秋日和の縁迷い(前)――綾寧449年
秋が深くなりはじめると、風斎本家の庭は日に日に音を変えた。
朝のうちは露が白く、萩の細い枝が濡れて垂れ、石灯籠の笠には小さな落葉が貼りつく。昼の光はまだ明るいが、夏のようにものの輪郭を焼く力は失せていた。廊を渡る風には乾いた草の匂いが混じり、庭師が箒で集める葉の音が奥向きの障子の向こうまでかさかさと届く。
このころ、愛護の縁談の支度は紙の上から座敷の中へ移りつつあった。
年初から届いていた釣書は、当主や重臣――男たちの目を幾度も通り、名が絞られる。家筋、年齢、綾の得手、勤めぶり、評判、手跡。紙に書けるものはおおよそ測られた。
となれば次は、紙に書けぬものを見る段である。
候補者と顔を合わせる座敷は、女たちの領分だった。
奥方をはじめ、古くから奥向きを支える女房たち、身の回りを整える侍女たち。
女の目で、男を見る。若君として整っているか。いずれ当主となる姫の伴侶として隣に置けるか。言葉の運び、座り方、目の伏せ方、手の動き、姫の幼さを軽んじないか、姫の血筋に怯みすぎないか。
そういうものは、男たちの前で披露される礼とは違うところに出る。
その段になると、朝凪の立つ場所は奥向きの外へ移った。
姫付きとはいえ、四六時中愛護の袖の陰にいるわけではない。
奥向きに置くべき顔と、外で動かすべき手がある。顔合わせの刻、朝凪は朝凪で屋敷のどこかに必要な位置を与えられていた。
そうして最初に組まれたのは、候補者たちの武を見る日だった。
訓練場には朝から白砂が入れ直され、周囲には幕が張られた。秋晴れの空の下で赤い髪の若者たちが綾で織った得物を手に立つ。
掬い上げた綾を刀身へ、槍の穂へ、薙刀の刃へと整え、互いの間合いを測る。
奥方や女房たちは、少し離れた座からそれを見た。愛護もそこにいるはずである。
朝凪は会場の外縁に置かれていた。
候補者たちはよく動いた。身のこなしは軽く、踏み込みは見栄えがした。刃の出し方に華のある者もいたし、受けに回った時の足の逃がし方が巧い者もいた。大きな歓声は上がらない。だが、女房たちの衣擦れや小さな息の揺れで、場が明るくなっているのは分かった。
朝凪はそれを意識の端に入れながら、幕の陰で足を止めた男を見ていた。
下働きの衣を着ている。年の頃は三十前後。肩に掛けた荷は軽すぎる。目は訓練場ではなく、奥方たちの座の方へ落ちている。
不審の匂いは薄かった。刺客というほど重くもない。おそらく、候補者の家の誰かから小銭を握らされ、姫の様子を近くで探れと言われた類だろう。あるいは、ただの物見高さかもしれない。
どちらでも同じだ。
朝凪は歩を進めた。
男は気づかない。気づいた時には、肩の荷紐が朝凪の指に取られていた。逃げるには遅い。
朝凪は声を荒げず、ただ荷を下ろさせた。男の手首がわずかに動くが、その動きの先へ朝凪は自分の足を半歩だけ入れていた。
逃げる道が消える。
「こちらは立ち入りを禁じられております」
低く言うと、男の喉が上下した。
「い、いえ、あの、荷を」
「荷は検めます」
紐をほどく。中には薄い包みと、空の木箱が二つ。運ぶための荷ではない。
隣にいた若い兵が気色ばみかけたのを、視線だけで止める。
訓練場では、ちょうど候補者の一人が鮮やかな返しで相手の得物を弾き、女房たちの座からかすかな感嘆が漏れていた。
そちらへ騒ぎの音を渡すべきではない。
朝凪は男の肘を取った。強く捻ったわけではない。関節が嫌がる方向へ、ほんの少しだけ導く。男の膝が崩れ、声が喉で潰れる。次の瞬間には、幕の外へ出ていた。
「詰所へ」
朝凪が言うと、兵が男を引き取った。
「承知しました」
男は何か言いかけ、朝凪の目を見て口を閉じた。
幕の内側ではまた得物が鳴る。乾いた音が、秋空へ澄んで上がった。
披露が終わるころ、朝凪は奥向きへ戻った。
愛護はいつも通りに座っている。多少疲れた様子はあるが、目の色は乱れていない。奥方は穏やかに茶を口へ運び、女房たちは何やら袖の陰で口元を隠していた。
朝凪が定位置へ控えると、女たちの目がゆるりとこちらへ流れる。
何だ。
悪意は感じない。むしろ、妙にやわらかく、面白がるような空気がある。
朝凪は視線を伏せた。
女たちの秘め事に首を突っ込む趣味はない。
■■
次に組まれたのは、綾の披露の場だった。
候補者たちは庭先の仮の座でそれぞれ得手を披露したらしい。
薄い迷いを織って鳥籠の中の小鳥を見えなくする者、紙片を床へ置かずに遠くへ滑らせる者、庭石をほんのひと時ずらして見せる者。
風斎の綾は派手ではない。そして、よく整えれば見ている者の指先へ小さな違和すら残さない。奥向きの女たちは、そういう手際を見るのだろう。
朝凪はその刻、屋敷の外へ出ていた。
昼を過ぎて間もなく、囁石が短く鳴ったのだ。
耳飾りの奥で、硬い声が置かれる。『綾乱』。風斎領、本家北東、青、ニの二。要警戒。
『門』ではなくとも屋敷の近くで綾が乱れたというだけで緊張ははしる。
すぐに近くの者が出され、そして初めに向かった者たちはほどなく戻りの使いを立てた。
朝凪はその報せを、書付を持って渡り廊下の端で受けた。
「朝凪様」
使いに立った若い兵は、額にうっすら汗を浮かべていた。
「北東の外れ、古い水路のそばです。綾が捩れております。どうも屋敷の内へ続く筋に触れているようで」
「誰が見た」
「近邦殿と、保守番の者が二名。近邦殿が、朝凪様が御手隙ならお呼びしろと」
奥向きの方へ一度だけ目をやった。今ごろ候補者たちは綾を披露しており、愛護は座敷からそれを見ている。朝凪が不在の場として組まれており、書付は後で良い。
「案内しろ」
「は」
水路のそばは、屋敷の外郭に沿って竹藪が細く続く場所だった。溝を流れる水は澄んでいるが、その上の空気だけが妙に浅かった。
乱れ、という言葉では軽い。
綾は、切れているわけでも絡んでいるわけでもなかった。ただ、そこにあるのに、そこにあるものとして扱いづらい。指先で掬おうとすると、こちらの手の形の方が先に違ってくるような感触があった。
朝凪は膝をつき、地面の綾へ意識を沈める。
そこにある歪みは気味が悪かった。
道の向きが狂っているのではない。道が、向く先を思い出せなくなっている。
細い綾の筋が地面の下から上がり、水路の石組みに触れ、そこから屋敷の北東の結びへ浅く繋がっている。奥向きへ至る迷いの外層、その端に、歪みの舌が触れていた。
まずいな。
朝凪は袖を押さえ、手を低く置いた。
「下がれ」
周囲の兵が半歩退く。
「『門』には」
「ならない」
そういう種類の乱れではない。即答したが、安心はしなかった。『門』でないなら軽い、とはならない。むしろ、『門』であれば斬る相手がある。閉じるべき裂け目がある。これは違う。相手が見えない。綾そのものの底を、内側から軽く噛まれたような跡だった。
朝凪は自分の綾を薄く敷いた。
正面から押さえない。押さえれば歪みごと屋敷の筋へ沈む。まず周囲の関係をずらす。水路と石組み。石組みと土。土と本家の外郭。外郭と奥へ続く迷い。そのつながりを、細い櫛で梳くように一つずつ分けた。
歪みは、ほどこうとする手を嫌がった。
ほんの一瞬、足元の距離が抜ける。膝の下にあるはずの地面が、遠い。視界の端で竹の節がひどく近くなり、次には水音が耳の奥へ入り込んだ。
気色が悪い。
朝凪は奥歯を噛んだ。
人の目を逸らす迷いとは違う。敵の足を鈍らせる歪みとも違う。風斎の理と違う揺らぎ。
それでも、屋敷へ伸びる筋からは剥がせる。
朝凪は指先を地面へつけた。土は冷たい。爪の先に砂が入る。薄く織った綾を、歪みの手前で一度折り、さらに細く裂いた。
迷いではない。道の関係を崩すのではなく、歪みの舌が触れている先を、触れていると思わせたまま触れない位置へ滑らせる。
水路の音が戻った。
竹の葉が揺れる。秋の乾いた音が耳へ戻る。
近邦が息を吐いた。
「……外れたか」
「一時です」
立ち上がり、歪みの残りを見た。
「この場所に杭を。雪簇の節ほど強固でなくていい。風斎の筋で囲って、内へ入れないようにしてください。奥へ続く迷いの保守番を一人増やします」
「承知した」
「このまま消えるかどうか、夕刻まで見ます」
言いながら、朝凪は不快な感触を指先から振り落とした。それでも痺れが皮膚の下に残る。水路の石へ薄くついた黒い湿りが、いつまでも目に残った。
その日も、奥へ戻ると女たちの目があった。
前の時より、少し濃い。
座敷の隅に控えると、若い侍女のひとりがぱっと目を伏せた。年嵩の女房は扇の端を口元へ上げている。奥方は愛護に何か言いかけ、朝凪を見ると、ふっと言葉を柔らかく飲み込んだ。
何なんだ、本当に。
愛護は朝凪を見つけると、少し明るい顔をした。
顔色は悪くない。疲れも浅い。
なら、いい。
朝凪は指先の痺れを握りこみ、いつもの位置へ収まった。
■■
三度目は茶席だった。
相手は、朝凪から見ても悪くなかった。
家筋はほどよく、年も愛護と同じ。武や綾で抜きん出た評判はないが、場を荒らさず、相手に合わせて話を運ぶのが巧いという。
奥方つきの女房たちも、その名が上がった時にはずいぶん期待した顔をしていた。
愛護は、話すことも、聞くことも好きだ。
嬉しい時には目が先に動く。知りたいことがある時は身を乗り出す。誰かの話に引き込まれると、膝の上で揃えた指が少し開く。自分の話を聞いてもらえる時は、声の端が丸くなる。
相性がよければ、あるいは。
そう考えながら、その刻、朝凪は侍医の部屋にいた。
侍医は、年老いた女である。背は少し曲がり、髪は白く、指は節くれている。けれど目はよく動く。人の肌の色、息の長さ、声の薄さ、座った時の肩の落ち方。そういうものを、薬籠を開ける前に見てしまう人だった。
「姫様は、近ごろ眠りが浅いようですねえ」
侍医は薬草を小さな皿へ分けながら言った。
「夜更かしは?」
「していないと、夜番の者からは聞いています」
朝凪は答えた。
「ただ、朝の声が少し掠れます。起き抜けだけです。昼には戻りますが、戻り方が遅い日がある」
「食は」
「落ちてはいません。甘いものはいつも通り。ただ、手が途中で止まる日が増えました」
侍医は、ふむ、と息を落とした。
「考えごとが多いのでしょう。お年頃でもありますし」
「弓の稽古を減らすべきでしょうか」
「減らしすぎても、かえって気が詰まりますよ。姫様はお体を動かす方が息をしやすい日もあるでしょう」
「綾の方は」
「長いものは少しお休みなさいませ。短く、回数を分けて。公務の見学は、あまり詰め込まない方がよいでしょう」
朝凪は頷き、予定を書いた紙の上へ指を置いた。
愛護は疲れると、最初に声が変わる。張りは残るが、語尾がわずかに乾く。次に、袖を整える回数が増える。自分でも疲れを気づかれまいとして、動作を丁寧にするからだ。さらに疲れると、返事の前に目を伏せる時間が少しだけ長くなる。
本人は気づいていない。
周囲の女たちは気づく時もある。だが、愛護が姫としてきちんと振る舞おうとしているほど、褒める方へ目が向く。
朝凪は、そういう時に水を差す役になる。
「秋の会合の見学は、半刻削ります」
「それがよろしいでしょうねえ」
「綾の稽古は二日に一度。候補者との面会が続く間は、夕刻の読み合わせを減らします」
「姫様は嫌がりそうですね」
「嫌われ役には慣れております」
侍医は、ほほ、と笑った。
「姫様は、側付き殿を御嫌いにはなりませんよ」
朝凪は紙を畳んだ。
知っている、というか、その程度で嫌われる信頼関係しか築けていないのならばとうに側を外されている。
「こちらを」
侍医はにこにこと薬包を朝凪の手に乗せた。
「夜に。苦くはありませんからね」
「助かります」
その日の茶席が終わったころ、朝凪が座敷へ戻ると、空気は妙に浮いていた。
相手はもう下がった後だった。愛護は座敷の中央で女房の差し出した菓子を手にしている。茶を飲んだ後なのに、まだ食べるのか。いや、食欲があるのは良い。
奥方が扇の向こうからこちらを見た。
今度は、はっきりと面白がっている目だった。
若い侍女の目はきらきらしていた。年嵩の女房は、長くこの家に仕えてきた者らしい落ち着きで座っているが、口元だけがゆるい。
朝凪は薬包を女房へ渡し、愛護の傍らへ控えた。
一体何を見ているのか、誰も説明しない。
愛護は菓子を齧り、こちらを見上げると、何の曇りもない顔で首を傾げた。
■■
四度目の顔合わせの日、屋敷は朝から華やいでいた。
相手は、見目の良さで知られた若君だった。
風斎の赤い髪と青い目は、それだけで華がある。だが、その若君の色はことさらに鮮やかだという。火のように明るい赤毛、澄んだ青い目。顔立ちも整い、背も高く、舞の所作まで美しいらしい。
候補者の供として来た女たちは、控えの間へ入る前から浮き立っていた。
「若君が座敷へお入りになれば、姫様もきっとお分かりになりますわ」
「ええ、本当に。あの御髪の色といったら」
「お声もよろしいのよ。低すぎず、高すぎず、やわらかくて」
「それに、手が綺麗でいらっしゃるでしょう。あの指で扇をお持ちになると、もう」
小さな声で囀り合いながら、女たちは荷を整えていた。香の包み、替えの袱紗、予備の扇、文箱、小さな菓子器。どれも目録に記され、持ち込みの許しを得るものばかりである。
姫の面前へ上がる相手の供として、彼女たちはきちんと整えられていた。衣の色も秋らしく、薄紅や朽葉、淡い萩色が重ねられている。声を抑えながらも、その抑えた声そのものが華やいでいた。
そこへ、低い声が落ちた。
「荷を検めます。目録を」
女たちの声が、糸を切られたように止まった。
振り向いた先に、若い男が立っていた。
風斎の姫付きの衣であることは、すぐに分かった。仕立ては過不足なく、色は重く、武家の側付きとしての格と役目を示している。
けれど女たちの目を奪ったのは、衣ではなかった。
赤い髪は、候補者の若君のように華やかではない。少し沈んだ、深い色をしていた。秋の夕暮れに濡れた紅葉の裏のような色。その下にある青い目は、晴れやかさよりも水底の冷たさを帯びている。顔立ちは整っているが、甘くはない。頬の線も、鼻梁の通り方も、唇の閉じ方も硬く、若さの柔らかさを削ったように引き締まっていた。
背は高く、肩が開いている。腰には無駄がなく、立っているだけで、いつでも踏み込める体の置き方をしていた。袖の下に隠れた腕の重さ、指の節、首筋から肩へ落ちる線。
女たちがさきほどまで口にしていた美しさとは違う。
眺めて楽しむ花ではない。
目が合えば、息の置き場を間違えるような男だった。
ひとりの侍女が目録を差し出そうとして、指を震わせた。紙の端が手から滑る。
落ちる、と思った瞬間、男の手が下から差し入れられ、侍女の手ごと支えた。
熱が、侍女の首まで上がった。
「失礼」
男は低く言い、目録を取った。触れた時間はほんのわずかである。けれど侍女は、指を戻したあともその手を胸の前で握りしめ、顔を上げられなかった。
――朝凪は目録へ目を落としながら、内心で息を吐いた。
こういう反応は、ままある。
昔、側付きとして召し上げられた際、玄冬に、顔は悪くないと言われたことがある。朝凪はそれを、札として使えということだと受け取った。相手を怯ませるにも、油断させるにも、こちらへ目を集めるにも、使えるものは使え。顔も声も背丈も、武具と同じく持ち札の一つだと。
だから、必要な場では使う。
謀の席、尋ねるべきことを尋ねる場、こちらを侮らせたくない場、相手の呼吸を乱したい場。
だが、こんな荷検めで発揮されても邪魔なだけだ。
そもそも、自分の顔は硬い圧こそあるが、造りは大したものでもない。姫付きの衣が悪さをしているのだ。これ単体で見栄えがする。役目の重みと本家の奥へ近い匂いが、着ている者をいくらかましに見せる。そこへ相手の期待や緊張が勝手に重なり、余計な像を作る。
――衣が五割。朝凪はそう認識している。
淡々と目録と荷を照らし合わせていく。
香、扇、袱紗、文箱、菓子器。刃物なし。余計な文なし。箱の底に仕込みもない。香の包みを軽く押し、菓子器の蓋を開け、扇の骨を見た。
問題はない。
「通して構いません」
朝凪は目録を返した。
受け取る侍女は、さきほど触れた指をうまく開けないまま、別の手つきのようにぎこちなく紙を受け取った。顔は伏せられたままである。代わりに、年長の女房が一歩進んだ。
「……ありがとうございます」
声が、わずかに上擦っていた。
朝凪は女房へ控えの間の場所を告げた。供回りはそちらへ。候補者本人は取り次ぎに従うこと。荷は所定の者が運ぶこと。
言うべきことを言い終え顔を上げると、脇に立っていた兵が何とも言えない顔でこちらを見ていた。気の毒なものを見るような、面白いものを見たような顔である。
兵は咳払いをして背筋を伸ばす。出された手に目録の控えを渡し、朝凪は次の荷へ向かった。
その日の用を終え奥の座敷へ戻ると、障子の向こうから女たちのやわらかなざわめきが聞こえていた。
朝凪が敷居の手前で膝をつくと、取り次ぎの女房がそっと襖を開ける。
愛護は、菓子を頬張っていた。
小さく切られた栗の菓子である。口の中にまだ甘さが残っているのだろう、頬がわずかにふくらんでいる。その愛護が、朝凪を見るなりくるりと振り向いた。
そして、まじまじと朝凪を眺めた。
頭の先から足元まで、遠慮のない目だった。幼いころからそういうところがある。気になったものを見る時、愛護は隠すのが下手だ。だが今日の目は、いつもの「袖に土がついてる」だとか「髪に葉っぱがある」だとか、そういうものではなかった。
何だ。
朝凪が眉を動かすより早く、愛護が女たちの方へ顔を向けた。
「でも、朝凪のほうがかっこよくない?」
座敷の空気が固まった。
若い侍女が「きゃ、」と言いかけ、両手で口を押さえた。女房のひとりは袖で顔を隠した。年嵩の女房まで目元を細めている。奥方はゆるりと扇を上げ、その向こうから朝凪を見た。
朝凪は文脈を探した。候補者はもう帰った後らしい。座敷の中央には茶器が片づけられた名残があり、菓子皿だけが残っている。
女たちは明らかに何かを知っている。
なんなんだ。
朝凪は愛護へ目をやった。
愛護は次の菓子を頬ばりながら、何もわかっていない顔でこちらを見返した。
わからないのは俺の方なんだが。
ようやく理由が分かったのは、その日の夕刻だった。
夕方の支度がはじまる前、朝凪が奥向きの廊で控えていると、長く愛護のそばにいる侍女のひとりが寄ってきた。
人懐こい娘で、子どものころから愛護の支度についており、朝凪に対しても必要以上に構えない。
その侍女が、今日は妙に目を輝かせていた。
「朝凪様、姫様のこと、お聞きになりまして?」
「何を」
侍女は袖で口元を隠した。袖の上の目がきらりとひかる。
「若君がお帰りになったあと、皆で、たいそうお美しい方でしたねと申し上げておりましたの。そうしたら、姫様が首を傾げられて」
朝凪はそこで、背の内側がわずかに冷えるのを感じた。
「朝凪様のほうがかっこいい、と」
先ほどの言葉だ。
「……それは聞いた」
「今日だけではございませんの」
侍女は頬を染めて笑った。
「もうずっとこうですのよ。模擬試合の日は、朝凪様のほうが強い。綾をご覧になった日は、朝凪様のほうがすごい。お茶のお席の日は、朝凪様のほうが姫様のことを見てくれている、とおっしゃって」
待て。
待て待て待て待て。
見てないところで何をやってるんだ。
朝凪は表情を動かさなかった。動かさなかったが、背中に妙な汗がにじんだ。
目の前で言われるなら、軌道を直せる。言葉を切り、場を収め、姫の戯れとして流すこともできる。不在時に積まれたものは、どうにもならない。
まずい。
かなり、まずい。
侍女は完全に楽しんでいた。いや、楽しんでいるだけではない。その目は、何か甘やかな物語の先を待つ娘の目である。
姫と側付き。幼いころからそばにいる若い男。候補者たちを見てもなお、姫が名を出す相手。
おい。
まさか、お前ら全員そちら側か。
諫めろ。奥方も女房も、誰か止めろ。勘弁してくれ。
朝凪の脳裏に、先ほどの奥方の目がよぎった。
扇の向こうで細められた、どこかもの言いたげな目。あの目は見覚えがある。美菊が何か言いたいことを、言う前からこちらへ置いてくる時の目によく似ていた。
朝凪の背に、冷たい焦燥がはしった。
一方愛護は、周囲の思惑など欠片も見ていなかった。
縁談に纏わる予定は増え、姫としての務めも積み重なっていた。顔合わせ、稽古、奥方との話、当主から聞かされる家のこと。愛護はよく励んでいたが、その分、山へ行く時間は減っている。秋が深まれば、やがて雪の気配も近づく。山道が閉ざされる前に何度行けるか、焦りながら数え始めていた。
しばらく兄に会えていない。
その鬱屈は、愛護の足を朝凪の方へ向かわせた。
人目が薄くなる瞬間を狙って、愛護はすぐそばへ寄ってくる。廊の角、庭へ出る前、奥方の部屋へ入る直前。小さな足音が近づき、袖が引かれる。
「朝凪」
袖を小さく引かれる。
朝凪が振り向くと、愛護は身を寄せ、声を潜めた。
「あにさま、元気?」
「はい」
「愛護が会いたがってるって、伝えてくれた?」
「伝えております」
「ほんと?」
「はい」
「昨日は何してた?」
「庭の薬草を見ていました」
「どれ? 前、愛護と一緒に植え替えたの?」
「さあ」
「さあじゃだめ! ちゃんと聞いてきて」
そこで人の気配が戻ると、愛護は何食わぬ顔で少し離れる。だが適切な距離とは言い難い。朝凪の袖をまだ掴んでいたり、肩が近かったりする。朝凪が一歩引くと、不思議そうに二歩寄る。
愛護にとっては、兄の話を聞きたいだけである。朝凪を男として見ているわけでも、周囲に見せつけようとしているわけでもない。
仔猫が戸の隙間を前足で掻くように、ただ知りたい、会いたい、聞きたいとまとわりついている。
当然、周囲はそう見なかった。
ある日、愛護が朝凪の袖を握り、耳打ちの答えに花がひらくような顔をした瞬間、廊の向こうの女房と目が合った。
女房は、にんまりと笑った。
朝凪の危機感は、その時、腹の底まで落ちた。
まずい。
冗談では済まない。
それから数日後。愛護は積まれた紙を脇に寄せ、とうとう唇を尖らせた。
「庭に出てくる」
侍女が供を申し出たが、愛護は首を振った。
「朝凪だけでいい」
言い方は自然だった。これまでも散歩に朝凪だけを伴うことはあった。姫付きである以上、おかしくはない。けれど今の朝凪には、その一言すら胃のあたりを押されるように聞こえる。
愛護は足早に廊を進んだ。
秋の庭は澄んでいた。空は高く、雲は薄い。紅葉のはじまった枝が池の面へ影を落とし、庭石のあいだには竜胆が青く咲いている。
愛護は人の多い場所を避け、奥の木陰へ入った。下男の姿も、女房たちの視線も届かないところまで来ると、周囲をよく確かめる。
それから、弾む声でこちらを向いた。
「ねえ、愛護、いいこと思いついちゃった!」
絶対によくない。
朝凪は、声には出さずに身構えた。
「何でしょう」
「あにさまと日々帳を交換したいの!」
朝凪は、すぐには返さなかった。
愛護は嬉しそうに続ける。
「そしたら、忙しくても、雪の季節に行けなくても、あにさまがどうしてるか分かるでしょ? だから朝凪、帳面持って帰ってね」
どうしてるもこうしてるも、ほとんど同じ毎日である。
庭の薬草を見て、本を読み、湯を沸かし、火を見て、また本を読む。日々帳を書かせたところで、薬草の葉が一枚増えたとか、蕾がまだ固いとか、そういう記録になる。
何が面白いんだ、それ。
いや、それはそれとして。
「なりません」
「なんで!」
愛護の頬が一気に不満でふくらんだ。
朝凪はなるべく声を整えた。
「文一通を秘密裏に持ち帰るのとは違います。姫様の帳面を、私が幾度も持ち出し、また戻す。往復が増えれば、それだけ目につきます。万一中を検められれば、あれの存在に繋がります」
愛護は、待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「大丈夫! ちゃんと考えたもん!」
ほう? 聞こうじゃないか。
「変に思われないように、最初から、愛護と朝凪が日々帳を交わすって言っておけばいいんだよ! そしたら朝凪が持って帰るのも普通だし、中身を調べられることもないでしょ?」
何も大丈夫ではなかった。
お前わざとやってんのか。
舌まで出かかった言葉を奥歯で噛み潰し、側付きの礼をどうにか喉の奥から引きずり出す。
「──なりません」
「なんでえ!?」
愛護がぶんむくれたが、朝凪はもう苦さを隠し切れなかった。
「……姫様は、私を婿になさるおつもりですか」
「………………え?」
ぽかん、と口が開いた。
本当に分かっていない顔だった。なぜ突然そんな話になるのかまるで見当もつかないという顔で、朝凪を見上げている。
朝凪は額の奥が痛くなった。
そこからか。
そこから説明するのか。
「姫様」
「う、うん」
「候補者の方々とお会いになった後、私を引き合いに出しておられるそうですね」
愛護の目が泳いだ。
「……だって」
「だって、ではありません」
朝凪は続けた。
「模擬試合の日は、私の方が強い。綾の披露の日は、私の方がすごい。茶席の日は、私の方が姫様のことを見ている」
愛護の顔が、じわじわ赤くなった。
「だ、だって、ほんとのことだもん」
「真偽の話ではございません」
「でも」
「候補者の方々を片端から退け、そのたび私の名を出す。それがどう聞こえるか、お考えください」
愛護は口を閉じた。
朝凪はさらに畳みかけた。ここで緩めると、また分からないまま妙な案を出す。
「近ごろの姫様は、人目の薄いところで私のそばへ寄り、袖を取り、耳打ちをなさる。私が何か答えると、顔を明るくなさる。その後もしばらく離れない。散歩の供も、侍女を断り、私だけを連れて行きたがる」
「そ、それは、だって、あにさまの話を」
「勿論、私は承知しております」
朝凪は低く言った。
「しかし周囲はそうは見ません。気安い者として重用いただいている、と言い張るにも限度がございます。そのような状況で、さらに帳面のやりとりなど、私個人と親しくしたがっているかのようなことをなされば」
「な、なされば?」
愛護はごくりと喉を鳴らした。
「私が婿候補の筆頭に引き摺り出されます」
「やだーーーーーーーーーーーーーっっっっ!!!!!!」
絶叫だった。
朝凪は反射で手を伸ばし、愛護の口を塞いだ。
同時に、周囲の気配を探る。庭木の向こう。廊。池のほとり。人はいない。風が紅葉の葉を揺らし、石灯籠の影が少し動いた。
「お静かに」
愛護は、口を塞がれたまま、こくこくと頷いた。
朝凪が手を離すと、愛護は青いのか赤いのか分からない顔で息をした。目元が潤み、頬は熱を持ち、唇ははくはくと動く。
「でもでも、だって、朝凪は愛護の側付きでしょ?! お婿さんの候補じゃないでしょ?! そんなことある?!」
朝凪は一拍、言葉を選んだ。
できれば言いたくない話だった。だが、ここでぼかせば、この姫はまた同じことをする。善意と無邪気さで、全力で危うい橋を踏み抜く。
「ございます」
愛護の目が丸くなる。
「姫の近くに、若い男を長く置くのです。もとより、その可能性を織り込んで選ばれております」
「……え」
「もちろん、本命は他におられます。優先される方々も多くいらっしゃる。それが今、姫様の前に上がっている皆様です」
朝凪は、できるだけ淡々と続けた。
「ですが、その裏で、私も数の内には入っております。もし姫様が外の男を強く苦痛に思われた時、あるいは長く共にあったことで心を寄せてしまわれた時、主従の形を大きく崩さず、名だけを夫に変えられる者として」
愛護は半口を開けたまま、朝凪を見ていた。
「そのために、血筋も、経歴も、綾の素養も、家が許す範囲にあります。姫様がお褒めになったこの見目も、選出の際には見られております」
「みめ」
「子に表れるものです」
「こ」
愛護は、完全に固まった。
朝凪は少し胸の底が重くなるのを感じた。
候補者たちは、愛護と同じ年頃か、年上でも一つ二つほどである。それは当主夫妻の親心だった。本来なら、一回り程度の歳の差など珍しい話ではない。家にとって都合のよい相手が、都合よく同じ年頃であるとは限らない。
だが愛護は、そんなものを自分のこととして考えたことがなかったのだろう。
声を少しだけ和らげる。
「ですので、軽率なことはなさらぬようお気をつけください。──ご安心を。候補者の皆様と私は違います。最悪の場合はこれでも仕方ないという、その程度の者です。早々、場に上げられることはございません」
愛護が望みもしないのに、無理に添わされることはない。
そういう意味で言った。
だがその瞬間、呆然としていた愛護の顔が強ばった。怒ったような、傷ついたような顔だ。
胸の前で握っていた手が、ゆっくり朝凪の袖へ伸びる。
「……そんなこと、ない」
声が小さく震えた。
「……朝凪は、その程度とか、仕方ないとか、そんな人じゃない……愛護の、……愛護の……」
言葉がほどけ、最後まで形にならない。
愛護は俯き、朝凪の袖を握った。
だから、そういうのが。
朝凪は思ったが、今は引き剥がさなかった。
随分、懐いたものだ。こんな愛想もなく、優しくもない男に。
――そして、自分も。
美菊の妹だから、という部分は確かにある。美菊が大事に想う子だから。傷つけば美菊が悲しむから。守る。測る。危うければ遠ざける。最初は確かにそれだけだった。
だが、十年近くもそばにいて、その成長を、誠実さを、素直さを見ていれば情も沸く。
妹のような、と言うには身分の差がある。
けれどそれに近い何かがあることを、もう否定する気はなかった。
愛護の手元を見下ろした。
小さなころはもっと何もかも丸かった指が、しなやかに伸びている。姫として筆を持ち、綾を読み、扇を扱う手になってきている。
それでも、袖を握る仕草には幼いころの名残があった。
「姫様」
朝凪は静かに呼んだ。
愛護の指が袖を掴んだまま、わずかに強くなる。
「お戻りを。長く空ければ、それこそ人目を引きます」
愛護は唇を尖らせた。けれど、手は素直に離れた。
そのまま二歩ほど歩きかけて、また朝凪を見上げる。目の中には、まだ納得しきれないものが残っていた。怒りか、恥ずかしさか、混乱か、本人にも分かっていない顔だった。
やがて、ぽつりと苦い声を落とした。
「…………朝凪がお婿さんになったら……まいにちおこられる……やだ……」
そこかよ。
朝凪は空を仰いだ。
いや、下手に深く考えて無駄に怯えるよりは、このくらいの方がいいのかもしれない。もうなんでもいいから、とにかくその気持ちだけしっかり持って振る舞ってほしい。是非に。
庭の向こうでは、紅葉し始めた枝が風に揺れていた。
秋晴れの空は澄んで高く、青の奥へ、冬の気配が薄く透けていた。
■■
それから、愛護は本当に気をつけた。
朝凪の袖へ伸びた指が、布に触れる寸前で止まる。はっとした顔になり、その手を胸の前へ引き戻して小さな拳にする。
廊の向こうに朝凪を見つける。ぱっと顔が明るくなり、足が半歩先へ出る。だがすぐに止まる。赤い髪の先が肩の上で揺れた。
愛護はその場で一度息を吸い、背筋を伸ばし、姫らしい声で呼んだ。
「朝凪」
朝凪は膝をつき、頭を下げる。
「はい、姫様」
愛護はそれだけで少し嬉しそうになる。嬉しそうになったあと、また、はっとする。袖の内で手を握り、口元を引き結び、たいそう立派な顔を作る。
候補者の感想を尋ねられた時も、愛護は頑張った。
「先ほどの方は、いかがでしたか」
女房にそう問われ、愛護は何かを言いかけた。
朝凪なら。
その形に唇が動きかけたのを、朝凪は見た。
愛護も気づいたのだろう。むん、と口を結んだ。頬に力が入り、目だけが一瞬こちらへ逃げる。それから、いかにも覚えたての作法を大事に抱くような声で言った。
「……お優しそうな方でした」
ちゃんと言えた、という顔で、ちらりと朝凪を見る。
――なんでこうなるんだ。
朝凪は定位置に控えたまま、内心では頭を抱えて蹲っていた。
愛護は頑張っている。朝凪の言いつけを聞き、きちんと堪えている。手を引き、声を整え、言葉を選んでいる。そう、誰が見ても、痛々しいほど堪えている。
つまり、側付きへの恋慕を押し隠し、姫として健気に振る舞おうとしている娘に見えた。
年嵩の女房などは、愛護が手を胸の前で握るたび、目尻をしんみりと下げた。若い侍女は袖で口元を押さえ、濡れた目で愛護を見ている。
奥方だけは、扇の向こうから読めぬ目をこちらへ寄越した。扇の影から、静かな視線が朝凪を刺す。
助けてくれ。
にゃごにゃご言わせておいた方がまだましだったのかもしれない。いや、しかし、姫本人の口から言質が積まれていくよりは、あくまで女たちの胸の内で勝手に花が咲いている今の方がいい。いいはずだ。いいか?
褒めてほしそうな顔でちらちらこちらを見る愛護を、朝凪は黙殺した。
■■
そうして薄氷を踏むような日がいくつか続いたころ、人通りの多い廊で、朝凪は背後から鋭い声に呼び止められた。
「お前が姫の側付きか」
その言葉に周囲の足音が少し乱れた。
振り返る。廊の向こうに、少年が立っていた。
年は愛護と同じほどだろう。身に着けた衣は上等で、袖口の縫いも帯の織りもよい。赤い髪はきちんと結われ、しかし青い目には不機嫌が濃く沈んでいる。後ろには従者らしき者が二人、困った顔で控えていた。
名前はすぐに浮かぶ。
惟久。
先日まで、愛護の婿候補のひとりだった者だ。家格、綾の素質、年齢、近い血筋の評判。紙の上ではかなりよい位置にいたはずである。当初は有力とも見られていた。だが先日、こちらから断りを入れた。
朝凪はすぐに膝をつき、頭を下げた。
「惟久様。何か御用でございましょうか」
廊の音が、少し薄くなった。
完全には止まらない。だが人の足がゆるむ。耳だけがこちらへ寄ってくる。朝凪は頭を垂れたまま、それを肌で拾った。
惟久は鼻で笑った。
「ずいぶん丁寧な口をきくのだな。身のほどは、一応知っているらしい」
高慢な色の声だった。
「傍系風情が、よくもまあ大きな顔で姫のそばに控えていられるものだ。家の端に生まれて、少し綾が使えるからといって、己を何者かと勘違いしたか」
近くにいた下働きが手にした盆を胸へ寄せた。廊の端で女房が足を止める。若い兵がこちらを見て、眉を動かした。
朝凪は動かなかった。
なるほど。
紙の上ではきれいに整っていた。座敷でも、相応の振る舞いはしたのだろう。だが、皮を一枚めくればこれか。
愛護は、こういうものを嗅ぎ取ったのかもしれない。
愛され、大事に育てられた姫である。だから世間知らずなところはある。紙の裏、人の腹、家と家との打算を、すべて読めるわけではない。それでも、乱暴なもの、こちらを値踏みする目、笑顔の奥で相手を踏む足つきには、妙に鼻が利く。
愛されてきたからこそ、愛でないものの匂いを知っている。
女たちも同じだ。
当主の伴侶になるという意味を、この少年は理解していない。姫の横へ並ぶのではなく、姫の上に立つか、あるいは姫を飾りとして得るつもりでいる。そのくらいは、座敷の半刻で女たちにも見えただろう。
――落ちるわけだ。
「黙っていれば逃げられると思っているのか」
惟久の声が近づいた。
「お前のような者が、姫のそばに長く置かれていること自体がおかしい。姫はお優しいからな。下の者にも情けをかけられる。そこへつけ込んだのだろう」
朝凪は視線を伏せたまま板の目を見ていた。廊の板はよく磨かれている。日差しが浅く入り、惟久の影がそこへ落ちていた。
「顔を上げろ」
「恐れながら」
「上げろと言った」
閉じた扇の先が、朝凪の顎へ乱暴にかかった。
骨の硬さが顎先を打つ。朝凪は抵抗しなかった。扇の先が顎を押し上げ、顔が上がる。
その瞬間、惟久が息を止めた。
一拍。
惟久の目が朝凪の顔を見る。赤い髪、青い目、硬い頬の線、伏せていない視線。姫付きの衣の衿元、喉、肩。
先ほどまで勢いよく口を開いていた少年の呼吸が、そこでわずかに乱れた。
朝凪は、ただ見返す。
惟久はすぐに気を取り直した。取り直そうとしたのだろうが、眦に乱れが残っている。
「なるほどな」
声に、嫌な熱が混じった。
「その顔で姫を誑し込んだわけだ。さぞお上手なのだろう。姫も、幼くていらっしゃる。そばに置いた男に媚びられれば、ものの分別も鈍ろうというものだ」
朝凪は、胸の底で目を細めた。
貴様、一線を越えたな。
朝凪への侮辱ならよい。身分がどう、傍系がどう、綾がどう、顔がどう。どれも好きに言わせておけばいい。
だが今の言葉は、朝凪ではなく愛護へ刃を向けている。姫が側付きの甘言に惑い、家の選ぶ相手を退けていると言ったのだ。
姫の分別と名に、泥を跳ね上げた。
軽率な言、衆目での姫への侮辱、自身との身分差、それらを頭の中で秤にかけ、釣りがくると判じた朝凪は指先に力を込めた。
その時、廊の奥から足音がした。
軽い。だが急いでいる。衣擦れが続き、滑りかけた気配がする。
「――朝凪!!」
惟久の顔が強張る。
愛護が廊の向こうに立っていた。誰かが奥へ知らせたのだろう。女房の制止も振り切ってきたのか、息が乱れている。赤い髪が肩で跳ね、袖の端が少しずれていた。
惟久は、本人が現れるとは思っていなかったらしい。扇を持つ手がわずかに下がる。
愛護は、惟久と、膝をついた朝凪と、その顎のそばにあった扇を見た。
表情が、すっと消えた。
そうすると、愛護の顔立ちは驚くほど美しくなった。普段の幼さや、笑うと頬に出る柔らかさが退き、赤い髪と青い目を持つ風斎本家の姫が、まっすぐそこに立つ。当主の血が色濃く出た、華のある圧が現れる。
「惟久様」
愛護の声は低かった。
「私の側付きに、何をなさっているの」
惟久は扇を引いた。
「ひ、姫様。これは、その」
「朝凪に、何をしているのかと訊きました」
廊にいた者たちがいっせいに頭を垂れた。朝凪もすぐに深く頭を下げる。視界の端で、惟久の足元だけが落ち着かず動いた。
「私は、ただ、姫様のためを思って」
「私のため」
愛護は静かに繰り返した。
その静けさに、惟久は何かを見誤ったらしい。声を取り戻し、むしろ強く言った。
「はい。姫様は、まことにお優しい方でいらっしゃる。だからこそ、こうした下の者が、そのお心へつけ込むこともあるのです。ましてこれは傍系の身、姫様のお側に長く控えるには相応しくない。しかもこの者は、候補として上がった者たちを退けるよう、姫様のお耳に何かを吹き込んだのでしょう。私が退けられたのも、まさか姫様御自身の御判断ではございますまい」
場は静まり返っている。
「姫様、今からでもお考え直しください。このような者をお側に置くことが、どれほど外聞を損なうか。姫様の御名にも関わります。正しくお支えできる者を選ぶべきです。私ならば――」
「あなたは」
愛護の声が、惟久の言葉を切った。
廊の奥で、女房の息を呑む音がした。
「私が、側付きの一言で目を曇らせる愚かな女だとおっしゃるのね」
惟久の顔色が変わった。
「い、いえ、私は、そのような」
「おっしゃいました」
愛護は一歩進んだ。
「私が会い、言葉を交わし、見て、父と母に返した判断を、朝凪に惑わされたものだとおっしゃった。私の目ではなく、朝凪の言葉で決めたのだと」
「姫様、私はただ」
「私は風斎の後継です」
声が、さらに低くなった。
「裳着も済み、父と母のもとで、この家の者として人を見ています。至らぬところはありましょう。知らぬことも多くありましょう。ですが、誰を己の隣に置くか、その候補の方をどう見るか、考えることまで人に預けた覚えはありません」
朝凪は頭を下げたまま、ひそかに胸を打たれていた。
あの姫が。
庭の景石に登ったはいいが降りられず、目に涙をためて朝凪を呼んだあの姫が。
苦い薬湯を飲みこめず、頬に溜めたまま涙だけぽろぽろこぼしていたあの姫が。
菓子を布団の中に隠して女房にしこたま叱られべそべそ泣いていたあの姫が――情けない姿がいくらでも出てくるな。いや、とにかく、あの小さかった姫がこんなふうに立てるようになったのか。
立派になった。
本当に。
しかしその感動は、次の瞬間、きれいに踏み潰された。
「それに、朝凪は」
愛護の声が震えた。
「朝凪は、ただ長く私のそばにいるだけの者ではありません。幼いころから、私の稽古にも、公務にも、移動にも、ずっと付き添ってくれました。私が疲れている時、誰より先に気づきます。私が無理をしている時も、言葉にする前に水や休みを整えてくれます。綾の読みで迷った時も、道を間違えそうな時も、危ないものへ近づいた時も、朝凪は必ず先に見ています」
おいやめろ。俺の話はいい。
「礼も、務めも、朝凪は欠いたことがありません。表に立つ方ではありませんが、だからといって軽い者ではありません。父も母も、それを知っているから私のそばに置いているのです」
少し軌道修正されたか? そうだ、当主の人事に口を出したと、そちらに持っていけ。
「朝凪は、私の側付きであることを笠に着たことなど一度もありません。己の綾や武を誇って誰かを押さえつけることもない。それでいて、この者ほど細やかに綾を読み、確かに務め、静かに私を支える者を、私はほかに知りません。……朝凪は、あきらは、」
だめだった。
愛護は、唇を噛んで息を整えた。
「朝凪は、私のものです」
廊のあちこちで、小さく息を呑む音がした。
朝凪の背中にも冷たいものが走った。
いや、間違ってはいない。立場としてはその通りだ。側付きとは主に属する。属するが。
愛護はまっすぐ惟久を見据えていた。
「私のものである朝凪へ向けた刃は、私へ向けた刃と同じです。あなたは当然、それを分かってなさったのですね」
惟久の唇から血の気が引いた。
「姫様、私は、ただ」
「沙汰を待ちなさい」
その言葉で、従者たちが青ざめた。ひとりが慌てて惟久の肘を取る。
「若様、こちらへ。早く」
「放せ、私は」
「お願いいたします」
もう一人の従者が半ば縋るように腰を押し、惟久はよろけながら後退した。さきほどまでの居丈高さは衣の裾に絡まって引きずられ、顔ばかりが白く浮いている。
廊の角へ消える寸前、惟久がこちらを振り返った。朝凪はまだ膝をつき、頭を下げていた。目は合わない。
足音が遠ざかる。
その姿が廊の角に消えた瞬間、愛護の顔が崩れた。
「あきら!」
まずい、と思った時には遅かった。
愛護が駆け寄り、そのままの勢いで抱きついた。
「あきら、ごめんね、愛護のせいで、ごめんね……っ」
細い腕が首の後ろへ回る。頬が肩に押しつけられる。泣きそうな息が耳元へかかった。
別に、愛護のせいではない。
周りから有力候補だ何だと囃され自分でもその気になった子どもが、断られた腹いせにたまたま目についた朝凪へ噛みついた。それだけの話だ。
むしろ実害は、今この瞬間の方が遥かに大きい。
衆目。
衆目である。
朝凪の血の気が、今度こそ引いた。
惟久に何を言われようが、それは朝凪の身に落ちる泥である。払えばよい。払えなければ乾くまで待てばよい。
だが、これは違う。愛護が涙ぐみ、両腕で朝凪にすがっている。朝凪の胸元に額を寄せ、声を震わせている。
ようやく愛護に追いついた女房、侍女、下働き、若い兵、通りがかった右筆、惟久の従者を追ってきたらしい者までいる。全員が見ている。見ていないふりをしている者も、気配だけはこちらへ向けている。
朝凪は、姫の腕を乱暴にほどくわけにもいかず、声だけを整えた。
「姫様」
「ごめんね、朝凪、痛くなかった? 嫌なこと言われた? 愛護がもっと早く来れば」
「何も問題はございません。姫様の御身に障りがなく、何よりにございます」
頼む。離れろ。今すぐ離れろ。
愛護の肩へ、触れるか触れないかの位置で手を添える。抱き返してはならない。押し返しすぎてもならない。主を支える従者の形へ、どうにか収める。
「過分なお心をかけていただき、恐悦至極に存じます。姫様がかように重用くださっているとは、身に余る思いでございます」
重用。信頼。役目。
そう、これは主が長く仕える側付きに厚く心を寄せているという、麗しき主従愛だ。聞いてるかお前ら。感動の場面だぞ。
姫はここで「うん、これからもよろしくね」くらいで収めろ。頼む。お前ならできる。さっきまでできていた。頑張れ。
朝凪は愛護をそっと立たせた。
愛護は涙の滲んだ目でこちらを見た。まだ幼い頬が、安堵で少しゆるむ。そして、ひどく可憐に笑った。
嫌な予感がした。
「そうだよ」
愛護は、少し恥ずかしそうに頬を染めた。
「知らなかったの? 愛護、朝凪のこと、ずっとずっと大好きなんだから!」
廊の空気が止まった。
風も、人の息も、衣擦れも、何もかもが一拍、凍りついたようだった。
お前。
お前。
お前。
愛護だけが、自分の言葉がどのように響いたか分かっていない顔をしていた。女房が小さく「姫様、お座敷が」と声をかけると、はっと目を瞬かせる。
「いけない、途中だった」
愛護は袖で涙を押さえ、慌てて身を整えた。姫として戻ろうとしている。その健気さが、今は刃物のように朝凪の喉元へ来る。
奥へ戻る前、愛護はもう一度こちらを見た。
「朝凪、すぐ戻るから。ちゃんとあとで顔を見せてね」
心配そうに、けれど人前だから堪えているのだと言わんばかりに笑う。
それがまた、廊の端に立つ侍女の胸を射抜いたらしい。誰かが小さく息を呑んだ。
愛護は女房に促され、奥へ戻っていった。
赤い髪が角の向こうに消える。
その後ろ姿を見送る人々の目が、みな同じ方へ傾いていた。憐れみ、感動、驚き、好奇、痛ましさ、祝福に似た何か。
形を得た物語が、廊板の隙間から水のように走り出すのを、朝凪は肌で感じた。
――終わった。
立ち上がれなかった。
片膝をついたまま手で顔を覆う。礼を崩したことなど、もうどうでもよかった。指の間から息が漏れる。
愛護に付いておよそ十年。
初めて、主を引っ叩きたくなった。




