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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
6/32

朝庭の淡影


朝の空気は澄んでいた。


夜の冷えがまだかすかに残っていて、庭石の縁には薄い湿りが光っている。

人の出入りはまだ少ない。

早起きの下働きが砂利を踏む音が、静かな庭ではやけに大きく響き、どこか遠くでは水を打つ音が規則正しくつづいていた。

屋敷というものは、誰かが大声を出さなくとも、こうして静かに一日の始まりを知らせる。

音は少なく、けれど絶えない。

そういう朝だった。


愛護(めご)は廊の端に立ち、庭を眺めていた。


眺めてはいる。

けれど、視線は景色のどこにもきちんと結ばれていない。


思い出しているのは、あの山の家だった。


薄く翳った空気。

辿り着くまでの、妙にねじれた道。

見えているのに、まっすぐこちらへ届いてこない景色。


そして――障子の奥にいた、あの子。


「……」


胸の奥が、わずかにざわつく。


名前も知らない。

何者かも分からない。


なのに、あれほど印象に残る存在は初めてだった。


ひどく静かで、ひどくきれいで、こちらを見ていたはずなのに、あとから思い返すと本当にあそこにいたのだろうかと少し不安になる。

夢の名残のようでもあり、朝に消える灯のようでもあり、たしかに目にしたはずなのに、細かな輪郭だけが指のあいだからこぼれていく。

けれど、黒い髪と黒い目だけはどうしても忘れられなかった。


「……あのこ」


愛護は小さく呟く。


もう一度、会いたい。


会わせてほしいとも、連れていってとも言えない。

けれど、会えたらいいのに、とは思う。

理由は分からない。

分からないまま、ただ気になる。

それだけで、胸の中には十分すぎるほどの居場所ができてしまっていた。


「姫様」


声がして、愛護は振り返った。

そこに、朝凪(あきら)が立っていた。


四日ぶりの出仕だった。その姿は、以前と何ひとつ変わらないように見えた。

衣も乱れておらず、髪も、立ち方も、目の置き方も、すべてが整っている。

まるでこの数日の空白など、最初からなかったみたいだった。


朝凪は膝をついて一礼する。


「出仕を再開いたしました。不在の間、ご不便をおかけいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」


声音も所作も、揺るぎがない。


愛護はじっとその顔を見る。

疲れているようにも見えないし、困ったことを抱えていた人の顔にも見えない。

ただいつも通りに、姫の前へ出るべき側付きの顔で立っている。


「……もういいの?」


「はい。主だった問題は解決いたしました」


「ほんとうに?」


「はい」


即答だった。


そこに迷いはない。

少なくとも、迷っているようには見せない。


愛護は少しだけ目を細めた。


納得したわけではない。

けれど、これ以上問い詰めても意味がないことは分かる。

朝凪は、言わないと決めたことは言わない。

そういう人だと、この一年で十分に知ってしまっていた。


だから愛護は、問い方を変えた。


「ねえ、朝凪」


「はい」


「きのうのこと、愛護、だれにも言ってないよ」


ほんのわずかな間があった。

呼吸ひとつぶん。

気づく者だけが気づくような、細い空白だった。


「……左様でございますか」


「うん。山に入ったら、道に迷ったってだけ」


朝凪は愛護を見る。

その視線は相変わらず静かだったが、さっきまでとは少しだけ違った。

測るようでもあり、確かめるようでもある。


「それで、よかった?」


愛護がそう訊くと、朝凪はごくわずかに目を伏せた。


「ご配慮、痛み入ります」


短い返答だった。

少し固い言い方ではあったが、少なくとも、愛護の判断は間違っていなかったのだと分かった。

愛護はそれに小さく頷いて、それから、今度はまっすぐ訊く。


「……あの子のことも、言わないほうがいいんだよね?」


朝凪の目が、わずかに鋭くなる。


「そのようにしていただけますと助かります」


さっきより、少しだけ直接的な答えだった。


愛護は黙る。

やっぱりそうなのだ、と思う。


「あの子、だれなの?」


「私的な縁故にございます」


「家族?」


「そのようなものではございません」


「じゃあ、なに?」


「私事に関わる者にございます」


きれいに整えられた線だった。

それ以上、奥へ入らせないための返しだと、愛護にも分かる。


朝凪はふだんから固い。

何を訊いても、まず礼を失わない。

けれど今の固さは、いつもの側付きとしての固さと少しだけ違う。

返しは整っているけれど、その奥で、これ以上触れるなと言われていた。


しばらく、言葉が出てこなかった。


朝凪は嘘をついているようには見えない。

けれど、本当のことを全部言っているとも思えない。


そのまま黙っていると、水を打つ音だけが遠くから届く。

朝の光は白く、庭の松の影はまだ短い。


やがて愛護は、小さく息を吐いた。


「……きれいだった」


ふと、零れ落ちるように言葉が出る。

朝凪の眉が、ほんのわずかに動いた。


「とっても上手なひとが、綾を織ってつくったみたいだった」


朝凪は何も言わない。


否定もしない。

肯定もしない。


ただ、沈黙だけが返ってくる。


その沈黙のかたちが、かえって愛護には分かった。

あの子のことは、たぶん、軽々しく口にされたくないのだ。


どうしてかまでは分からない。

大事だからなのか、困るからなのか、知られたくない事情があるからなのか、そのどれなのかも分からない。


ただ、聞かれるのを好いていないことだけは、はっきり見えた。


愛護はもう一歩近づこうとして、やめた。

それから、少し考えるように黙って、朝凪を見下ろす。


「……ねえ」


「はい」


「あの子のこと、あんまり聞かれたくないの」


静かな声だった。

責めてはいない。

ただ、見えたことをそのまま置くような言い方だった。


朝凪の表情は変わらない。

けれど、否定もしない。


その沈黙が、何よりの答えだった。


愛護は小さく頷く。


「……そっか」


それだけ言う。

それから少しだけ間を置いて、続けた。


「じゃあ、もうむりに聞かない」


朝凪の目が、わずかに細くなった。


予想していなかったのだろう。

愛護にも、それくらいは分かった。


「だって、朝凪がそうしたいなら、たぶん、大事な理由があるんでしょう」


それは、一年かけて積み上がった信頼の言葉だった。


全部は分からないけれど、それでも朝凪がただ意地悪をしているのではないことくらいは分かる。

だから、そこで止まる。

そういう、幼いなりの筋の通し方だった。


愛護はさらに言う。


「愛護、ほんとはまだ気になるよ」


視線を少しだけ逸らす。


「でも、朝凪が困るなら、ここまでにしてあげる」


その言い方は、少しだけ幼く、少しだけ背伸びをしているようで、それでも本心だった。


「だから……また会えたらいいなって思うのも、だめなら、やめとく」


諦めた、とは言い難いが、ひとまず手を引くという感じだった。

名残はある。

気になる気持ちも、そのまま残っている。

けれど、そこから先へは踏み込まない。

そう決めたことが、声音からも分かった。


沈黙が落ちる。


朝凪は、しばらく何も言わなかった。

視線は愛護に向けられたまま、動かない。


やがて、ほんのわずかに息を吐く。


「……ご厚意、忝く存じます」


愛護は瞬いた。


「うん?」


朝凪は、言い直すみたいに少しだけ間を置いた。


「姫様のお気持ちは、ありがたく承りました」


今度は意味が分かった。

愛護はようやく小さく頷く。


「ん」


それだけ言う。

くるりと背を向ける。


「もうすぐ朝餉だから、部屋にもどるね」


軽い調子だった。

けれど、さっきまでとは少し違う落ち着きがあった。


「あとでまた呼ぶね、朝凪」


「はい」


足音が廊を進んでいく。

やがて遠ざかり、姿が見えなくなる。


そのあと、朝凪はしばらくその場に立っていた。

動かない。

ただ、先ほどのやり取りを静かに反芻するみたいに。


「……」


小さく、息を吐く。


警戒は解かない。

あの家のことも、美菊(よしあき)のことも、誰にも触れさせるつもりはない。


それは変わらない。


ただ、愛護という幼い姫が、踏み込むべきではないところでちゃんと足を止められることは、覚えておくべきだと思った。


年相応の無邪気さはある。

けれど、それだけではない。


見たいと思えばまっすぐ手を伸ばす。

だが、止まるべきだと得心すれば、その場でちゃんと止まる。

そのうえで、自分の気持ちまでなかったことにはしない。


甘やかされただけの子どもではない。


朝凪はそのことを、胸のどこかに静かに置いた。


それでも、することは変わらない。


防ぎはさらに確かめる。

山の家の綾は、いっそう丁寧に見直す。

愛護が何も知らぬままでも、知らぬままだからこそ、警戒だけは怠らない。


朝凪は目を閉じ、すぐに開いた。


それから何事もなかったような顔で、また姫の側付きとしての位置へ戻っていった。



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