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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
3/32

残雪

『門』がひらいたのは、昼の刻を少し過ぎたころだった。


最初にそれと知れたのは、空の色が変わったからではない。

風斎(かさい)の者たちには、もっと先に分かる。

(あや)の流れが、どこかで乱れるのだ。

見えぬ水脈に砂が落ちたようなひどく嫌な引っかかりが、皮膚の裏に伝わる。


詰所にいた玄冬(げんとう)は、手にしていた文を畳んだ。


ほぼ同時に、外で足音が荒くなる。

囁石(ささめいし)で『天眼(てんがん)』からの報せを受けた伝令が駆け込み、敷居際で膝をついた。


「山裾にて『門』の発生を確認。規模、中。出現数、未詳」


「近いな」


誰かが低く言う。


玄冬はもう立ち上がっていた。

命令を重ねる必要もない。

詰所の者たちも、すでに動いている。

空へ差し出された手の内に、綾が集まる。

目には見えぬはずのものが、一瞬だけ空気の濃淡として揺れ、刀や槍の輪郭を取る。

人の鍛えた鉄ではない。

禍滲(かしん)へ届くよう、綾そのものを織り固めた武具だ。


玄冬もまた武具を織る。


掌の中にまとまった綾は、飾り気のない短槍になった。

軽い。

だが軽いことと、頼りないことは別だ。

これで十分に足りる。


「出る」


短い声に、兵たちが応じる。


「は」


山裾までの道は、よく整えられている。

兵馬は疾く、駆けつけられる。


風斎領は識島(しきしま)の北中部、山地と平地が入り混じる土地だ。

出来得るかぎり街道となる道は拓かれているが、山中へ入れば綾の力無くしては単身での踏破は難しい。

本家と詰所は、綾の濃い要の地へ置かれている。

そして『門』は何か所以があるのか、そういったところによく開く。


現場へ着くころには、裂け目はもうあらわになっていた。


人はこれを『門』と呼ぶ。

建造物の形をしているわけではない。

山肌の一点が、まるで布でも裂いたように歪み、その向こう側だけがこの世の色をしていない。

黒とも紫ともつかぬ濁りがゆらぎ、そこから異形の化物が――『禍滲』が這い出してくる。

獣めいたもの、人のようでいて骨の数が合わぬもの、四肢のかわりに塊のまま転がり出るもの。

どれも、目にして心地よいものではなかった。


「多くはありません」


先に着いていた兵が言う。


「しかし、足は速うございます」


「わかった」


玄冬は門の揺らぎを見る。


たしかに規模は大きくない。

長くは保たぬ裂け目だろう。

だが、こういう『門』ほど油断できない。

数が少ないぶん、一体ごとの動きが濃い。

経験の浅い兵なら、ひとつの躓きで食われる。


「散れ」


兵たちが左右へ開く。


風斎の綾が地を這うように広がり、禍滲の進路を静かに狂わせる。

まっすぐ駆けたはずの異形が、気づけば半歩ずれた場所へ踏み込み、別の兵の刃へ首を差し出す。

近づいたように見えて、実際には届いていない。

届くと思って振るった爪が、空を裂くだけで終わる。


綾を薄く張り、流れを歪め、距離と認識の関係を狂わせる。

敵はまっすぐ進んでいるつもりで、わずかに外れる。

届くつもりの刃は届かず、避けたはずの死地へ踏み込む。

そうして戦場そのものを自分に有利な形へ変えていく。

それが風斎の戦い方だった。


最初の数体は、それで落ちた。


ところが、裂け目の縁から飛び出した一体が、分家の若い兵へ向かった。


まだ頬に幼さの残る年頃だった。

槍は構えた。

だが、間が遅い。

ほんの一拍。

それだけで十分だった。


禍滲の影が覆いかぶさる。


その瞬間、玄冬は既に手を伸べていた。


「――」


空気が、凝固する。


若い兵の周囲だけが、切り取られたように静止した。

飛びかかった禍滲は爪を振り下ろす寸前の姿勢で止まり、跳ねた土も、袖の翻りも、そのままそこへ縫い留められる。


周囲の兵が息を呑む。


天宿(あまやど)り――『時樴(ときぐい)』。


玄冬の天宿りの力を、言葉で知る者は多い。

だが実際に見る機会はそう多くない。


使うたび、玄冬の命が削れるからだ。


代償と同じだけの時間、絶対に破られぬ結界を張る。

結界内の時間は止まる。


理だけ聞けば簡潔だが、見た目はもっと不気味だった。

止められた一角だけが、戦場から切り離されている。

風も、音も、血も、そこだけ届かない。


「ゆけ」


玄冬が言うと、周囲の兵が一斉に動いた。


止まった禍滲へ綾の刃が落ちる。

首が裂け、胴が砕ける。

木も土も傷まない。

しかし異界由来のそれだけは壊れていく。

武家が戦場で全力を振るうに躊躇がないのは、その理があるからだ。

人里近くであっても、彼らの刃が民を巻き込むことはない。

綾は、禍滲だけを殺す。


玄冬は心の中で数える。


長くは使わない。長く使う必要もない。


六十秒。

結界がほどける。

音が戻る。

若い兵は、ひどく遅れて息をついた。

膝が折れかけ、それでも槍を落とさなかったのは、武家の子の矜持だった。


「立て」


玄冬が言う。


若者は蒼白な顔で頷き、歯を食いしばって立ち直る。

その姿を見て、玄冬はそれ以上何も言わなかった。

叱責もねぎらいも、戦の最中には邪魔だ。


『門』はそこで、ゆっくりと綴じ始めた。


残りの禍滲も、風斎の術で足を狂わされ、各個に斬られていく。

数は少なく、一つ一つを確実に落とせば終わる戦だった。


最後の一体が崩れたあと、裂け目はひくりと痙攣し、そのまま歪みの余韻だけを残して消え去った。


あとに残るのは、荒れた地面と、異様な臭いだけである。


「死者は」


玄冬が問う。


「なし」


返答はすぐだった。


負傷はいる。

だが、死者はいない。


兵たちが張りつめていた息を、ようやく少しだけ吐く。

綾の武具がほどけ、識島に還っていく。

勝ち戦、というほどのものではない。

今日の門を閉じた、それだけだ。

識島では、そうした「だけ」が延々と積み重なる。


玄冬は、掌をひらいた。


何もない。


だが、つい今しがたそこにあった結界の感触が、骨の内側へまだ残っている。


どれほど削れたのか、見て分かるものではない。

たかが短い時間だ。

けれど、使えば減る。

それだけは絶対だ。『時樴』とはそういう力だった。



■■



帰還後、玄冬は本家へ報告に上がった。


当主は、静かな座敷にいた。

脇には奥方がいる。


そのひとを前にすると、玄冬はいつも少しだけ目の置き場に困る。


美しい女だった。

血筋のよさと、育ちのよさが、そのまま人の形をしているような美しさだ。


だが、強い女ではない。


強くあろうとはしている。

武家の妻として、当主の隣にいるべきよう努めている。

けれど本質のところで、ひどく繊細だった。

人の死にも、血にも、戦の報せにも、必要以上に心を削る。

そういうところは、当主の妻に向いているとは言い難い。

だが当主は、その脆さごと妻として愛していた。


玄冬は昔から、それを知っている。


「戻りました」


玄冬は頭を下げる。


「山裾の門、小規模。出現数十余。討ち漏らしなく、損耗なし」


当主は短く頷いた。


「ご苦労」


それだけで終わるはずだった。


だが、奥方が玄冬を見た。


「玄冬」


「は」


「……使ったのですね」


何を、とは言わない。

言わずとも通じる。


玄冬は一拍だけ間を置いた。


「使いました」


「どれほど」


「短く」


それ以上の数を、彼は口にしなかった。

数に意味がないからではない。意味がありすぎるからだ。


奥方は、苦しそうに目を伏せた。

その顔に浮かぶ悲哀を、玄冬は見ないようにした。


あの顔を見ていると、思い出す。


十年前の産室。

息を呑むような静けさ。

待望の長子。

そして、色を持たぬ赤子。


産声の代わりに零れた、不吉な言葉。


滅びの予言。


奥方は、あの時まだ気づいていなかった。

出産の疲労で意識は朦朧とし、何が起きているか分からぬまま、ただ子を求めていた。

当主だけが即座に判断したのだ。


死産とする。

妻には不吉を知らせるな。

誰の目にも触れさせるな。


その命に従い、玄冬は赤子を受け取った。

軽かった。

温かかった。

外は雪だった。

玄冬はその温かさを腕に抱えたまま、白い山へ向かった。

そうして、自分の手で、その子を雪の中へ埋めた。


あの冷たさを、玄冬は忘れたことがない。


忠臣であるというのは、時にこういうことだ。

命じられた罪を、罪と知りながら、抱えたまま生きる。


「下がれ」


当主が言った。


玄冬は深く頭を下げる。


「は」


座敷を辞しても、胸の内の雪は解けなかった。


戦では若い兵を一人救った。

当主への報告も終えた。

風斎の臣として、今日の務めに不足はない。


不足は、ない。


識島で武家は、門がひらけば出る。

禍滲を斬り、綾を振るい、土地と民を守る。

玄冬もまた、そのために生き、死ぬ。


そしてその忠義の只中にある罪だけは、何年経っても、白く凝ってそこにある。


外では、もう夕方の気配が近づいている。

風斎領の春は、妻鳥ほど短くはなく、月渓ほどあかるくはない。

その中ほどの冷えの上に、この家は長く立ってきた。

守るべきものの多い土地だ。

だからこそ、捨てたものの重みも消えない。


木陰に残る、残雪のように。





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