栗花落の日影
朝から、空が妙に低かった。
雲は厚くはないのに、光が白く鈍い。
晴れているとも曇っているとも言いがたい、輪郭の曖昧な日だった。
こういう日は、屋敷の中までどこか落ち着かない。
人の声も足音も、いつもより少し遠く聞こえる。
そのうえ今朝は、裏手の厩のあたりが朝からなんとなくざわついていた。
新しく回された若い栗毛がいつになく落ち着かないのだと、女房たちが小声で話しているのが聞こえた。
まだよく躾の入りきっていない、小柄で脚のはやい馬である。
愛護はその馬を、このところ気に入っていた。
乗せてもらったことはない。
ただ、裏手を通るたび、栗色のたてがみが日に光るのを見るのが好きだった。
今朝は、その馬のまわりの空気が妙だった。
綾に縁深い家に育った者にはままあることだが、愛護は時々、綾の濃いところがうっすら『見える』。
はっきり形が見えるわけではないので、感じると言ったほうが近いかもしれない。
空気の継ぎ目のようなものが、今日はいつもと違う、と分かる程度だ。
その朝、栗毛のそばには、細い綾の糸がいくつも絡まりあって、ふらふらと風に揺れているように見えた。
それが、少しだけ、前のことを思い出させた。
山道で感じた、あのねじれた空気。
見えているのに、まっすぐ届いてこない景色。
そして、その先にあった家。
朝の低い空と、馬のそばで不穏に絡む綾が、胸の奥に眠らせていた記憶を、ふいに撫で起こした。
そのせいで、馬だけでなく愛護も朝からそわそわしていた。
落ち着かない朝というのは、気持ちの置きどころもいつもより少し曖昧になる。
今日も、朝凪は出仕している。
朝の早い刻から本家へ上がり、いつもと同じ顔でいつもと同じように愛護の後ろへ控えていた。
静かな声も、帯刀の位置も、礼の深さも、目を伏せる角度も、寸分違わない。
あの日のことなど、まったくなかったような顔で。
愛護は、忘れていない。
山の家のことも、そこにいたひとのことも。
ただ、それでも――本当に、詮索するつもりはなかった。
あの後、自分はちゃんと口にしたのだ。
朝凪が隠したいのなら、むりやり踏み込んだりはしない、と。
あれは、ただその場をおさめるための言葉ではなかった。
自分なりに考えて、そうしようと決めた言葉だった。
だから、その日の愛護は、ほんとうに別の理由で外に出たのだった。
昼前、その朝から妙に落ち着きのなかった栗毛がとうとう繋ぎを外して逃げた。
ほんの隙をつくように人の手を振り切って山手へ駆けていったのだ。
厩の者たちが慌てて追い、侍女たちがざわつき、誰かが兵を呼びに走った。
朝凪がいれば迷いの綾を手早く織って馬を誘導できたかもしれないが、彼は折り悪く午後の支度のために必要な書付を取りにほんのしばらく外していた。
愛護は本来、そんな騒ぎに混じる立場ではない。
そう分かってはいたけれど、廊の隅から見ているうち、気づけば小さな草履を履いて庭へ降りていた。
兵が慌てて出て行ったあと閉め切らずにいた裏門の先の斜面に、栗毛の尻尾がちらりと見えた気がしたのだ。
「こら、待って」
そう声をかけたのは、ほとんど反射だった。
馬は当然、止まらない。
草の間をすべるように駆け、細い獣道へ入っていく。
愛護もまた、そのあとを追った。
途中で厩番か兵かの誰かに会うつもりだったし、少し行けばすぐ諦めて戻るつもりでもあった。
見失ってもいいように、せめて馬が走っていった方角を確かめようとしただけだった。
けれど、山裾の道に入った途端、妙に空気が変わった。
風が、変なふうに吹く。
木々の間を抜けてくるのではなく、足元から這い上がってくるような、向きの定まらない風だ。
先ほどまで見えていた栗毛の背が見えなくなり、代わりに折れた枝と、踏み荒らされた草だけが残った。
「……あれ」
愛護は立ち止まった。
見覚えのない道だった。
いや、見覚えがないのではない。
どこか、知っている。
以前も、こういうふうに、道が道でなくなる場所を歩いたことがある。
胸の奥が、いやなふうに鳴った。
――まさか。
そのまさかを、口に出す前に、足は勝手に進んでいた。
追いかけていたはずの馬のことは、もう半ば頭から消えている。
代わりに、前に一度だけ通ったはずの、ねじれた山道の感触が足の裏に蘇ってくる。
行こうとしているわけではない。
ほんとうに、そうではない。
ただ、気づけば同じような木立を抜け、同じような湿り気のある空気の中にいて、同じように音が少しずつ遠ざかっていく。
そして、ふっと膜が裂けるように視界がひらけた。
そこに、家があった。
古い家ではある。けれど荒れてはいない。
戸も壁もきちんと手が入っていて、軒先も庭先も、ひと目で人の暮らしがあると分かる整い方をしている。
誰かが日々きちんと面倒を見ている家の顔だった。
愛護は、その場に立ち尽くした。
「……なんで」
自分に問いかけても、答えはない。
来るつもりではなかった。
本当に、来るつもりではなかったのだ。
朝凪との約束を破るつもりも、こっそりあのこに会いにくるつもりも、なかった。
だのに、来てしまった。
胸が、少し苦しくなる。
帰ろう、と思った。
いまなら、まだ。
そう思ったのに、家の中から、障子の開く気配がした。
静かな足音。
やがて戸口に現れたのは、あの日の少年だった。
「……ひめさま」
変わらない声だった。やわらかく、少したどたどしい、けれど不思議に落ち着く声。
愛護は、息を呑んだ。
薄い光の中に立っているその姿は、やはりどこか現実感が薄い。
黒い髪は淡く曇った昼の光を静かに吸い、黒い目は澄んで深く、まっすぐこちらを見ている。
人であることを疑わせるわけではない。
ただ、ふつうの人より少しだけ、この山の静けさに近いだけだ。
「……あ」
間の抜けた声が出た。
それから、慌てて言い足す。
「ち、ちがうの。愛護、会いに来たわけじゃなくて」
その言い訳のあまりの子どもっぽさに、自分で顔が熱くなる。
だが、彼は笑いもしなかった。
ただ静かに、こちらを見ている。
「馬が、逃げて……それで、追いかけてたら……」
「はい」
「そしたら、なんか、ここに」
言ってしまってから、ひどく情けなくなる。
まるで言い逃れのようだ。
けれど、本当にそうなのだから仕方ない。
彼は、しばらく黙っていたが、やがて少しだけ首を傾けた。
「……では、迷われたのですね」
その言い方がおかしくて、愛護は少しだけ目を瞬いた。
迷った、というより、導かれた気がする。
だが、そう言葉にされると、なんだか本当にただの迷子みたいで、少しだけ肩の力が抜けた。
「……うん。たぶん」
「お怪我は」
「ないよ」
「そうですか」
それだけ言って、彼は戸口から半歩だけ退いた。
招き入れるでもなく、締め出すでもない、曖昧な距離だ。
愛護は戸口の前に立ったまま、その顔を見上げる。
「あのね」
「はい」
「ほんとうに、勝手に来るつもりじゃなかったの」
「……はい」
「朝凪と、約束したもん」
今度は、彼の目がほんのわずかにやわらいだように見えた。
「朝凪は、そういうの、厳しいので」
愛護は思わず、少しだけ笑った。
「うん。知ってる」
その短い会話だけで、不思議とあたりの空気が落ち着いた。
家の周りの静けさも、先日感じたような緊張を帯びていない。
朝凪がいないからかもしれない、と愛護は思った。
あの人がいると、周囲の空気までもきりりと張る。
彼は相変わらず穏やかだった。
「……お水、飲まれますか」
「え」
「ここまで、歩いたのでしょう」
そう言われて初めて、自分が喉の渇きを覚えていたことに気づく。
少し迷ったが、愛護はこくりと頷いた。
「……うん」
家の中に上がるのはためらわれたので、戸口近くの縁側に座らせてもらった。
彼は奥から湯呑を持ってくる。
動きは静かで、音がほとんどしない。
けれど、家の中にはちゃんと人の暮らしの温度があった。
磨かれた木の匂いと、火を使ったあとのほのかなぬくみ。
戸口から見える範囲だけでも、きちんと片づいていることが分かる。
誰かが住んで、朝を送り、昼を過ごし、夜を迎えている家の空気だった。
湯呑を受け取りながら、愛護はそっとその指先を見る。
細くて白い。
生きている人の手なのに、どこか花びらのようだ、と思った。
愛護は湯呑を両手で抱え、しばらく黙っていた。
聞きたいことは、たくさんあるはずなのに、いざこうして二人きりになると、何を訊いていいのか分からない。
名前。年。どうしてここにいるのか。朝凪との関係。
どれも、訊いてはいけない気がする。
だから、どうでもいいことを口にした。
「今日ね、馬が逃げたの」
「はい」
「栗毛の、ちいさいの。まだあんまりおりこうじゃなくて」
「はい」
「朝から、ちょっとへんな日だったの。空もなんか、おもくて」
「……そうですね」
「うん。みんなも、ちょっと落ち着かない感じで」
彼は、湯呑を持つ愛護の手もとを見ていた。
「そういう日は、あります」
「あるの?」
「はい。家の中まで、すこしだけ、音が遠い日」
愛護は目を丸くする。
「そう、それ」
思わず身を乗り出す。
「そんな感じ。朝から、なんかへんだったの」
彼は静かに頷いた。
「山も、そういう日があります」
その言い方が、なんだかひどく自然だった。
愛護が胸の奥でもやもやしていたものを、そのまま言葉にしてもらったような気がする。
愛護は少し嬉しくなって、ついまた喋る。
「でも、たぶんもう馬は捕まってると思う」
「はい」
「けがしてないといいんだけど」
「きっと、だいじょうぶですよ」
それだけのやりとりなのに、妙に満たされる。
彼はたくさん喋らない。けれど、聞いていないわけでもない。
言葉の端々が静かに受け止められていく感覚がある。
愛護は湯呑に口をつける。
ひんやりしていて、渇いた喉にあまかった。
「おいしい」
「よかったです」
「……あのね」
もう少し何か言おうとして、ふと顔を上げた。
気配がした。
ひどく鋭い、よく知っている気配だった。
次の瞬間、家の外で足音が止まる。
愛護の背筋が、ひやりと冷えた。
「――姫様」
低い声。
怒鳴ってはいない。むしろ抑えられている。だからこそ、余計にこわい。
朝凪が、そこにいた。
戸口の外に立つ姿は、いつもの出仕姿のままだった。
戻ってくるつもりなどなかったはずの、きちんと整った格好のまま、けれど目だけがひどく険しい。
愛護は咄嗟に立ち上がる。
「ち、ちがうの」
言った途端、それがいちばん駄目な言い方だと分かる。
何が違うのか、自分でもうまく説明できない。
朝凪はすぐには答えなかった。
怒りを呑み込むように、一度だけゆっくり呼吸をしてから、ようやく口を開く。
「どうしてこちらに」
丁寧に整えようとしているのに、整えきれていない声音だった。
責めているのは確かだ。
けれど責めるだけではない。
焦りと、恐れと、ぎりぎりのところで抑え込まれたものが混ざっている。
愛護はその目を見ていられなくなった。
「……馬が、逃げて」
「馬」
「追いかけてたら、こっちに……ほんとうなの。ほんとうに、会いにくるつもりじゃ」
そこまで言って、言葉がつかえた。
自然に顔が下を向く。
怒っている。
ものすごく、怒っている。
声を荒げてはいないのに、それが分かる。
けれど同時に、その怒りが自分を責めるだけのものではないことも、なんとなく感じた。
朝凪がいま向けているのは、もっと尖った、何かが取り返しのつかないところまで転がるのを恐れる者の怒りだった。
朝凪はしばらく黙っていた。
その沈黙が、一番苦しい。
やがて低く言う。
「……姫様が、以前仰ったことを偽りとは思っておりません」
愛護ははっとして顔を上げた。
朝凪はまだ険しい目をしていた。
だが、言葉だけはかろうじて整えている。
「ゆえに、まずは御身の無事を確認いたします。お怪我は」
「な、ない」
「そうですか」
短い応答。
それから、さらに少しだけ声を落とす。
「では、お戻りいただきます」
言い方は穏やかにしようとしている。
けれど、棘は消えない。
愛護はそれを真正面から受けて、とうとう唇を噛んだ。
自分は約束を破った。
結果として、そうなってしまった。
つもりがなかったことなど、朝凪の前では言い訳にしかならない。
「……ごめんなさい」
かすれた声で言うと、胸の奥が詰まった。
泣いてはいけない、と思うのに、目の奥が熱い。
足がふるえる。
とうとう喉が、ひく、と鳴った。
そのとき、すっと、彼が立ち上がった。
朝凪が何か言うより早く、彼は愛護のそばまで来る。
そしてごく自然な仕草で、その小さな体を抱きこんだ。
「ひめさま」
耳元で、やわらかい声がする。
「だいじょうぶです」
そっと、頭を撫でられる。
ゆっくり、一定の速さで。
赤子をあやすようでもなく、ただ気持ちを鎮めるように。
「約束を、やぶろうとしたわけでは、ないのでしょう」
愛護は、こくりと小さく頷く。
涙が、ひとつこぼれた。
「……うん」
「でしたら、だいじょうぶです」
その「だいじょうぶ」が何を保証する言葉なのか、愛護にはよく分からなかった。
けれど不思議と、その一言で張り詰めていたものが少しだけほどけた。
朝凪は、少し離れた場所に立ったまま、その様子を見ている。
険しい顔は変わらない。
だが、彼を止めはしなかった。
愛護は鼻をすすり、彼の肩に額を押しつける。
水と、すこしの青葉の匂いがした。
「……朝凪、すごく怒ってる」
小さく言うと、彼はまた頭を撫でた。
「はい」
少しだけ間を置いて、
「ひめさまが、いなくなって、怖かったのでしょう」
愛護は目を瞬かせる。
彼の声は変わらず穏やかだった。
そうなのだろうか。
まっとうでまじめな人だから、愛護が屋敷から姿を消したと聞いて一生懸命探したと思う。
けれど、そんなことで怖がる人だろうか。
でもここに戻ってきた朝凪の顔を見ると、愛護には分からないなりに、彼の中で何かが大きく乱れていたのだろうと思える。
愛護は黙ったまま、こくんともう一度頷いた。
しばらくして、彼はそっと愛護から離れる。
さっきまでの足の震えはもうだいぶ治まっていた。
「……帰れますか」
「うん」
「よいこです」
その言い方があまりに落ち着いていて、まるで年嵩の者が小さな子を諭すみたいだったので、愛護は少しだけ笑ってしまう。
泣きそうだった顔が、ようやく元に戻る。
朝凪が一歩、近づいてきた。
「参ります」
短い声。
愛護は素直に頷いた。
「……はい」
逆らう気持ちはなかった。
朝凪の怒りも、焦りも、ちゃんと感じている。
だから、大人しくしていようと思った。
帰り道、朝凪は少し前を歩いた。
いつもなら主である愛護の歩調に合わせるのに、その日は違った。
振り返らない。
ただただ、足を進めている。
愛護は小走りになりながら、その背を見つめた。
何度か、話しかけようと思った。
ごめんなさい、ともう一度言おうかとも思った。
けれど、言葉は喉の奥でからまって出てこない。
しばらくそうしていたが、不意に朝凪が足を止めた。はっと振り返る。
愛護を自分の足で歩かせていることに気づいたのだろう。
山の家から屋敷までは、姫の足で気軽に歩ける距離ではない。
朝凪は一度だけ目を伏せ、短く息を吐いた。
「……失礼いたします」
そう言って、愛護を抱き上げる。
腕の中へ収まると、朝凪の胸もとからは汗と綾の残り香のようなものがした。
出仕の衣のままなのに、そこだけがどこか外の空気を引きずっている。
「動かれませんよう」
「うん」
愛護が頷くと、朝凪は再び歩き出した。
今度は、さっきまでとは景色の流れ方が違った。
速い。ただ速いだけではない。
道のつながりが、ところどころ不思議に薄くなる。
木立のあいだの距離が、目で見るより早く縮む。
風が裾を払うたび、あたりの見え方がわずかにずれて、次の瞬間にはもう少し先へ出ている。
前に朝凪に連れ戻されたときのことを、愛護は思い出した。
あのときも、帰り道はこんなふうだった。
自分が来るときに歩いたはずの長さより、ずっと早く屋敷の近くへ出た。
どういう理屈かは分からない。
けれど朝凪が綾で何かしているのだということだけはなんとなくわかる。
愛護は腕の中でじっとしていた。
朝凪の横顔はまだ固い。
けれど、さっきみたいな鋭さばかりではなくなっている。
腕はしっかりしていて、落ちる心配は少しもない。
怒っているのに、抱え方は乱暴ではない。
それが余計に、申し訳なかった。
やがて山道を抜け、屋敷へ戻る手前まで来たところで、朝凪がようやく足を緩めた。
愛護を下ろしてから、あらためて向き直る。
目の険しさは少しだけ薄れていた。
「……姫様」
「はい」
「本日は、危険でした」
責めるような言い方ではない。
淡々としている。だからこそ、重い。
「はい」
「結果として、約束に反する形となりました」
愛護は俯いた。
「……はい」
「ですが」
その先の言葉に、愛護はそっと顔を上げる。
朝凪はわずかに言葉を探すように黙り、それから続けた。
「故意でないことは、承知いたしました」
それだけだった。
許すとも、咎めないとも言わない。ただ、事実としてそう認める。
愛護はその言葉を胸の中でそっと受け止める。
「……うん」
「今後は、単身で裏手へ出られませんよう」
「はい」
素直に答えた。
朝凪はそれ以上何も言わず、再び歩き出す。
愛護もあとに続く。
屋敷の屋根が見え始めたころ、愛護は一度だけ振り返った。
山は静かで、あの家がどこにあるのか、見分けもつかない。
ただ木々が重なって、深い緑の影をつくっているだけだ。
けれど、その奥に、あのこはいる。
静かに、穏やかに。
頭を撫でてくれた手の感触が、まだ髪に残っている気がした。
愛護はその感触を胸の奥にしまい込み、何も言わず前を向いた。
朝凪の背中は少しだけ遠かったが、ついていけない距離ではなかった。




