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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
5/33

隠家の相見


山あいの道は、ひどく静かだった。


踏み固められているはずの土は、ところどころで春の湿りを抱き、足を置くたびにわずかに沈む。

風はある。

梢も揺れている。

なのに、葉擦れの音だけが妙に遠い。

耳へ届くまでのあいだで、どこかへ逸らされ、薄められているような、頼りない鳴り方だった。


愛護は立ち止まり、小さく息を呑んだ。


「……また」


同じような曲がり角を、さっきも通った気がする。

斜めに折れた細い木、根もとに苔をつけた石、足もとを横切る細い水の筋。

ひとつひとつは違うのに、全体の気配がひどく似ている。

見覚えがあるようで、決定的には違う。

道が自分を覚えていて、似た顔ばかり次々と見せてくるようだった。


迷ったのか、と最初は思った。

けれど、すぐに違うと分かる。


迷うというのは、自分が道を見失うことだ。

けれど今ここで起きているのは、もっと別の、誰かに見失わされるような感じだった。

進んでいるはずなのに近づいている手応えがない。

歩いた分だけ、景色の方がうっすらずれていく。


風斎の屋敷の奥にもこういう気配はある。

姫の住まう奥向きへ、誰でもまっすぐ辿り着けるわけではない。

人の目を欺き、意識を逸らし、歩いているはずの足をいつのまにか別の方へ向けさせる。

六つの愛護に、その理屈の細かなところまでは分からないけれど、綾を身近に育った肌は、綾の揺れを知っていた。


――ならば、逆だ。


道を探すのではない。

正しそうに見える方へ従うのではなく、違和感の濃い方へ足を置く。


愛護は草履の先を見つめ、慎重に一歩を踏み出した。

その一歩の心細さは、山道そのもののせいだけではなかった。

そもそも、どうして自分がこんなところにいるのか、愛護にはまだよく分かっていないのだ。



■■



朝凪が、三日、屋敷に現れていない。


それ自体は、異常とまでは言えなかった。

側付きといっても、朝から晩まで四六時中姫の傍へ張りついているわけではない。

武家の若い者には若い者の務めがあるし、女房や侍女のように奥の中だけで役目が済むわけでもない。


けれど、今回だけは、どうにも気になった。

その理由は、ただ三日休んだからではない。

朝凪にしては、義理を欠いているように思えたからだ。


春である。

愛護は六つになり、朝凪が愛護に侍って一年が経っていた。

そしてその一年間、朝凪はずっときちんとしていた。


朝、愛護の身支度が整うころには、もう外で控えている。

手習いの間へ移れば、少し離れたところに立つ。

庭へ出れば、風向きや日差しまで量っているみたいな顔で、一歩後ろを歩く。

呼べば即座に参じ、命じれば動き、待てと言えばいくらでも待つ。

近すぎず、遠すぎず、阿りすぎず、冷たすぎず。

ただ過不足なく、ずっとそこにいた。


「朝凪」


と呼べば、


「はい」


と返る。


「もっと近くに来て」


と言えば、


「恐れ多いことにございます」


と返る。


愛護が菓子をねだれば断る。

庭で裾が引っかかりそうなら、何も言わずにそっと直す。

昼餉の刻が押せば次の手習いを少し後ろへずらすよう、女房へ淡々と告げる。

そこにあるのは、いつだって務めだった。

やさしさではない。阿りでもない。

礼節を尽くし、きっちりと整えられた役目だ。


けれど、その整い方があまりにも崩れないから、愛護はそれを信じるようになっていた。

朝凪は、そういう人なのだと。

だからこそ、不安だった。


一日目の朝に、言伝ではあるが休むことだけはきちんと伝えられていた。

家の用で、少し席を外す。

戻りは未定。

それだけの、短い報せだった。


それなら仕方がないのだろうと、最初は思った。

戻りは未定というのは、今日は屋敷に上がれるかわからないという意味だと思った。

けれど二日目になっても戻らず、愛護があまりにも落ち着かない顔をしていたからだろう、ようやくもう少し詳しい話がもたらされた。


「朝凪の生家のことで、少々問題が起きているらしい」


年長の側付きが、何でもない調子でそう言ったのだ。


「売り払ったはずの家に、妙な縁が残っていたとかでな。整理が済むまで、しばらく屋敷に出てこられんそうだ」


それ以上の説明はなかった。

けれど、それは十分にあり得る話でもあった。


武家にとって、家にまつわる問題は軽くない。

土地、血縁、過去のしがらみ、先代の代に残された約定。

そうしたものは、時に表へ出せぬ形で処理される。

若い者ひとりに任されることも、珍しくはない。


だから、周囲はそれで納得した。

愛護だけが、納得しなかった。

その日一日のことではなく「しばらく」なんて曖昧な期間不在になるならば、朝凪は一度顔を見せて直接説明する人だと愛護は思っている。

だから、愛護を落ち着かない気持ちにさせているのは、怒りではなく不安、心配、かなしみだった。


なにか、あったのかも。

その気持ちは、胸の中でじわじわ大きくなった。


だからといって、姫がたかが側付き──それも屋敷へはきちんと不在の連絡を入れている者を、想像で勝手に案じて屋敷を抜け出してよいわけはない。

それくらい、愛護にも分かる。

分かっているから、最初は我慢した。

朝に話を聞き、頷いた。

昼餉のあいだも、女房に「朝凪は戻ってない?」と──何度も──尋ねるだけに留めた。

夕方になってもやはり戻らず、夜になっても顔が見えない。

そして三日目になって、とうとう胸の中のざわざわが大きくなりすぎて、どうしようもなくなったのだ。



■■



その日は折悪く、奥の中が少し慌ただしかった。

愛護の母方の縁にあたる女が、急な見舞いだか相談だかで奥へ上がってきていたのである。

女房たちはその応対に追われ、侍女たちは湯や菓子を運び、奥の空気は普段より少し浮き足立っていた。

幼い姫を静かに部屋へ留めておく目も、どうしても薄くなる。


愛護は廊へ出て、しばらく立ち尽くした。

いまなら、そっと裏へ回れるかもしれない。

誰にも気づかれずに、少しだけ外の様子を見に行けるかもしれない。

もちろんそんなところに朝凪がいるわけはないのだけれど、とにかく大人しく座っていられなかった。


けれどそう思ったのと同時に、駄目だ、とも思う。

姫が勝手に奥を抜けるなど、褒められることではない。

朝凪なら、こういう勝手は好まないだろう。

玄冬に知られたら、もっときつく叱られるかもしれない。

戻ろうか、と一度は思う。


でも、三日だ。

もし本当に困っているなら。

もし怪我でもしていたら。

もし、きちんと戻ってくるはずの人が、きちんと戻ってこられない事情になっているなら。

そんなふうに、子どもらしい焦りと心配だけが胸の中で回っていた。


そのとき、裏手から風が入ってきた。


不思議な風だった。

ひんやりしていて、肌の上をすべると少しくすぐったい。

綾の濃い場所に立ったときにときどき感じるような、空気がひと皮ずれる感じ。

愛護はそちらへ顔を向けた。


四大武家の本家の屋敷は、綾に縁深い場所へ建てられている。

風斎の本家もまた、綾の流れがもっとも濃く寄る場所に根を下ろし、その上へ幾代にもわたって増築と手入れを繰り返してきた。

目に見えぬ綾は屋敷の下や庭の隅々にまで細く行き渡り、人の手で整えられた流れの中を絶えず巡っている。


ふだんそれは、そこにあるだけのものだ。

通常、ただ流れている状態の綾は人が触れられるものではない。武具や術に精錬してそこに意味を持たせない限りは空気と同じようなものだ。

けれどその日、愛護は妙な引っかかりを感じた。


風ではない。

冷たさでもない。


庭の隅、渡りと石灯籠のあいだ、何もないはずの空間に、見えない糸がもつれて垂れているみたいな気配があった。

濃い綾の流れがどこかでうまく巡りきらず、ひとかたまりになっているような、そんな感覚だった。


愛護は立ち止まる。

何だろう、と思った。

気になった。


本当なら、そのまま女房か、庭を巡回している兵を呼ぶべきだったのかもしれない。

けれどそれはあまりに曖昧な違和感で、わざわざ大人を探して声をかけるほどのものとは思えなかった。

髪に絡まった糸くずをつまむみたいな気持ちで、ほんの少しだけ手を伸ばす。


指先が、そこへ触れた。

触れた、と思った瞬間、綾がほどけ、ぱちん、という音がした。

いや、実際に鳴ったのかどうかは分からない。

ただ、綴じていた結び目がひとつ外れ、押し込まれていたものがするりと流れ出すような感触だけがあった。


愛護は目を見開く。

次の瞬間には、足もとの感触が変わっていた。

裏庭の白い敷石ではない。

湿った土だった。

振り返っても、白い壁も、見慣れた庭木も見えない。

あるのは木立と人の手が入りきらない山道に、知らぬ土の匂いだけだった。

その瞬間、愛護はさすがに青くなった。


「……え」


声が、小さく漏れる。

ここがどこか分からない。

どうしてここへ出たのかも分からない。

ついさっきまでいたはずの屋敷は、影も形もない。

怖い、と思った。

ちょっと変な綾の様子を見たかっただけなのに。

こんなところへ来るつもりなんてなかったのに。


けれど、泣くにはまだはやい。

まだ、戻れるかもしれない。

誰かに会えれば道を訊けるかもしれない。

大丈夫、愛護は強い武家の子なんだから。

禍滲にだって立ち向かう、誇り高き風斎の姫なんだから。


そう自分へ言い聞かせるようにして、歩き始めた先にあったのが、この迷う道だった。




■■




だから今、愛護の胸の中にあるのは、見知らぬ奇妙な道への好奇心ではない。

そんな余裕は一切ない。

奮い立たせた姫の矜持で、懸命に不安をおしころしていた。

見知らぬ山の中で足もとの土だけが妙にやわらかく、音は遠く、同じような道ばかりが現れる。

六つの子どもが心細くならないはずがなかった。


「……だれか、いないの」


思わず、小さく呟く。

返事はもちろんない。

それでもえっちらおっちらしばらく進んでいくと、綾の奥にふと人の気配がした。


気のせいかもしれない。

けれど、さっきまでの無人の静けさとは違う。

火の消え残りのような、ひとの住むところの気配だ。


愛護は足を止め、息をひそめる。

気配は、たしかに前だ。

なら、あちらへ行けば人に会えるかもしれない。

道を尋ねられるかもしれない。

そう思った瞬間、胸の中の不安が、ほんの少しだけやわらいだ。


違和感の濃い方へ、また一歩。

ふっと、空気が変わる。


それまでまとわりついていた迷いが、薄い膜のように裂けた。

視界の先がひらける。

音が近くなる。


そこに、一軒の家があった。


古びてはいる。

だが、荒れてはいない。

軒先の落葉も長く打ち捨てられた厚みではなく、つい最近払われたあとに新しく積もった程度に見える。

壁も戸もきちんとしていて、人の手が入っているのが分かった。


愛護はしばらくその場に立ち尽くした。

こんなところに家がある。

それだけで少し、ほっとした。


ゆっくりと歩み寄る。

戸の前に立つ。

息を整える。

道を訊こう。

屋敷の方角だけでも教えてもらえたら、それでいい。

そう思って、声をかける。


「すみません、だれかいますか?」


返事はすぐにはなかった。

沈黙が、家の奥にしずかに沈む。

やがて、その沈黙の底で気配が動いた。


人が立つ気配。

床を踏む足音。

こちらへ来るまでのあいだに、一度だけ、わずかな間がある。

戸が開いた。


「……姫様」


朝凪だった。


ほんの一瞬、目が見開かれる。

次の瞬間には整えられる。

けれどその一瞬、朝凪の目に困惑と警戒と――こわがるような色が過ったのを、愛護は見た。


「あき、」

「……なぜ、ここに」


遮ったのは、低く落ちた声だった。

問いかけは、きついわけではない。

けれど、ひどく張りつめている。

それでも愛護はその顔を見た途端、胸の奥に張っていたものが少しゆるむのを感じていた。


いた。

ちゃんと生きていた。

怪我もしていないみたいだ。


それだけでほっとする。

でも同時に、どうしてこんなところにいるのか、という問いも強くなる。


「……三日、来なかった」


愛護は、まっすぐに言う。


「どうして?」


朝凪は一拍だけ置き、答えた。


「申し訳ございません。家の整理に関わる用件が長引いております」


よどみのない返答だった。


「先代の代に生じた縁故の一部に、未処理のものが残っていたことが判明いたしました」


そこでほんの少しだけ、言葉を選ぶような間があった。


「外部に知られるべき性質のものではなく、私ひとりで処理するよう指示を受けております」


筋は通っている。

曖昧なくせに、具体性を感じさせる。

だがそれは、これ以上は踏み込めない、という線であった。

愛護は小さく頷く。


「……そう」


納得したわけではない。

結局屋敷で聞いたのとほとんど同じ話でしかない。

けれど、顔を見たかっただけでもあったから、まずそれでよかった。

それから、思い出す。

自分は道を尋ねるつもりでいたのだと。


「あのね、愛護、へんな道に出ちゃって」


と言いかけた、そのときだった。

奥から、声がした。


「……朝凪?」


静かな声だった。

やわらかい。

少したどたどしい。

それでいて、不思議に澄んでいる。

朝凪の肩が、わずかに強張る。


「……出るな」


低く、抑えた声。

屋敷で愛護に向けるときの、礼を着こんだ声ではない。

もっと素に近い、剥き出しの響きだった。


戸の隙間をふさぐように朝凪が動く。

だが、その前に、愛護はもう中を覗き込んでいた。

閉めきられていない障子の向こうから、昼の光が薄く差している。


その中に、ひとがいた。

陽の落ちる場所に、静かに座っている。


自分よりいくつか上に見えるけれど、まだはっきりと子どもの顔立ちだった。

頬も顎もやわらかく、肩の線も細い。

なのに、その子どもらしさのまま、ひどく現実味が薄い。


髪は黒かった。

ただ暗いだけの黒ではない。

墨を溶かしたような、濁りのない黒。

光を吸い込んで、その底にかすかな艶だけを残す色だ。

目もまた、黒かった。

夜の水面みたいに静かにゆらめいて、強く見つめられている感じはないのに、視線を受けたことだけははっきり分かる。


人の形をしているのに、人の輪郭から少しだけ外れているような印象だった。

場に馴染みすぎていて、逆に現実感が薄い。

この家の奥に、最初からそういうものが置かれていたみたいに見える。


「……きれい」


思わず、こぼれた。


「綾でできてるみたい」


口にした途端、自分で少し驚く。

そんな言葉、ふだん人に向かって言わない。

けれどほかに言いようがなかった。


その子は、ただ静かにこちらを見て、それから少しだけ目を瞬いた。

驚きも、警戒も、強くは見えない。

ただ、そこにいる。

受け入れているようでいて、どこか手の届かない静けさを持っている。


愛護の胸の奥が、わずかにざわつく。

理由は分からない。

嬉しいのとも、くすぐったいのとも違う。

ただ、とても気になる。


「……だれ?」


問いかける。

道を尋ねるはずだったことも、さっきまでの不安も、その一瞬だけ飛んでいた。

ここがどこかも分からないままなのに、目の前のその子の方が、ずっと強く気になった。

だが答えが返るより先に、朝凪が一歩前へ出る。

完全に、視界を遮るように。


「姫様」


声音が、わずかに低くなる。


「本件は、私の家に関わる私事にございます」


言葉は丁寧だった。

けれど、その丁寧さの中に、はっきりと線が引かれている。


「これ以上のご滞在は、お控えいただけますようお願い申し上げます」


拒絶だった。

愛護はしばらく黙っていた。

朝凪の肩越しに、もう一度だけ奥を見ようとする。

だが見えない。

わざと見えなくされているのだと、六つの愛護にも分かった。

早く立ち去れ、と。

でも、ここがどこか分からないまま帰されるのは、とても困る。


「……あの」


愛護は少しだけ声を弱める。


「愛護、へんな道に出ちゃったの。帰り道、わかんない」


それを聞いた瞬間、朝凪の顔がほんの少しだけ変わった。

愛護は思わず、その顔をうかがう。

怒られるだろうか、と遅れて胸が縮む。

けれど朝凪は、すぐにいつもの無表情へ戻った。


「……わかりました」


そう言って一歩退く。

さりげなく、自然に戸が閉められた。


「帰りは私がお送りいたします」


愛護はその答えに、ようやくほっと息をついた。


「……うん」


「ですが」


朝凪の声はまた固くなる。


「本来、このような勝手はなりません。以後は、必ず人を伴ってください」

「……はい」


素直に頷いた。

自分の意志で出てきたわけではないが、不用意な行動はしたと自覚はあった。

それでも、帰る前に、もう一つだけ口をついて出る。


「でもここ、また来たい」


自分でも、なぜそんなことを言ったのか分からない。

怖くて不安ばかりだったのに。

けれど、このまま離れてしまうのが少し惜しかった。

朝凪は、わずかに間を置いた。


「お控えいただけますと幸いに存じます」


やわらかい言い回し。

だが、拒絶は明確だった。


「……そっか」


愛護は小さく息を吐く。


「わかった」


それ以上は言わない。

朝凪は閉めた戸を確認するように一度振り返り、それから愛護の前へしゃがみこんだ。


「失礼いたします」


そう言うと、返事を待つこともなく、愛護の体をひょいと抱き上げる。


「わ」

「ここは屋敷から遠くございます。姫様の足には負担です」


声は怒ってはいなさそうだが、もう歩かせるつもりはないらしい。

愛護は高くなる景色に少し面白い気持ちになりながら、朝凪の肩にしがみついた。

実際、ここまでの道で足はもう重かった。

心細さに紛れていたが、草履の足裏もじんじんしている。

朝凪はそのまま歩き出す。

しばらくして、愛護はふと気づいた。


朝凪のまわりの空気が、少し変だ。

風ではない。

衣の裾でもない。

輪郭の外側を、薄いものが静かに流れている感じがする。


「……朝凪」

「はい」

「いま、綾つかってる?」


朝凪は少しだけ間を置いた。


「道を急いでおります」


それは肯定だった。

愛護は黙る。

何をどう使っているのかは分からない。

けれど、朝凪の足取りが、ただ急いでいるだけとは違うことくらいは分かった。

踏み出すたび、道の方がわずかに寄ってくるような感じがする。

草や石を避けるのも妙に滑らかで、揺れるはずの体があまり揺れない。

朝凪が「遠い」と言ったとおり、帰り道は行きよりずっと長く感じた。

木立のあいだをいくつも抜け、似たような石や枝の影を何度も見ているうち、さっき自分はこの長い道の途中に放り出されたのだと、愛護にもぼんやり分かってくる。

庭で触れた変な凝りのせいなのだと思うが、綾にそんな力があるなんて知らなかった。

そのとき、朝凪が低く言った。


「姫様」

「なあに」

「本日のことは、人にお話しになりませんよう」


愛護は目を瞬いた。


「どうして?」

「姫様のお姿が見えなくなったことは、すでに騒ぎになっておりましょう」


朝凪の声は固かった。


「そのうえ、どこで何を見たかまで広まれば、余計な詮索を招きます」


愛護は少しだけ口をつぐむ。


「……へんな道とか、あのおうちのこと?」

「はい」

「さっきのひとのことも?」


愛護がそう訊くと、朝凪の腕の中の空気がほんの少しだけ固くなった気がした。


「どうか、お胸の内に」


愛護は黙る。

綾でできているみたいだと思った、あの子。

たしかに、あの子のことを、軽く誰かに話していい気はしなかった。


「……わかった」


小さく答える。

朝凪はそれに何も言わなかった。

ただ、抱える腕の位置だけをほんの少し直し、歩みを変えずに進んでいく。


やがて、見覚えのある屋敷の裏手へ出た。

振り返った山は既に遠い。ついさっきまであの中にいたはずなのに。

その縮み方は、理の方を少しだけ曲げて通ってきたようだった。


けれど、そんな妙なことよりも、胸に残っているものの方が大きい。

障子の奥にいた、静かな子。

黒い髪と黒い目が、ふつうの民の色のはずなのに、どうしてか少しちがって見えた。

きれいで、やわらかくて、でもあまり近くへ行ってはいけない気がした、あの子。


朝凪にそう言われたこともあって、愛護は屋敷へ戻ってからも、誰に何を訊かれても、山へ入ったら道に迷ったのだとだけ答えた。



■■



屋敷の裏手でちょうど愛護を探しに出ていた年嵩の侍女へ姫を丁寧に引き渡した朝凪は、家の整理がまだ済んでおらず引き続き席を外す非礼を詫び、深く頭を下げてその場を離れた。


侍女と愛護の視界から外れたことを確認し、綾を纏う。

いま来たばかりの山道を戻る。

綾を抜け、綾を撚り、慎重に、疾く。


山の家の戸を開け、滑り込むように中は入り、静かに閉める。

障子がするりと開き、美菊が顔を出す。

しばらくどちらも口をきかない。

やがて朝凪が、低く言った。


「軽率だ」


責めるというより、事実の確認だった。


「……すみません」


少しの間を置いて、美菊が小さく尋ねる。


「……あれが、ひめさま?」


朝凪は短く息を吐いた。


「そうだ」


それきりまた沈黙が落ちる。

朝凪は戸の前に立ったまま、しばらく動かなかった。


三日、屋敷を空けた本当の理由は、生家の縁などではない。

もともとこの山の家は、祖父が祖母のために建てた家だった。

祖母が生きていたころには、この場所を人目から遠ざけるための綾もきちんと手が入っていた。

けれど祖母がこの世を去ってからは家を隠す必要そのものがなくなり、それから長く、この家の綾の防ぎは眠ったままだった。

その眠っていた古い土台を、美菊を住まわせるにあたって朝凪が掘り起こし、繕い、張り直した。


だが、古い綾は古い。

長く手を入れずにいれば劣化する。

しかも山の綾の流れそのものも、年を経れば変わる。


今年の春、その劣化と流れの変化が思った以上に重なった。

迷いの術も、家そのものを人の認識から薄める術も、どちらも同じところでわずかに綻びかけていたのだ。

張り直すとなれば、半日や一日で済むものではない。

外側の筋を洗い直し、綾の流れに合わせて織り直し、家の周りを何度も踏んで馴染ませる必要がある。

その間は美菊をひとりにできない。

綾をほどいている最中の家は無防備だ。

屋敷へ出仕して日が落ちてから戻るという普段の往復そのものも、限られた余暇の時間で少しずつ繕うことも、どちらも危険だ。

だから朝凪は三日、山に張りついた。

屋敷へは、もっともらしい理由だけを残して。


それだけ徹底して整えたつもりだった。

なのに、愛護は辿り着いた。


朝凪は目を閉じる。


迷いの術は働いていた。

家そのものを薄くする綾も、たしかに敷き直したばかりだった。

それでも、辿り着いた。


そして問題は、そこだけではない。

たとえ迷いの術を何らかのはずみで踏み越えたとしても、ここは本家から幼子の足でふらりと辿り着ける場所ではない。

愛護を屋敷へ戻すまでは、それを考えないようにしていた。

考えれば顔に出かねなかった。

だが、戻ってきた今は、もう見ないふりができない。


誰にも伴われず。

供回りの気配もなく。

怯えて、道も分からぬまま。

それでもあの姫は、ここまで来た。


朝凪は考える。


綾に縁深い本家。

連綿と受け継がれた血。

理屈の通らぬ異常な近道。


偶然か。

たぶん、偶然としか言いようがない。

けれど、その「偶然」を軽く見てよい気はしなかった。


美菊は、戸の方をしばらく見ていた。

黒い目が静かに伏せられ、また上がる。

さっきまで家の外にいた幼い気配を、まだどこかで辿っているような顔だった。

問いかけるでもなく、怯えるでもなく、ただ静かにそこに残っているものを見つめている。


朝凪はその横顔を一度だけ見て、すぐに視線を落とした。

愛護の顔を思い出す。

何も知らず、ただ心配して、ただ道に迷って、ただ人の気配に寄ってきた顔だった。

隠し事を暴こうという目ではなかった。

だからこそ、いっそう厄介だった。


「しばらくは」


朝凪は低く言う。


「綾の線を増やす。外の筋も、もっと遠くからずらす」


「はい」


「それで様子を見る」


偶然なら、もう来ないかもしれない。

来るとしても、次はもっと注意できる。

そういう話だと、今はまだ思うしかない。




山の家は、またもとの沈黙へ戻っていく。

けれど、その沈黙はもう、今朝までと同じではなかった。


守るべきものは、変わらない。

朝凪にとって何を最優先するかも、変わらない。


ただ、春の終わりの山の静けさの中に、小さな綻びがひとつ落ちた。

朝凪はその綻びを、いかに繕うべきか考えながら胸の内へしまい込んだ。




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