表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
4/33

薄暮のまなざし


朝の光は、訓練場の砂を白く照らしていた。


屋敷の奥から少し離れたその場所は、いつもより人が多い。

若い武家の者たちが列を作り、年嵩の兵が声を飛ばし、鍛錬を終えた者が端で綾の武具をほどいている。

砂を踏む足音、衣擦れ、短い掛け声。

屋敷の中なのに、ここだけ少し外の世界みたいだった。


愛護は縁台に腰をおろし、その様子を飽きもせず眺めていた。

傍には玄冬がいる。

少し後ろには朝凪が控えていた。


朝凪はいつも通り、きちんとした顔で立っている。

愛護が訓練場を見たいと言ったのでついてきたのだが、本人は面白がる様子もない。

ただ役目としてそこにいる。そういう立ち方だった。


けれど愛護は、今日は朝凪のことより、まず目の前の方が気になっていた。

何も持っていない兵たちが、合図とともに空へ手を差し出す。

すると、そこに刀や槍が現れる。

何度見ても不思議だった。


「玄冬」


愛護が呼ぶ。


「はい、姫様」

「あの人たち、なんにもないのに、刀がある」


玄冬は訓練場へ視線を向けた。


「綾を織っているのでございます」

「綾って、そんなふうに使うものなの?」

「はい」


玄冬の声は、いつものように落ち着いていた。

こういうときの玄冬は、少しだけ先生みたいになる。

愛護はそれを知っている。


「綾は、この世に満ちている力にございます。ふだんは目に見えませぬが、人はそれを掬い、織り、形を与えることができる。武家は主に、それを武具や術として用います」


愛護は訓練場を見る。

若い兵のひとりが、掌の上に細い刀身を織り上げた。

最初は靄みたいだったものが、輪郭を持ち、刃の形になる。

別の者は短い槍を作っている。

どれも不思議だが、怖くはない。

綾がこの世界に満ち、見えずとも常にそばにあるものだからだろうか。


「ふつうの刀じゃだめなの?」

「人の鍛えた鉄は、人の世のものにございます」


玄冬は言う。


「禍滲は、異界から現れるもの。人の鉄では届きが浅い。ゆえに武家は、この世界の力そのものである綾を織り固めて斬ります」


愛護はなるほど、と思った――ことにした。

本当は分かったような、半分ほどしか分かっていないような気持ちだった。


「じゃあ、武家はみんな、同じようにやるの?」

「基本は同じでございます。ですが、どの家も得手が違います」


そこから先の話は、愛護にも少し面白かった。


風斎は、綾を迷わせる。

まっすぐな道をまっすぐでなくし、近いものを遠くし、見えているものを見失わせる。

静かなのに、戦場ではとても怖い術なのだと、玄冬は言った。


妻鳥(つまどり)は、熱と衝き。

灰の髪に赤眼の家で、火や衝撃のような、前へ出る力に長ける。


雪簇(ゆきむら)は、凝らし、留め、繋ぐ。

堅い守りと安定の家。金の混じる茶髪に翠眼。


月渓(つきたに)は、薄く細く遠くへ通す。

見えないところへ届かせるのがうまい、青の混じる黒髪に銀眼の家。


「みんなちがうんだね」

「はい。同じ綾を扱っていても、何を為すかで形は変わります」


愛護は、自分の髪の先をつまんだ。

風斎の赤。

愛護はこの色が好きだった。

それから、ふと別のことを思い出した。


「ねえ、玄冬」

「はい」

「『天宿り』って、綾とはちがうの?」


玄冬はすぐには答えなかった。

ほんの少しだけ間があった。

訓練場では、若い兵たちが織った武具をいったんほどいている。

刀身はまた空気の中に消えていった。


「似ているところもございますが、別のものとお考えください」


玄冬は静かに言う。


「綾は、この世に満ちる力にございます。ですが天宿りは、人に生まれつき宿る、人智を越えた力です。血筋にも、四大武家にも、必ずしも関わりません」

「生まれつき?」

「はい。生まれながらに宿しており、それを早く自覚する者もいれば、何を抱えているか長く分からぬ者もおります。何が宿るかも、人により異なります」

「どんなのがあるの?」


玄冬は少しだけ視線を落とした。


「遠見の力、人心を操る力、──全てを退ける結界。さまざまにございます」

「すごいね」

「すごい、だけでは済みません」


その言葉に、愛護は玄冬を見上げた。


「天宿りは、必ず代償を払います」


玄冬の声は低かった。


「何かを得るかわりに、何かを奪われる。だから、羨むようなものではございません」


愛護は黙った。

よく分からない。

けれど、簡単にすごいと喜んではいけないものなのだと、それだけは伝わった。


そのとき、訓練場の端で年嵩の兵が朝凪の方を見た。


「朝凪」


呼ばれても、朝凪はすぐには動かない。

まず玄冬を見る。

玄冬が小さく頷くと、朝凪は一礼して前へ出た。

訓練場の責任者らしい男が言う。


「若い者への手本に、ひとつ見せてやってくれんか」


愛護はぱっと顔を明るくした。


「見たい!」


勢いよく言ってから、玄冬を見上げる。


「だめ?」


玄冬は愛護を見、それから訓練場へ目を戻した。


「よろしいでしょう。朝凪」


「は」


朝凪は、やはり短く答えた。

砂地の中央へ進み出る。

周りの若い兵たちが半円にひらく。


朝凪は右手をひらいた。

そこへ綾が集まる。


愛護には、見えないはずのものが少しだけ見える気がした。

何もないところの空気が濃くなり、細くまっすぐな筋が重なっていく。

朝凪の綾は、ほかの人たちよりきれいだった。

迷いなく集まり、迷いなく形になる。


やがてその手の中に、長い刀が現れた。

細い。

けれど弱そうではない。

朝の光を受けているはずなのに、鉄とも違う、ひどく澄んだ刃だった。

愛護は思わず息をのむ。

朝凪はその刀を軽く持ち替え、何もない空間へ半歩踏み込んだ。


次の瞬間、そこにいたはずの姿が、ふっとずれた。


消えたわけではない。

見えているのに、うまく掴めない。

さっきまで立っていた場所に、まだ朝凪がいるような気もするのに、実際には違うところにいる。


若い兵のひとりが、思わず目で追い損ねたらしかった。

その隙に、朝凪はもう別の位置にいる。


刃がひるがえる。

ただの実演だから何も斬らない。

けれど、もし敵がいたなら、きっと逃げられないのだろうと、愛護にも分かった。

それくらい、自然に目が迷った。


すぐに朝凪は綾をほどき、元の位置へ戻る。

何事もなかったような顔だ。

見せびらかしたという感じもない。

ただ頼まれたからやっただけ、という顔だった。


「すごい!」


愛護は声を弾ませた。


「すごくきれいだった!」


周りの若い兵たちも、さすがに少しざわついている。

責任者の男はうむと頷いた。

玄冬は、愛護のようには褒めない。

けれど、その目は冷たくなかった。


「綾の集め方が安定しております」


淡々とした口調で言う。


「風斎の迷いも、薄く広くではなく、狙って一点にかけていた。若いなりに無駄がありません」


それは、玄冬にしてはよい評価なのだろう。

愛護にも何となく分かった。

朝凪は、やはり表情を大きくは変えずに頭を下げた。


「恐れ入ります」


それだけだった。




昼ののちも、愛護はしばらく機嫌がよかった。

訓練場で見た綾の刀が、何度も頭に浮かぶ。

きれいだったし、かっこよかったし、朝凪がちゃんと褒められたのもよかった。

けれど朝凪本人は、午後の務めでもいつも通りだった。

愛護が「きれいだったね」と言っても、


「お目汚しでなければ何よりにございます」


と返すだけ。

相変わらず笑わない。


夕刻になり、空の色が少しやわらいだころ、朝凪は定刻どおり下がる支度をした。

男の側付きは、姫の寝所までは侍らない。

夜は女の護衛がつき、細々したことは全て女房や侍女たちの務めになる。

朝凪は座敷の敷居際で膝をつき、きちんと頭を下げた。


「本日はこれにて下がります。明朝また、参じます」


愛護は少しだけ名残惜しかったが、姫らしい顔で頷く。


「うん。明日もちゃんと来てね」

「は」


それだけ言って、朝凪は下がっていく。

背中まできちんとしている。

愛護はその背を見送り、姿が見えなくなってから、ようやく口を尖らせた。


「……今日も笑わなかった」


侍女がくすりと笑う。


「姫様は、本当に朝凪を笑わせたいのでございますね」

「だって、ちっとも笑わないんだもん」


女房のひとりがやわらかく言う。


「でも、今日はずいぶんお話しくださいましたでしょう」

「ううん。朝凪はいつもああだよ」


愛護は頬をふくらませる。


「愛護、今日こそちょっとくらい笑うかなって思ったのに」


女房たちは面白そうに笑い、侍女は「次こそは」と慰める。

そのとき、廊の向こうから屋敷の者がやってきた。

手に小さな包みを持っている。


「姫様、失礼いたします」


年若い下働きの男だった。

頭を下げ、困ったように包みを持ち直す。


「朝凪様へお渡ししたいものがあるのですが」

「朝凪なら、もう下がったよ」


愛護が言うと、男はあっという顔をした。


「左様でございましたか。では、明日で構いません」


そう言って下がろうとする。

けれど愛護は、ついさっきまで朝凪がここにいたことを思い出した。

まだ敷地のどこかにいるかもしれない。

それに、少しだけなら、もう一度会えるかもしれない。


「愛護が渡してあげる!」


言うより早く、立ち上がっていた。

女房が「姫様」と声を上げる。

だが愛護はもう、その包みを半ば強引に受け取っていた。


「裏まで行かないよ。すぐそこだもん」

「姫様、お待ちください」

「すぐ戻る!」


愛護はそう言い置いて、廊を駆けた。

もちろん、屋敷の外へ出てはいけないことくらい分かっている。

分かっているから、ほんとうに少し探すだけのつもりだった。


裏の渡りを抜け、人気の少ない方へ回る。

夕暮れの屋敷は、表の華やかさと違って、少しひっそりしている。

どこかに朝凪の赤い髪が見えないかと、愛護は目をこらした。


いた。

ちょうど裏門の方へ向かう後ろ姿だった。


「朝凪!」


呼ぶ。

けれど距離がある。

風向きのせいか、朝凪は振り向かない。


「あーきーらー!」


もう一度呼ぶ。

それでも届かない。

愛護は包みを抱えたまま、急いで走った。

足袋の小さな足裏が廊板を鳴らす。

裏門のそばまで来て、ようやく外を覗き込む。


門の外には、広く長い道がのびていた。

夕方の道は、薄い光を帯びている。

まっすぐ先へ続いているのに、人影はない。


朝凪の姿は、どこにも見えなかった。


愛護は門の内側で足を止めた。

外へ出れば、追えるかもしれない。

けれど、出てはいけない。

その線は、五つの愛護にも分かる。

分かるから、出られない。


包みを抱えたまま、愛護はしばらく道を見ていた。

ついさっきまで、あそこを歩いていたはずなのに。

呼んだのに。

追いかけたのに。

どうして、もういないのだろう。


夕暮れの道は長く、静かで、どこまでも同じように見えた。

そのどこにも、朝凪はいなかった。



■■



夕刻の光は、裏門のあたりだけ妙に薄かった。

本家の奥にはまだ人の気配が残っている。

女房たちの声、下働きの足音、どこかで戸の閉まる音。

だが門を一歩出れば、それらはすぐに遠のく。

朝凪は振り返らず、そのまま街道へ出た。


門を離れるのとほとんど同時に、朝凪は綾をまとった。

衣の上。輪郭の、ほんの外側にだけ、薄く。


人の視線が触れる、その一歩手前へ細く敷く。

すると、すれ違う者の目は確かにこちらを捉えるのに、そのまま流れる。

誰かいた、と思うより先に、別の景色へ意識が移る。

見えなくなるのではない。覚えておくほどの重みを、与えないのだ。


街道には、まだ帰りの人足や下働きがいた。

木戸の方へ向かう女、荷を背負った男、町へ下る若い兵。

その誰も、朝凪を気に留めない。


気づかれぬまま歩き、気づかれぬまま山際へ入る。

山の家とのあいだを行く時は、いつもそうだった。


山の家は、本家から歩けば一刻ほどかかる。

健脚の男なら詰められぬ距離ではないが、近いとは言えない。

だが朝凪は、綾を道へも足へも薄く通していた。

風斎の術はただ迷わせるためだけのものではない。

流れと関係をずらす家の綾は、ときに自分と道とのあいだにも働く。

足場との噛み合いを軽くし、踏み出しを無駄なく通し、距離の感じ方そのものを縮める。

道を急ぐというより、道の方から半歩寄ってくるような感覚だった。

そうすると、一刻の道が、半刻ほどで済む。


もちろん、それでも毎日続ければ消耗はある。

だが惜しくはなかった。


山へ入れば、まず最初の術がある。

朝凪自身にかけたものとは別の、山の周囲に敷いた迷いの術だ。

道は一本しかない。

分かれもなく、迷う余地もないはずなのに、歩くうちに違和が生まれる。

さっき見た石がまたあり、曲がっていないはずの道がどこかで角度を変え、進んでいるのに近づいている感じがしない。

引き返そうとすると妙にあっさり下りへ出る。気づく者は少ない。

ただ、「今日はやめておくか」と思うだけだ。

朝凪はその歪みを知っている。

自分で敷いた綾の綻びを辿り、迷いの薄い筋を踏み抜いて進む。


そこを抜けると、山の空気が少し変わる。

風が通っているのに、葉擦れの音がまっすぐ届かない。

匂いも、色も、どこか薄い膜を一枚隔てたようになる。

家そのものにかけた術の気配だった。

それは、見えているのに意味を持たないようにする術だ。

家はそこにある。

壁も戸も、屋根も見える。

だが、見た者の意識の中で対象として確定しない。

空き家か、ただの影か、見ても気に留めるほどのものではないと、視線の方が勝手に判断してしまう。


朝凪はその薄膜をくぐる。

そこでようやく、本当の家の姿が見える。

小さく、静かな家だった。谷あいにあるせいで、夕暮れはいつも少し早い。

陽が落ち切る前から影が深くなり、そのかわり残る光は長くやわらかい。

祖父が、祖母を人目から遠ざけて住まわせるために建てた家。

今は朝凪が、あれを──美菊(よしあき)を置いている家。


戸口に、ひとつ影があった。

こどもの影。


「美菊」


出迎えに出ていたらしい。

朝凪の声に、ゆっくりとこちらを向く。


十になるその子は、黙って立っているだけで、どこか現実味が薄かった。

男とも女ともつかぬ細い輪郭、白い肌、静かな目元。

髪は黒く、目も黒い。

風斎の子なら本来あるはずの赤と青をひとつも持たぬ、その色だけがまず目に入る。

けれど異様というより、あまりにも整いすぎていて、先に息を呑むような美しさをもつ子どもだった。

山の夕光は、その黒へよく馴染む。

暗いのに沈まず、光を吸って底に艶を残す髪。

目もまた、夜の水のように静かだった。


朝凪は、その姿を見た瞬間、胸の底でようやく息を吐いた。

今日も、何も損なわれていない。

誰にも見つからず、傷つけられず、そこにいる。

それだけで、まず足りた。


「ただいま」


朝凪が言うと、美菊の目が少しやわらいだ。


「おかえり、なさい」

「もう日が落ちる――寒くなかったか」

「だいじょうぶ、です」


答えを聞く前に、朝凪は戸口の隙間を見た。

古い戸は少しばかり建付けが悪い。

敷居からずれて風が出入りしていたので、嵌め直した。

次に美菊の袖の先へ目をやる。

外気に当たっていたせいか、指先が少し冷えている。


「中入れ」


言いながら、自分の外套を脱いで美菊の肩へかけた。

美菊はされるまま、少しだけ瞬いた。


「……まだ、そんなに」

「いいから」


そのまま背を押すようにして中へ入れる。

戸を閉める。

山の夜が、外へ退く。


家の中には夕餉の支度の匂いが薄く残っていた。

美菊が少し手をつけていたのだろう。

火は弱いが消えていない。

朝凪は膝をつくと、まず炭を寄せた。

火が赤くなる。部屋の空気が少しだけ和らぐ。

美菊は外套を肩にかけたまま、その手元を見ていた。


「今日ははやかったです」

「何事もなかったからな」


朝凪は湯を確かめる。

熱すぎない。冷めきってもいない。ちょうどいい。


「ひめさまの側付きのお役目は、どうですか」


美菊が訊いた。

朝凪は湯呑を二つ出しながら答える。


「面倒はある。だが難しくはない」


それから、湯を注ぐ音の合間に、短く続けた。


「奥の様子がよくわかるのは、いい」

「そうですか」

「そうだ」


乾いた返事だった。

愛護そのものへの感想は、そこにひとつもない。

美菊は湯呑を受け取って、少し考えるように目を伏せた。

それから、ゆっくり顔を上げる。


「ひめさまは、どんなかたですか」


朝凪は火のそばへ坐り直した。


「甘やかされて育ってる割に、くそ餓鬼ではない」


美菊が小さく首を傾げる。

朝凪は湯をひと口飲み、それから言った。


「ふつうの子どもだ」


それだけだった。

美菊はその短い答えを胸の中でしばらく転がすようにしてから、また問うた。


「かわいいですか」


朝凪の手が、一瞬だけ止まった。

火の音が小さく鳴る。

外で風が枝を撫でた。

朝凪は少し低い声で言った。


「……手をかけ、金をかけ、きれいに整えられている」


それは感想ではなく、事実を伸べる言い方だった。

家中から愛され、可愛がられ、惜しみなく金も手間もつぎ込まれている、風斎の嫡子。

本当なら、それは――


そこまで思って、朝凪はその先を飲み込む。

言葉にしたところで、何も変わらない。

意味のないことだ。


美菊は、しばらく朝凪を見ていた。

やがて、小さく頷く。


「そうですか」


その声は、やわらかかった。


「よかったです」


朝凪は顔を上げる。

美菊は湯呑を両手で包み込んだまま、静かに言った。


「小さいかたが、ちゃんと可愛がられているのは、よいことだと思います」


その言い方には、作った理屈がなかった。

ただ、ほんとうにそう思っている響きだけがあった。

朝凪は返事ができなかった。

腹の底で、黒いものがゆっくり湧く。

本家へのものか、運命へのものか、自分でもよく分からない。

ただ、この場でそれを外へ出すことはしない。


美菊はそれ以上は問わなかった。

ただ、朝凪の前へ、まだ温かい汁椀を寄せた。


「さめます」

「……ああ」


それだけ言って、朝凪は箸を取った。

夕餉はいつも通りだった。

大したものはない。

汁と飯、少しばかりの煮たもの。

けれど朝凪は、屋敷で出るどんな膳より、家の質素な夕餉の方が落ち着いた。


美菊は言葉少なに食べる。

朝凪はその合間に、皿を寄せ、水を足し、火の加減を見る。

美菊が箸を止めれば、「どうした」と訊く。

小骨を取りにくそうにしていれば、自分の方へ寄せて外してやる。

汁が少し熱そうなら、「急ぐな」と言う。

どれも大仰な優しさではない。

ただ、声にも手つきにも、隠しようのない温度があった。


食後、美菊が灯りの下で本を開くと、朝凪はその向かいで荷物の紐を解いた。

今日持ち帰った細々したものを片づけ、明日持っていく分を見繕う。

時折、手元から目を上げる。


美菊が頁をめくる。

髪が頬をすべり、影をつくる。

それを見て、朝凪は無言で手を伸ばし、耳の後ろへ払ってやった。

美菊が本から目だけ上げる。


「邪魔そうだった」


それだけ言って、朝凪は手を離した。

美菊は少し黙ったあと、また頁へ視線を戻す。

だがその口元は、わずかにやわらいでいた。


夜が更ける。

山の家の静けさは深く、虫の声さえ遠い。

その静けさの中で、朝凪はようやく胸のざらつきがほどけていくのを感じていた。



■■



翌朝も、いつも通り始まった。

朝凪はまだ暗いうちに起き、火を熾し、湯を沸かす。

美菊は少し遅れて起きてくる。

朝餉を整え、必要なものを置き、戸口の具合を見る。

そういう順番は、もう体に染みついていた。

出仕の支度を終えた朝凪は、戸口で振り返る。


「外へ出るな」


美菊は素直に頷く。


「はい」

「誰か来ても、俺が戻るまで開けるな」

「はい」

「何かあれば奥へ引け」

「はい」


それから少しだけ間があって、美菊は言った。


「いってらっしゃい」


朝凪は短く頷く。

それ以上の言葉はいらない。

その一言だけで、戻る場所が定まる。


家を出る。

背後で戸が閉まる気配がした。


朝凪はまた、自分に術をかけた。

輪郭の外へ薄く綾を敷き、山を下る。

迷いの術を抜け、道を違わせる綾を踏み越え、屋敷へ向かう。

本家へ着くころには、もう昨日のざらつきも胸の奥へ押し込められていた。


まず参じるべきは、愛護のもとだ。

朝凪は座敷の敷居際で膝をつき、いつも通り深く頭を下げた。


「おはようございます、姫様」

「朝凪」


愛護の声は、朝から少し弾んでいた。


「これ、きのう預かってたの」


そう言って差し出したのは、小さな包みだった。

朝凪は両手で受け取り、一礼する。


「お預かりくださり、ありがとうございました」

「ううん。それよりね」


愛護は少し残念そうに口を尖らせた。


「きのう、愛護、すぐ追いかけたんだよ」


朝凪の背に、ひやりと冷たいものが走る。

だが顔は上げない。


「左様でございましたか」

「うん。でも、すぐ見失っちゃった」


愛護は不思議そうに首を傾げる。


「朝凪、足がはやいんだね」


大丈夫だ、と朝凪は胸の内で言い聞かせる。

見失っている。

術は効いている。

気づかれてはいない。

自分が山に入っていることも。

どこへ帰っているのかも。

そこに何を、誰を、隠しているのかも。


「お呼びに気づかず、失礼いたしました」


朝凪はいつも通りの声で詫びた。


「所用があり、急いでおりましたゆえ」

「そっかあ」


愛護はそれで納得したような、しないような顔をしたが、それ以上は言わなかった。

ただ、「今度はちゃんと振り向いてね」とだけ言う。


「心得ます」


そう答えて、朝凪は顔を上げる。

表情は過不足なく整っている。

愛護の側付きとして、揺らぎはひとつもない。

だが胸の底では、昨夜よりも深く警戒が沈んでいた。


慢心はできない。

術が効いているからといって、安心はできない。

一度見失わせたからといって、次も必ずそうなるとは限らない。


決して、油断しない。


胸の内に繰り返し刻み、沈める。

おもてにあらわれないように。

鼓動とおなじだけ、当たり前にそうあるように。


そして朝凪は今日もまた、風斎の姫君の側へ静かに控えた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ