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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
8/32

千代見草・前


その日も、朝凪(あきら)は定刻で屋敷を下がった。


薄暑の夕べだった。門の壊れはもう仮に直され、庭先の石道も、乱れのひどいところだけは人の手が入っている。

だが綾のざらつきの名残は、まだ皮膚の裏に薄く残っていた。

昼の刻にひらいた『門』は閉じ、禍滲(かしん)は討たれ、当主も帰還した。

屋敷はもう表向きいつも通りだ。

女房たちは姫のまわりの乱れを整え、下働きは割れた土をならし、若い兵たちは門前の修復に回っている。


朝凪もまた、そういう「いつも通り」の顔で一礼し、裏門から外へ出た。

街道を離れ、山際へ入るころには、日はいくらか傾いていた。山の家へ帰る道を、朝凪はもう考えもせずに行く。

人の目から滑り落ちる綾を薄くまとい、迷いの薄い筋だけを踏んで、術の層を抜ける。

道の遠さも、綾を通せば半ばほどになる。

毎日繰り返した帰途だった。


最後の認識阻害を抜けると、家が見える。


戸口には、美菊(よしあき)がいた。


目を伏せて立つ、まだ十一の、頼りなげな子ども。背も高くはなく、立っている姿もどこか細い。

なのに、夕べの光が障子と柱のあいだに残る中でじっとこちらを見ていると、その静けさだけが年に似合わず深く見える。

黒い髪も、黒い目も、この家の薄い陰にはよく馴染む。


「ただいま」


朝凪が言うと、美菊はすぐに目を上げた。


「おかえり、なさい」


その声はいつも通りだった。朝凪は懐から本を取り出し、差し出す。

町で見つけた古い綴じ本だった。

新しいものではないが、紙の傷みは少なく、絵も入っている。

家から出られない美菊の無聊を慰めるため、朝凪はこうしてときどき本を持ち帰る。

美菊はそれを喜ぶ。

表情が大きく変わるわけではない、けれど朝凪には分かる。


「これ」


美菊は少しだけ目を見開いた。


「……ありがとう、ございます」


受け取る手つきがもう大事そうだった。

表紙を撫で、最初の頁をひらく。

文字へ落ちる視線は早い。

そうなるとなかなか止まらないことを、朝凪はよく知っている。


「先に飯にするぞ」


言いながら、朝凪は履物を脱いだ。

美菊は本から顔を上げ、ほんの少しだけ名残惜しそうにした。

だが素直に閉じる。


「はい」


その横顔を見ながら、朝凪は今日のことを思い出していた。


数日前、美菊は、湯気の立つ椀を見ながら、まるで天気でも告げるみたいにこう言ったのだ。


――昼つ方、北の町に裂け目ひらき、赤き刀ふた振り折れる。

――泥は黒く濁り、帰る蹄は血の匂いを引く。


その時の美菊の声は、いつものそれではなかった。

なめらかで、感情の差し挟まる余地のない、予言の時だけの声だ。


今日、昼前、本家屋敷の北にある町中で『門』がひらいた。

風斎(かさい)の者が、二人死んだ。


予言は、必ず成就する。


成就する、というより、収束すると言った方が近いのかもしれない、と朝凪は思う。

みちゆきそのものはいくらでも変わる。

誰がどこを通るか、誰が何を恐れるか、どこで刀を抜くか、その細部はいくらでも揺れる。

抗うこともできるし、備えることもできる。

だが、どんな寄り道も手立ても、そのすべてを呑み込んで、最後には必ず同じ結末へ辿り着く。


逃れられたことは一度もない。

そして、これからも、ない。


だから二名の死者の報せを聞いた時、朝凪が思ったことは、多いでも軽微でもなかった。


――ああ、今日のことだったのか。


それだけだった。


無惨だとも、悔しいとも、まずは思わなかった。

そういう感情が薄いのではない。薄くしているのでもない。

ただ、もっと先に、予言と現実がぴたりと重なったことへの確認が来る。

美菊と長く生きるとは、そういうことだった。


そして、美菊には伝えない。


伝えたところで、悲しい思いをさせるだけだ。

かつては、いつか予言が外れることがあれば、真っ先に報せてやろうと思っていた。

そんな日が来たなら、美菊も少しは救われるかもしれないと、本気で思っていた。


でも、もう、そんなことは起き得ないと知っていた。


膳を出し、湯を移し、汁の蓋を取る。

手はいつも通りに動く。

けれど思考だけが、ゆっくりと過去へ沈んでいく。




■■




その冬は、雪が来るのが早かった。


山の上だけが白くなるような、気のない初雪ではなかった。

里へも、道へも、屋根へも、ためらいなく積もる雪だった。

朝のうちに払ったはずの軒先が昼にはもう垂れはじめ、夕方にはまた最初から積もっている。

風は夜になるほど尖り、戸板の隙間から入り込む冷気は、生き物みたいに床を這った。


そういう冬には、本家の詰所も忙しくなる。


風斎の者たちは雪に慣れている。

慣れていたとて、雪が厄介なのは変わらない。

出入り口を塞がぬように掻き、通路を確保し、馬を繋ぐ場所の雪を払う。

見回りの者が足を取られぬよう、積もり方を見ながら夜のうちにも処理をしておく必要がある。

『門』への備えと並行すると、とにかく人手が足りぬ時季だ。


(みぎわ)は――朝凪の母は、そのころ本家に出入りしていた。


風斎の傍系に生まれた女で、若いころから腕が立ち、男に混じっても引けを取らぬ働きをするひとだった。

詰めの仕事も、護衛も、見回りも、必要があれば雪かきだってやる。

そういうことに文句を言わない。

愛想はないが、人が好い。

頼めばきちんと動くし、動けば無駄がない。

だからどこへ行っても重宝された。


その日も、本家の外回りの雪を処理する者が足りず、汀は待機の合間に手伝いへ回っていた。


夕方の少し前だったと思う。雪はやや小降りになっていたが、空はまだ重く低い。

詰所の裏手、人目の少ないあたりの雪を脇へ寄せていたとき、視界の端を何かが横切った。


人だった。


黒っぽい外套に、雪を払うような動き。

足早に、しかし周囲を窺うようにして、建物の陰から裏へ出ていく。


ああ、と思った。

玄冬(げんとう)だ。


そのころの玄冬は、すでに本家の中で一目置かれていた。

当主の近くにいることが多く、頭も切れる男として知られていた。

誰にでも分かるほど腕が立つというより、状況をよく見て、必要なら無理も通す、そういう種類の人物だった。


その玄冬が、何かを抱えていた。


最初は布の包みかと思った。

雪除けのためにまとめた荷か、あるいは何か使いのものか。

だが、歩き方が妙だった。

外套の下を庇うように、両腕に力が入っている。

荷物を抱える姿ではなく、もっと柔らかいもの、崩れやすいものを持っている人間の動きに見えた。


汀は、雪を掻く手を止めた。


不審が半分。

そして、こんな雪の中を一人で裏山へ向かう玄冬を、単純に心配する気持ちが半分。


本家に出入りするのなら、勝手な詮索は慎むべきだと頭では分かっている。

だが、汀は生来、余計なものを見過ごすのがあまり得意ではなかった。

正義感が強いというより、目の前に変なことが起こると理由を確かめたくなる。

ましてその理由が、誰かの危険に繋がっていそうならなおさらだ。


「……何してんだ、あいつ」


小さく呟いて、周囲を見回す。近くに人はいない。

汀は雪掻きの道具を壁へ立てかけ、そのまま裏手へ回った。


玄冬はかなりの速さで歩いていた。

けれど雪の深い道である。

気配を殺してついていけば、完全に見失うほどではない。

しかも彼は途中で一度も振り返らなかった。

余裕がなかったのか、あるいはまさかつけられているとは思わなかったのか。


やがて本家の裏山へ入るあたりで、汀は足を止めた。

玄冬が膝をついていた。

雪の上に、何かを下ろしている。

包みではない。

布にくるまれた、小さな、小さなもの。


一瞬、意味が分からなかった。頭が理解する前に、体の方が冷えた。


赤子だ。


玄冬はその赤子を、白い雪のくぼみに押し込むように置いた。

手早く、ためらいなく。

そして雪を深くかぶせる。

死ぬと分かる置き方だった。


汀は息を呑んだ。


叫ぶより早く、玄冬は立ち上がっていた。

ひどく静かな顔だった。

何かを断ち切ったあとの顔とも、何も感じていない顔ともつかない。

そうして一度だけ周囲を確かめたあと、来た道を戻っていく。


汀はすぐには動けなかった。


何を見たのか、理解が追いつかなかったからだ。


玄冬が、赤子を捨てた。

本家の裏山に。

雪の中へ。

死ぬとわかっていて。


なぜ、という問いが真っ先に来る。

だがその問いには、すぐにもうひとつが重なる。

なぜに答えるのはあとだ。いまは、あの赤子がまだ生きているかどうか。


汀は駆けた。

雪に膝まで埋まりながら、それでもほとんど転がり込むようにして、さきほど玄冬がいた場所へ辿り着く。

布にくるまれた赤子は、雪の中に半ば沈みかけていた。

頬は冷えて白い。

泣き声もしない。

手を伸ばした瞬間、それがひどく軽いことにぞっとした。


「おい……っ」


抱き上げる。

まだ、生きている。

かすかにだが、温い。

息も、浅く、細く、けれどある。

布の奥で指がわずかに動き、それがかえって汀の心臓を強く打った。


濡れた布の間から、黒い髪が見えた。


風斎の赤も青も、そこにはなかった。


何か訳があるのだろう、と思った。

ただの間引きや、貧しさゆえの遺棄ではない。

玄冬ほどの立場の人間が、自ら赤子を捨てるなど、普通ではない。

そこには本家に関わる、厄介な理由があるはずだ。分かっていた。

分かっていたが、それでも、まだ生きている赤子をこのままにして帰るなど、汀にはできなかった。


「……死ぬなよ」


雪へ吐き捨てるように言って、赤子を抱え直す。

もし見つかれば、自分もただでは済まないだろう。

拾ったことそのものが罪に問われるかもしれない。

だが、それでもいいとまでは言わないまでも、いまここで見捨てるよりはましだった。

汀は外套の前をはだけ、自分の体温が少しでも伝わるように赤子を抱き込み、そのまま家へ戻った。


家に着いたとき、足が震えるほど安堵した。

戸を開けると、夫――朝景(ともかげ)が火の番をしていた。

こちらを見るなり、いつものように「おかえり」と言いかけ、その腕の中を見て固まる。


「……おい」


汀は無言で赤子を差し出した。

朝景は一瞬、ぽかんとした顔をした。

だが、もともと細かいことをあまり問い詰めない男でもある。

驚いたのはほんのわずかで、そのあとすぐ顔が変わった。


「生きてんのか」


「まだ」


「どこで」


「玄冬様が、捨てた」


それだけで十分だった。

本家の奥方の懐妊は、風斎の者なら知っている。

そろそろ月が満ちる頃だったことも。

朝景もまた、そこで察した。

察しながら、それでも最初に考えるのは面倒ごとではなく、生きるか死ぬかの方だった。


「湯を足す」


そう言って、朝景はすぐに立った。


二人は手早く動いた。

湯をぬるくして布を温め、冷え切った頬や手足をこする。

乳を飲ませねばならないが、汀の乳はもう出ない。

となれば人を探すしかない。風斎の中ではなく、関わりの薄い者を。


「とりあえず遠縁の子ってことにしよう」


朝景は、黒髪の赤子を見てさっさとそう決めた。


「大叔父の方だ。あっちに風斎の血は入っていない」


「乳は」


「川向こうにいたろ。先月、夫が死んだっていう」


「ああ、竹細工の家の」


「米と肉を持っていく。当座はそれで頼む。近くて良かった、通いで済む」


汀は頷いた。

二人とも、お人好しだった。

だからこそ、こんな厄介ごとを抱え込んだのだろう。

だが、抱え込んでしまった以上は、生きる形まで作るほかなかった。


もともと彼らの家は、住み込みの使用人を置くほど大きな家ではなかった。

洗い物も炊事も、手が足りぬ時だけ近くから通いの女を頼む程度の暮らしである。

赤子を隠すには都合が良い。

乳を貰う女も、家の中に泊めておくわけにはいかなかった。

目が増えれば、それだけ見つかる危険も増える。


その横で、四つの朝凪は黙っていた。


両親が何かを連れ帰ったことは分かる。

小さい。包まれている。赤ん坊だ。

家に赤ん坊が来るということは、たぶん養子か何かだろう、と漠然と思う。

父も母も、お人好しだから、どこかのかわいそうな子を引き取るのかもしれない。

そうしたら弟になるのかもしれない。


四歳の朝凪にとって、最初はそのくらいの認識だった。

ところが、その後の両親の振る舞いは、思っていたのと違った。


赤子は、母屋ではなく離れへ運ばれた。

離れといっても、父の代になってからは居室としてではなく、ほとんど物置のように使っている小さな建物だった。

使わない道具、冬の藁、古い布、壊れかけた箱。

そういうものを押し込んでいる場所だ。

そこを片づけ、火を入れ、赤子のための場所に整えていく。


「なんで、あっちなの」


朝凪が訊いても、両親は答えない。


「朝凪、あそこには入っちゃいけないよ」


汀はそう言った。


「なんで」


「いけないったら、いけない」


「なんで」


「……いいから」


朝景も珍しく、それ以上説明しなかった。


本当の理由は、朝凪を守るためだった。

もし赤子を拾ったことが本家に知れた時、せめて息子だけは「何も知らなかった」で済ませたい。

そのために、離れに閉じ込め、息子にも近づけない。

そうするよりほかなかった。


だが、四歳の朝凪には当然分からない。

両親がかわいそうな赤ん坊を連れて帰ってきたのに、なぜ隠すように閉じ込めるのか。

なぜ自分には見せてくれないのか。疑問は疑問のまま残った。


もっとも、朝凪は親の言うことを基本的にはよく聞く子だった。

武家の嫡男として、してよいことと悪いこと、してはならないことを叩き込まれている。

駄々をこねることはあっても、禁じられたことを正面から破るような子ではない。


だから最初のうちは、離れの戸を遠くから見ながら、近寄らなかった。

ただ、赤ん坊の泣き声だけは聞こえる。

昼も、夜も。

ときどき、ひどく長く。

気になって仕方がない。

けれど、入るなと言われている。

だから、戸口の近くまで行って、じっと聞いているだけだった。


そういう日がしばらく続いた。


ある日、両親がそろって戦に出た。

近隣の町で中規模の『門』が開いた応援だと聞いた。数日で戻る予定だという。

朝凪は留守番を言いつけられ、食事はいつもどおり通いの者が世話してくれる。


その日の午後、離れから赤ん坊の泣き声がした。


最初は、いつものことだと思った。

乳をくれる女が来れば泣き止むだろうと。

だが彼女が来る時刻はおおよそ決まっており、それはまだしばらく先だ。

赤ん坊は泣き止まない。

かなり長く、切れ目なく、喉を掠らせるように泣いている。


朝凪は囲炉裏端でじっとしていたが、だんだん気になってたまらなくなった。


外は寒い。

離れも、両親が整えているとはいえ、母屋よりは寒いはずだ。

あんなに泣いていたら、苦しいんじゃないか。

放っておいていいのか。

……しんでしまうんじゃないか。


四歳の頭で考えられることは、その程度だった。けれど、その程度で十分だった。


朝凪は立ち上がる。


だめだと言われたことは覚えている。

けれど、こんなに泣いているのを放っておく方が、もっとだめな気がした。


離れの戸は閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。

朝凪はためらいながら戸を引いた。

きい、と小さく音がして、冷たい空気が頬に当たる。


中は薄暗い。


昼間なのに、雪明りが障子を通してぼんやりしているだけで、隅はほとんど見えない。

小さな火鉢はあるが、火が弱い。

匂いがした。乳の匂いと、湿った布の匂いと、赤ん坊の匂い。


泣き声は奥から聞こえる。


朝凪がそろそろと進むと、そこに赤ん坊がいた。

布団の上に寝かされ、顔を真っ赤にして泣いている。

頬は乾いているが、下半身のあたりの布が濡れているのが見えた。

四歳の朝凪でも、それがなんとなく分かった。


「……ぬれてるのか」


泣いている理由がそれかどうかは分からない。

だが、不快なのだろうと思った。

母が自分の小さいころの話をした時、そういうものはすぐ替えなければならないと言っていたのを、うっすら覚えている。


朝凪は戸惑いながら、赤ん坊のそばへ膝をついた。

布をめくると、濡れたところは冷たくなり始めている。

替えの布はどこだ。

周囲を見回すと、脇の籠に畳んだおしめがある。水の入った桶も。

母たちがいつもしている手順を真似しながら、朝凪は見よう見まねで赤ん坊の世話をした。

うまくはいかない。

布の畳み方もずれるし、結び方も弱い。

何度かやり直して、ようやくそれらしいかたちになる。

そのころには赤ん坊の泣き声も、少しずつ弱まっていた。


「……できた」


誰に言うでもなく、朝凪は呟く。

すると、その時だった。

赤ん坊の手が、ふいに動いた。

まだ頼りない、小さな手。

その指先が、朝凪の差し出していた指へふれ、きゅっと握った。

驚くほど強く、というわけではない。

ほとんど指が引っかかっているだけに近い。

けれど朝凪には、それが確かに「つかまれた」と分かった。


朝凪は動けなくなった。


赤ん坊の指はあまりに小さい。

けれどあたたかく、生きているぬくみがある。

泣き疲れたのか、赤ん坊はもう声を立てていない。

ただ、目を開けているのか閉じているのか分からない曖昧な顔で、指だけを離さない。


その瞬間が、朝凪にとっての最初だった。


両親が拾ってきた、名前も知らない赤子。

なぜか離れに隠され、なぜか自分には近づくなと言われた赤子。

けれど、いま確かに、自分の指を握っている生き物。


「……おまえ」


思わず声が出る。


赤子は答えない。答えるはずもない。

それでも朝凪はその指を見つめたまま、しばらくそこにいた。


離れの中は寒い。雪明りは白い。外で風が鳴っている。

両親が帰れば、きっと叱られる。

けれど、その時の朝凪にはそんなことはどうでもよかった。


この赤子は、生きている。


そう思った。

そして、その生を初めて自分の手で確かめた気がした。



■■




二年が過ぎても、その子は離れにいた。


もちろん、もう赤子と呼ぶには少し育っていた。

ようやく歩くようにはなっていたが、離れの中でしか動かぬせいか足はまだ弱く、よく転ぶ。

けれど座り方はもう安定していて、寝返りも打ち、母音の多い曖昧な声を出す。

乳は離れ、柔らかくしたものを食べるようにもなっていた。

けれど朝凪の中では、まだ、あれは最初に離れで見た時の延長にあった。

雪の匂いのする、薄暗い場所に閉じ込められた、小さな生きもの。


両親は相変わらず、朝凪が離れへ入ることを表面上はよしとはしなかった。

ただ、最初のころほど厳しく止めもしなくなっていた。

むしろ、両親が家を空けている時に朝凪がそっと入り込んでいることに気づいていたのではないか思う。

それでもきつく止めなかったのは、朝凪がもうある程度分別のつく年になってきたことと、何より、あの子をまるきり一人にしておくことへの後ろめたさが二人の中にあったからだろう。


朝凪は六つになっていた。


身体も、考えることも、二年前よりずっとしっかりした。

武家の嫡男として刀の持ち方を真似し、字の手習いを始め、親の留守をある程度は守れるようになった。

一方で、子どもらしい苛立ちや感情も、以前よりはっきりしてきている。


その中でも、どうしても納得のいかないことがひとつあった。


あの子には、名前がなかった。


いや、正確には、まったく呼び名がないわけではない。

父も母も、あの子を指すとき「若様」と呼ぶのだ。

最初にそれを聞いた時、朝凪は変な顔をした。


「なんで、若様なの」


朝景は布をたたみながら、少し困ったように笑った。


「えらい子だからだよ」


「おれも若様だろ」


「まあ一応な」


「じゃあ、おんなじじゃん」


汀はその子のための粥を作りながら、朝凪の方を見ずに言った。


「まあ、そういうもんだ」


そういうもん、で片づけられる話ではないと、六歳の朝凪には思えた。


名前があるのとないのでは、全然違う。

朝凪は朝凪だ。

父にも母にも、親類にも、みんなにそう呼ばれる。

叱られる時も、褒められる時も、遠くから呼ばれる時も、眠たそうな声で起こされる時も、そこには必ず自分の名がある。


なのに、この子にはそれがない。


「若様」は呼び名のようで、呼び名ではない。

遠慮しているのだと、朝凪にもなんとなく分かった。


両親はこの子に手をかける。

細やかに世話をする。

病気にならぬよう気をつけ、食べるものを考え、寒くないよう布を重ねる。

けれど、かつて朝凪を扱ったような、雑で近しい可愛がり方はしない。

高く抱き上げたり、脇に抱えてふざけたり、頬をつついてからかったり、そういうことをしない。

まるで、触れたら壊れるものか、あるいは本当は自分たちのものではない大切な預かりものみたいに扱う。


朝凪はそれが嫌だった。


嫌だというのは、たぶん少し違う。

じりじりするのだ。見ていて、落ち着かない。

その子は相変わらず感情の発露が薄かった。

泣くことは減り、笑うことも少ない。

言葉もほとんど出ない。

ふつうの二歳児のように、しょっちゅう喃語を並べたり、誰彼構わず手を伸ばしたりはしない。

ただ静かに座り、こちらを見ている。


その子が、一日の大半を離れで一人で過ごしている。

名前すら持たずに。


朝凪には、それがどうしても理不尽に思えた。


ある日の夕方、両親がそろって離れにいた。

汀は水を替え、朝景は冬に備えて隙間風の入るところへ布を打ちつけている。

朝凪は戸口に立ち、ついに問うた。


「いつになったら迎えが来るの」


両親が揃って手を止める。


「迎えってなんだ」


朝景が聞き返した。


「だって、いつか迎えに来るんだろ」


二人は顔を見合わせた。朝凪は続ける。


「そうじゃないなら、なんで名前つけないんだよ」


この子に名前がない理由を、朝凪はずっと自分なりに考えていた。

両親はお人好しだ。

きっと、本家や血の濃い分家のえらい子を預かっているのだ。

何か理由があっていまはここにいるけれど、そのうち迎えが来るのかもしれない。

だから勝手に名前をつけられない。

そういうことなのではないかと。


事実、汀と朝景の中にはそれに近い思いがあった。

万にひとつもあり得ないと、頭では分かっている。

それでも、この子にとって少しでも良い未来を想像してやりたい。

捨てられたのではなく、何かの手違いかもしれないと、そう思ってやりたい。

せめて、その可能性を自分たちの手で潰したくない。

その甘さが、名前をつけられずにいる理由でもあった。


だが、それを六歳の朝凪に説明することはできない。

汀は小さく息をつき、その子の口元を拭いながら言った。


「朝凪、そういうことじゃないよ」


「じゃあ、なんなんだよ」


「……」


「名前、ないの、おかしいだろ」


珍しく、朝凪の声が尖った。朝景は少し困ったように頭を掻く。


「そのうちな」


「そのうちって、いつ」


「朝凪」


「おれは、おれだったら、ずっと若、若って呼ばれたらいやだ」


その一言に、離れの中がしんとした。


両親は何も言わない。言えない。

朝凪はその沈黙に、ますます腹が立った。

大人はずるい。

理由があるなら言えばいいのに、言わない。

言えないなら、せめて名前くらいつければいいのに、それもしない。

目の前でこの子は生きていて、ちゃんと大きくなっていて、なのに呼ぶ名もない。


その晩、朝凪は囲炉裏の前でずっと黙っていた。

怒られたわけではない。

両親も気まずそうにしていただけだ。

だが、その気まずさごと朝凪には気に入らなかった。

自分の知らない理屈のせいで、この子が一人にされて、名前ももらえないままでいる。

そういうのが、たまらなく嫌だった。


数日後、両親がまた留守にした。

朝凪はすぐに離れへ行った。


いまや離れへ入ること自体には、もうほとんどためらいがない。

父も母も、本気で止めたいなら鍵でもかけただろう。

そうしないのだから、半ば黙認しているのだと、朝凪なりに理解していた。


その子は、窓辺の近くで座っていた。


薄い秋の光が障子越しに入る時分だった。

二年前に比べればずいぶん育っている。

髪はやわらかく伸び、ぼんやりと光る目はやっぱり黒い。

感情の出方は少ないが、見ていないわけではない。

朝凪が来ると、顔を向ける。

少し遅れて、きちんと目が合う。


「おい」


朝凪は言う。

その子は答えない。

答えないが、じっと見ている。


その視線が、朝凪には不思議だった。

自分よりずっと小さいくせに、なんだかこちらをよく見ている気がする。

泣きもしない、笑いもしない、けれど見ている。


「おまえ、名前ないの、へんだろ」


言いながら、朝凪はその子の前にしゃがんだ。


「若様って、変だよな」


その子はやはり答えない。ただ、朝凪の袖を指先で少しだけ触る。


その仕草で、朝凪は決めた。

両親がつけないなら、自分がつける。

誰に許しを取る必要もないと思った。

大人がぐずぐずしているからいけないのだ。

この子には名前がいる。呼ぶための名が。

どこへも繋がらなくても、自分ひとりが呼ぶだけでも、それでいい。ないよりずっといい。


「名前、いるだろ」


その子は朝凪を見ている。


「……」


しばらく真剣に考える。

目の前の幼子を見る。

薄い、静かな顔。

声は少なく、泣かない。

まだ幼子特有の凹凸のすくない顔つき。

けれど、大してそういう機敏のない朝凪にもわかるくらいにはきれいな子どもだと思う。


ふにゃふにゃの小さい手が花みたいだ、と前に思ったことがあったのを、ふと思い出す。

白いはなびら。


「きく」


口に出してみる。

幼子は首を傾げるでもなく、ただ聞いている。


「……しらぎく」


違う。でも、菊はいいと思った。


「うーん……きく、きく……」


朝凪はいくつか、菊に関連する音を思いつくままに繰り返す。


「しらぎく」

「きくお」

「みあき」

「よしあき」


最後の音が、すっと馴染んだ。


「美菊」


口にした瞬間、なぜかそれでよい気がした。


菊の花。凛としていて、静かで、でも弱そうではない。

そういう感じが、この子には似合う気がした。

美しい、という字も、六歳の朝凪には少し背伸びした感じがして、だからこそ秘密の名前としてはちょうどよかった。


「おまえ、美菊な」


朝凪は、はっきりと言った。

幼子は、相変わらず無表情に近かった。だが、目が少しだけ動く。


「よしあき」


もう一度、朝凪は呼ぶ。


「これ、おれがつけた」


誰に言うでもない誇らしさが、少しだけ胸にあった。


「だから、おれだけの名前な」


両親には言わない。

誰にも知られない。

迎えが来るかもしれないとかいう、よく分からない大人の期待にも関係ない。


これは、自分がこの子を呼ぶためだけの名前だ。


「いいか」


もちろん、返事はない。

だがその時、幼子の指が、また朝凪の袖をきゅっと掴んだ。

二年前の、あの時みたいに。


朝凪は少しだけ笑った。


「うん。いいよな」


それで決まりだった。

その日から、朝凪は離れに行くたび、その名を呼んだ。


「美菊」


最初のうちは、ただ口にするだけだった。

幼子も反応らしい反応は見せない。

けれど、何度も呼ぶうちに、名前と朝凪の声とが、この小さな離れの中で少しずつ結びついていくのが分かった。


「美菊」


呼ぶと、目が向く。


「美菊」


呼ぶと、手が伸びる。


「美菊」


呼ぶたびに、この子は「若様」ではなくなっていく。

それが朝凪には嬉しかった。


両親は、その秘密の名を知らないままだった。

あるいは、ほんとうは気づいていたのかもしれない。

離れの戸口で立ち聞きでもすれば、朝凪がそう呼ぶのはすぐ分かる。

だが、朝景も汀も、あえて何も言わなかった。

止めもしない。

その沈黙は、許しではなくても、少なくとも奪う気のない沈黙だった。

朝凪にとって、それで十分だった。


名前をつけるというのは、こんなにも違うのだと、朝凪はまだうまく言葉にできない。

ただ、前よりもこの子が「ここにいる」と強く感じられるようになった。

世話されるだけの、しまわれた小さなものではなく、自分が呼べばこちらを見る、ひとりの存在。


朝景と汀は、この子を本家の尊い若様だと――訳ありの預かりものだと見ていた。

だが朝凪だけは、そうではなかった。


美菊は、美菊だ。


自分がそう呼び始めた時点で、この子はもう「どこかのだれかのかわいそうな子」ではなくなっていた。

そのことが、朝凪には妙にしっくりきた。


そしてある夕方、朝景が離れの戸口へ現れたとき、朝凪は驚かなかった。

朝景は何も言わず、少しだけ中を見回した。

幼子は朝凪のそばにいて、朝凪は平然とその背を支えている。


「朝凪」


朝景が呼ぶ。


「ん」


「……飯だ」


それだけだった。


叱らないのか、と一瞬思ったが、朝景の顔はいつも通りだった。

朝凪は立ち上がりかけ、それからふと振り返る。


「あとで、また来る」


幼子――美菊は、じっと朝凪を見ていた。


その視線を背に、朝凪は離れを出る。

戸が閉まる直前、胸の中でひとつだけ、確かなことがあった。


この子には、もう名前がある。


誰にも知られなくても、迎えが来なくても、本家が振り向かなくても、少なくともここにはある。

秘密の、けれど本物の名前が。



それは六歳の朝凪が、初めて誰かに与えたものだった。

そしてたぶん、自分でもまだ知らぬうちに、一生手放せないものをそのとき掴んでいたのだ。





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