っているようで、どこにも合っていない。

朝凪は最初、それをぼんやりしているのだと思った。

三つの子どもにはよくあることだ。

けれど、次の瞬間に出てきた声は、それまでの美菊のどんな声とも違っていた。


「三日後、山裾の川が切れる」


朝凪は固まった。


声が、違う。


高低はたしかに美菊のものだ。

けれど喃語に近い普段の喋り方とはまるで違う。

舌足らずでもなく、つっかえるでもなく、まるで何か別のものがその口を奪って喋らせているみたいに、流暢だった。


「水は畑をさらい、十四人が死ぬ」


朝凪は瞬きもできない。

美菊はなおも、どこでもない場所を見ている。


「子は二つ。老いた者は四つ。あとは、見つからぬ」


その言葉は、三つの子どもが知るはずのない冷たさを持っていた。

感情がないのではない。

感情の入り込む余地そのものがないような、決まりきった文句として置かれる声音だった。


「……よしあき」


朝凪が呼ぶと、美菊の視線がふっと揺れた。

次の瞬間には、もう終わっていた。

力の糸が切れたように、体が少しだけ前へ傾く。

目の焦点も戻り、いつもの、静かな美菊の顔になる。


朝凪は立ち上がった。

何が起こったのか分からない。

だが、分からないままでも、これが普通ではないことだけははっきりしていた。

七つの子どもでも、それくらいは分かる。


「待ってろ」


それだけ言い置いて、朝凪は母屋へ駆け込んだ。

朝景は土間の方にいた。汀は洗った布を干している最中だった。

朝凪が息を切らせて飛び込んでくるのを見るなり、二人とも何事かと顔を上げる。


「どうした、朝凪」


朝凪は一息に言った。


「あいつが、変なこと言った」


朝景は怪訝そうに眉を寄せる。


「変なことってなんだ」

「川が切れるって。三日後。十四人死ぬって」


その言葉を聞いた瞬間、朝景は「はあ?」という顔をした。

だが汀だけは、露骨に表情を変えた。

目の奥が強張る。

手に持っていた布が、わずかにたわむ。


「……朝凪、それ、ほんとか」

「ほんと。いつもと全然違う喋り方で言った」


朝景はまだ半信半疑の顔をしている。


「子どもの妄言だろう」

「でも」

「朝凪」


汀がそれを遮った。

声は低かった。


「詳しく。全部だ」


朝凪はできるだけ正確に話した。

木札を並べていたこと。いきなり顔を上げたこと。流暢に喋ったこと。

川が切れること、三日後であること、十四人死ぬことまで。

汀は黙って聞いていた。朝景も、途中から怪訝そうな顔のまま口を閉じる。

朝凪の口から嘘が出ることは少ないし、何より汀の様子が尋常ではない。

話が終わると、汀はすぐに動いた。


「川下の見回りを増やすぞ」


朝景が目を見開く。


「おい」

「土嚢を運ばせる。畑の者にも、早めに上がれって伝える」

「子どもの言うことだぞ」

「外れたらそれでいい」


汀はきっぱりと言った。


「外れりゃ笑い話だ。けど、本当だったら死ぬ」


その言い方に、朝景はしばらく黙った。

それから、ふっと鼻で笑う。


「まったく、うちの女房は面倒を拾うのが好きだな」


言いながら、もう動いている。


「いいさ。どうせ川は毎年見とくべきなんだ。先に動いて困るもんでもない」


その軽さは強がりだけではなかった。もともとこの二人はそういう人間だった。

うだうだ恐れて立ち止まるより、まず手を動かす。

最悪のことは考える。考えたうえで、へこたれずに手当てをする。

その太さがあった。


その日から、二人は本気で動いた。

川の見回りを増やし、畑にいる者へ早めに引き上げるよう声をかけ、土手の脆いところへ土嚢を積む。

近隣の家にも「今年は水が早い、気をつけろ」と触れて回る。

理由は言えない。

予言などと言えるはずもない。

だから、雪解けが早かっただの、山の水が多いだの、もっともらしい理屈をつける。

両親の顔は本気だった。与太話の空気ではない。だから皆、警告に従った。


三日後、雨が降った。

朝から細かく降り、昼には強くなり、夕刻には山裾の川が膨らみきった。

土手に集まっていた男たちが叫び、誰かが走る。

朝凪は母屋に押し込まれ、戸の隙間から外の気配を聞いていた。


夜のはじめ、川が切れた。

怒鳴り声と、水の音が一緒に来た。

何か大きなものが割れるような、崩れるような、耳に慣れない轟きだった。

畑をさらい、土塀を崩し、流された者が出る。

朝凪は何も見ていない。

ただ、大人の顔と声で、何が起こったかを知った。


翌日、十四人死んだと聞いた。


子どもが二人。

年寄りが四人。

残りは、見つからない。


美菊が口にした通りだった。


三つの子どもが、そんなことを喃語の延長で言い当てるはずがない。

しかも両親が動いたにもかかわらず、結果はひとつも変わらなかった。

助かった者がいないわけではない。

けれど死ぬ数とその振り分けは、まるであらかじめそこへ戻るように揃っていた。


それから、美菊の予言は何度か起こった。

頻繁ではない。毎月でも、毎週でもない。だからこそ忘れかける。

いつも通りの静かな日々の中にいて、朝凪の子ども心がほっとしかけたころ、不意にまた訪れる。


五日後、崖が崩れ、三人死ぬ。

牛が暴れ、荷車がひっくり返り、ひとり死ぬ。

秋の終わり、火が出て、七つ死ぬ。


どれも、必ず人が死ぬ災いばかりだった。

そしてそのたびに、美菊は普段とはまるで違う声で喋った。

小さな体に何か別のものが入り込んだみたいに、流暢で、感情のない言葉を吐く。

終われば何事もなかったように戻る。

ただ、予言のあとにふと黙り込む時間や、朝凪がその話題に触れたときの目の静けさの中に、言葉にならない苦しみだけが薄く沈んでいた。


父母は、二度、三度と続けばもう疑いようがないと分かっても、沈み込んだりはしなかった。

どうにかして外れるよう、毎度きっちり動いた。崖へ近づく者を止め、牛を繋ぎ直し、火の用心を言い含める。

朝凪もそれを手伝った。


けれど、一度たりとも叶わなかった。


止めたつもりの牛は、別の綱が切れて暴れた。

崖に近づくなと言われた者は別の理由でそこへ行き、結局巻き込まれた。

火を避けた家の代わりに、その隣が焼けた。


行動しなければもっとひどかったのか、行動したからそのかたちになったのか、もう誰にも分からない。

ただひとつ確かなのは、何をしても、美菊が告げた結果そのものは変わらなかったということだけだった。


最初のころ、朝凪は必死だった。

今度こそ外してやると思う。

美菊の言葉が外れればいい。

外れれば、それまでのことは偶然だったのだと笑える。

外せたら、この力は悪いことを避けるために与えられた天啓なのだと奮い立てる。


だが、外れない。


一つ外れないだけなら、まだ偶然と言えた。

二つ、三つとなれば、偶然ではなくなる。

四つ、五つと続けば、それはもう、そういう力なのだと認めるほかなかった。


十一になったころには、朝凪はすっかり理解していた。


予言は不可避だ。


避けようと動くことすら、予言のうちに織り込まれている。

何もしなければそうなるのではない。

何をしても、そこへ収束するのだ。


この理解は、朝凪から幼い柔らかさを大きく削いだ。


もともと武家の子として、現実を早く知る方ではあった。

誰かが死に、誰かが怪我をし、それが特別ではない世界に育っている。

けれど、予言はそれとまた別の残酷さを持っていた。

死ぬと先に知ってしまうこと。

しかも、それが避けられないこと。

知ってなお、見ているしかないこと。


悔しかった。

苦しかった。


自分の知り合いが死ぬこともあった。

顔を知っている畑の老人。菓子を分けてもらったことのある女。いつも走って笑っていた子ども。

予言の中の数としてではなく、生きていた人間として知っている者たちが、告げられた通りに死んでいく。


朝凪は何度も歯噛みした。

それでも両親は、疲れた顔を見せなかった。


「まあ、やるだけやるさ」

「外れりゃ儲けもんだ」


そんなふうに、汀は布をきつく巻き直し、朝景は槍の柄を確かめた。

もう予言が外れないことは、二人だって分かっている。

分かっていてなお、沈む前に手を動かす。


そのころには、朝凪はもう気づいていた。

美菊が捨てられた理由は、たぶんこれだ。


赤毛でも青眼でもないことも不吉だったろう。

だがそれだけなら、密かに処理するにしても、雪へ捨てるようなことまではしなかったかもしれない。

必ず人死の出る災いを、避けようもなく告げてしまうこの力。

それこそが、美菊を「死んでくれ」と捨てさせたのだと、朝凪には思えた。


それが、たまらなかった。


美菊が望んでしているわけではない。

美菊の意思で語られるのではない。

喋りたいから喋るのではない。

いつもは言葉もろくに続かないのに、そのときだけ何かに口を貸したように流暢になる。

それがどれほど異様で、どれほど本人に無関係なことか、朝凪は最初の一度から見てきた。


自分の口が勝手に動き、自分の喉が災いを言い渡し、自分の声で誰かの死を告げる。

止められず、外れもせず、あとから必ず現実になる。

それがどれほど恐ろしいか、朝凪は美菊の性質を思うと余計に苦しかった。

もしもっと言葉が達者で、もっと感情をそのまま吐き出せる子であったなら。

泣き叫べる子であったなら。

けれど美菊はただ静かに、災禍の未来を知りながら、それを見つめて受け入れ続けている。


美菊は予言のあと、何も言わない。何かを嘆きもしない。

朝凪が「なんでだ」と怒っても、ただ静かに見返すだけだ。

その在り方が、朝凪には苦しかった。


ある夕方のことだった。

何日か前にひとつの災いが済み、またしばらくは静かな時間が流れていた。

外では風が吹いていて、干した布がひっくり返る音がする。

汀は炊事場におり、朝景はまだ戻っていない。

離れには朝凪と美菊だけだった。


美菊はもう七つになっていた。

痩せてもいないし、弱ってもいない。

けれど子どもらしい快活さとはやはり遠い。

静かにそっと、陰りの中にいる。

それでも朝凪が行けば、ちゃんと目が向く。

呼べばこちらを見る。そのことだけは変わらない。


朝凪は美菊の前に座っていた。

何をするでもなく、ただいる。最近はこういう時間が増えた。

子どもっぽい遊びを持ち込む年ではなくなり、美菊もまた、その手のものにはあまり興味を示さない。

だからただ、向かい合って座る。

ときどき本を開き、ときどき外の音を聞く。

それだけだ。


「……なあ」


朝凪の声に、美菊が顔を上げる。


「予言さ」


少し間を置いて、続ける。


「おまえ、覚えてるのか。あれを、喋ってるとき」


美菊は首を小さく傾げた。


「……おぼえて、います」


前よりは、言葉も少しずつ出るようになっていた。

けれど、相変わらず短い。

必要なことだけを、ぽつり、ぽつりと置いていく。


「……全部?」

「はい」


美菊は少しだけ黙った。言葉を探すような間だった。


「……止められない」


その声は静かだった。泣きそうでも、怒っているふうでもない。

ただ、それが事実だと告げる声だった。

だが朝凪には、その平らさがかえって堪えた。


「そうか」


朝凪は膝に目を落とす。

美菊はしばらく黙り、それから静かに手が上がった。

細い指が、迷いなく自分の喉へかかる。

白い皮膚を指先で摘まみ、罰するように、容赦なくきつく抓る。

喉の薄い肉が指のあいだで引きつれ、皮膚の色がそこだけすぐに変わる。


朝凪は反射的に手を伸ばしていた。

美菊の手首を掴み、そのまま喉から引き剥がす。

考えるより先に体が動いていた。

美菊がゆっくりと目を瞬いた。


災禍は、喉から出る。

勝手に、止められずに。

災いを告げる言葉が、いつもそこを通る。

その苦しさが、いま目の前で、美菊の細い指の強さになっていた。


朝凪は息を詰めたまま、その手を離さない。

喉を抓っていた指先が、まだわずかに強ばっている。

白い喉には、爪の痕がうっすら赤く残った。


美菊の手は、小さい。七つの子どもの手だ。

細いが、骨ばってはいない。いとけない、ただの子どもの手。

冬でもないのに少しひんやり見えるその手を、朝凪は自分の手でそっと握った。


手は、あたたかかった。

小さいけれど、ちゃんと生きている温度がある。

七年前、初めて指を握られたときと同じ、確かなぬくもりだった。


「……おれ」


朝凪は、手を握ったまま言う。


「一緒に知る」


美菊は何も言わない。

朝凪は続ける。


「おまえが言うの、聞く。外れなくても、変わらなくても、聞く」


言葉にしてみると、ひどく身勝手だった。

助けられるわけではない。変えられるわけでもない。

ただ、一緒に重くなるだけだ。そんなことを、美菊が望むはずもない。

それでも朝凪はやめなかった。


「一人で見なくていいように」


そこまで言って、少しだけ声が詰まる。

幼い、自己満足の願いだ。わかっている。

けれど、それ以上に、言わずにいる方が耐えられなかった。


美菊はしばらく、朝凪の手を見ていた。

それから、ほんの少しだけ、口元がやわらいだ。

笑った、と呼ぶにはあまりに小さな変化だった。

だが、朝凪には分かった。

こんなふうに美菊が微かに笑むのを、ずっと近くで見てきたからだ。


「……はい」


静かな声だった。

それ以上の言葉はない。

けれど、そのひと言で十分だった。

朝凪は握っていた手に、少しだけ力を込める。

美菊も、逃げるでも、握り返すでもなく、そのままそこにある。

二つの手のあいだに、何かひどく静かな約束が置かれたように思えた。


日が落ちる。

夜が来て、朝が来る。

誰かが死ぬ未来は、たぶんまた来る。

予言もまた、止まらない。

それでも、そのとき朝凪は少しだけ呼吸が楽になった。

何も変えられないまま、ただ受け入れ続けるしかないのだとしても、その重さを自分も知る。

せめてそれだけは、一緒に背負う。

それが救いになるのかどうかは分からない。

けれど、そうしていたいと、朝凪は強く思った。


その小さな手のぬくもりが、答えの代わりみたいに、しばらく朝凪の掌の中に残っていた。



■■



雪の湿り気がようやく山を離れたころだった。


風はまだ冷たいが、土の匂いはもう冬のものではない。

草は低いところから先に伸び、川沿いの石には薄い苔が戻り始めている。

そういう季節に、美菊はぽつりと予言を口にした。


「『門』が、ひらく」


その日の美菊は、朝から少しだけ様子が違っていた。

普段よりさらに静かで、朝凪が何か言っても、返事が半拍遅れる。

何年たっても、美菊の予言が始まる前の気配は完全には読めない。

ただ、長く一緒にいると、空気がわずかに変わるのが分かるようになってくる。

目がどこでもない遠くを見始めること。

息の間がとおく、一定になること。

世界のこちら側から、少しだけ外れていくような感じ。


朝凪は十三になっていた。

もうまるきり子どもとは言いにくい年だが、元服には少し早い。

けれど、その落ち着き方は、年相応よりもずっと老成していた。

言葉は短く、理性下に置き、動揺や感情が表に出ないように抑制する。

武家の嫡男として育ち、予言という不可避のものを幼くして知った者の顔つきだった。

朝凪は、離れの障子際に座る美菊を見た。


「どんなだ」


美菊は少しだけ目を上げる。

けれど焦点は、まだこちらへ戻りきっていない。

声が出たときには、やはり普段のたどたどしい話し方とは別の、なめらかな響きになっていた。


「異界の門がひらく。異形があふれる。十七人が死ぬ」


そこで一度、言葉が途切れる。

朝凪は待った。


「槍持つ者は胸を裂かれ、駆けた馬は子を踏み、土塀に伏せた女は喉を失う」


静かな言い方だった。

何かに口を貸しているだけの、感情を挟む余地のない声音。

朝凪はもう、その話し方にいちいち驚きはしない。

七つのころに初めて聞いた予言から六年が経っている。

その六年で、何度それを聞いただろう。

忘れたころに訪れる災厄の予告。

毎度、必ず人が死ぬ予言。

そして、何をしても覆らない結末。


「十七か」


朝凪は低く言う。


「……誰かは、分からないんだな」


美菊の目が少しだけ揺れ、それから、予言の色が抜けるのとほぼ同時に、いつもの静かな顔へ戻る。


「……わかりません」


普段の声で、短く答える。


「そうか」


朝凪は頷いた。

いつもの災いなら、汀も朝景もできるだけ先に動いた。

けれど『門』は違う。

開きはじめてようやく綾のざらつきが知られ、具体の場所と規模は『天眼』の視たものが囁石で流されて、そこで初めて戦う者たちが動く。

まだ起きていない『門』のことを、あらかじめ武家へ触れて回ることなどできない。

そんなことをすれば、いらぬ疑いを持たれるだけだ。

だから、このとき汀と朝景がしたのは、せいぜい自分たちの支度を整えることだけだった。


「そう来たか」


朝景は朝凪から話を聞くと、装備の確認に席を立った。


「まあ、知らせが来てから出るしかねえな」


汀は腕を組み、少しだけ目を細める。


「離れの火だけは、今のうちに見直しておく。あとは湯を多めに沸かしとくよ。怪我人が出るかもしれない」

「そうだな。外れたら無駄湯だ」

「無駄で上等」


そう言って汀は鼻で笑う。

暗い顔はしない。

二人とも、『門』が来るかもしれない夜を前にしてもいつも通りだった。

怖くないわけではないのだろう。

けれど怖がって座り込む性分ではない。

やれることを先にやる。腹が減るなら飯を食う。眠れるうちに眠る。そういう図太さがあった。

朝凪は、両親のそういうところが好きだった。


『門』がひらいたのは、三日後だった。

昼の刻を少し過ぎたころ、皮膚の裏をざらつかせる嫌な引っかかりが風斎領のあちこちに走り、その直後に囁石から警報が流れた。

山裾にて『門』発生。規模、中。出現数、未詳。

朝景も汀も、報せが伝わるより先に立ち上がっていた。


「来たか」


朝景は言い、汀は「じゃあ行くよ」と短く返す。

その身軽さは、予言を知っていたからではなく、来た以上は出る、と腹を括っている武家のそれだった。


「朝凪」


汀が振り返る。


「家をあける。離れから目を離すんじゃないぞ」


朝景は綾の槍を肩へ担ぎながら笑った。


「帰ったら飯だ。あんまり気張るなよ」


まるで夕方までに戻る軽い使いのような言い方だった。


けれど、それが最後だった。


日が落ちても戻らない。

夜が更けても、まだ戻らない。


朝凪は母屋と離れのあいだを何度も往復した。

美菊は静かにしていた。何も言わない。何も言わないまま、朝凪の顔を見ている。

その視線に腹が立つわけではない。

けれど、見られていると、胸の中のざらつきが余計にあらわになる気がした。


報せが来たのは、翌日の午後だった。

武家の若い者が一人、しろい顔で戸口に立った。

夜通し走ったのか、衣は泥を吸っていた。

朝凪はその顔を見ただけで、だいたい分かった。


「……朝景殿、汀殿、討死にございます」


伝令は、定められた通りの言葉で告げた。

山裾での迎撃戦において戦死。

戦況は逼迫し、遺体の収容は叶わず。

ゆえに、名のみが戻る。


名だけが戻る。

その響きの空虚さを、朝凪は一生忘れない。


人が死ぬとき、最後に家へ返るものが名だけであることは武家では珍しくない。遺体が戻る方がむしろ稀だ。

化け物に食われる。踏み潰される。散る。焼ける。

指一本、戻れば僥倖。


それでも、いざ自分の父母がそうなると、むなしさは想像よりずっと重かった。

棺に入れるべきものがない。

顔を見て別れを言うこともない。

ただ報せだけが来て、二人はもうこの世にいないと知る。


父も母も、昨日までここにいた。

声があり、手があり、茶碗を持ち、戸を開けた。その人間が、たった一日のあいだに、名だけになる。


朝凪は、その報せを立って聞いた。

泣きはしなかった。

ただ、胸の底にひどく乾いたものだけが沈む。


常に覚悟はしていた。

『門』が開けば死ぬかもしれない。

死ぬときはたいてい、惨たらしい。

武家とはそういうものだ。

誰もそれを知らずに刀を握るわけではない。


葬儀はすぐに整えられた。

朝凪は喪主を務めた。

十三の少年には重い役目だと周囲は気遣ったが、朝凪は淡々としていた。

作法通りの喪服を着、礼を受け、礼を返し、名を呼ばれるたびに顔を上げる。

棺の中にあるのは、今年の夏に仕立てようと用意していた反物だ。

着物の形になることもなく、彼らが袖を通すこともなく、体の代わりに弔われる。

それを見ても、涙は出ない。

空っぽな棺に頭を下げていると、泣くより先に怒りに似た諦念が胸を満たしていく。


武家とは、結局こういうものなのだと、朝凪は思った。


どれだけ民に敬われても。

どれだけ立派な屋敷を与えられても。

どれだけ「守る者」として語られても。

最後は、血と汚泥に塗れて死ぬ。

肉を裂かれ、骨を砕かれ、誰とも分からぬ屑になって戻ることもできない。

そういう終わりを迎えるために生まれ、武を学び、鍛え、戦う。

その虚しさが、葬儀のあいだずっと胸の底に座っていた。


弔問に来る者たちは、父と母の誉を語った。

立派だった、と言った。

見事な最期だった、と言う者までいた。

朝凪は、ありがとうございます、とだけ答えた。


立派なものか、と内心では思う。

化け物に食い散らかされ、遺体も戻らない最期の何が見事か。

だが、それを口にはしない。口にしたところで、何も変わらない。

それが誉として処理されることで、ようやく残された者たちが次へ進めるのだと、十三の朝凪はすでに知っていた。


弔いが終わり、人が引き、家の中に静けさが戻ってからも、朝凪はしばらく何も感じなかった。

悲しくないわけではない。

けれど、その悲しみより先に、空洞のようなものがある。


父も母も死んだ。

いずれ自分も死ぬ。

汚泥の中で。化物に嬲られて。ただの潰れた肉になって。

その未来は、これまでよりもずっと現実味を持って、朝凪の前に置かれていた。


その夜、美菊はいつも通り、離れ静かに座っていただけだった。

火を落とす前の、ひどく静かな時間だった。

葬儀で疲れているはずなのに、眠れず、朝凪は離れを訪れた。

美菊は、汀の遺した帯を両手で握りしめている。

伏せた黒い目の感情は読めない。


しばらく、どちらも何も言わなかった。

言葉にするべきものが見つからない。

見つからないまま、胸の底にある怒りとやるせなさだけが、行き場をなくして澱んでいく。

やがて朝凪は、ふいに口を開いた。


「……なあ」


美菊が顔を上げる。

朝凪はしばらく黙っていた。

何を言えばいいのか分からなかった。

父母のことを言えば、きっと慰めを求めるようなものになる。

慰められたいわけではなかった。

武家の死がこういうものだと知っているのだから。

だから、口から出たのは、もっとひどく、もっと身勝手な問いだった。


「お前は」


喉が、少し掠れた。


「俺の死期も、予言するのか」


言ってから、朝凪自身が一瞬、息を止めた。

ひどいことを訊いた、とすぐに分かった。

すさんだ気持ちを言い訳に、美菊に向けていい言葉ではない。

美菊は望んで予言しているわけではない。そのことを誰より知っているのは朝凪自身のはずだった。

謝ろうとした、その前に、美菊が静かに口を開いた。


「いまから、十年後」


朝凪は息を止める。

美菊の目は、いつもの静けさのままだった。

けれどその言葉は、普段の会話ではないとすぐに分かった。

予言の声ほど異様に流暢ではなくとも、そこには「見ているものをそのまま置く」無機質さがあった。


「みんな、死にます」


朝凪は固まる。


十年後。

みんな。


その一言で、父母の死の重さとはまた別のものが、胸へ落ちた。


「それ……」


喉がうまく動かない。


「それって」


美菊は、静かに、まるで昔からそこにある文句を読み上げるように語り始めた。


「静かな日々がつづく。陽はめぐり、草は伸び、子は育つ。そして無数の門がひらく。禍滲があふれ、地を埋め尽くす。火があがる。叫びは届かぬ。首は鈴生り。折られた名が、積み上がる。逃げることは叶わない」


離れの中が静まり返る。


「ひとり、のこる。そして――」


風の音も、火のはぜる音も、遠い。


「風斎は滅びる」


朝凪は呆然とした。


十年後。

一族は滅びる。

自分も死ぬ。

父母だけではない。家だけでもない。血を継ぐ者すべてが死ぬ。ただ一人を除いて。


その予言は美菊が生まれたとき産声の代わりに口にしたものだったのだと、朝凪はそのとき知る。

いや、正確には、前からどこかでその気配だけは感じていたのかもしれない。

美菊が雪の中へ捨てられるには、目先の災いだけでは足りない。

もっと大きく、家そのものを揺るがす何かがあったのではないかと。

だが、実際に聞くと、それは想像よりずっと巨大だった。


一族滅亡。

自分の死期が、そんなふうに、あまりにも大きな災厄の一部として置かれている。


朝凪はしばらく息もできなかった。

そして、ふと、別のことを考える。


自分はどうせ戦場で死ぬのだと思っていた。

『門』が開き、化け物に囲まれ、血と汚泥の中で、惨めに。

父母と同じように、遺体も残らず潰えるのだろうと。

そういう終わりを迎えるために生きるしかないのだと、どこかで諦めていた。

だから、話の大きさには驚いたが、予想はできる死に方だった。


けれど、この予言の中で美菊はどうしているのか。


美菊が戦場にでることはないだろう。

ならば家にいるところを巻き込まれるのか。

それとも、それより前に別の理由で消えるのか。

もしかして、唯一残る「ひとり」なのか。

どの道であっても、せめて苦しまずにいてくれたら、と思った。

自分の終わりより先に、そちらを考えた。

朝凪はそっと訊いた。


「その時」


声が低く落ちる。


「お前は、どうしてるか、わかるか」


美菊は、ひとつ瞬いて朝凪を見た。

その視線は揺れない。


「ともに、います」


短く、それから、訥々と、


「あきらと──ともにいて、ともに、しにます」


その瞬間、朝凪の胸に満ちたものは、悲しみではなかった。


歓喜だった。


あまりにまっすぐな、ほとんど恐ろしいほどの歓喜が、胸の奥から一気にあふれた。


自分は戦場で、ただ一人で、悲鳴と血と汚泥にまみれて死ぬのではない。

最後に見るのは、化け物の顎でも、夜の泥でもない。

最後に見るのは、美菊の顔だ。

最後に聞くのは、美菊の声だ。

この静かな目を見て、この淡い声を聞いて、終われるのだ。


それは、朝凪にとって、世界の見え方そのものを変えるほどの救いだった。

父母の死はむなしく、武家の終わりが惨めであることも、何一つ変わらない。

けれど、


「ああ──」


声が、自分でも知らぬほどやわらかく出た。


「……上等な、人生だ」


ようやく、涙が一筋おちた。


美菊は何も言わない。

けれど、その言葉を否定もしない。

朝凪はそのとき、はっきりと決めた。


十年後、美菊と共に死ぬ。


それは避けられない未来として与えられているのだろう。

ならば、自分はその日までを、美菊と共に歩く。

『門』が開く十年後へ、そこまでの静かな日々を、喜びをもって進む。


死を望むのではない。

けれど、死が美菊と共にあるなら、それはもう、惨めなだけのものではなかった。

虚しく惨めに死ぬために産まれたのではないのだと。

美菊と死ぬために産まれてきたのだと。


父と母がいなくなった家は、静かだった。

けれど朝凪の内側では、その静けさの底に、新しい熱が灯っていた。

捨て鉢ではない。諦めでもない。

もっと暗く、もっと深いところで凝るような決意だった。


その日から、朝凪は美菊と共に死へのみちゆきを歩み始める。


まだ十年ある。

子どもであることが終わり、大人になり、風斎の子としての役目を負い、日々を積む十年。

その先に、確定した滅びがある。


それでもよかった。

それで、よかった。


朝凪は美菊の手を取った。

九つの手は、昔と同じように小さく、あたたかい。

花のようだと思った、しろい手。

乾いた胸の底へ、そのぬくもりだけが確かなものとしておちてくる。


「一緒だな」


朝凪は低く言う。

美菊は、ほんの少しだけ頷いた。


「はい」


それだけで十分だった。


外では風が吹いている。

『門』は閉じ、化け物は去り、父母は戻らない。

けれどその喪失の果てで、朝凪は自分の人生の輪郭を初めて明確に手にした気がしていた。



■■



卓の向こうでは、十一の美菊が静かに椀を持っている。

あれから二年。

まだ子どもだ。肩も細く、箸を運ぶ手つきも稚い。


八年後、共に死ぬ。


いま目の前にいるこの子は、まだそこへ届くまでの長い道の途中にいる。

予言の結末は変わらない。しかしみちゆきはいくらでも選べる。

けれど、たとえどのようなみちゆきを辿ろうと、朝凪にとってはもうあの日からずっと、最期まで連れていくものだった。


「……どうか、しましたか」


美菊が言う。

朝凪は首を振る。


「なんでもない」


それ以上は言わない。今日の死者のことも、予言がまたひとつ寸分違わず収束したことも。

ただ、椀を持ち直す。

外はもう、すっかり夜だった。




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