残雪――綾寧440年
『門』がひらいたのは、昼の刻を少し過ぎたころだった。
最初にそれと知れるのは、地の揺れでも空の変化でもない。
風斎の――武家の者たちには、もっと先に分かる。
綾の流れがどこかで乱れるのだ。
見えぬ水脈に砂が落ちたようなひどく嫌な引っかかりが、皮膚の裏に伝わる。
詰所にいた玄冬は、手にしていた文を畳んだ。
ほぼ同時に、外で足音が荒くなる。
囁石で『天眼』からの報せを受けた伝令が駆け込み、敷居際で膝をついた。
「山裾にて『門』の発生を確認。規模、中。出現数、未詳」
「近いな」
誰かが低く言う。
玄冬はもう立ち上がっていた。
命令を重ねる必要もない。詰所の者たちも、すでに動いている。
空へ差し出された手の内に、綾が集まる。
目には見えぬはずのものが一瞬だけ空気の濃淡として揺れ、刀や槍の輪郭を取る。
人の鍛えた鉄ではない。禍滲へ届くよう、綾そのものを織り固めた武具だ。
玄冬もまた武具を織る。
掌の中にまとまった綾は、飾り気のない短槍になった。
軽い。だが軽いことと、頼りないことは別だ。これで十分に足りる。
「出る」
短い声に、兵たちが応じる。
「は」
山裾までの道は、よく整えられている。
兵馬は疾く、駆けつけられる。
風斎領は識島の北中部、山地と平地が入り混じる土地だ。
出来得るかぎり街道となる道は拓かれているが、山中へ入れば綾の力無くしては単身での踏破は難しい。
本家と詰所は、綾の濃い要の地へ置かれている。
そして『門』は何か所以があるのか、そういったところによく開く。
現場へ着くころには、空間の裂け目はもうあらわになっていた。
人はこれを『門』と呼ぶ。
建造物の形をしているわけではない。山肌の一点が、まるで布でも裂いたように歪み、その向こう側だけがこの世の色をしていない。
黒とも紫ともつかぬ濁りがゆらぎ、そこから異形の化物が――『禍滲』が這い出してくる。
獣めいたもの、人のようでいて骨の数が合わぬもの、四肢のかわりに塊のまま転がり出るもの。
どれも、目にして心地よいものではなかった。
「多くはありません」
先に着いていた兵が言う。
「しかし、足は速うございます」
「わかった」
玄冬は『門』の揺らぎを見る。
たしかに規模は大きくない。長くは保たぬ裂け目だろう。
だが、こういう『門』ほど油断できない。数が少ないぶん、一体ごとの動きが濃い。
経験の浅い兵なら、ひとつの躓きで食われる。
「散れ」
兵たちが左右へ開く。
風斎の綾が地を這うように広がり、禍滲の進路を静かに狂わせる。
まっすぐ駆けたはずの異形が、気づけば半歩ずれた場所へ踏み込み、別の兵の刃へ首を差し出す。
近づいたように見えて、実際には届いていない。
届くと思って振るった爪が、空を裂くだけで終わる。
綾を薄く張り、流れを歪め、距離と認識の関係を狂わせる。
敵はまっすぐ進んでいるつもりで、わずかに外れる。
届くつもりの刃は届かず、避けたはずの死地へ踏み込む。
そうして戦場そのものを自分に有利な形へ変えていく。
それが風斎の戦い方だった。
最初の数体は、それで落ちた。
ところが、裂け目の縁から飛び出した一体が、分家の若い兵へ向かった。
まだ頬に幼さの残る年頃だった。
槍は構えた。
だが、間が遅い。
ほんの一拍。
それだけで十分だった。
禍滲の影が覆いかぶさる。
その瞬間、玄冬は既に手を伸べていた。
「――」
空気が、凝固する。
若い兵の周囲だけが、切り取られたように静止した。
飛びかかった禍滲は爪を振り下ろす寸前の姿勢で止まり、跳ねた土も、袖の翻りも、そのままそこへ縫い留められる。
周囲の兵が息を呑む。
天宿り――『時樴』。
玄冬の天宿りの力を、言葉で知る者は多い。
だが実際に見る機会はそう多くない。
使うたび、玄冬の命が削れるからだ。
代償と同じだけの時間、絶対に破られぬ結界を張る。
結界内の時間は止まる。
理だけ聞けば簡潔だが、見た目はもっと不気味だった。
止められた一角だけが、戦場から切り離されている。
風も、音も、血も、そこだけ届かない。
「ゆけ」
玄冬が言うと、周囲の兵が一斉に動いた。
止まった禍滲へ綾の刃が落ちる。首が裂け、胴が砕ける。
木も土も傷まない。しかし異界由来のそれだけは壊れていく。
武家が戦場で全力を振るうに躊躇がないのは、その理があるからだ。
人里近くであっても、彼らの刃が民を巻き込むことはない。
綾は、禍滲だけを殺す。
玄冬は心の中で数える。
長くは使わない。長く使う必要もない。
六十秒。
結界がほどける。
音が戻る。
若い兵は、ひどく遅れて息をついた。
膝が折れかけ、それでも槍を落とさなかったのは、武家の子の矜持だった。
「立て」
若者は蒼白な顔で頷き、歯を食いしばって立ち直る。
その姿を見て玄冬はそれ以上何も言わなかった。
叱責もねぎらいも、戦の最中には邪魔だ。
『門』はそこで、ゆっくりと綴じ始めた。
残りの禍滲も、風斎の術で足を狂わされ各個に斬られていく。
数は少なく、一つ一つを確実に落とせば終わる戦だった。
最後の一体が崩れたあと、裂け目はひくりと痙攣し、そのまま歪みの余韻だけを残して消え去った。
あとに残るのは、荒れた地面と、異様な臭いだけである。
「死者は」
玄冬が問う。
「なし」
返答はすぐだった。
負傷はいる。
だが、死者はいない。
兵たちが張りつめていた息を、ようやく少しだけ吐く。
綾の武具がほどけ、識島に還っていく。
勝ち戦、というほどのものではない。
今日の『門』を閉じた、それだけだ。
識島では、そうした「だけ」が延々と積み重なる。
玄冬は、掌をひらいた。
何もない。
だが、つい今しがたそこにあった結界の感触が、骨の内側へまだ残っている。
どれほど削れたのか、見て分かるものではない。
たかが短い時間だ。
けれど、使えば減る。
それだけは絶対だ。
『時樴』とはそういう力だった。
■■
帰還後、玄冬は本家へ報告に上がった。
当主は、静かな座敷にいた。
脇には奥方がいる。
そのひとを前にすると、玄冬はいつも少しだけ目の置き場に困る。
美しい女だった。
血筋のよさと、育ちのよさが、そのまま人の形をしているような美しさだ。
だが、強い女ではない。
強くあろうとはしている。
武家の妻として、当主の隣にいるべきよう努めている。
けれど本質のところで、ひどく繊細だった。
人の死にも、血にも、戦の報せにも、必要以上に心を削る。
そういうところは、当主の妻に向いているとは言い難い。
だが当主は、その脆さごと妻として愛していた。
玄冬は昔から、それを知っている。
「戻りました」
玄冬は頭を下げる。
「山裾の門、小規模。出現数十余。討ち漏らしなく、損耗なし」
当主は短く頷いた。
「ご苦労」
それだけで終わるはずだった。
だが、奥方が玄冬を見た。
「玄冬」
「は」
「……使ったのですか」
何を、とは言わない。
言わずとも通じる。
玄冬は一拍だけ間を置いた。
「使いました」
「どれほど」
「短く」
それ以上の数を、彼は口にしなかった。
数に意味がないからではない。意味がありすぎるからだ。
奥方は、苦しそうに目を伏せた。
その顔に浮かぶ悲哀を、玄冬は見ないようにした。
あの顔を見ていると、思い出す。
十年前の産室。
息を呑むような静けさ。
待望の長子。
そして、色を持たぬ赤子。
産声の代わりに零れた、不吉な言葉。
滅びの予言。
奥方は、あの時まだ気づいていなかった。
出産の疲労で意識は朦朧とし、何が起きているか分からぬまま、ただ子を求めていた。
当主だけが即座に判断したのだ。
死産とする。
妻には不吉を知らせるな。
誰の目にも触れさせるな。
その命に従い、玄冬は赤子を受け取った。
軽かった。
温かかった。
外は雪だった。
玄冬はその温かさを腕に抱えたまま、白い山へ向かった。
そうして、自分の手で、その子を雪の中へ埋めた。
あの冷たさを、玄冬は忘れたことがない。
忠臣であるというのは、時にこういうことだ。
命じられた罪を、罪と知りながら、抱えたまま生きる。
「下がれ」
当主が言った。
玄冬は深く頭を下げる。
「は」
座敷を辞しても、胸の内の雪は解けなかった。
戦では若い兵を一人救った。
当主への報告も終えた。
風斎の臣として、今日の務めに不足はない。
不足は、ない。
識島で武家は、『門』がひらけば出る。
禍滲を斬り、綾を振るい、土地と民を守る。
玄冬もまた、そのために生き、死ぬ。
そしてその忠義の只中にある罪だけは、何年経っても、白く凝ってそこにある。
外では、もう夕方の気配が近づいている。
風斎領の春は、妻鳥ほど短くはなく、月渓ほどあかるくはない。
その中ほどの冷えの上に、この家は長く立ってきた。
守るべきものの多い土地だ。
だからこそ、捨てたものの重みも消えない。
木陰に残る、残雪のように。




