表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
2/33

春座の召し



朝凪(あきら)がその話を聞かされたのは、風斎本家のそばにある詰所の板間だった。


昼の務めがひと段落し、若い兵たちがようやく息をついている時刻である。

外では春の風が吹いていたが、詰所の中にはまだ朝の汗と土の匂いが残っていた。

兵が戻れば(あや)で織った武具をほどき、実物の槍や刀の手入れをし、次の呼び出しに備える。

そういう、よくある午後の一部として始まった時間だった。


朝凪は磨き布を手にしていた。

刃の曇りを見て、布を返し、また拭う。

そういう単調な手の動きに、思考はほとんど乗っていない。もう体が覚えている。

十四になったばかりの手つきとしては、ひどく落ち着いていた。


その時、詰所の戸が開いた。

入ってきたのは、顔見知りの年嵩の武家だった。

本家に近いところで使われることの多い男で、ふだんは若い兵のところへ直接来るような役回りではない。

だから、その姿が目に入っただけで、板間の空気が少し変わった。

何人かが手を止める。

誰も口はきかない。

男は板間をひと目見回し、そのまま朝凪の名を呼んだ。


「朝凪」

「は」


朝凪は立ち上がる。


「来い」


手の布をたたんで脇へ置き、一礼して男の後を追った。

背中へ、若い兵たちの視線が集まるのを感じる。

好奇、嫉み、ただの物見。どれも似たようなものだ。

朝凪は振り返らない。


詰所を出ると、春の光が少し眩しかった。

本家の方へ続く渡りを進む。

磨かれた板の匂い、軒下に落ちる影、静かに行き来する人の気配。

詰所のざらついた空気とは違う。

奥へ入るほど、音は小さくなり、かわりに視線だけが増える。


案内されたのは、表向きの広間ではなかった。

当主が、重臣を集めて必要なことだけを話すための、こぢんまりとした座敷だった。

奥に当主が座し、その脇に年長の者が二、三人いる。

さらに少し下がったところには、書記役らしい者や、伝令に使う若い者が控えている。

人数は多くないが、軽い場ではないことは見てすぐ分かった。

朝凪は襖際で膝をつき、深く頭を下げた。


「朝凪にございます」

「面を上げよ」


当主の声は低く、よく通った。

朝凪は言われた通りに顔を上げる。

視線をまっすぐ当主へ向けすぎぬよう気をつけながら、その場の空気を測った。


話は短かった。

最近、姫がめでたくも五つめの歳を重ねた。

そこで側近くに置く若い者を改めて整える運びとなり、その一人として朝凪を召し立てること。

年若くとも、綾の扱いが安定していること。

口が堅く、気働きも悪くないこと。

風斎の子として身元に曇りがないこと。

当主は簡潔に告げる。


「姫の側付きとして取り立てる。務まるか」


朝凪は迷わず答えた。


「ありがたく拝受いたします」


その言葉は定型である。

だが朝凪にとっては、それだけではなかった。


風斎本家。

雪の夜に、生きた赤子を死んだことにした家。

何不自由なく家を継ぎ、何不自由なく娘を育て、正しい血筋の光の中で生きている家。

その内側へ入ることになる。


本来なら、喜ぶ話なのだろう。

若くして抜擢されるのは名誉であり、将来にも繋がる。

詰所の板間にいた連中が聞けば、誰もが羨むに違いない。

だが朝凪の胸の内にあるのは、別のものだった。


あれは、待っている。


死ねと捨てられ、隠されて育ち、風斎の色すら天に奪われ、何も持たず、何も与えられぬまま、ただ毎日朝凪の帰りを待っている。

その一方で、本家の娘は美しい着物を着て、髪も肌も丁寧に整えられ、当主が時間をかけて選び抜いた者たちを与えられ、何不自由なく生きている。


そう思うだけで、腹の底が滾るように熱くなる。

だが、その熱は出さない。

出した瞬間に終わるのは、自分ではなく、あれの方だ。

朝凪はそれを知っていた。だから、口調も顔色も、ひとつも乱さない。


重臣の一人が言った。


「若いが、姫様は幼くあられる。これくらいのほうが気に入るだろう」


別の男が頷く。


「詰所でも評判は悪くない」

「綾の細工が利くのは玄冬も見ておろう」


玄冬。

そう呼ばれて、当主の側に控えている年嵩の男が静かに口を開いた。


「不足ございません」


それだけだった。

褒めも貶めもない。ただ使えるか使えぬか、その一点だけを見た言い方だ。

朝凪にとってはどうでも良いことだった。

ありがたくもなければ、反発する理由もない。


「では、決まりだ」


当主が言う。


「衣と役目を整え、後日、姫へ正式に顔見せと任命を行う。それまでに礼法も再度叩き込め」

「は」


朝凪は深く頭を下げる。

それで話は終わった。


座敷を辞してからも、しばらくは別の者に引き留められ、役目についての細かな申し渡しが続いた。

どの時刻にどこへ詰めるか。

女房たちとのやり取りはどうするか。

どの距離まで近づいてよいか。

姫の前で崩してはならぬ礼。

必要とあらば綾を織るが、奥向きでむやみに術を見せびらかさぬこと。

そういうことを、手際よく次々と覚えさせられる。


詰所に戻る頃には、もう日が傾いていた。

若い兵たちは、朝凪の顔を見た瞬間に何かを悟ったらしい。

ざわめきが起こる。

誰かが「どうだった」と口にし、別の誰かが「本家か」と囁く。

朝凪は短く「側付きだ」とだけ告げた。

それで十分、板間の空気は揺れた。

驚き、羨み、露骨な嫉妬。

そういうものが一気に寄ってくる。

朝凪はそれらを見ない。

必要のないことだった。

板間の隅に腰を下ろし、朝凪は受け取ったばかりの申し渡しをもう一度頭の中でなぞる。


姫の起居。

奥の人の流れ。

女房たちの目。

重臣の声。

当主の気配。


これまで遠巻きにしか見えなかったものが、これからはもっと近くなる。

近くなれば、見えるものが増える。

見えるものが増えれば、先に手が打てる。

それだけだった。


忠義だの名誉だのは、どうでもいい。

姫に尽くしたいわけでもない。

本家のために骨を折りたいわけでもない。

ただ、使えるものが増えただけだ。


本家の内側へ入るための口実。

人の出入りと気配を量るための立場。

何かあったとき、少しでも早く嗅ぎつけるための足場。

それを得た。


だから朝凪は、表向きには従順に頭を下げる。

礼を学び、務めを覚え、忠を尽くす顔をする。

そうして本家の懐へ入り込み、その裏で、ひとつだけを守る。


それが何であるかを、朝凪は誰にも言わない。

言わぬまま、胸の内の奥深くに抱えている。


この任命は、風斎に仕えるためのものではない。

風斎に仕えるふりをして、たったひとつを生かすためのものだった。



■■



それから数日、朝凪は詰所と奥の間を行き来した。


立つ位置。

目を伏せる角度。

姫が座るより先に座らないこと。

女房の言葉に割って入らぬこと。

必要以上に近づかず、遠すぎもしないこと。


そういう細々した決まりを、ひとつずつ体へ叩き込まれる。

綾の扱いはもともと身についている。

だが、奥向きの礼は別だった。

槍や刀と違い、間違えればすぐに傷がつくわけではない。

だからこそ、見落とせば後からじわじわ効いてくる。

そういうものとして覚えた。

覚えること自体は苦ではない。苦ではないが、好きでもない。

ただ、それを通らなければ先へ行けないと分かっているから、黙って身につけるだけだ。




任命と顔見せの日は、よく晴れていた。


広間はきちんと整えられ、香がうっすら焚かれていた。

奥の几帳は淡い色で、春の光を受けてやわらかく見える。

女房たちも、重臣も、それぞれの位置に過不足なく控えている。

厳めしすぎはしない。

だが、子どもの顔合わせにしては十分すぎるほど整えられた場だった。


朝凪は敷居際に膝をついた。

玄冬が一歩進み、口上を述べる。

傍系の風斎の子、朝凪を今後、愛護(めご)姫付きの一人として近侍させること。

年若くとも綾の扱いと気働きに過不足がないこと。

必要な礼は改めて習わせたこと。

そういうことが簡潔に告げられていく。

朝凪は頭を下げたまま、それを聞いていた。


やがて、奥から小さな気配が動いた。


「面を上げてよい」


女房のひとりが、やわらかい声で言う。

朝凪は、言われた通りに顔を上げた。

そこに、姫がいた。


五つになったばかりの姫は、思ったよりずっと小さかった。

紅をさしたわけでもない頬は明るく、目は大きい。華のある顔立ちだ。

当主の面影と、風斎の血の色を宿した赤い髪と青い目が、幼さの中にくっきりと収まっている。

なるほど、誰が見ても本家の姫だと分かる娘だった。


姫――愛護(めご)は朝凪をじっと見ていた。

恥じらうでもなく、怖がるでもなく、ただ真っ直ぐに、珍しいものでも見るように見ている。

子どもの視線だ。隠し方をまだ知らない視線だった。

朝凪は、その視線を正面からは受けなかった。

受ければ無礼になる。

少しだけ目線を落としたまま、姫の存在を測る。


「朝凪」


愛護が言った。

声は、まだあどけない。

公の場だからと作られた響きではなく、そのまま育ってきた子どもの声だった。


「はい」

「おにいさんだねえ」


広間の空気が、ほんのわずかにゆるむ。

女房の誰かが目を伏せたまま口元だけを和らげた。

玄冬は動かない。

当主も何も言わない。

幼い姫の最初の一言としては、たしかにそういうものだろう。

朝凪は、形式通りに答える。


「恐れ入ります」


愛護はそれに少しだけ首をかしげた。

すこしつまらなそうな顔だ。

たぶん、こう返されるとは思っていなかったのだろう。


「朝凪」

「はい」

「もっと近くに来て」


女房のひとりが、さりげなく息を詰めた気配がした。

朝凪は一拍だけ置く。

言われたことに従うのは当然だ。

だが、近づきすぎるのも違う。

朝凪は礼を崩さぬまま、膝を進めて半歩だけ距離を詰めた。


「これほどにございますか」


愛護はじっと見る。


「……うん」


どうやら、それで満足したらしい。

広間の者たちは、姫が新しい側付きをどう扱うか見ている。

朝凪にもそれは分かった。

気に入るのか、拒むのか、無関心で終わるのか。

そのどれかで、この先の務めやすさは変わる。


愛護は、しばらく朝凪の顔を眺めていた。

やがて言う。


「笑わないの?」


唐突な問いだった。

朝凪は平らかに返す。


「役目の場にございますので」

「いつも笑わないの?」

「必要があれば」


愛護はまた首を傾げる。

その仕草はあまりに子どもらしかったが、場そのものを壊すほど無邪気でもない。

誰かに止められる前に、自分なりの線の中で収まっている。

そういうところは、やはり本家の姫なのだろうと朝凪は思った。


「朝凪は、つよいの?」

「鍛錬は積んでおります」

「玄冬より?」


さすがに広間の空気が止まった。

玄冬は無言で立っている。女房たちは顔色ひとつ変えない。

だが皆、内心では同じことを思ったはずだ。

子どもは時に恐ろしい。

朝凪は迷わなかった。


「玄冬様には及びません」

「ふうん」


愛護はあっさり頷く。

それで質問は終わりかと思ったが、そうでもなかった。


「じゃあ、綾はきれい?」


今度こそ、朝凪はほんの一瞬だけ言葉を選んだ。


「扱いようによります」

「見せて」


女房が今度こそ口を開く。


「姫様、本日は顔合わせにございます」


やわらかいが、止める声だった。

愛護は少しだけ唇を尖らせる。だが駄々をこねはしない。

その代わり、朝凪の方を見て言った。


「じゃあ、こんど」

「お望みとあれば」

「うん」


やり取りはそれだけだった。

任命の言葉は重臣から改めて下され、朝凪はそれに従う旨を述べる。

玄冬が必要なことを告げ、女房たちが今後の取り決めを確認する。

儀は簡素だが、すべてがきちんと通っている。


やがて場が解かれ、愛護は侍女たちに囲まれて奥へ戻った。

去り際に一度だけ振り返り、小さく手を振りそうになって、女房に目で止められる。

その様子があまりに幼くて、朝凪はかえって何も感じなくなった。

広間の人が減ると、玄冬が朝凪へ歩み寄った。


「顔は悪くない」


それが最初の言葉だった。

朝凪は頭を下げる。


「恐れ入ります」

「若いなりに浮ついてもいない。姫様の前で崩れぬのはよい」

「そのように努めております」

「努めるだけで済まぬこともある」


玄冬は短く言った。


「今後、姫様の周りで見聞きしたことは、必要なことのみを上へ上げろ。余計な口は不要だ」

「承知しております」

「姫様はお前を気に入られたようだ」


朝凪は平坦に返す。


「左様にございますか」


喜びも困惑もない。

玄冬は一瞬だけそれを見たが、何も言わなかった。

ただ「下がれ」と命じる。

朝凪は一礼し、広間を辞した。


渡りへ出ると、まだ人の気配があった。

新しく姫付きに任じられた若者を、あからさまに眺める者もいれば、何気ない顔で目だけ寄越す者もいる。

若い武家の好奇も、侍女たちの値踏みも、朝凪にはどれも同じだった。


ただ、足場がひとつ増えた、と思う。

奥へ入れる。

人の流れが見える。

重臣の目がどこへ向くか、女房たちが何を隠し、何を零すか、その気配を拾える。

それだけでよかった。


心がもう別のところへ向いているせいか、渡りの先のざわめきも、春の匂いも、うまく胸に残らない。

先ほどまで目の前にいた幼い姫の顔も、もう薄い。

代わりに、いつもの静かな場所と、そこに置いてきたものばかりが、ひどくはっきり思い出される。


早く戻りたい。

そう思うだけで、足が少し速くなる。


誰にも見せず、誰にも渡さず、静かなところへ置いたままのもの。

朝凪が戻ることだけを待ち、朝凪の声だけを聞いて日を終えるもの。


それへの思いだけが、静かに、執拗に、朝凪の足を山の方へ急がせていた。




■■




その頃、奥では、愛護が別れたばかりの朝凪のことを話していた。

着替えを手伝われながら、帯を引かれ、髪を撫でつけられ、それでもじっとしていられずに、くるりと侍女の方を向く。


「ねえ」


年若い侍女が、はい、と笑う。


「朝凪って、ずっとあんな顔なの?」

「どのような顔でございましょう」

「ずっと、きりってしてるの」


侍女が困ったように笑うと、そばの女房が口を挟む。


「武家の若者にございますから」

「ふうん」


愛護は、まだ何となく納得しない顔だった。


「あんまりおもしろくなさそうだった」

「そのようなことは」

「だって、愛護がおにいさんだねってほめたのに、ぜんぜんにっこりしなかったもん」


侍女たちが、声を立てぬように笑う。

愛護は少しだけむっとして、けれど本気で怒るほどではなく、ふと視線を上にやって、言葉を続けた。


「でも、かっこよかった」


その一言に、今度は女房たちが目を見交わす。

五つの姫の言う「かっこいい」は、たいそう軽い。

父もかっこいいし、玄冬もかっこいいし、夜の寝所に侍ってくれる女の護衛もかっこいい。

だが、若い男との関りが薄い姫にとって、朝凪は強く印象に残ったようだった。


「朝凪は、つよいのかなあ」


愛護は独り言のように言う。


「綾、どれくらいじょうずなのかな」

「姫様がお望みなら、いずれ見せていただけましょう」


侍女がそう言うと、愛護の目が少し明るくなる。


「明日、呼んだら来る?」


侍女が何か言うより先に、年嵩の女房が笑った。


「来ますとも。あれはもう姫様のものですから」


愛護は目を丸くする。


「愛護のもの?」

「側付きにございます。姫様がお呼びになれば、何をしていても駆けつけます」


その言い方は、あけすけで、乱暴ですらあった。

だが奥向きの女たちにとって、側付きとはそういうものだ。

愛護はその意味を半分だけ受け取り、半分だけ分からないまま、嬉しそうにする。


「じゃあ、明日も呼べるの?」

「もちろんでございます」

「そっかあ」


少し考えて、それからぱっと顔を上げる。


「じゃあ、明日きたらね、愛護、朝凪のこと笑わせてみる」

「まあ」

「ずっときりってしてたら、朝凪もつかれちゃうよね」


無邪気な宣言だった。

その声には、暗いものも、後ろめたいものも、何ひとつない。

ただ、新しい側付きを面白がっているだけの、幼い姫の明るさしかなかった。

女房たちはそれをたしなめもせず、柔らかく受け流す。

姫が新しい近侍に興味を持つのは、むしろよいことだとでもいうように。

愛護もまた、それ以上深くは考えない。

朝凪の胸の内に何があるかなど、知るはずもない。

朝凪が何を見ているのかも、知るはずがない。

ただ、明日になれば、また会えるのがうれしい。

そのときは綾を見せてもらえるかもしれない。

もしかしたら、少しくらい笑うかもしれない。

その程度の、あまりに幼い期待だけを胸に抱いている。


同じ夕暮れの中で、姫は無邪気に新たな出逢いを喜び、朝凪はただひとつの場所へ急いでいた。



その隔たりは、誰の目にも見えようがなく、ただそこに横たわっていた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ