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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
1/29

序 雪胎の産声

その夜、風斎(かさい)の屋敷は、ひどく静かだった。


静かなのに、誰も落ち着いてはいなかった。


奥方が産気づいたのは、日が沈んで間もなくのことだった。

奥向きの灯がひとつ、またひとつと増え、女房たちが足音を殺して行き来する。

湯を運ぶ者、布を取り替える者、祈るように口を結んで控える者。

廊の外では雪が絶え間なく降っていて、軒を打つ音も、庭木へ積もる気配も、夜の底でみな鈍く沈んでいた。


待望の長子だった。


風斎の本家にとって、それがどういう意味を持つか、屋敷に仕える者なら誰でも知っている。

正統の血が、正統の形で次へ渡る。その当たり前を迎える夜のはずだった。

生まれてくる子が男子であれ女子であれ祝う支度はすでに整えられていたし、当主の顔にも、妻の身を想う影はあれど、確かなゆるみもあった。


玄冬(げんとう)は、奥の一歩手前に控えていた。


主の近くに置かれ、言葉少なに用を足し、必要なときだけ深く動く。

そういう役回りを、ながく自然なものとして担っていた。


夜が更けるにつれ、産室から聞こえる声は増えた。


女たちの短い指示。

苦しげな息。

押し殺した呻き。

そして、ときおり混じる、励ますような声。


玄冬は、ただ待っていた。


男が、それも臣下でしかない自分がその中へ踏み込むことはない。

呼ばれれば動く。

呼ばれぬうちは、待つ。

何があっても顔色を変えずにいるのが務めだった。


やがて障子の向こうで、人の気配が大きく揺れた。


生まれる。


誰もがそう思った気配だった。


玄冬もまた、無意識に息を詰めた。

産室の前にいた女房が、すっと膝を正す。

廊下のさらに向こうで控えていた若い侍女が、目を伏せて手を組む。


その次に聞こえるはずのものを、皆が待った。


産声を。


けれど、聞こえなかった。


玄冬は、最初、それが遅れているだけだと思った。


疲れきった女たちの呼吸だけが聞こえる。

布の擦れる音。

湯の器が触れ合う、かすかな音。

雪。

雪。

雪。


それでも、泣き声は来ない。


胸の底に、言いようのない冷えが落ちた。


そのときだった。


赤子の声がした。


だがそれは、産声ではなかった。


「無数の門が、ひらく」


誰も動かなかった。


女房も。

産婆も。

障子の外に控える者たちも。


みな、その一言を耳で受けたまま、理解が追いつかずに凍りついた。


赤子の声だった。


甲高く、か細い、乳を求める前の喉であるはずなのに、言葉だけは妙に明瞭だった。

幼さも、舌足らずもなかった。

何者かが、そこにある口を使い、告げるような声だった。


禍滲(かしん)があふれ、地を埋め尽くす」


雪の夜気が、そのまま産室へ流れ込んだような気がした。


「火があがる。叫びは届かぬ。首は鈴生り。折られた名が、積み上がる」


誰かが小さく息を呑んだ。

だが、その気配さえも次の言葉に押し潰される。


「逃げることは叶わない」


玄冬は指先から血の気が引くのを感じた。


障子一枚隔てた向こうにいるのは、生まれたばかりの赤子のはずだった。

目もまだろくに開いていない、息もおぼつかない、ただ抱き上げられるだけのいのちのはずだった。


それが、喋っている。


「ひとり、のこる」


短く、ひどく淡々と。

その一言は、ほかの禍々しい言葉の奔流に流され、誰の耳にも残らなかった。


そして最後に、


「風斎は滅びる」


と、赤子は囁き、黙った。


雪の音が、やけに大きくなった気がした。


誰も声を出さなかった。


出せなかった。


産室の中で、ようやくひとりが息を呑む音を立てる。

別の誰かが、手にしていた布を落としたらしい。小さな音がした。

けれどそれすら遠く、妙に現実味が薄かった。


その沈黙を最初に断ち切ったのは、当主だった。


「死産とする」


低い声だった。


誰かが、え、と掠れた音を漏らしかけ、すぐに呑み込んだ。


産後の床にある奥方は、まだ朦朧としているのだろう。

障子の向こうから、かすかな呼吸の乱れしか聞こえない。

赤子を抱いた者の震えも、布を押さえる手の強ばりも、当主は見ているはずだった。

それでも声は揺れなかった。


「その子は、死んだ」


当主は続けた。


「奥には見せるな。不吉も伝えるな」


そこまで言って、ようやく玄冬の方を見た。


視線が合う。


命じられたのだと、言葉より早く分かった。


女房のひとりが、白い布に赤子を包んだ。

手が震えている。

恐怖か、嘆きか。

玄冬はそれを受け取った。


あまりに軽かった。


布越しの内側に、かすかな熱がある。

死んだ肉の冷たさではない。

浅いが、確かに息もある。


生きている。


玄冬は、それを知った。


知ったうえで、何も言わなかった。


「頼む」


当主が言った。


それだけで十分だった。


玄冬は一礼し、赤子を抱えて下がった。


廊へ出ると、雪の気配が少し近くなる。

灯の届く範囲を離れるごとに、夜気は冷えた。

布の中の軽さが、腕に妙に残る。

泣かない。

もう予言も口にしない。

ただ、生きている気配だけが薄くあった。


――風斎の子は、赤毛に青眼で生まれる。


それは識島(しきしま)における絶対の理だった。濃い薄いはあっても、そこだけは違えない。

一滴でも一族の血が入れば、必ず。

血のしるしとは、そういうものだった。


だが、この布の中にあるものは違った。


ちらと覗いた髪は黒かった。

目も、開けば黒いのだろうと分かるほど、存在そのものに風斎の色がなかった。


それでいて、産声の代わりに告げたのは、一族の滅びだった。


在り得ないもの。

在ってはならぬもの。

生かしておけぬ。


そう判断した主を、玄冬は責められなかった。


責められぬどころか、正しいとすら思った。

家とは人の情で守るものではない。

長く積み上げた理と血で守るものだ。

その理を、これほど露骨に壊すものを抱え込めば、いずれもっと大きな禍になる。


分かっていた。


分かっていたが、腕の中の重みは消えない。


裏手へ回り、さらに人目の薄い道へ出る。

雪は深かった。

踏みしめた足が脛まで沈み、吐く息はすぐ白く散った。

道を逸れれば、屋敷の灯もすぐ遠のく。

夜の底へ、白さだけがひろがっている。


山へ入る。


白く埋もれた斜面に、夜が沈んでいる。

足元の雪は深く、踏むたび鈍く鳴った。

玄冬は躊躇なく進んだ。

躊躇してはならないと分かっていた。


適当な窪みを見つけ、膝をつく。

腕の中の赤子を見下ろした。


布の隙間から、ほんの少しだけ頬が覗いている。

白い。

驚くほど白い。

けれど死者の色ではない。

まだ戻れる肌だった。


玄冬は一度だけ目を閉じた。


開き、赤子を雪の上へ置いた。


泣かなかった。


声ひとつ上げなかった。


それがかえって、ひどく不気味だった。

普通の赤子なら、この冷たさに触れた瞬間、喉を裂くように泣くだろう。

だがこの子は違う。

ただ、浅く息をしているだけだ。

自分が捨てられたことも、これから死ぬことも、もう知っているかのように。


そんなはずはない、と玄冬は思う。


ただの赤子だ。

どれほど不吉でも、赤子の肉をした、か細い命に過ぎない。


立ち上がる。


来た道を戻りながら、玄冬は一度も振り返らなかった。

振り返れば、その一度が弱さになると知っていたからだ。



――けれど、その夜、弱さは別のところに在った。


風斎の血に連なる女は、屋敷の裏手で雪かきの手を止めていた。


その女は、傍系の風斎の兵として本家へ出入りしていた。

腕が立ち、口の噤みかたを知り、頼まれれば嫌な顔をせずに動く。

そういう人間は、どこでも使い勝手がよい。

雪の夜にはなおさらだった。


彼女の視界の端を、黒い影が過ぎた。


玄冬だと思った。


それだけなら、気にも留めなかっただろう。

だが、その腕の抱え方が妙だった。

荷を持つのとは違う。

もっと崩れやすい、もっと小さいものを庇うような抱え方だった。


こんな夜に、何を。


そう思って、つい目で追った。


気配を殺して後をつけ、山の際まで来たところで、見てしまった。

雪のくぼみへ、玄冬が何かを置くところを。


それが赤子だと分かった瞬間、頭より先に体が冷えた。


玄冬が立ち去るのを見届けてから、女は駆けた。


雪に足を取られながら、裾を濡らしながら、転がるようにして辿り着く。

布に包まれた小さな赤子は、もう半ば雪へ沈みかけていた。


「おい」


返事などあるはずもない。

だが呼ばずにいられなかった。


抱き上げる。


軽い。つめたい。ぞっとするほど。


けれど、


「……生きてるじゃないか」


思わずこぼれた声は、怒りなのか、呆れなのか、自分でも分からなかった。


何があったのかは知らない。

なぜ捨てられたのかも知らない。

だが、まだ生きているものを、このままにしておけるほど、この女は賢くなかった。


外套を開き、赤子を胸へ抱き込む。


ひどく冷えている。

呼吸は浅い。


「おい、死ぬなよ」


抱きこんだ赤子を布越しに何度もさすりながら立ち上がる。

女は、そのまま山を下りた。


家へ戻れば、面倒ごとになるのは分かっていた。

玄冬が手を下したのだ。

これがただの捨て子でないことくらい、察している。

下手をすれば自分だけでなく、夫も息子も巻き込む。


それでも足は止まらなかった。


腕の中の熱が、あまりに弱かったからだ。

弱いくせに、まだなくなっていなかったからだ。


戸を開ける。


火の気のある家の空気が流れ出る。

夫が顔を上げ、彼女の腕の中を見て固まる。

離れたところでは、まだ幼い息子がきょとんと目を丸くしていた。


その光景を前にしたとき、女の脳裏には天啓のように予感がはしった。


今夜、何かが始まってしまったのだと。


祝いの夜に生まれるはずだったものとは、まるで違うかたちで。



けれど、もう戻せないかたちで。





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