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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
7/33

薄暑の禍影


朝の務めは、決まって静かなところから始まる。


夜明けの冷えがまだ板廊へ薄く残っているうちに、朝凪はまず奥向きの動きを確かめる。

女房の起きる刻、湯の支度、侍女が衣を整えて運ぶ順、愛護の目覚める頃合い。

それらのどれもが、日ごとに少しずつ違う。違うが、大きくは外れない。

そのわずかなずれを、見て、覚え、埋めるのが側付きの務めだった。


「おはようございます、姫様」


朝凪がいつもの位置で頭を下げると、愛護はまだ眠たげな顔のままこちらを見て、それからふふっと機嫌よく笑った。


「おはよう、朝凪」


声はすっかり起きている。

朝の挨拶を返す、そのひとことだけで、今日は機嫌が悪くないのだと分かる。

そういう分かりやすさは、まだ六つの子どものものだった。


愛護はあの日以来、「山の家」のことも、「あの子」のことも、一度も口にしない。

本当に、約したとおりに守り、黙している。

もっとも、活発さまで失くしたわけではない。

その日の朝も、愛護は目を覚ますなり侍女の手を煩わせた。


「その紐はやだ。このあいだもね、結び目がかたくてこまったでしょ」

「まあ、姫様はよう覚えておいでで」


年若い侍女が笑い、年嵩の女房は「ではこちらに」と別の組紐を選び出す。

愛護は半分ほど着付けられたまま膝をずらし、鏡の前でじっとしていられずにまた喋る。


「きょうは手習いのあと、庭へ出てもいい?」

「風が強くなければ」

「強かったら?」

「そのときは諦めていただきます」


そう返したのは朝凪だった。

敷居際に控えたままの低い声に、愛護がくるりと顔を向ける。


「朝凪、すぐそうやってだめっていう」

「諦めるべき時に諦めていただくのも、私の務めにございます」

「やだ」

「ご不満は承ります」

「でも庭はだめなんでしょ」

「風が強ければ」


愛護が口を尖らせる。

その横で、女房たちが苦笑を飲み込む気配がした。

侍女のひとりなど、ほとんど「まあまあ」と言いそうな顔をしている。


愛護は六つになってなお、奥の者たちにずいぶん可愛がられていた。

可愛がられているというより、風斎本家のただ一人の子なのだから、皆がそこへ気を回すのは自然でもある。

機嫌が曇ればすぐお菓子を持ってくる者がいる。

髪の結い方ひとつでもより似合うよう本気で悩む者がいる。

裾を踏みそうなら誰より早く手が伸びる。

朝凪は、そのあたりを一歩引いて見ていた。


甘やかされている。

けれど、それで崩れてはいない。

そこがこの姫の妙なところだ。

誰もが手をかけるし、本人もそれを当然のように受けている。

けれど、受けながら、その内側のどこかに一本だけ、妙にまっすぐな芯がある。

だから全部がだらしなく崩れない。


朝の支度が済むと、手習いの前に軽い茶と菓子が出された。

朝餉ほど畏まったものではない。

小さな座敷へ日がよく入り、障子の外の庭もまだ白く明るい。

愛護はようやく落ち着いた格好で座らされ、甘い菓子をひとつ手に取った。

女房たちの肩からも、さっきまでの慌ただしさが少し抜けている。


そのころ合いで、襖の向こうに気配が増えた。

女房がひとり進み出て、膝をつく。


「奥方様がお見えにございます」


愛護の顔がぱっと明るくなった。


「母さま?」


返事を待つまでもなく、襖が静かに開く。

入ってきた奥方は、やはりひどく美しかった。

まだ三十には届かない。若く、けれど少女じみたところはもうない。

背筋のまっすぐさも、衣の重なりの落ち着きも、どこから見ても本家の奥方として不足がない。

そのうえで、顔立ちそのものが抜きん出ていた。


風斎の血の証である赤毛は、愛護のものより少し深い。

燃えるような赤というより、濡れた紅葉の裏を思わせる、つやを含んだ色だ。

青い目は澄んでいるが冷たくはない。

むしろ、見た者へ自然と向く温かさがある。

白い頬、通った鼻筋、笑えばやわらぐ可憐な口元。

人の目を引く美貌でありながら、そこにちゃんと人間らしい息遣いがある。


朝凪は、その顔を見てあれの静かな顔立ちを思い出していた。


線が似ている。

伏せたときの睫毛の影。

笑まない時の口元。

頬から顎へ落ちる輪郭のかたち。

驚くほどよく似たところがある。

だが、眼前の奥方はあくまで人の世の光の中にいる顔だった。

笑えば場の空気がやわらぐし、愛護へ視線を向ければ、それだけで可愛がっているのが分かる。

血が通い、情が表へ出て、誰かを抱き寄せることの似合う美しさだった。


一方で、あれの美しさは、どこか浮世離れしている。

同じだけ整っていて、むしろ静けさのぶんだけ美しく見える時もあるのに、目の前へ現れればあまりに現実味が薄い。

人の中にあってなお際立つ美と、人の形を借りているような美。

その相似を思うたび、朝凪の胸の底には冷たいものが差した。


当主の妻。本家の女。

捨てられた側ではなく、捨てた側にいる者のひとり。


朝凪は視線を落とす。

呼吸も、立つ位置も、袖の収め方も、いつも通りに整える。

そうして、側付きとして必要なだけの礼を寸分違わずそこへ置いた。


「母さま!」


愛護はほとんど席を立ちかける勢いだった。

奥方はやわらかく笑って膝を寄せる。


「お行儀」


言葉はやさしく、叱り方まで美しい。

愛護は「あ」と言って背を正し、それでも次の瞬間には奥方の袖へ手を伸ばしている。


「来てくれると思わなかった」

「朝からそんな顔で待っていると聞いたもの」

「だれが言ったの」

「誰だったかしら」


そう言って奥方は愛護の髪をそっと撫でた。

撫で方が、ひどく慣れている。

愛しがっていることを隠さない手つきだった。


「母さま、きょうの髪かわいいね」


愛護が言うと、奥方は「そう?」と首を傾げた。


「愛護の方がよほどかわいいわ」

「愛護ね、ほんとはこのまえ洗い場のおつるがしてたみたいな髪にしたかったの。ちょっと町の子みたいなやつ。でも千代がだめって」

「まあ」


奥方の目がやわらかく細まる。


「どんなふうだったの?」


愛護は嬉しそうに、耳の横あたりへ手をやった。


「ここをね、もうちょっとだけふわってして、紐も細いのをたらすの」

「それはたしかに、少しくだけすぎるかもしれないわね」

「そうかなあ」

「ほんの少しだけなら、あとで母さまがしてあげましょう」

「ほんと?」

「ええ、少しだけよ?」


その一言で、愛護の顔がぱっと咲いた。

六つの子どもが母に甘える顔だった。

姫であることも、本家の嫡女であることも、その瞬間だけは少し遠のく。

奥方はそんな愛護を、本当に大事そうに見ていた。


朝凪は深く頭を垂れたまま、ただ側付きとしてそこにいる。

奥方と愛護のやりとりは、そのまま平穏な昼へ続いていくはずだった。



実際、しばらくはそうだった。


庭へ出る支度を整える者。

奥方の座を準備する者。

愛護の帯の乱れを直す者。

朝凪はそのすべての隙間を埋めるように動き、愛護の足もと、風向き、日差し、出入りの人数を静かに見ていた。


『門』がひらいたのは、その少し後だった。


綾のざらつきがはしる。

皮膚の裏を薄く撫でるはずの流れが、どこかで急に噛み、見えぬ水脈に砂が落ちたような嫌な引っかかりへ変わる。

朝凪はその場で顔を上げた。耳につけた囁石が警報を伝える。

ほとんど同時に、奥から近い詰所の方角で足音が荒くなる。

伝令の声。

押し殺されているが、平時の調子ではない。

奥方の表情がすっと消えた。


「……近いのね」


誰に向けたともつかぬ独り言だった。

朝凪は膝をつき直す。

『天眼』によって囁石から『門』の詳報が絶えず伝達されている。


「町の方にございます」

「父さま」


愛護が、すぐにそう言った。

今朝、当主は屋敷にほど近い町へ視察に出ていた。

門がひらいたのが町なら、最初にそれへ当たるのは当然、町へ出ていた兵と当主になる。

愛護が顔色を変えるのも無理はなかった。


「父さま、あっちにいるの?」

「左様にございます」


朝凪の声はいつも通りだ。

いつも通りでなければならない。

奥に詰める戦闘員の役目は、打って出ることではない。

屋敷を守ること。奥方と姫を守ること。

門が近くでひらこうが、町で禍滲が暴れようが、まずは本家を空けない。

それが定めだった。

だが愛護はじっとしていられない。


「見に行きたい」


朝凪は即座に答える。


「なりません」

「でも」

「なりません」


愛護は唇をきつく結んだ。

父を案じている顔だった。

子どもらしい不安が、姫らしい我慢の薄い膜を内側から押している。

奥方もそれを見ている。

けれど止めるのは、まず朝凪の役目だった。


「外は危のうございます」

「外には出ない」

「姫様」

「出ないもん」


愛護は半歩前へ出る。


「でも、父さまが帰ってくる音、ちょっとでも早く聞きたい。門のすぐ近くにいたら、馬の音、早く聞こえるでしょう」


朝凪は黙った。

理屈としてはわかる。幼子の気持ちも。

けれど理に合うから、理解できるから、と許せることばかりではない。

奥方が低く言う。


「愛護」


その一声に、愛護はびくりとして顔を向けた。

けれど次の瞬間には、また必死な顔で母を見る。


「母さま、外には出ない。門のぎりぎりまででいいの。父さまが帰ってきたら、すぐ分かるところで待ちたい」


六つの子どもの願い方だった。

しかし、ただのわがままではない。

自分でも譲れる線を置いたうえで、そこだけは譲れないと差し出してくる言い方だ。


朝凪は短く考える。

外へ繋がる場所へ近づけるのは本来、避けたい。

だが奥の座敷へ閉じ込めておいても、愛護はずっと父の方角へ耳を澄ませ続けるだろう。

下手をすれば、目を盗んで本当に走り出しかねない。

ならば、見える範囲で、守れる範囲で、折れるしかない。


「……まずは私が様子を見てまいります」


朝凪は言った。


「外の気配に問題がなければ、門近くの四阿でお待ちいただきます」


庭の端、正門へ続く石道を少し折れたところに、小さな四阿がある。

そこなら門先そのものへは出ずに済むし、正門へ戻る足音も拾いやすい。

愛護の目が少しだけ明るくなる。


「ほんと?」

「ただし四半刻までにございます」

「しはん……」

「湯が一度ぬるむほどです。それを過ぎれば、すぐお戻りいただきます」

「……うん」


不満はまだある。

だが、これ以上は押せないと分かった顔だった。

奥方が朝凪を見る。

その静かな眼差しは当主の妻としての落ち着きがあった。


「任せます」

「は」


朝凪は深く頭を下げた。


ともに控えていた奥の兵を三人だけ選ぶ。

それ以上増やせば、かえって内の守りが薄くなる。

少なすぎれば不意に対処できない。

朝凪はその場で役目を割り振り、愛護と奥方の周囲へ残す人数も確認した。


「門前を見て戻ります。決してお動きになりませんよう」

「わかった」


愛護は素直に頷いた。

素直すぎる頷きは、こういう時ほど信用しない方がよい。

朝凪は一度だけ愛護の目を見る。

それで、少なくとも今は本当に約束するつもりであると判断した。


正門へ向かう庭は、さっきまでの平穏が嘘のように張りつめていた。

兵の足音。

控えの者たちの声を殺した移動。

まだ門そのものは閉ざされ、外から大きな騒ぎは届かない。

だが綾のざらつきだけが、遠くで戦が起きていることを教える。


朝凪が門近くの石道へ出た、その時だった。


最初に聞こえたのは、木の裂ける音だった。

正門の片側が、内側へ向かってひしゃげる。

重い扉板が鈍く軋み、その隙間から黒とも紫ともつかぬ濁りが滑り込んだ。

町で開いた『門』から漏れた一匹が、流れに押されるようにしてここまで来たのだろう。


禍滲は獣に似ていた。

だが獣ではない。


四つ足の形を取りながら、節の数が合わない。

肩の位置がやけに高く、首は途中で二度ほど折れたように曲がっている。

口は裂けすぎていて、牙というより骨のかけらがむき出しになっているように見えた。

濡れた泥と、腐りかけた肉の匂いが風に乗る。


「来るぞ」


朝凪が短く言う。

返事は不要だった。

三人の兵はすでに空へ手を差し出している。

綾が集まり、空気の濃淡として揺れ、槍と刀の輪郭を取る。

朝凪もまた右手へ綾を織った。

飾りのない刀だった。

細く、無駄がなく、振るうためだけの形。


――風斎は、正面から力で押し潰す家ではない。


綾を薄く広げ、流れを歪め、位置と認識をずらす。

近いものを遠くし、正しい一歩を誤らせる。

派手さはない。

だが戦場の理を静かに狂わせる。

その狂いを味方だけが知っている時、風斎は強い。


禍滲が飛びかかった。

速い。

町からここまで流れてきた個体だが、消耗が見えない。

巨体に似合わぬ速さで石道を蹴り、まっすぐ朝凪の喉を狙ってくる。


朝凪は半歩だけ、ずれた。

避けたようには見えない。

禍滲の方が、狙いをほんの僅か外したのだ。

足を置くはずだった場所と、実際の地面との関係を一瞬だけ狂わせる。

それだけで爪の軌道は頸ではなく肩口を掠める位置へ逸れる。


そこへ、右手の刀が入る。

禍滲の前脚の継ぎ目を浅く裂き、体勢を崩す。

横から兵の槍が突き込まれる。

だが個体の芯までは届かない。

禍滲が身を捻る。

槍を持った兵の視界が、一瞬だけずれた。

朝凪はその隙を見逃さず、兵の襟元を掴んで半歩後ろへ引く。

次の瞬間、そこを黒い尾のようなものが薙いでいた。


「下がって結べ」

「は」


兵が散る。

門前の空間へ薄く綾が広がる。

近いようで近くない場所。

踏み込めるようで踏み込めない幅。


禍滲は怒ったように顎を鳴らし、二人目の兵へ向く。

朝凪はその動きと同時に別の位置へいた。

さっきまで目の前にいたはずなのに、次には斜め後ろへ立っている。

兵たちが風斎の戦いに慣れているから成り立つ動きだった。

目で追いすぎず、狂わされた空間ごと受け入れる。

右手の刀が二度、三度とひるがえる。

禍滲の皮は厚い。

浅い斬撃ではすぐには崩れない。

だが急所へ至るまでの道筋だけを、少しずつ整えていけばよい。

前脚をさらに傷め、首の向きを誘い、踏み込みを半歩ずらし、巨体の重心を崩していく。


その乱れない様に、兵たちは感嘆していた。

朝凪は若い。まだ十五だ。

それでも、この門前にいる誰より落ち着いていた。

綾の広げ方に無駄がない。

敵だけでなく味方の位置まで読み込み、何をどこで迷わせれば一番早く終わるかが、最初から見えているような動きだった。


禍滲が最後のように大きく身を沈めた。

来る。

朝凪はそう見た。

真正面から受ければ、右手の刀だけでは押し返しきれない。

兵のひとりが横から入ろうとするが、遅い。

ならばこちらで終わらせるしかない。


朝凪は右手の刀で、振り下ろされる爪を受けた。

重い。

綾の刀がきしむ。禍滲の顔が近い。腐臭が鼻を打つ。

だが、その瞬間、朝凪の左手は空いていた。

空の左手が、静かに空中へ伸びる。

そこには何もない。

何もないはずの場所へ、朝凪は指先を向けた。


次の瞬間、禍滲の死角――肩と首のあわい、ほんのわずかに空いた急所のそばに、刃が現れた。

どこぞより飛んできたのではない。

朝凪の左手に応じて、その場の綾が急に濃くなり、輪郭を取りながらそのまま太刀となっていく。

刃は生まれる過程そのものが貫通だった。

ごく近距離で織られた太刀が、現れながら禍滲の内へ入り、喉奥から胸の芯までを一直線に抜く。


禍滲の動きが止まった。


音もなく、というほど静かではない。

ぐずり、と濁った崩れ方をする。

輪郭が保てなくなり、黒紫の塊が石道へ落ち、そこから急速に薄れていく。

異界のものがこちらに留まれなくなる時の、あの不快な消え方だった。


朝凪は右手の刀をほどかず、一歩だけ退いた。

まだ終わりと決めるには早い。

だが、次の個体は来ない。

外から聞こえてくるのは、戦の名残の荒い気配ではなく、馬の蹄だ。

複数。早い。だが乱れてはいない。


当主が戻る。


門の向こうに、風斎の旗差物が見えた。

先導の兵が門の壊れを見て声を上げかけ、すぐに飲み込む。

当主の馬が一歩前へ出る。

馬上の当主は、門の片側が破られ、庭先の石道が抉れ、黒い滲みの名残だけがまだ薄く残っているのを一目で見た。

視線が朝凪へ落ちる。


「奥へ寄せなかったか」


短い問いだった。

朝凪はその場で膝をついた。


「は。門内に侵入した一体を、ここで討ちました」


当主は周囲を見る。

兵の息、裂けた門、散った綾の残滓。

それだけで十分だったのだろう。


「よく留めた」


そのひと言が落ちる。

朝凪は深く頭を垂れた。


「もったいなきお言葉にございます」


当主はそれ以上飾らない。

兵に修復と後詰めを指示し、馬を下りる。

その顔にも衣にも、町での戦の名残があった。

だが立ち方に揺らぎはない。

生きて戻ったのだと、それだけで奥へ伝わるものがある。

少し遅れて、屋敷のほうから愛護の声がした。


「父さま!」


朝凪は顔を上げなかった。

上げずとも、愛護がもう駆け出しかけ、それを奥方と女房たちが止めながらも、結局は当主のそばまで行かせる気配が分かる。

父娘のそういう時間へ、側付きが目を差し入れる必要はない。


門外の町では、まだ後始末が続いていた。

のちの報せによれば、この日の風斎の損害は死者二名。

『門』の規模のわりに少なかったと見るべきか、二名も失ったと見るべきかは、人によって違うだろう。


朝凪は立ち上がり、右手の綾を静かにほどいた。

門の板は裂け、石道には戦の痕が残っている。

けれど奥は守られた。

愛護も、奥方も、屋敷も、識島のもとに在る。


それでよい。

それ以上はない。


朝凪は壊れた門を見て、それから一度だけ、町の方角を振り返った。

そこに何が残っていようと、いま自分の役目は決まっている。

奥へ戻り、姫の側へ立つこと。

何事もなかったような顔で、いつも通りに控えること。


そうしてまた、平穏の形だけを整え続けることだった。



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