薄暮のまなざし
朝の光は、訓練場の砂を白く照らしていた。
屋敷の奥から少し離れたその場所は、いつもより人が多い。
若い武家の者たちが列を作り、年嵩の兵が声を飛ばし、鍛錬を終えた者が端で綾の武具をほどいている。
砂を踏む足音、衣擦れ、短い掛け声。
屋敷の中なのに、ここだけ少し外の世界みたいだった。
愛護は縁台に腰をおろし、その様子を飽きもせず眺めていた。
傍には玄冬がいる。
少し後ろには朝凪が控えていた。
朝凪はいつも通り、きちんとした顔で立っている。
愛護が訓練場を見たいと言ったのでついてきたのだが、本人は面白がる様子もない。
ただ役目としてそこにいる。そういう立ち方だった。
けれど愛護は、今日は朝凪のことより、まず目の前の方が気になっていた。
何も持っていない兵たちが、合図とともに空へ手を差し出す。
すると、そこに刀や槍が現れる。
何度見ても不思議だった。
「玄冬」
愛護が呼ぶ。
「はい、姫様」
「あの人たち、なんにもないのに、刀がある」
玄冬は訓練場へ視線を向けた。
「綾を織っているのでございます」
「綾って、そんなふうに使うものなの?」
「はい」
玄冬の声は、いつものように落ち着いていた。
こういうときの玄冬は、少しだけ先生みたいになる。
愛護はそれを知っている。
「綾は、この世に満ちている力にございます。ふだんは目に見えませぬが、人はそれを掬い、織り、形を与えることができる。武家は主に、それを武具や術として用います」
愛護は訓練場を見る。
若い兵のひとりが、掌の上に細い刀身を織り上げた。
最初は靄みたいだったものが、輪郭を持ち、刃の形になる。
別の者は短い槍を作っている。
どれも不思議だが、怖くはない。
綾がこの世界に満ち、見えずとも常にそばにあるものだからだろうか。
「ふつうの刀じゃだめなの?」
「人の鍛えた鉄は、人の世のものにございます」
玄冬は言う。
「禍滲は、異界から現れるもの。人の鉄では届きが浅い。ゆえに武家は、この世界の力そのものである綾を織り固めて斬ります」
愛護はなるほど、と思った――ことにした。
本当は分かったような、半分ほどしか分かっていないような気持ちだった。
「じゃあ、武家はみんな、同じようにやるの?」
「基本は同じでございます。ですが、どの家も得手が違います」
そこから先の話は、愛護にも少し面白かった。
風斎は、綾を迷わせる。
まっすぐな道をまっすぐでなくし、近いものを遠くし、見えているものを見失わせる。
静かなのに、戦場ではとても怖い術なのだと、玄冬は言った。
妻鳥は、熱と衝き。
灰の髪に赤眼の家で、火や衝撃のような、前へ出る力に長ける。
雪簇は、凝らし、留め、繋ぐ。
堅い守りと安定の家。金の混じる茶髪に翠眼。
月渓は、薄く細く遠くへ通す。
見えないところへ届かせるのがうまい、青の混じる黒髪に銀眼の家。
「みんなちがうんだね」
「はい。同じ綾を扱っていても、何を為すかで形は変わります」
愛護は、自分の髪の先をつまんだ。
風斎の赤。
愛護はこの色が好きだった。
それから、ふと別のことを思い出した。
「ねえ、玄冬」
「はい」
「『天宿り』って、綾とはちがうの?」
玄冬はすぐには答えなかった。
ほんの少しだけ間があった。
訓練場では、若い兵たちが織った武具をいったんほどいている。
刀身はまた空気の中に消えていった。
「似ているところもございますが、別のものとお考えください」
玄冬は静かに言う。
「綾は、この世に満ちる力にございます。ですが天宿りは、人に生まれつき宿る、人智を越えた力です。血筋にも、四大武家にも、必ずしも関わりません」
「生まれつき?」
「はい。生まれながらに宿しており、それを早く自覚する者もいれば、何を抱えているか長く分からぬ者もおります。何が宿るかも、人により異なります」
「どんなのがあるの?」
玄冬は少しだけ視線を落とした。
「遠見の力、人心を操る力、──全てを退ける結界。さまざまにございます」
「すごいね」
「すごい、だけでは済みません」
その言葉に、愛護は玄冬を見上げた。
「天宿りは、必ず代償を払います」
玄冬の声は低かった。
「何かを得るかわりに、何かを奪われる。だから、羨むようなものではございません」
愛護は黙った。
よく分からない。
けれど、簡単にすごいと喜んではいけないものなのだと、それだけは伝わった。
そのとき、訓練場の端で年嵩の兵が朝凪の方を見た。
「朝凪」
呼ばれても、朝凪はすぐには動かない。
まず玄冬を見る。
玄冬が小さく頷くと、朝凪は一礼して前へ出た。
訓練場の責任者らしい男が言う。
「若い者への手本に、ひとつ見せてやってくれんか」
愛護はぱっと顔を明るくした。
「見たい!」
勢いよく言ってから、玄冬を見上げる。
「だめ?」
玄冬は愛護を見、それから訓練場へ目を戻した。
「よろしいでしょう。朝凪」
「は」
朝凪は、やはり短く答えた。
砂地の中央へ進み出る。
周りの若い兵たちが半円にひらく。
朝凪は右手をひらいた。
そこへ綾が集まる。
愛護には、見えないはずのものが少しだけ見える気がした。
何もないところの空気が濃くなり、細くまっすぐな筋が重なっていく。
朝凪の綾は、ほかの人たちよりきれいだった。
迷いなく集まり、迷いなく形になる。
やがてその手の中に、長い刀が現れた。
細い。
けれど弱そうではない。
朝の光を受けているはずなのに、鉄とも違う、ひどく澄んだ刃だった。
愛護は思わず息をのむ。
朝凪はその刀を軽く持ち替え、何もない空間へ半歩踏み込んだ。
次の瞬間、そこにいたはずの姿が、ふっとずれた。
消えたわけではない。
見えているのに、うまく掴めない。
さっきまで立っていた場所に、まだ朝凪がいるような気もするのに、実際には違うところにいる。
若い兵のひとりが、思わず目で追い損ねたらしかった。
その隙に、朝凪はもう別の位置にいる。
刃がひるがえる。
ただの実演だから何も斬らない。
けれど、もし敵がいたなら、きっと逃げられないのだろうと、愛護にも分かった。
それくらい、自然に目が迷った。
すぐに朝凪は綾をほどき、元の位置へ戻る。
何事もなかったような顔だ。
見せびらかしたという感じもない。
ただ頼まれたからやっただけ、という顔だった。
「すごい!」
愛護は声を弾ませた。
「すごくきれいだった!」
周りの若い兵たちも、さすがに少しざわついている。
責任者の男はうむと頷いた。
玄冬は、愛護のようには褒めない。
けれど、その目は冷たくなかった。
「綾の集め方が安定しております」
淡々とした口調で言う。
「風斎の迷いも、薄く広くではなく、狙って一点にかけていた。若いなりに無駄がありません」
それは、玄冬にしてはよい評価なのだろう。
愛護にも何となく分かった。
朝凪は、やはり表情を大きくは変えずに頭を下げた。
「恐れ入ります」
それだけだった。
昼ののちも、愛護はしばらく機嫌がよかった。
訓練場で見た綾の刀が、何度も頭に浮かぶ。
きれいだったし、かっこよかったし、朝凪がちゃんと褒められたのもよかった。
けれど朝凪本人は、午後の務めでもいつも通りだった。
愛護が「きれいだったね」と言っても、
「お目汚しでなければ何よりにございます」
と返すだけ。
相変わらず笑わない。
夕刻になり、空の色が少しやわらいだころ、朝凪は定刻どおり下がる支度をした。
男の側付きは、姫の寝所までは侍らない。
夜は女の護衛がつき、細々したことは全て女房や侍女たちの務めになる。
朝凪は座敷の敷居際で膝をつき、きちんと頭を下げた。
「本日はこれにて下がります。明朝また、参じます」
愛護は少しだけ名残惜しかったが、姫らしい顔で頷く。
「うん。明日もちゃんと来てね」
「は」
それだけ言って、朝凪は下がっていく。
背中まできちんとしている。
愛護はその背を見送り、姿が見えなくなってから、ようやく口を尖らせた。
「……今日も笑わなかった」
侍女がくすりと笑う。
「姫様は、本当に朝凪を笑わせたいのでございますね」
「だって、ちっとも笑わないんだもん」
女房のひとりがやわらかく言う。
「でも、今日はずいぶんお話しくださいましたでしょう」
「ううん。朝凪はいつもああだよ」
愛護は頬をふくらませる。
「愛護、今日こそちょっとくらい笑うかなって思ったのに」
女房たちは面白そうに笑い、侍女は「次こそは」と慰める。
そのとき、廊の向こうから屋敷の者がやってきた。
手に小さな包みを持っている。
「姫様、失礼いたします」
年若い下働きの男だった。
頭を下げ、困ったように包みを持ち直す。
「朝凪様へお渡ししたいものがあるのですが」
「朝凪なら、もう下がったよ」
愛護が言うと、男はあっという顔をした。
「左様でございましたか。では、明日で構いません」
そう言って下がろうとする。
けれど愛護は、ついさっきまで朝凪がここにいたことを思い出した。
まだ敷地のどこかにいるかもしれない。
それに、少しだけなら、もう一度会えるかもしれない。
「愛護が渡してあげる!」
言うより早く、立ち上がっていた。
女房が「姫様」と声を上げる。
だが愛護はもう、その包みを半ば強引に受け取っていた。
「裏まで行かないよ。すぐそこだもん」
「姫様、お待ちください」
「すぐ戻る!」
愛護はそう言い置いて、廊を駆けた。
もちろん、屋敷の外へ出てはいけないことくらい分かっている。
分かっているから、ほんとうに少し探すだけのつもりだった。
裏の渡りを抜け、人気の少ない方へ回る。
夕暮れの屋敷は、表の華やかさと違って、少しひっそりしている。
どこかに朝凪の赤い髪が見えないかと、愛護は目をこらした。
いた。
ちょうど裏門の方へ向かう後ろ姿だった。
「朝凪!」
呼ぶ。
けれど距離がある。
風向きのせいか、朝凪は振り向かない。
「あーきーらー!」
もう一度呼ぶ。
それでも届かない。
愛護は包みを抱えたまま、急いで走った。
足袋の小さな足裏が廊板を鳴らす。
裏門のそばまで来て、ようやく外を覗き込む。
門の外には、広く長い道がのびていた。
夕方の道は、薄い光を帯びている。
まっすぐ先へ続いているのに、人影はない。
朝凪の姿は、どこにも見えなかった。
愛護は門の内側で足を止めた。
外へ出れば、追えるかもしれない。
けれど、出てはいけない。
その線は、五つの愛護にも分かる。
分かるから、出られない。
包みを抱えたまま、愛護はしばらく道を見ていた。
ついさっきまで、あそこを歩いていたはずなのに。
呼んだのに。
追いかけたのに。
どうして、もういないのだろう。
夕暮れの道は長く、静かで、どこまでも同じように見えた。
そのどこにも、朝凪はいなかった。
■■
夕刻の光は、裏門のあたりだけ妙に薄かった。
本家の奥にはまだ人の気配が残っている。
女房たちの声、下働きの足音、どこかで戸の閉まる音。
だが門を一歩出れば、それらはすぐに遠のく。
朝凪は振り返らず、そのまま街道へ出た。
門を離れるのとほとんど同時に、朝凪は綾をまとった。
衣の上。輪郭の、ほんの外側にだけ、薄く。
人の視線が触れる、その一歩手前へ細く敷く。
すると、すれ違う者の目は確かにこちらを捉えるのに、そのまま流れる。
誰かいた、と思うより先に、別の景色へ意識が移る。
見えなくなるのではない。覚えておくほどの重みを、与えないのだ。
街道には、まだ帰りの人足や下働きがいた。
木戸の方へ向かう女、荷を背負った男、町へ下る若い兵。
その誰も、朝凪を気に留めない。
気づかれぬまま歩き、気づかれぬまま山際へ入る。
山の家とのあいだを行く時は、いつもそうだった。
山の家は、本家から歩けば一刻ほどかかる。
健脚の男なら詰められぬ距離ではないが、近いとは言えない。
だが朝凪は、綾を道へも足へも薄く通していた。
風斎の術はただ迷わせるためだけのものではない。
流れと関係をずらす家の綾は、ときに自分と道とのあいだにも働く。
足場との噛み合いを軽くし、踏み出しを無駄なく通し、距離の感じ方そのものを縮める。
道を急ぐというより、道の方から半歩寄ってくるような感覚だった。
そうすると、一刻の道が、半刻ほどで済む。
もちろん、それでも毎日続ければ消耗はある。
だが惜しくはなかった。
山へ入れば、まず最初の術がある。
朝凪自身にかけたものとは別の、山の周囲に敷いた迷いの術だ。
道は一本しかない。
分かれもなく、迷う余地もないはずなのに、歩くうちに違和が生まれる。
さっき見た石がまたあり、曲がっていないはずの道がどこかで角度を変え、進んでいるのに近づいている感じがしない。
引き返そうとすると妙にあっさり下りへ出る。気づく者は少ない。
ただ、「今日はやめておくか」と思うだけだ。
朝凪はその歪みを知っている。
自分で敷いた綾の綻びを辿り、迷いの薄い筋を踏み抜いて進む。
そこを抜けると、山の空気が少し変わる。
風が通っているのに、葉擦れの音がまっすぐ届かない。
匂いも、色も、どこか薄い膜を一枚隔てたようになる。
家そのものにかけた術の気配だった。
それは、見えているのに意味を持たないようにする術だ。
家はそこにある。
壁も戸も、屋根も見える。
だが、見た者の意識の中で対象として確定しない。
空き家か、ただの影か、見ても気に留めるほどのものではないと、視線の方が勝手に判断してしまう。
朝凪はその薄膜をくぐる。
そこでようやく、本当の家の姿が見える。
小さく、静かな家だった。谷あいにあるせいで、夕暮れはいつも少し早い。
陽が落ち切る前から影が深くなり、そのかわり残る光は長くやわらかい。
祖父が、祖母を人目から遠ざけて住まわせるために建てた家。
今は朝凪が、あれを──美菊を置いている家。
戸口に、ひとつ影があった。
こどもの影。
「美菊」
出迎えに出ていたらしい。
朝凪の声に、ゆっくりとこちらを向く。
十になるその子は、黙って立っているだけで、どこか現実味が薄かった。
男とも女ともつかぬ細い輪郭、白い肌、静かな目元。
髪は黒く、目も黒い。
風斎の子なら本来あるはずの赤と青をひとつも持たぬ、その色だけがまず目に入る。
けれど異様というより、あまりにも整いすぎていて、先に息を呑むような美しさをもつ子どもだった。
山の夕光は、その黒へよく馴染む。
暗いのに沈まず、光を吸って底に艶を残す髪。
目もまた、夜の水のように静かだった。
朝凪は、その姿を見た瞬間、胸の底でようやく息を吐いた。
今日も、何も損なわれていない。
誰にも見つからず、傷つけられず、そこにいる。
それだけで、まず足りた。
「ただいま」
朝凪が言うと、美菊の目が少しやわらいだ。
「おかえり、なさい」
「もう日が落ちる――寒くなかったか」
「だいじょうぶ、です」
答えを聞く前に、朝凪は戸口の隙間を見た。
古い戸は少しばかり建付けが悪い。
敷居からずれて風が出入りしていたので、嵌め直した。
次に美菊の袖の先へ目をやる。
外気に当たっていたせいか、指先が少し冷えている。
「中入れ」
言いながら、自分の外套を脱いで美菊の肩へかけた。
美菊はされるまま、少しだけ瞬いた。
「……まだ、そんなに」
「いいから」
そのまま背を押すようにして中へ入れる。
戸を閉める。
山の夜が、外へ退く。
家の中には夕餉の支度の匂いが薄く残っていた。
美菊が少し手をつけていたのだろう。
火は弱いが消えていない。
朝凪は膝をつくと、まず炭を寄せた。
火が赤くなる。部屋の空気が少しだけ和らぐ。
美菊は外套を肩にかけたまま、その手元を見ていた。
「今日ははやかったです」
「何事もなかったからな」
朝凪は湯を確かめる。
熱すぎない。冷めきってもいない。ちょうどいい。
「ひめさまの側付きのお役目は、どうですか」
美菊が訊いた。
朝凪は湯呑を二つ出しながら答える。
「面倒はある。だが難しくはない」
それから、湯を注ぐ音の合間に、短く続けた。
「奥の様子がよくわかるのは、いい」
「そうですか」
「そうだ」
乾いた返事だった。
愛護そのものへの感想は、そこにひとつもない。
美菊は湯呑を受け取って、少し考えるように目を伏せた。
それから、ゆっくり顔を上げる。
「ひめさまは、どんなかたですか」
朝凪は火のそばへ坐り直した。
「甘やかされて育ってる割に、くそ餓鬼ではない」
美菊が小さく首を傾げる。
朝凪は湯をひと口飲み、それから言った。
「ふつうの子どもだ」
それだけだった。
美菊はその短い答えを胸の中でしばらく転がすようにしてから、また問うた。
「かわいいですか」
朝凪の手が、一瞬だけ止まった。
火の音が小さく鳴る。
外で風が枝を撫でた。
朝凪は少し低い声で言った。
「……手をかけ、金をかけ、きれいに整えられている」
それは感想ではなく、事実を伸べる言い方だった。
家中から愛され、可愛がられ、惜しみなく金も手間もつぎ込まれている、風斎の嫡子。
本当なら、それは――
そこまで思って、朝凪はその先を飲み込む。
言葉にしたところで、何も変わらない。
意味のないことだ。
美菊は、しばらく朝凪を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「そうですか」
その声は、やわらかかった。
「よかったです」
朝凪は顔を上げる。
美菊は湯呑を両手で包み込んだまま、静かに言った。
「小さいかたが、ちゃんと可愛がられているのは、よいことだと思います」
その言い方には、作った理屈がなかった。
ただ、ほんとうにそう思っている響きだけがあった。
朝凪は返事ができなかった。
腹の底で、黒いものがゆっくり湧く。
本家へのものか、運命へのものか、自分でもよく分からない。
ただ、この場でそれを外へ出すことはしない。
美菊はそれ以上は問わなかった。
ただ、朝凪の前へ、まだ温かい汁椀を寄せた。
「さめます」
「……ああ」
それだけ言って、朝凪は箸を取った。
夕餉はいつも通りだった。
大したものはない。
汁と飯、少しばかりの煮たもの。
けれど朝凪は、屋敷で出るどんな膳より、家の質素な夕餉の方が落ち着いた。
美菊は言葉少なに食べる。
朝凪はその合間に、皿を寄せ、水を足し、火の加減を見る。
美菊が箸を止めれば、「どうした」と訊く。
小骨を取りにくそうにしていれば、自分の方へ寄せて外してやる。
汁が少し熱そうなら、「急ぐな」と言う。
どれも大仰な優しさではない。
ただ、声にも手つきにも、隠しようのない温度があった。
食後、美菊が灯りの下で本を開くと、朝凪はその向かいで荷物の紐を解いた。
今日持ち帰った細々したものを片づけ、明日持っていく分を見繕う。
時折、手元から目を上げる。
美菊が頁をめくる。
髪が頬をすべり、影をつくる。
それを見て、朝凪は無言で手を伸ばし、耳の後ろへ払ってやった。
美菊が本から目だけ上げる。
「邪魔そうだった」
それだけ言って、朝凪は手を離した。
美菊は少し黙ったあと、また頁へ視線を戻す。
だがその口元は、わずかにやわらいでいた。
夜が更ける。
山の家の静けさは深く、虫の声さえ遠い。
その静けさの中で、朝凪はようやく胸のざらつきがほどけていくのを感じていた。
■■
翌朝も、いつも通り始まった。
朝凪はまだ暗いうちに起き、火を熾し、湯を沸かす。
美菊は少し遅れて起きてくる。
朝餉を整え、必要なものを置き、戸口の具合を見る。
そういう順番は、もう体に染みついていた。
出仕の支度を終えた朝凪は、戸口で振り返る。
「外へ出るな」
美菊は素直に頷く。
「はい」
「誰か来ても、俺が戻るまで開けるな」
「はい」
「何かあれば奥へ引け」
「はい」
それから少しだけ間があって、美菊は言った。
「いってらっしゃい」
朝凪は短く頷く。
それ以上の言葉はいらない。
その一言だけで、戻る場所が定まる。
家を出る。
背後で戸が閉まる気配がした。
朝凪はまた、自分に術をかけた。
輪郭の外へ薄く綾を敷き、山を下る。
迷いの術を抜け、道を違わせる綾を踏み越え、屋敷へ向かう。
本家へ着くころには、もう昨日のざらつきも胸の奥へ押し込められていた。
まず参じるべきは、愛護のもとだ。
朝凪は座敷の敷居際で膝をつき、いつも通り深く頭を下げた。
「おはようございます、姫様」
「朝凪」
愛護の声は、朝から少し弾んでいた。
「これ、きのう預かってたの」
そう言って差し出したのは、小さな包みだった。
朝凪は両手で受け取り、一礼する。
「お預かりくださり、ありがとうございました」
「ううん。それよりね」
愛護は少し残念そうに口を尖らせた。
「きのう、愛護、すぐ追いかけたんだよ」
朝凪の背に、ひやりと冷たいものが走る。
だが顔は上げない。
「左様でございましたか」
「うん。でも、すぐ見失っちゃった」
愛護は不思議そうに首を傾げる。
「朝凪、足がはやいんだね」
大丈夫だ、と朝凪は胸の内で言い聞かせる。
見失っている。
術は効いている。
気づかれてはいない。
自分が山に入っていることも。
どこへ帰っているのかも。
そこに何を、誰を、隠しているのかも。
「お呼びに気づかず、失礼いたしました」
朝凪はいつも通りの声で詫びた。
「所用があり、急いでおりましたゆえ」
「そっかあ」
愛護はそれで納得したような、しないような顔をしたが、それ以上は言わなかった。
ただ、「今度はちゃんと振り向いてね」とだけ言う。
「心得ます」
そう答えて、朝凪は顔を上げる。
表情は過不足なく整っている。
愛護の側付きとして、揺らぎはひとつもない。
だが胸の底では、昨夜よりも深く警戒が沈んでいた。
慢心はできない。
術が効いているからといって、安心はできない。
一度見失わせたからといって、次も必ずそうなるとは限らない。
決して、油断しない。
胸の内に繰り返し刻み、沈める。
おもてにあらわれないように。
鼓動とおなじだけ、当たり前にそうあるように。
そして朝凪は今日もまた、風斎の姫君の側へ静かに控えた。




