残雪
『門』がひらいたのは、昼の刻を少し過ぎたころだった。
最初にそれと知れたのは、空の色が変わったからではない。
風斎の者たちには、もっと先に分かる。
綾の流れが、どこかで乱れるのだ。
見えぬ水脈に砂が落ちたようなひどく嫌な引っかかりが、皮膚の裏に伝わる。
詰所にいた玄冬は、手にしていた文を畳んだ。
ほぼ同時に、外で足音が荒くなる。
囁石で『天眼』からの報せを受けた伝令が駆け込み、敷居際で膝をついた。
「山裾にて『門』の発生を確認。規模、中。出現数、未詳」
「近いな」
誰かが低く言う。
玄冬はもう立ち上がっていた。
命令を重ねる必要もない。
詰所の者たちも、すでに動いている。
空へ差し出された手の内に、綾が集まる。
目には見えぬはずのものが、一瞬だけ空気の濃淡として揺れ、刀や槍の輪郭を取る。
人の鍛えた鉄ではない。
禍滲へ届くよう、綾そのものを織り固めた武具だ。
玄冬もまた武具を織る。
掌の中にまとまった綾は、飾り気のない短槍になった。
軽い。
だが軽いことと、頼りないことは別だ。
これで十分に足りる。
「出る」
短い声に、兵たちが応じる。
「は」
山裾までの道は、よく整えられている。
兵馬は疾く、駆けつけられる。
風斎領は識島の北中部、山地と平地が入り混じる土地だ。
出来得るかぎり街道となる道は拓かれているが、山中へ入れば綾の力無くしては単身での踏破は難しい。
本家と詰所は、綾の濃い要の地へ置かれている。
そして『門』は何か所以があるのか、そういったところによく開く。
現場へ着くころには、裂け目はもうあらわになっていた。
人はこれを『門』と呼ぶ。
建造物の形をしているわけではない。
山肌の一点が、まるで布でも裂いたように歪み、その向こう側だけがこの世の色をしていない。
黒とも紫ともつかぬ濁りがゆらぎ、そこから異形の化物が――『禍滲』が這い出してくる。
獣めいたもの、人のようでいて骨の数が合わぬもの、四肢のかわりに塊のまま転がり出るもの。
どれも、目にして心地よいものではなかった。
「多くはありません」
先に着いていた兵が言う。
「しかし、足は速うございます」
「わかった」
玄冬は門の揺らぎを見る。
たしかに規模は大きくない。
長くは保たぬ裂け目だろう。
だが、こういう『門』ほど油断できない。
数が少ないぶん、一体ごとの動きが濃い。
経験の浅い兵なら、ひとつの躓きで食われる。
「散れ」
兵たちが左右へ開く。
風斎の綾が地を這うように広がり、禍滲の進路を静かに狂わせる。
まっすぐ駆けたはずの異形が、気づけば半歩ずれた場所へ踏み込み、別の兵の刃へ首を差し出す。
近づいたように見えて、実際には届いていない。
届くと思って振るった爪が、空を裂くだけで終わる。
綾を薄く張り、流れを歪め、距離と認識の関係を狂わせる。
敵はまっすぐ進んでいるつもりで、わずかに外れる。
届くつもりの刃は届かず、避けたはずの死地へ踏み込む。
そうして戦場そのものを自分に有利な形へ変えていく。
それが風斎の戦い方だった。
最初の数体は、それで落ちた。
ところが、裂け目の縁から飛び出した一体が、分家の若い兵へ向かった。
まだ頬に幼さの残る年頃だった。
槍は構えた。
だが、間が遅い。
ほんの一拍。
それだけで十分だった。
禍滲の影が覆いかぶさる。
その瞬間、玄冬は既に手を伸べていた。
「――」
空気が、凝固する。
若い兵の周囲だけが、切り取られたように静止した。
飛びかかった禍滲は爪を振り下ろす寸前の姿勢で止まり、跳ねた土も、袖の翻りも、そのままそこへ縫い留められる。
周囲の兵が息を呑む。
天宿り――『時樴』。
玄冬の天宿りの力を、言葉で知る者は多い。
だが実際に見る機会はそう多くない。
使うたび、玄冬の命が削れるからだ。
代償と同じだけの時間、絶対に破られぬ結界を張る。
結界内の時間は止まる。
理だけ聞けば簡潔だが、見た目はもっと不気味だった。
止められた一角だけが、戦場から切り離されている。
風も、音も、血も、そこだけ届かない。
「ゆけ」
玄冬が言うと、周囲の兵が一斉に動いた。
止まった禍滲へ綾の刃が落ちる。
首が裂け、胴が砕ける。
木も土も傷まない。
しかし異界由来のそれだけは壊れていく。
武家が戦場で全力を振るうに躊躇がないのは、その理があるからだ。
人里近くであっても、彼らの刃が民を巻き込むことはない。
綾は、禍滲だけを殺す。
玄冬は心の中で数える。
長くは使わない。長く使う必要もない。
六十秒。
結界がほどける。
音が戻る。
若い兵は、ひどく遅れて息をついた。
膝が折れかけ、それでも槍を落とさなかったのは、武家の子の矜持だった。
「立て」
玄冬が言う。
若者は蒼白な顔で頷き、歯を食いしばって立ち直る。
その姿を見て、玄冬はそれ以上何も言わなかった。
叱責もねぎらいも、戦の最中には邪魔だ。
『門』はそこで、ゆっくりと綴じ始めた。
残りの禍滲も、風斎の術で足を狂わされ、各個に斬られていく。
数は少なく、一つ一つを確実に落とせば終わる戦だった。
最後の一体が崩れたあと、裂け目はひくりと痙攣し、そのまま歪みの余韻だけを残して消え去った。
あとに残るのは、荒れた地面と、異様な臭いだけである。
「死者は」
玄冬が問う。
「なし」
返答はすぐだった。
負傷はいる。
だが、死者はいない。
兵たちが張りつめていた息を、ようやく少しだけ吐く。
綾の武具がほどけ、識島に還っていく。
勝ち戦、というほどのものではない。
今日の門を閉じた、それだけだ。
識島では、そうした「だけ」が延々と積み重なる。
玄冬は、掌をひらいた。
何もない。
だが、つい今しがたそこにあった結界の感触が、骨の内側へまだ残っている。
どれほど削れたのか、見て分かるものではない。
たかが短い時間だ。
けれど、使えば減る。
それだけは絶対だ。『時樴』とはそういう力だった。
■■
帰還後、玄冬は本家へ報告に上がった。
当主は、静かな座敷にいた。
脇には奥方がいる。
そのひとを前にすると、玄冬はいつも少しだけ目の置き場に困る。
美しい女だった。
血筋のよさと、育ちのよさが、そのまま人の形をしているような美しさだ。
だが、強い女ではない。
強くあろうとはしている。
武家の妻として、当主の隣にいるべきよう努めている。
けれど本質のところで、ひどく繊細だった。
人の死にも、血にも、戦の報せにも、必要以上に心を削る。
そういうところは、当主の妻に向いているとは言い難い。
だが当主は、その脆さごと妻として愛していた。
玄冬は昔から、それを知っている。
「戻りました」
玄冬は頭を下げる。
「山裾の門、小規模。出現数十余。討ち漏らしなく、損耗なし」
当主は短く頷いた。
「ご苦労」
それだけで終わるはずだった。
だが、奥方が玄冬を見た。
「玄冬」
「は」
「……使ったのですね」
何を、とは言わない。
言わずとも通じる。
玄冬は一拍だけ間を置いた。
「使いました」
「どれほど」
「短く」
それ以上の数を、彼は口にしなかった。
数に意味がないからではない。意味がありすぎるからだ。
奥方は、苦しそうに目を伏せた。
その顔に浮かぶ悲哀を、玄冬は見ないようにした。
あの顔を見ていると、思い出す。
十年前の産室。
息を呑むような静けさ。
待望の長子。
そして、色を持たぬ赤子。
産声の代わりに零れた、不吉な言葉。
滅びの予言。
奥方は、あの時まだ気づいていなかった。
出産の疲労で意識は朦朧とし、何が起きているか分からぬまま、ただ子を求めていた。
当主だけが即座に判断したのだ。
死産とする。
妻には不吉を知らせるな。
誰の目にも触れさせるな。
その命に従い、玄冬は赤子を受け取った。
軽かった。
温かかった。
外は雪だった。
玄冬はその温かさを腕に抱えたまま、白い山へ向かった。
そうして、自分の手で、その子を雪の中へ埋めた。
あの冷たさを、玄冬は忘れたことがない。
忠臣であるというのは、時にこういうことだ。
命じられた罪を、罪と知りながら、抱えたまま生きる。
「下がれ」
当主が言った。
玄冬は深く頭を下げる。
「は」
座敷を辞しても、胸の内の雪は解けなかった。
戦では若い兵を一人救った。
当主への報告も終えた。
風斎の臣として、今日の務めに不足はない。
不足は、ない。
識島で武家は、門がひらけば出る。
禍滲を斬り、綾を振るい、土地と民を守る。
玄冬もまた、そのために生き、死ぬ。
そしてその忠義の只中にある罪だけは、何年経っても、白く凝ってそこにある。
外では、もう夕方の気配が近づいている。
風斎領の春は、妻鳥ほど短くはなく、月渓ほどあかるくはない。
その中ほどの冷えの上に、この家は長く立ってきた。
守るべきものの多い土地だ。
だからこそ、捨てたものの重みも消えない。
木陰に残る、残雪のように。




