秋日和の縁迷い(中)――綾寧449年
「まずいことになった」
家に戻るなりのその言葉に、座敷の入り口近くまで出ていた美菊は顔をこわばらせた。
夕暮れの光はもう山の陰へ落ち、障子の桟だけが細く明るい。
朝凪の肩には屋敷の匂いがまだ残っていた。香と紙と、人の多い場所の熱。袖口には姫付きの衣の折り目が正しく通り、帯も乱れていない。
けれど声だけが、家へ帰る道の途中で何かを削られてきたように低かった。
「朝凪」
美菊は半歩そちらへ寄った。
「なにが、あったのですか」
朝凪は履物を脱ぎ、板敷へ上がった。足を置く音までどこか荒い。
「……姫と俺の縁談が持ち上がるかもしれない」
喉の奥で唸るような声だった。
美菊は、ぱちりと目を瞬いた。
それから、ほんの少しだけ頬へ血がのぼった。白い顔に淡い色が差し、唇の前へ指をそっと添える。男の仕草というにはやわらかく、少女が屏風の陰で恋文を覗く時のような不用意な華やぎがあった。目まで、きらりと光る。
「それは……おめでとう、ございます?」
「何一つ目出度くないが?」
朝凪は即座に座敷へ踏み込み、その手首を取って下ろした。
目元だけを見せられると、どうにも奥方を思い出す。扇の骨の向こうから、何も知らないはずの目で、こちらの皮の下をのぞくように笑っていたあの顔。
背筋の奥に、ぞわりとした汗が戻ってくる。
美菊は手を下ろされたまま朝凪を見上げた。
さすがに、朝凪の顔色が祝い事を持ち帰った者のそれでないことに気づいたらしい。目の光が静かに沈み、口元の薄い笑みもほどけた。
胡坐をかいた朝凪のそばへ膝を寄せる。
「ひめさまとの縁談は、まずいのですか」
「当たり前だろ。逆にまずくない点がどこにあるんだよ」
「ひめさまは朝凪がすきでしょう? 朝凪も、ひめさまを大事にしています。よいご縁では……」
朝凪の目が剣呑に細まった。
美菊は首をすくめた。なぜだかはわからないが、朝凪にとって今の言葉は火種を直に突くものらしい。
膝の上に置いた指先が少し迷ってから、別の言葉を探すように丸まった。
「ええと……では、……玉の輿です」
「お前な……」
朝凪は深く息を吐いた。胡坐の上で頬杖をつき、しばらく畳の目を見る。火を入れるにはまだ少し早いが、部屋の隅にはすでに薄い陰が溜まっていた。山の家は日が落ちると、屋敷より早く冷える。
遠くで枝が鳴り、乾いた葉が庭土を掻いた。
やがて朝凪は、乾いた声で言った。
「――姫の婚姻は成らない」
美菊のまつげが揺れた。
「風斎本家の姫君、それも嫡女だ。傍系のそれとはわけが違う。家同士で場と書面を整えて、本家に報告して終わり、なんて簡単な話じゃない。人が動き、金が動き、膝元どころか領全体の慶事として年単位で支度が進む。つまり」
ひとつ息をおく。
「……華燭の典が挙がる前に、風斎は滅ぶ」
美菊の喉が、小さく上下した。
それは、二人の間にずっと置かれているものだ。茶碗を並べる時にも、本を開く時にも、庭の薬草へ水をやる時にも、そこにある。形のない石のように、暮らしの真ん中へ沈んでいる。触れずに過ごすことはできる。けれど、足を運ぶたび、どこかで必ずその硬さを踏む。
朝凪は頬杖を解き、膝の上で指を組んだ。
「だから――正直なところ、姫の許婚として名を置くのは別にいい。どうせ成らん婚姻だ、何を憂慮することもない。姫も釣書の山から解放されて楽になる。だが、それだけで終わる話じゃないからまずい」
美菊は、少しだけ身を寄せた。
朝凪の声は低いままだったが、そこから先は、屋敷で書付を読む時のように順を追う響きになった。
「正式に婿、あるいは候補として札をめくられるなら、俺の身の回りに調査が入る。側付きとして召し上げられる前にも調べは入ったはずだ。でもあのころは、町の実家にまだ買い手がつく前だった。書類の上では、俺は屋敷の詰所と実家を行き来していることになっていた」
指先が、畳の上に見えない線を引く。
「俺が詰所にいなければ実家、実家にいなければ詰所か外。そう見える形を作ってあった。そこを掘っても何も出てこない。お前はもうここにいた。親も亡い子供の背後を、不審もないのにそれ以上掘る者は少ない」
美菊は、自分の膝元へ目を落とした。
朝凪が愛護に仕える前から自分はこの家にいた。山に包まれ、綾に包まれ、朝凪の帰る道の先として息をしていた。そのころ屋敷でどんな紙が動きどんな目が朝凪の身辺をなぞったのか、美菊は知らない。知る機会もない。ただ、今こうして朝凪の口から出るたび、自分は朝凪の作った空白の中で生きていることだけが分かる。
「だが、今回は違う」
朝凪の声が、一段沈んだ。
「次期当主の婿だ。調べは当然深くなる。本家の正式な手以外にも、俺を気に入らない連中が一筋の瑕疵でも見つけようとする。玄冬のようにこの家自体を目指してくるのでもなければ早々『見える』ことはないはずだが、それでも危うい。誰の思惑が、何の情報が、どこの綻びになるか読み切れない」
朝凪が愛護との縁談を嫌がる理由は、その一点のみだった。
調べの手が、山へ近づく。
その先に、美菊がいる。
朝凪は畳の上へ視線を落としたまま、次の筋を数えているようだった。眉間に細い皺が寄り口元の硬さだけが増していく。
美菊はその横顔を見つめ、やがて小さく声を出した。
「あの、気に入らないといえば」
朝凪の目だけがこちらへ動いた。
「玄冬様……が、反対なされば、縁談は難しくなるのでは」
美菊にとって、玄冬は風斎本家の遠い奥にいる人だった。えらい人で、こわい人で、朝凪とは美菊をめぐって刃を向けあう立場の人。ふたりの間にあるものは、よい縁とは遠い。ならば玄冬が嫌がって、朝凪を婿の札から外してくれるのではないか。そんなふうに美菊は考えた。
朝凪は首を振った。
「玄冬は反対しない。むしろ、恐らく推し進める」
「……どうして」
「厄介な犬に、当主の婿というこれ以上ない首輪をつけられる機会だ。俺が玄冬の立場でもそうする」
美菊の眉が、困ったように下がった。
「俺が十年近く姫の側付きであり続けているのは、姫の近くに置いて問題ないだけの血と素養はある、と本家が認めているということだ。婿候補の端に札を置いても姫や家の格を損なうわけじゃない。玄冬がこの機に乗じて俺を推したところで、外から見れば姫想いの重臣が長く仕えた側付きを評価しただけに見える」
「でも、玄冬様は……朝凪のことを」
「嫌いだろうよ」
朝凪の口元が、わずかに歪んだ。
「嫌いだからこそ、手の届くところへ置きたい。許婚、あるいは正式に婿候補という札がつけば、玄冬が俺の首根っこを掴む名目は今よりずっと増える。屋敷を下がった後の足取りも、交友も、文も、家も。姫のためだと言えば通る」
美菊は袖を握った。
「……朝凪と、交わしたお約束は」
「玄冬自身が山へ手を出さない約定だ。玄冬以外の手が、お前へ伸びることまでは縛っていない」
言葉が畳に落ちる。
「この縁談は、玄冬にとって利しかない」
美菊の指が、袖の布を細くつまんだ。強く握るでもなく、ただ、何かを留めるように、爪の先だけで布を押さえている。
「わたし、なにかできますか」
声は小さかった。
朝凪は「いや」と言いかけ、途中で止めた。
美菊を見る。
目は合っている。けれど、見つめているというより、その一点に視線を置いたまま別の紙面を読んでいるようだった。朝凪の中で、道がいくつも開き、いくつも閉じる。そのない音が部屋の空気を細くしていく。
「一応、持ち出したい荷を考えておけ」
やがて、朝凪は言った。
「――最悪、屋敷を辞する」
「え」
美菊の声が、息と一緒に落ちた。
「姫付きの身分がなくなれば、縁談の話は立ち消える。今回の話は、姫が俺を好いているという周囲の誤解と姫を好いた者に添わせてやりたいという感情で膨らんでいるが、家の理だけで見れば、俺は新たに身分を整えてやってまで婿に据えたいほどの家筋でも人材でもない」
朝凪は淡々と言う。
「ただ、俺が見える場所から消えれば玄冬が動く可能性はある。ここは棄てて領外へ出る。花宮がいい。四家の色も民の色も近しく混じる土地だ。万一お前を見られても、月渓の華やかさに慣れた者たちなら印象はそこまで濃く残らないだろう。今花宮に出向している風斎の臣も、西方を安堵されている家の息子で奥方の顔を直接知らない。お前との相似には気づかない」
「花宮……」
「前にこの手を取れなかったのは、季節が悪かったことと、玄冬に必ず追われる状況だったからだ。追われながら何年も潜むのは現実的じゃなかった」
朝凪は庭の方へ目をやった。
障子の向こうで、秋の草が暮れ色に沈んでいる。雪にはまだ遠い。山道は乾き、旅支度の荷は軽くできる。何年も逃げる必要もない。滅びは、もう遠い未来ではなかった。
「今回は雪も遠い。玄冬も、表向き穏当に職を辞した者を領外まで追う理由は作りにくい。逃げ切る」
美菊の唇が薄く開いた。
「あ、朝凪、側付きを辞めてしまうんですか」
「最悪な。一番確実で手っ取り早くはある」
なんでもない顔で言われたその一言が、美菊の胸を押したらしい。俯いた頬に落ちた髪が、夕暮れの中でいっそう暗く見える。
「でも」
朝凪は美菊を見た。
「そうしたら、ひめさまは……」
短い息が、朝凪の鼻先から抜けた。
「悲しむだろうな。お前に会う道が消えるんだ。多分泣く」
「そ――」
それだけじゃない、と言おうとした。
愛護が朝凪を見る時の顔を、美菊は知っている。甘える時、拗ねたように袖を引く時、朝凪の言葉にぱっと表情をほどく時。毎日そばにいるその人を、その手を、背を、信じ切った幼い顔。
美菊は、もともと存在しないはずだった者だ。山の奥に隠され、屋敷の数には入らず、紙の上にも名を持たない。そんな自分に会えなくなる悲しみと、日々そばに立っていた朝凪が消える悲しみでは、愛護の胸に落ちる深さが違うのではないか。
言葉にしようとした美菊の前で、朝凪の声が落ちた。
「それでも」
低く、静かだった。
「お前に足りはしない」
美菊の手が、膝の上で止まった。
息が胸の奥で音を立てずに詰まる。
朝凪の言葉は、甘さの形をしていない。もっと硬く、重く、冷たい。けれど美菊はその重さを知らないふりができない。自分が朝凪の中でどの位置に置かれているか、知らないままここまで来たのではない。
そして、自分はその重さを大事に抱え込んでしまっている。
障子の外で、葉が一枚落ちた。乾いた音が庭石に触れ、すぐに消えた。
朝凪はややあって、自分の袖へ目を落とす。屋敷から戻ったままの姿だった。姫付きの衣は、山の家の薄暗い座敷に少し似合わない。上質で、整いすぎていて、外の目を連れてくる。
朝凪は帯へ手をかけた。
「まあ、もう少し考える。穏当に流せるならそれが一番いいし、俺も積極的に辞めたいわけじゃない」
するりと帯を解きながら、ぼやくように続ける。
「楽なんだよな、この仕事……滅多に前線に出ることもないし……」
奥向きの者が聞けば正気を疑うだろう言だった。
姫付きは、ただそばに立っていればよい役ではない。人の気配を読み、言葉の先を塞ぎ、屋敷の奥と表の間で危ういものをほどき、愛護の歩く道へ石が出る前に拾う仕事である。当主の意向も、奥方の目も、女房たちの噂も、重臣の沈黙も、すべて一度は朝凪の内側を通る。だが朝凪にとっては前線で禍滲の爪を避けるより、そういうものの方がまだ手に馴染む。
もっとも今日の朝凪は、その手に馴染む仕事でだいぶ削られているのだが。
脱いだ上衣を畳の端へそのまま放る。いつもの朝凪なら衣の折り目を雑に扱うことはない。今日は、指先の端から少しずつ整える気力が抜けている。
美菊は落ちてきた衣を拾い上げた。
布はまだ朝凪の体温を含んでいる。屋敷の香も、ごく薄く残っていた。深い色の上衣。合わせの襟は白く、袖の縁に姫付きとしてのしるしが控えめに入っている。
美菊はそれを広げ、ふとこぼした。
「朝凪」
「何だ」
「もし側付きを辞めたら、この衣はもう着ませんか」
「ああ。姫付きの身分の証明を兼ねたものだからな。辞するなら屋敷に返還することになる」
「……」
美菊は上衣を広げたまま、じっと見た。
袖。襟。裾。帯と重なるあたり。そこに結びつく姿は、美菊の中のどこかにあった。
「どうした」
朝凪の声で、美菊はまばたきをした。
「……『あの日』、朝凪はこれを着ていたと思います」
朝凪の動きが止まった。
美菊は布の襟へ指を置いた。
「黒っぽくて……合わせの襟が、こんな風に白くて……足元も、たぶん、出仕するときのあの履物です」
朝凪の眉が上がる。少し、驚いた顔だった。
「――となると、辞めていないわけか」
朝凪は顎に指を当て、唇の下を押さえた。
目の色が変わる。逃げる道から別の道へ思考が移る。
美菊は衣を抱えたまま、朝凪を見た。
「ここから穏当に、姫付きの身分を保ったまま話が流れるか。調査の手が入っても、お前が見つからないだけの確証を得るか。そうでなければ――」
朝凪の目が、畳の上へ落ちる。
「見逃させる」
そこまで呟いて、心底嫌そうな顔で天井を仰いだ。
「あ゛ーーーーー……まあ、そうだな。あるにはあるな。あるが……」
声の底から嫌悪が滲んでいた。
美菊は衣を胸に寄せ、身を乗りだす。
「危ないことですか」
「危なくはない。俺が嫌なだけだ」
「……危なくなくても、嫌なことはしてほしくありません……」
「つってもな……」
朝凪は額に手をやった。
美菊の身の安全は、朝凪の中であらゆる札の上に置かれている。好悪より上、体裁より上、愛護の涙より上。そこへ届く道があるなら、朝凪は自分の嫌悪くらい踏む。
愛護が嫌がって流れるほうが、よほど早くて自然だ。だが、あれだけ衆目の中で「大好き」と言い切った後で、ただ嫌だと言っても通りが悪い。照れ隠しと受け取られるならまだいいが、妙に健気な方向へ解釈されたなら、取り返しがつかない。姫は自分の気持ちを押し殺している、家のために身を引こうとしている、などと美しい話へ仕立てられた日には終わる。話を流すには、別の角度がいる。
確実性なら、思いついた手のほうが強い。強いが、気に入らない。心底不愉快だ。
朝凪の視線が、美菊へ戻った。
美菊は朝凪の衣を抱えたまま、心配そうにこちらを見ていた。指先が布の襟を握っている。先ほどまで予言の中の朝凪を探るために広げていた衣を、今は盾のように胸元へ寄せている。
朝凪が身を切る何かを考えていると思っている顔だった。
その顔を見て、朝凪は奥歯を噛む力を少し抜いた。
「……飯にするか」
朝凪は手を下ろした。
「どうなるにせよ、今日明日でことが進むものでもない。動きがあればまた話す」
「はい……」
美菊は小さく頷いた。
そのまま、抱えた朝凪の衣へ顔を伏せる。布の上に白い頬が触れ、口元が隠れた。目だけがこちらを見ている。薄い光の中で、その目元のかたちが、また少しだけ奥方に似る。
朝凪の背中へ、昼間の座敷の冷えが戻った。
「口元隠すな。しばらくそれやめてくれ、ほんとに」
「ええ……?」




