栗花落の静謀
夜の山は、昼のそれよりずっと底が深い。
木々はもう緑というより影で、葉の一枚一枚が見える時間は過ぎている。
湿り気を含んだ初夏の風がときおり枝先を鳴らすのに、その音さえどこか遠い。
道そのものが音を呑み、踏みしめた土の感触だけが足裏へ返ってくる。
朝凪は、その道をひとりで上っていた。
昼、愛護を抱えて急いだときとは違う。
いまは綾も薄い。
認識を外し、距離を縮めるための術は必要な分だけに留めている。急ぐ理由はもうない。
屋敷へ愛護を送り届け、見失った一件も、それ以上騒ぎが広がらぬよう収めてきた。
逃げた馬も山裾で確保されたと聞いた。
愛護に怪我はなく、騒ぎに紛れて裏へ出た姫を側付きが連れ戻した、それで済んだ。
済ませた、というべきかもしれない。
玄冬は何も言わなかった。
だが、何も言わぬまま見た目が、短く鋭かった。
朝凪自身、あの目の意味が分からぬほど鈍くはない。
次は許されぬ。少なくとも、そう心得ろということだ。
それでよかった。
余計な穿鑿を呼ばずに済んだのなら、まだましだ。
そう思う一方で、胸の底にはひどく重いものが残っていた。
愛護への怒りではない。
あの場で朝凪の腹を刺したのは、裏切られたという感情ではなかった。
もっと先にあったのは、読めなかったことへの苛立ちと、間に合わなかったかもしれないという焦りだ。
愛護の言葉も、涙も、嘘ではなかった。
約束を破って忍んで来た者の顔ではない。
本当に、馬を追い、道を違え、気づけばあそこへ着いていたのだろう。
だが、それで終わらせていい話ではない。
一度なら、偶然とも言える。
二度目があるなら、もう偶然では足りない。
朝凪は歩きながら、その考えの周囲を何度も巡っていた。
愛護自身にその気があるかどうかは、もはや大して問題ではない。
本人に意思がなくても、必要なら道の方が寄る。
綾はそういうふうに理を曲げることがある。
――予言が絡めばなおさらだ。
人が避けようとしたところで、帳尻だけは合うように出来ている。
そこへ辿り着くことが、もし予言されている何らかに「必要なこと」なら。
思考の先に家が見えた。
小さな灯りがひとつ、障子の向こうで揺れている。
人の気配は外まで漏れていないのに、帰る場所としての輪郭だけは夜の中にくっきりあった。
朝凪は戸口で一度だけ息を吐き、戸を開ける。
「ただいま」
「おかえり、なさい」
返事は静かだった。
美菊は灯りのそばに座っていた。
昼間と同じ、変わらぬ顔でこちらを見る。
愛護が思わぬかたちでここへ来たあとだというのに、不安げでもなければ、落ち着き払って見せようとしているふうでもない。
ただ、ここにいる。
美菊はいつもそうだった。
朝凪は履物を脱ぎ、その向かいへ腰を下ろす。
しばらくは、どちらも何も言わなかった。
黙っていることは、この家では会話の途切れではない。
必要な言葉が出るまで待つ時間にすぎない。
「昼のことだが」
美菊が目を上げる。
「怒ってはない」
言ってから、少しだけ間を置いた。
「あの場では腹が立った。だが、姫を責めても仕方ない。あれは故意じゃない」
「はい」
「問題は、別にある」
灯りの火が、小さく鳴った。
朝凪は膝の上で組んでいた指をほどく。
「二度も来た」
その一言で、言いたいことは足りた。
一度目は、何らかのはずみで理の近道を踏み抜いた。
二度目は馬を追い、ねじれた道へ入った。
事象も理由も違う。
違うのに、結果だけが同じだ。
「一度なら、たまたまだと言える」
朝凪は低く言う。
「二度目まで同じなら、もうそうは思えない。あいつが望んでなくても、道の方が寄るなら話は別だ」
美菊は、少しあいだを置いてから答えた。
「……はい」
「お前、何か知ってるな」
責める声ではなかった。
だが、逃がしもしない声音だった。
美菊は灯りの方へ目をやった。
焔のまわりの薄い明るみを見つめるようにして、しばらく黙る。
それから、ようやく口を開く。
「おわりの日に」
朝凪の視線が上がる。
「ひとり、生きのびます」
それは、朝凪もすでに知っていることだった。
一族は滅ぶ。門は無数に開く。禍滲が満ちる。
戦は崩れ、風斎の血を継ぐ者はこの世から消え去り――ただ一人だけ、生き残る者がいる。
そこまでは、もう何度も聞いてきた。
だが、美菊はその先を言った。
「おんなのこです」
朝凪の眉が、ごくわずかに動く。
「……それは初めて聞く」
「言っていませんでした」
「なぜ」
美菊は少しだけ考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「滅ぶ日の景色の中に、その子はいました。わたしと、あきらと、おなじ場所に」
朝凪は黙って聞く。
「でも、どうしてそこにいるのかはわかりません。たいへんな事態の中だから、風斎のひとがそこにいてもおかしくないと思いました」
確かにそうだ。
一族が滅ぶほどの大規模侵攻のさなかだ。
その時朝凪は美菊を連れて逃げているのか他の目的で行動しているのかはわからないが、そこで「ひとり残る」とされている者が一時同じ場所にいたとしても不思議ではない。
「最初に、ひめさまがここへ来たとき、たぶんこの子だと思いました。でも、まだ、たまたまかもしれなかった」
朝凪はそこで、ようやくゆっくり息を吐いた。
予言は絶対だ。
だが、その絶対の中に含まれるすべての道筋が見えるわけではない。
美菊に与えられるのは結末の景色であって、解釈ではない。
「今日は」
朝凪が言う。
「今日ので、確信したのか」
「はい」
「なぜ」
「たまたま迷ったから、ではないと分かったので」
美菊の声はひどく静かだった。
「滅ぶ日に、たまたま居合わせるだけなら、ここへ来る理由はいりません。でも、ひめさまは、そこへ至るまでに、ここへ来る。必要だから」
愛護が、最後に生き残る娘。
そしてそのために、この家と繋がる必要がある。
美菊のいる場所へ、何度でも辿り着く。
それが先に決まっていて、その結果が滅びの日へ続いている。
朝凪は額へ手を当てた。
面倒だった。
本当に、面倒だった。
愛護が嫌いなわけではない。
悪意も見えない。
賢く、素直で、線を引くべきところをわかっている。
けれど、それとこれとは話が別だ。
あれは風斎の姫だ。
本家の、美菊をなかったことにした家の娘だ。
そして何より、近づく者は危うい。
どれほど無邪気でも、どれほど善意でも、近づくことそのものが危険になりうる。
遠ざけて済むなら、それでよかった。
だが予言がその手を塞ぐ。
朝凪は長く黙った。
怒る相手がいない。切り払うべき敵もいない。だから余計に始末が悪い。
予言は外れない。抗えば抗うほど、別のかたちで結果へ戻る。
ならば、考えるべきはただひとつだ。
どうすれば、最も悪くないかたちで受け取れるか。
朝凪は顔を上げた。
「会わせない、で押し切るのは、もう無理だな」
美菊は小さく頷く。
「はい」
「塞げば、別の筋から来る。今回みたいに、本人にその気がなくても」
朝凪は、自分の言葉が腹立たしいほど正しいことを知っていた。
隠し続けようとして、より読めないかたちで接触される方がよほどまずい。
自分のいないところで、山道の途中で、あるいは綾の綻びの只中で、愛護と美菊が出会う。
その時そこにいるのが愛護だけであればなんとでもできる。
しかし、供がいたら?奥に近しいものがいたら?玄冬がいたら?
それだけは避けたい。
ならば。
「俺が管理する」
声は低く、しかしもう迷っていなかった。
「どうせ会うことになるなら、俺の目の届くところで会わせる。屋敷から勝手に抜けられて、ひとりでここまで来られるのが一番厄介だ。だったら、こっちで時と場所を決めた方がましだ」
言葉にした瞬間、考えが形になる。
遠ざけるのではない。近づき方を制御する。
起こることそのものは止められなくても、どこで、誰の目の前で起こるかは選べるかもしれない。
朝凪は、そういうふうにしか守れない人間だった。
見えないところへ逃がすより、自分の手の届くところに置く。
危険の来る筋道を絞る。
その発想は、もう染みついている。
美菊はしばらく黙っていた。
「……嫌では」
やがて、そう訊く。
朝凪は即座に答えた。
「嫌だ」
それは、なんの飾りもない本音だった。
「できるなら、関わらせたくない。お前に近づくものは、なるべく少ない方がいい」
美菊は目を伏せる。
朝凪は続けた。
「だが、予言がそうなら避けても無駄だ。だったら、こっちで選ぶ」
選べるのは、起こるか起こらないかではない。起こることを、どう受けるかだけだ。
それだけは、朝凪にも分かる。
かつては変えられるかもしれないと足掻いた。予言を外せる日が来るかもしれないと本気で思った。
けれどもう違う。
変わらないものがあると知ってしまった今は、その中でいちばん手の届く位置に置くしかない。
失うにしても、自分の見ているところで。
それが朝凪のやり方だった。
「……ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
朝凪はそっけなく言った。
「お前のことだ」
それだけ返して、口を閉じる。
しばらく、部屋の中には灯芯の燃える小さな音だけがあった。
障子の外を風が撫でるたび、火がわずかに痩せ、また戻る。
山の夜は深く、この家の中だけが人の気配を保っている。
その狭い明るみの中で、朝凪は自分が口にしたことの重さを改めて量っていた。
会わせる。
自分の目の届くところで。
そう決めたのは、ほかにましな手がないからだ。
納得しているわけではない。
腹の底では、いまも気に入らない。
けれど、気に入る気に入らないで動かせる話ではなかった。
予言がそこへ繋がっているなら、こちらにできるのは、せめて経路を狭めることだけだ。
朝凪は、膝の上に置いていた手を開いた。
握りすぎて、指の節が少し白くなっている。
「お前は」
ぽつりと、こぼれた。
美菊が顔を上げる。
「姫が、憎くないのか」
問いかけたあとで、朝凪は視線を外した。
聞かずに済ませることもできた。
けれど、胸の底に沈んでいるものの形を、自分でも確かめておきたかった。
灯りの向こうで、美菊は少しだけ目を伏せた。
すぐには答えず、指先で自分の袖の端をそっと撫でる。
「……ひめさまは」
そこで一度、ことばが途切れる。
「ちいさいです」
朝凪は黙っている。
「なにも、知らないので」
その声音には、責める色がなかった。
恨みも、拗ねた気配もない。
ただ、そういうものとして受け取っている静けさだけがあった。
「わたしのことも、なにも知らない」
朝凪は視線を落としたまま、短く息を吐く。
美菊はしばらく灯りを見ていたが、やがてほんの少しだけ首を傾けた。
「……それに」
「ん」
「あきらがいて、ともかげさまがいて、みぎわさまがいて」
その言い方は、何かを数えるというより、たしかめるようだった。
「それで、足りていたので」
その一言で、朝凪には十分だった。
場所を奪われた、と思うだけの手ざわりが、美菊の中にはない。
雪山に捨てられた日のことを、当然美菊自身は覚えていない。
風斎への郷愁は芽生えようもなかった。
美菊の中に根をおろしているのは、ずっとこの家なのだ。
「……そうか」
朝凪が言うと、美菊は頷いた。
「はい」
それから、少し間を置いて、続ける。
「でも」
朝凪が目を上げる。
「ひめさまが来ると、あきらは、すごく張ります」
朝凪は、思わず黙った。
「つらそうです」
それは責める言い方ではなかった。
ただ、見えていることを、静かに置いただけだった。
朝凪は息を吐いた。
笑うところかもしれない。だが笑えなかった。
愛護が憎いわけではない。
むしろ、あの年の子にしてはよくできた子だと、朝凪自身わかっている。
だから余計に始末が悪い。
何も知らず、何不自由なく、本家の嫡子として愛されている。
守られ、望まれ、惜しみなく手をかけられている。
美菊の存在を消した上で平然と続けられる、正しい血統。
それを思うたびに胸の底で黒いものが静かに澱む。
けれど、その澱みを愛護自身へ向けるのは違うのだと、朝凪も知っていた。
あれはただ、そこに生まれてきた子どもだ。
何も知らず、何も奪ったわけでもなく、そこにいるだけの。
だからこそ、切り捨てられない。
だからこそ、煩わしい。
「……俺は」
朝凪は低く言った。
「たぶん、姫そのものより、姫が持ってるものの方を嫌ってる」
美菊は黙って聞いている。
「本家の名も、立場も、あそこで当たり前みたいに与えられてるものも」
そこで言葉が切れた。
灯りの火が、ひとつ、揺れる。
「だが、お前が憎んでないものを、俺が勝手に憎みきるのも、なんか違う」
それは朝凪にしては、ひどく正直な言い方だった。
美菊は、ほんの少しだけ目をやわらげる。
「……はい」
「だから余計に、面倒なんだ」
朝凪はそう言って、ようやく少しだけ口元を歪めた。
笑いではない。苦いものを呑み下したあとの顔だった。
少し黙ってから、美菊が問う。
「ひめさまに、伝えますか」
「何を」
「また、会うこと」
「言う必要がない」
答えは早かった。
「向こうが何も言わないなら、それでいい。わざわざこちらから繋ぐ理由はない」
「……はい」
「ただ、もし来るなら」
声が低くなる。
「今度は“迷って来た”では済ませない。線がどこにあるか、きっちり分からせる」
愛護は、ものが分かる子だ。少なくとも朝凪はそう見ている。
ならば半端な隠し方より、半端な優しさより、守るための線を明確に置いた方がいい。
踏み越えてよい場所ではないと理解させ、そのうえで必要なときだけ通す。
その方が、長い目で見ればましだ。
外では風がまた枝を鳴らした。
灯りの火がゆれ、美菊の横顔に淡い影が差す。
そのまろい輪郭も、ひかる目も、いずれ滅びの日へ連れて行かれるのだと朝凪は知っている。
その途中に、愛護がいる。
嫌でも認めるしかない。
ならば、せめてその位置だけは自分で決める。
「寝るぞ」
朝凪が言う。
「これ以上考えても、今夜のうちに片づく話じゃない」
「はい」
美菊も素直に頷いた。
立ち上がる前に、朝凪は最後にひとつだけ付け足す。
「次にあいつが来るときは、必ず俺が先に知る」
美菊が首をかしげる。
「わたしは、人死のわざわいしか見えません」
「違う」
朝凪は灯りへ手を伸ばしながら言う。
「そうなるように、こっちで見ておくってことだ」
それは半ば、自分自身への誓いだった。
屋敷も。姫も。家も。綾も。目の届く限り、見ておく。
起こることそのものは変えられなくても、せめて見失わないように。
灯りの火を少し落とす。
部屋の明るみがやわらかく痩せ、外の夜と同じ濃さへ近づいていく。
その薄闇の中で、朝凪は思う。
避けられないなら、見ているところへ。
近づくなら、自分の手の届くところで。
そうする以外に美菊を守る方法を、朝凪は知らない。




