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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
48/48

秋日和の縁迷い(後)――綾寧449年


翌朝、朝凪が屋敷の門をくぐった時には、もう何もかもが遅かった。


門番はいつも通りに礼をした。礼はしたが、頭を下げる角度に妙な含みがあった。詰所へ向かう若い武家が朝凪を見つけると、話の途中で口を閉じ、隣の男の肘を小さく突いた。庭へ水を運ぶ下働きの娘は桶を抱え直しながら道を譲り、伏せた目の端でこちらを追った。

朝の屋敷は、普段ならもっと乾いている。起き抜けの火鉢の灰、まだ開ききらない障子、早足で廊を渡る者たちの息。そういうものがそれぞれの用へ散っていくはずの刻に、人の気配だけが妙に同じ方へ傾いていた。


廊の曲がり角で、二人の女房が声を潜めていた。


「武の披露の日からですって。姫様は、どなたをご覧になっても、朝凪様の方が、と」

「綾の時もでしょう。あの方の綾は自分を包んでくれるようだと、姫様が」

「お茶の席の後には、朝凪様ほど自分を大切に見守ってくれる方はいないとおっしゃったとか」


朝凪が近づくと、衣擦れがふたつ揃って整った。女房たちは何食わぬ顔で道を空け、朝凪へ礼をする。片方の目元は、物語を読んで夜更かしした娘のように少し潤んでいた。


別の廊では、若い兵が年嵩の兵へ話していた。こちらは奥向きの女たちよりずっと粗く、けれどその粗さの分、噂の骨組みはさらに太くなっている。


「惟久様に顎を上げられても、朝凪殿は手を出さなかったそうですよ。姫様の御縁に傷がつくから、と」

「ほう」

「そこへ姫様が駆け込まれて。御身の体面も忘れて、朝凪殿へ抱きつかれたとか」

「姫様が?」

「ええ。あれはもう、側付きへの信任などというだけでは」


そこで兵は朝凪に気づき、真っ赤になって口を噤んだ。年嵩の兵はあからさまに咳払いをし、二人とも背筋を伸ばした。朝凪は礼の分だけ目を伏せ、その横を通った。


廊板の冷たさが足袋越しに上がってくる。


事実は、昨日の廊に置いてきたはずだった。惟久が朝凪へ噛みつき、愛護がそれを咎めた。愛護は側付きへの信頼を示し、感極まって抱きつき、危うい言葉を落とした。朝凪はそれをどうにか主従の形へ戻そうとした。そこまでは、確かにあった。


だが一晩のうちに、事実は人の手で磨かれていた。


惟久の不敬は、側付きの誇りを傷つける場面になった。愛護の叱責は、長年秘めた情が一気に噴き上がる場面になった。朝凪が愛護の言葉を主従の形へ戻そうとしたことは、身分をわきまえた男の苦しい自制として受け取られた。愛護が涙ぐみながら「あとで顔を見せてね」と言ったことは、二人にしか通じない約束のように飾られたらしい。

候補者の武や綾や見目を見るたびに愛護が朝凪の名を出していた話も、脚色が重なりに重なって、たいそう抒情的で美しい筋へ縫い直されていた。


さらに存在しない目線まで足されていた。

朝凪が候補者たちの披露の場に戻るたび、遠くから愛護を見ていたという。愛護が朝凪の姿を探すたび、朝凪もまた、気づかれぬよう姫を見返していたという。惟久に罵られた時、朝凪は一瞬だけ奥向きを見たという。愛護が抱きついた時、朝凪の手は上がりかけ、けれど姫の名誉のために袖の内へ落ちたという。幻覚を見るな。


朝凪は廊の曲がり角で足を止め、庭へ目を向けた。秋の朝の庭は冷えて澄んでいる。萩の枝には白い露が乗り、掃き清められた砂の上に風で落ちた葉が一枚だけ貼りついていた。

その静けさの向こうで、屋敷の中だけがやけに温かく、息苦しい。


美しい物語は、時に善意の顔で当事者の気持ちを押し流す。

悪意ならば切れる。けれど、人が胸を温め、涙ぐみ、これこそ姫様のお幸せだと思い込みながら差し出してくるものは、刃で払えばこちらの手が汚れる。しかもそれが、当主の娘とその側付きという、屋敷中が長く見てきた二人の形に乗っている。昨日一日で生まれた騒ぎではないと思われていることが、何より始末に悪かった。


奥向きへ近づくと、空気はいっそう濃くなった。


愛護の朝の支度をしていた侍女たちは、朝凪の気配に気づくなり、互いに目を合わせた。ひとりがにこりと笑う。もうひとりは頬を染め、手にしていた櫛を静かに置いた。年嵩の女房は、たいそう分別のある顔で愛護の肩越しに朝凪を見、それから何も言わずに半歩退いた。


愛護は鏡台の前に座っていた。

顔が青い。

昨日の廊で風斎本家の姫として惟久を退けた娘は、今朝は完全にやらかした子どもの顔をしていた。髪は半ば結われ、肩には色の合わせをみている最中の羽織がかかっている。その状態で朝凪を見るなり立ち上がりかけ、膝に置かれていた紐を落とした。


「朝凪――」


駆け寄ろうとした足が、畳の上で止まる。

朝凪はその動きだけで、愛護も一晩かけて何かを悟ったのだと知った。遅い。遅いが、悟っただけまだましだった。ましか?そう思いたいだけかもしれない。


侍女たちが、す、と下がった。

本当に、滑るように下がった。櫛を持つ者、衣を整えていた者、香の小箱を片づける者、皆が同じ種類の笑みを浮かべている。恋路を見守るつもりの笑みである。若い侍女など、障子の際まで下がってから、一度だけ愛護へ励ますような目を向けた。


しかし、その見当違いな気遣いによって密談の場ができた。腹立たしいほど都合がよかった。


「朝凪」


襖の気配が遠ざかった途端、愛護が両手を胸の前で握った。声は小さく抑えられているが、今にも跳ねそうだった。


「どうしよお。朝凪、ごめん、ごめんね、ほんとにごめん。愛護、昨日、ほんとに、なんか、すごく、ええと、すごくやっちゃった?」

「かなり」

「やっぱり!」


愛護はその場で小さく跳ねた。跳ねたあと、慌てて自分の口を押さえる。


「どうしよ。どうしたらいい? 愛護、朝凪を困らせるつもりじゃなかったの。惟久様が朝凪にひどいこと言うから、愛護、腹が立って、ちゃんと言わなきゃって思って、それで、でも、あの、最後のは、最後のはね、ええと」

「姫様」


低く呼ぶと、愛護は両肩をすくめた。叱られる前の子犬の顔である。朝凪は、その子犬が昨日、自分の首へ縄を三重に巻いた事実をいったん畳の下へ押し込んだ。


「廊でのお振る舞いは、途中までは姫として正しいものでした。あの場で惟久様の言葉をそのままにすれば、姫様御自身の御判断と当主様の御人事に泥がかかりました。側付きへの信を示されたことも、ありがたく受け止めております」

「途中まで」

「途中までです」


愛護はしょんぼりと眉を下げた。


「もう起きたことは戻りません。鎮める道を考えます。話が進むようであれば、穏当に流す筋を整えます」

「ながす」

「はい」


愛護は両手で頭を抱えた。朝凪はその前に膝をつき、襖の向こうの気配へ意識を半分置いた。女房たちは見事なほど下がっている。ありがたい。ありがたいが、その下がり方がまったくありがたくなかった。


「……あれ?」


愛護がふと顔を上げた。青ざめていた頬に、急に光が差す。ろくでもない光だった。


「ねえ、朝凪って、たしか、おうちに女の人囲ってることになってなかった!?」


朝凪は溜息を押し殺して瞼を伏せた。


「その話は使えません」

「なんで!? だって、その人がいるから結婚できませんって言えばいいんじゃない!? すごい、愛護、今度こそいいこと思いついたかも!」

「少し調べれば、その女が実在しないことなどすぐ知れます」


――囲っている女。その一語の奥に山の家がある。調べれば。誰が、どの筋で、どこまで。

玄冬が人前で補強した噂は、確かに一時の目隠しにはなった。だが次期当主の婿候補という札を朝凪へ置くなら、目隠しごと検められる。その時、架空の女が崩れるところで終わればまだいい。その先へ人の目が向くことが、朝凪にとって本当の危うさだった。

しかし愛護にそこまで渡せば、この子はさらに何かをしようとする。善意と恐怖を混ぜ、全力で別の床を踏み抜く。

朝凪は声を平らに保った。


「仮に身代わりを立てたとしても、婚姻を結んでいるでもなく、子も成していない女です。姫様との御縁の重さの前では、別れろの一言で終わります」

「そんなあ~~~~~……!」


愛護はまた頭を抱えた。髪飾りが揺れる。朝凪は反射的に手を伸ばしかけ、触れる前に膝の上へ戻した。今それを女房に見られたら、また一本、存在しない赤い糸を編まれる。


「め、愛護、釣書の方、誰でもいいから、素敵って言ったらいいかな……?」

「おやめください」


強い語気に愛護が目を丸くする。

朝凪は視線を伏せたまま、畳の目に沿って言葉を置いた。


「姫様にとっては、生涯の伴侶をお選びになる話です。紙の上で筋がよい、家にとって益がある、それだけで決められることもございましょう。ですが、姫様ご自身がそのように御心を偽れば、あとで重くなります」


本当に心の動く者がいるなら、その手が一番いいのだが。

朝凪はそう考え――胸の底がすぐに冷えた。


そんな者、いないほうがいい。


風斎は滅びる。血族は皆、死ぬ。

その中には当然、いま釣書に名を置いている少年たちも含まれている。愛護が誰かに淡くでも心を寄せたとて、近い未来にその想いごと喪われるのだ。

そしてその時、彼女を抱きしめてやれる者は誰もいない。

当主も、奥方も、女房たちも、――自分も。


「朝凪?」


愛護が不安そうに覗き込む。


「……いえ」


朝凪は目を伏せた。


「いずれにせよ、焦って妙なことを口にしないでください。しばらくは、候補者方への感想も慎重に」

「うう……」


愛護が小さく唸る。朝凪はその横顔から視線を外し、座敷の隅へ目をやる。

そこで、ようやく気づいた。


文箱が来ていない。


毎朝のように愛護の座敷へ運ばれていた釣書の写し、候補者の家からの贈り物、奥方へ取り次がれる文箱。その類が、今日はひとつもない。菓子箱も、香の包みも、返礼の目録も、候補者方の家の名を記した薄い紙も、いつもの場所にない。


止められている。

完全に。


腹の底へ、冷たいものが落ちた。

想定より早い。

昨日の廊を、人々は夜のうちに物語へ変えた。当主たちは、それを朝までに掴んだ。候補者の家へ返す言葉、今後の顔合わせ、愛護の座敷へ運ぶ紙。その流れを止めた者がいる。


「姫様」

「うん?」

「今日は、なるべく御心を鎮めてお過ごしください」

「それ、もうよくないことが起こる時の言い方だよ」


朝凪は答えず、頭を下げた。



■■



そしてその午後、朝凪は当主の座敷へ呼び出された。


早い。

早すぎる。


朝凪はねちねちと穴を塞いで回る仕事が得意だ。ひとつの言葉を二つに割り、割った片方を別の紙へ挟み、相手が掴もうとする頃には水路を変えておく。そういう手ならいくらでも打てる。打てるが、打つには時間がいる。根回しをする相手、置くべき紙、誰の前で何を言わせるか、誰に言わせないか。さすがに朝から午後までの半日で、人の口から流れ出した物語のすべてを堰き止められはしない。


噂。釣書の停止。奥方の動き。玄冬の沈黙。当主の決裁。重臣の招集。どれも一晩と半日で済ませるには速すぎる。これだけ速く動けるなら普段からやれ。詰所の報告書ひとつ通すのに三日かけるのをやめろ。月ごとの保守人員の調整にも使え。書付の印の位置で人を往復させるな。


内心で舌打ちをしながら座敷の前で膝をついた。

取り次ぎの声が通り、襖が開く。中には当主、奥方、玄冬、重臣が数名。座の重さだけで、用向きは知れる。

朝凪は敷居の内へ進み、定められた位置で頭を下げた。


「朝凪、面を上げよ」


当主の声は硬かった。父親の気まずさと当主の決定が、同じ喉から出ている声だった。


「昨日の廊の件については、すでに聞いている」

「は」

「惟久の不敬は、別に沙汰する。そなたに落ち度はない」

「恐れ入ります」

「その上で、愛護の婚姻についてだ」


来た。


朝凪は伏せた視線の先で、畳の目を一筋選んだ。こういう時、余分なものを見ると顔に出る。奥方の目も、玄冬の顔も、当主の口元も見ない。


「そなたの名を、候補の札に正式に加える」


座敷の空気は、その言葉をもう知っていた。驚く者はいない。重臣たちはそれぞれに目を伏せ、奥方は扇を膝元へ置き、玄冬は末席近くで静かに座っている。

朝凪がここへ来る前に、話はほとんど整えられていた。

しかしそれはわかっていたことだ。礼を崩さないまま声を置く。


「恐れながら、申し上げてもよろしいでしょうか」

「申せ」

「昨日の姫様のお言葉は、幼少より側に置かれた者への御信頼をお示しになったものにございます。惟久様の言が姫様の御名に触れたため、姫様は側付きへの信をもって、それをお咎めになった。あの一事をもって婚姻の御心と定めますれば、姫様のお言葉を、御本人のお考え以上に広げることになりましょう」


まずは、戻す。

恋ではない。主従である。信頼である。長く側に置いた者への重用である。昨日の廊で自分が必死に作ろうとした形へ、もう一度押し返す。

当主の眉がわずかに動いた。重臣の一人が膝の上で指を組み直す。理はある。そう見ている顔だった。


「確かに、昨日の愛護は昂ぶっていた」


当主が呟く。

朝凪は続けた。


「また、昨日の沙汰が人の口にあるうちに私の名を加えますれば、惟久様の不始末と姫様の御心が、ひとつの話として扱われかねません。まずは一事を一事としてお収めいただくのがよろしいかと存じます」


昨日の廊、愛護の涙、惟久の失墜、朝凪の候補入り。

それらが一本の糸で結ばれれば、もう切ることは難しい。今ならまだ、別々の皿へ戻せる。惟久は惟久。愛護の発言は愛護の発言。朝凪は朝凪。

数日でいい。

数日あれば、愛護へ釘を刺す。奥向きの噂も少しは散らせる。玄冬の出方を測る。美菊への道も、もう一度洗える。


重臣の一人が低く言った。


「筋は通るな」


朝凪は頭を下げたまま、息をひそめる。

しかし、奥方の声が座敷へ落ちた。


「けれど、朝凪」


たおやかな声だった。


「昨日の一件だけで、あなたの名がここへ上がったわけではありませんよ」


朝凪の背に、薄い冷えが走る。

奥方は扇へ手を添えた。開かない。ただ、指先で骨の端を撫でる。


「候補の者たちを見ていたのは、愛護だけではありません。奥向きの女たちも、私も見ておりました。彼らがどのように座り、どのように愛護を見るか。――同じように、愛護が誰のそばで息をしやすいかも」


やわらかな絹が首にかかるようだった。


「朝凪は、長く愛護のそばにおります。務めぶりも、綾も、血の重さも、すでに見られているものです。昨日急に降って湧いた名ではありません」


重臣たちの空気が少し傾く。そうだ、という顔である。

朝凪は姫付きとして、すでに家の内側にいる。最近になって整えられた候補者よりも、ずっと情報がある。愛護の幼いころを知り、癖を知り、体調を知り、屋敷での立ち位置も知っている。

外から見れば、安全に見える。

最悪だ。


朝凪はもう一度頭を下げた。


「では、なおのこと。私を候補へ加えるならば、まず姫付きの任を解かれるべきにございます」


座敷の空気が、少し固まった。

当主の目が朝凪へ向く。


「私が候補の末席にでも名を置かれるなら、候補者の一人が姫様の最も近くに控えることとなります。他の候補者方から見ても、公正を欠きます。姫様の御名を守るためにも、私の任を解き、距離を正してからお考えいただくのが筋かと存じます」


任は解かれない。わかっている。美菊の予言と矛盾するこの道はどこかで閉じる。

そしてそれがこの場であれば、予言の収束としては最も自然であり、朝凪にとっても都合が良い。


当主の顔に、はっきり迷いが出た。


「それは……そうだな」


重臣たちも畳へ視線を落とす。公正。名。手続きの重さ。そういうものは男たちの皿へ載せやすい。情より処理しやすい。

朝凪は、ここで一息を得た。

得たはずだった。


奥方が静かに言った。


「けれど、いま朝凪を愛護から離せば、あの子は心を乱すのではありませんか」


座敷の温度が、一段変わったように感じた。


理の盤上へ、柔らかな手が置かれた。それは公正ではなく、愛護の心だった。昨日、廊で泣きそうに朝凪へすがった娘。人前で「ずっとずっと大好き」と言い切った姫。候補者の前で朝凪の名を積み重ねてきた少女。その愛護から、朝凪を取り上げるのか。

家の理だけなら朝凪に分がある。だが、そもそもこの騒動は、人の情が膨らませたものだ。屋敷中が、姫の健気さと側付きの忠節に胸を打たれている。その空気の中で、愛護の心を乱す、という言葉は強かった。


当主の眉間に皺が寄る。


「愛護は、朝凪を外せば泣くか」

「泣くでしょう」


奥方の答えは穏やかだった。


「それも、人前では堪えようとするでしょう。昨日のように」


重臣の一人が、たいへん気の毒そうな顔をした。誰に対しての気の毒かは分からない。愛護か。朝凪か。家か。

玄冬がそこで、初めて口を開いた。


「姫様のご様子を見ながら、後任の引き継ぎを並行させる手はございます」


やはり、こいつが動く。朝凪は奥歯を噛み締めた。


「朝凪を即座に外せば、姫様の動揺は大きくなりましょう。されど候補へ名を置く以上、今の距離のままというわけにも参りません。私が監督に入り、後任候補を一人二人、近くへ置いて様子を見る。朝凪の任は当面そのまま、ただし私の目を通す。いかがでしょう」


実に見事な首輪だった。側付きは辞めない。候補として札に名が置かれる。身辺調査が始まる。後任への引き継ぎで朝凪の行動は細かく数えられる。玄冬が監督に入る。しかも表向きは、公正と愛護の心の折衷案である。誰が見ても穏当な形をしている。


そして予言と矛盾しない。


当主も重臣も、その折衷案へ傾いた。公正の顔がある。愛護の心も守れる。玄冬という重しもある。朝凪の理屈を完全に踏み潰したわけではないから、場の者たちは自分たちが慎重に進めている気にもなれる。

ここから先は、理では抜けない。


朝凪は、その札を胸中でめくった。

この場で口にするものではない。美菊に近づく言葉を、当主や奥方や重臣たちの前へ置くわけにはいかない。玄冬にのみ切る札だ。


――予言の余白を、玄冬へ開示する。


予言そのものは、美菊の意思から出る言葉ではない。美菊の喉を借り、何かが未来を落としていく。吐かされる声、凍る指、戻りきらない目。そこに美菊自身の選択は介在しない。

朝凪はそこを比較的冷たく分けていた。だから文言を玄冬へ渡す約定に好悪はあっても、強い否は置いていない。美菊を差し出しているとは思わない。


余白は違う。


その断片は、予言の力が勝手に吐かせたものではない。美菊が、自分の中に残された恐ろしい景色から、朝凪へ渡すべきものを探して持ってくる。衣の色。立っていた場所。誰がどこにいたか。血の匂いに似たもの。門の開く位置。誰の手が何を握っていたか。そうしたものを、美菊は拾う。拾い上げ、朝凪へ差し出す。

朝凪のために。

朝凪が欲しがるから。朝凪が次の道を探すから。朝凪が、そのわずかな断片を使って美菊の明日を整えようとするから。


玄冬が受け取るのは、ただの情報だ。衣、場所、順序。文字にすればそれだけである。

美菊が言葉を探すまでの間も、朝凪を見上げた目の揺れも、声が落ちる前に唇へ溜まった冷たさも、玄冬には渡らない。

それでも嫌だ。

美菊が自分のために拾ったものを、自分以外の人間へ渡す。そのことが理屈抜きに、腹の底から不愉快だった。

罪悪感ではない。美菊を売る怒りでもない。もっと狭く、もっと単純で、もっと性質の悪い嫌悪だった。俺のものに触るなと言いたいだけの、幼くて重い感情である。


だが玄冬は間違いなく食いつく。風斎の臣として、この男は最後まで滅びに抗いたがるだろう。それが成らぬと飲み込んだ後も、ならば「ひとりのこる」という言葉をなんとしても自分の都合に最も良い形へ寄せたいだろう。そのために、発話された文言の外にある情報は喉から手が出るほど欲しいはずだ。


――この場を辞した後、取引する。身辺調査を玄冬に握らせ、山の家について一切報告させない。その代わり、余白を開示する。すべては渡さない。それがどこまであるかを知るのは朝凪だけだ。量も、順も、言葉も、こちらが決める。


朝凪は腹の底でその札を掴んだ。


「では、朝凪の名は候補の札に置く。姫付きの任は当面そのまま、後任の検討を進める。良いな」


当主の決定に頭を下げる。


「承知――」

「まったーーーー!!」


スパァン、と乾いた音が座敷へ走る。


息を切らせた愛護が立っていた。髪の飾りがほんの少し傾き、裾の重なりも乱れている。顔は必死だった。必死すぎて、もはや戦場へ飛び込む小さな獣のようだった。

襖の向こうで、女房たちが膝をついていた。止めようとしたらしく息も絶え絶えである。ひとりは胸を押さえ、もうひとりは襖の桟に手をつき、年嵩の女房まで顔色を変えている。


愛護はずんずん入ってきた。敷居を踏み越え、朝凪の隣へどかりと座り、最低限の礼だけをした。礼法の形は辛うじて保っているが、勢いがすごい。


「愛護、朝凪と結婚しないもん!」


声が幼い。

朝凪は一瞬で察した。わざとだ。

情で動いた話には情をぶつける。両親が姫の婚姻ではなく、愛護の幸せを思って朝凪の名を動かすなら、愛護は姫として理屈を積むのではなく、父と母の可愛い娘として抗議する。

その判断自体は、悪くない。

悪くないが、どう転ぶかはまるで分からない。


「愛護、まず座を乱したことを」

「ごめんなさい。でも、愛護、朝凪と結婚しないもん!」


当主は怪訝そうに娘を見やる。


「なぜだ。朝凪のことを好いているのではなかったのか」

「好きだよ!」


おい。


「好きだけど、そういう好きじゃないもん」


重臣の一人が、困ったように眉を寄せた。


「慕っておられるなら、よい御縁ではございませんか」


愛護の口がへの字になった。


この座敷にいる大人たちは、政略の中で婚姻してきた。そも、武家のそれなりの家格の者ならば恋情を燃やして添う方が珍しい。

尊び、慕い、信じられる相手で、血の重さが基準を満たし、互いの勤めを損なわないなら、それは十分すぎるほど良い縁である。

まして愛護は、朝凪を信じ、頼り、昨日衆目の中で守りきった。その男を好いていると言う。

それで何が足りないのか、男たちには分からない。


「よくないの~!」


愛護は両手を握りしめた。


「だって愛護は、もっと甘々で、愛護だけを見て、愛護だけを可愛がってくれて、ちょっと独占欲とかもあって、腕の中で逃げられないように囲ってくれるような人がいいの!」


座敷の男たちの心が、音もなく一つになった。


そんな男がいるか。


朝凪も当然同じことを思った。ただし、同時にたいへん良いとも思った。愛護が挙げた人物像は、朝凪の自認からあまりに遠い。甘々。可愛がる。独占欲。腕の中で逃がさない。

恋物語を読みすぎたお花畑の願望である。そんな男が実在するかどうかはともかく、愛護がそれを理由に拒んでくれるなら話が早い。


その時、奥方が扇の陰から朝凪を見た。


「あら……」


大きくもない声が、座敷の上を滑った。


「朝凪のような性質(たち)は、身の内に入れればそうなりますよ」


は?


愛護が固まった。

それから、ちらりと朝凪を見た。


「あっ」


何が、あっ、だ。


朝凪は前髪の陰から愛護を睨んだ。否定しろ。流されるな。こういう場では口を閉じた者から負ける。お前はいま勝つために来たのだろうが。

愛護の目が、朝凪の圧を受けてはっと戻る。


愛護が思い浮かべたものを、朝凪も理解していた。

山の家。美菊。朝凪が暮らしも道も人の目もすべて囲い、守り、抱え込み、十八年間誰にも渡さずにいる相手。

それを「可愛がる」と称すべきかはともかく、身の内に入れた者へ向ける朝凪の本質としては、確かに奥方の言葉は外れていない。外れていないのが最悪である。


「せ、性格はそうかもしれないけど!」


愛護は声を裏返しながらも立て直した。


「絶対、可愛いとかっ、あ、愛してるとかっ、言わないでしょ朝凪は! 愛護はそういうの、ちゃんと言ってくれるひとがいいの!」


奥方はゆるりと首を傾けた。


「言うように躾ければよいでしょう」


たおやかな美貌から、たいへんにえげつない言葉が落ちた。


「お、奥……?」


当主まで戸惑っている。

愛護は虚を突かれたように朝凪を見た。次の瞬間、頬がふわりと赤くなる。


おい、何を考えた今。


朝凪は膝の上で指を握った。


こいつの持っている本を今すぐ全部検めろ。奥向きの書棚も、菓子箱の下も、寝具の間も全部だ。変なものを読んでいる。確実に読んでいる。色恋の類を、だいぶ偏って吸っている。


朝凪が視線で刺すと、愛護はぶるぶる首を振った。頬の赤みを抱えたまま、必死に言い募る。


「い、言わせても嘘だもん! ちゃんとほんとに可愛いねって思ってくれなきゃやだ!」

「朝凪」


奥方の目が、朝凪へ来た。


「愛護が可愛くないのですか?」


詰んだ。

主家の姫を可愛くないとは言えない。けれど肯定すれば終わる。朝凪は頭を下げた姿勢のまま、言葉を探した。礼法、主従、候補者、公正。どの札も、この問いには薄い。

言葉が喉の奥で止まった。


その沈黙を見た愛護の顔が変わる。朝凪が詰まったことに気づき、何かを腹の底で決めた顔だった。


「め、愛護は!」


小さく息を吸い、背筋を伸ばし、きっと顔を上げる。


「閨でも甘々いちゃいちゃしてほしいのーーー!!」


座敷が凍った。


当主の喉から、変な音がした。膝が崩れ、近くの重臣が慌てて肩を支える。可愛い娘の口から出た「閨」という一語は、風斎当主の戦歴のどの禍滲よりも深く刺さったらしい。

重臣たちの視線が畳へ刺さる。誰も愛護を見られない。玄冬だけが末席で動かず、けれど扇の端がほんのわずかに上がった。


朝凪は顔を伏せたまま、その様子を内心で指さして嗤っていた。


様ァ見晒せ。


気に入らない男が無様に倒れかけている姿は、大変快い。ここ最近でもっとも気分がよかった。この姿で酒が飲める。いいぞ姫。もっとやれ。


「朝凪は、お務めの顔して来て、終わったらさっさと出ていきそうだもん!」


後ろから刺された。


奥方は少しも乱れず、愛護を見る。


「それなら、そのように望めばよいでしょう。朝凪は、愛護の望みを疎かにするような者ではありませんよ」


当主の喉から「ゔ」という音が漏れる。


「わかってるよ! でもそこがいやなの!」


愛護の声が、今度は本当に切実になった。

座敷の男たちには意味が分からない。朝凪には、分かった。分かりたくなかったが、分かった。

愛護は膝の上で両手を握りしめ、顔を真っ赤にしたまま言葉を押し出した。


「朝凪は、愛護が甘々にしてって言ったら、笑ったり照れたりしないで、真面目な顔で『具体的には、どのように』って訊くもん!」


重臣の一人が、ああ、という顔をした。


「愛護が恥ずかしくなって、もうその話は忘れてって言っても、絶対忘れないもん!」


別の重臣が、天井の板目を見つめた。


「次からちゃんと覚えてて、先に用意して、愛護が言った通りにしようとするもん!」


当主の顔色が白から紫へ移っていく。


「それで愛護が恥ずかしがったら、『お嫌でしたか』『どこがいけませんでしたか』って、また真面目に訊くの!」


玄冬の扇が、口元を隠した。


「違うの! 愛護は、そういう相談をしたいんじゃないの!」


朝凪は畳を見ていた。


「一緒に恥ずかしがったり、笑ったり、浮かれたりしてほしいの!」


吐息が漏れる気配がする。末席からだった。


「朝凪は、全部ほんとうの話にするからこわいの!! いやなの!! 重いの!!」


朝凪が目だけを上げると、玄冬が扇の陰で笑いを噛み殺していた。目元に細かな皺が寄り、肩がわずかに揺れている。


ぶっ殺すぞクソジジイ。


静まり返った座敷に、言い切った愛護の荒い息だけが残る。

男たちは死屍累々だった。

当主は重臣に支えられ、重臣たちは自分の膝や畳や火鉢の縁を見ている。誰も朝凪と目を合わせない。だがその顔には、ああ、まあ、ぽい、という情けない納得が浮かんでいた。

何だその顔は。貴様らの閨事はたいそう優雅で素晴らしく情緒に満ちているんだろうな。あ? ひとりずつ聞いて回んぞ。


奥方だけが静かだった。

扇の向こうの目が、朝凪の皮膚の下へ視線を入れ、ゆっくり撫でる。


やがて、少しだけ目を細めた。


「……そうね」


愛護が息を止める。


「たしかに愛護には、少し『重い』かもしれませんね」

「そうでしょう!」


愛護はぱっと晴れやかな声をあげた。自分の訴えが通じたと思った顔だった。

男たちも、おそらく朝凪が真面目すぎるという程度に受け取った。夫婦の甘い話まで務めにしてしまう男は、愛護には窮屈だろうと。

朝凪だけが、奥方の言葉が別のところを射たのを知っていた。


奥方は、愛護の閨願望の話など見ていない。もっと奥を見ている。

一度身の内へ入れた者の言葉を聞き洩らさず、曖昧な願いを曖昧なまま逃がさず、声も沈黙も指先も次の支度へ組み込んでしまう性質。その重さを。

何も知らないはずのその目から逃れるように、朝凪はひたすら畳を見つめていた。


決着は、当主が急いでまとめた。愛娘の口から何が出るか分からないという恐怖が、家長の判断を異様に速くした。


「よい。もうよい、愛護」


当主は重臣の支えを借りて姿勢を戻し、咳払いをした。声にまだ父親の傷が残っている。


「朝凪を婿候補の札には加えぬ」


その言葉に、愛護の肩が安堵に落ちた。


「朝凪はこれまで通り姫付きとする。廊の一件は、候補者の不敬に対し、愛護が側付きへの信を示したものとして扱う」


当主はそこで、愛護へ父親の目を向けた。


「そして愛護。今後は、人前での距離と言葉には気をつけよ」

「はい……」


真っ赤な顔で頷き、蚊の鳴くような情けない返事が絞り出された。


「……おまえの望む相手像は、今後の候補者選びに反映する」


言いながら、その目が死んでいた。

重臣たちの背がわずかに強張った。反映するのか、あれを。甘々で、独占欲があって、腕の中で囲い、閨で一緒にはにかむ男を、今後の候補者選びに。

朝凪は内心で乾いた笑いを漏らした。いるなら見てみたい。いや、やっぱり見たくない。


重臣たちは畳の目を見つめている。玄冬は目を伏せ扇をゆるりと揺らす。愛護は膝の上で手を握り、羞恥と達成感と後悔の混じった顔をしている。奥方だけは、少し残念そうだった。

朝凪は、何とも言えない心持ちで頭を下げた。

こうして、全員がどこかしら損なわれ、話は決した。


朝凪が座敷を下がる時、末席にいた玄冬の声が扇の陰から落ちた。低く、隣の者には届かない細さだった。


「お前に首輪をかける良い機会だと思ったのだが」


――だろうよ。残念だったな。


朝凪は礼を崩さず、視線も上げずに座敷を退いた。襖が背後で閉まるまで、膝の運びも、手の位置も、呼吸も乱さない。乱したところで、玄冬を喜ばせるだけである。


廊へ出た途端、体の芯が重くなった。

首輪をかけられてからすり抜ける手を考えるのと、この満身創痍の惨状と、どちらがましだっただろう。問いは浮かんだが、答えを出すだけの気力がなかった。

ただ、あの札は開かなかった。美菊が自分のために拾い上げた余白は、まだ朝凪の手の中にある。

今はその一点へ縋るしかなかった。


……一刻も早く家に帰りたい。

それだけが、廊の先にある確かな道だった。



■■



家へ着いた時、日は傾ききっていた。

山の影が庭を深く沈め、障子の向こうには薄い灰色の光だけが残っている。

戸を開ける前の一呼吸で、朝凪は家の中の気配を拾った。火はある。美菊は座敷にいる。いつもの静けさがある。


戸を開ければ、その通りに美菊が顔を上げた。


「朝凪」


立ち上がりかけた膝が、朝凪の顔を見て止まる。朝凪は履物を脱ぎ、板敷へ上がった。

肩から屋敷の匂いが落ちるような気がした。香、紙、人の熱、座敷に満ちていた言葉の残り。全部を戸口で振り落とせればよかったが、そうもいかない。


「どうでしたか」


朝凪は上衣に手をかけながら、短く答えた。


「なんとかなった」


美菊の肩から力が抜けた。


「朝凪に、悪いことは」

「起きてない」


嘘ではない。悪いことは起きていない。かなりひどい目には遭ったが。


美菊はほっと息をついた。火鉢のそばへ膝を寄せ、朝凪が脱いだ上衣を受け取る。指先が布を整え、折り目に沿って畳む。いつもの動きだった。

けれど、ふと、その手が止まった。

美菊は何かを考える目で朝凪を見た。

そういう目を、朝凪はここしばらく嫌というほど見ている。奥方の目。女たちの目。何かを言う前から、こちらへ言葉を置いてくる目。

朝凪は即座に警戒した。


「何だよ」


声が低くなる。

美菊は少し言いにくそうに俯いた。畳みかけの衣の襟を、指先でそっと撫でる。


「朝凪が、すごく大変だったのはわかっているのです」

「うん」

「本当に、わたしのために色々……」

「うん」

「……」

「……」


火鉢の炭が、小さく鳴った。

美菊は膝の上で指を重ね、そっと朝凪をうかがった。


「……『義兄上』って、ちょっと、呼んでみませんか」


朝凪は美菊を見た。

たいへん真面目な顔をしていた。ふざけている顔ではない。ただ。

愛護と朝凪の婚姻がもし成れば、朝凪は自分の義弟になっていた――そのことへ、何か倒錯的なものを感じている頬の色だった。


朝凪は限界だった。


「うるせ~~~~~~~~~~」




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