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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
45/45

御根の座――綾寧449年


盛夏の朝、奥向きの廊には白い光が満ちていた。


簾を越えた日差しは細く裂かれて床に落ち、磨かれた板の上で水のように揺れている。庭の青葉は濃く、葉裏へたまった熱が風のたびに廊へ流れ込んだ。遠くで蝉が鳴きはじめ、屋敷の外では下男たちが水を撒く音がする。


奥向きの廊は、表の廊と少し違う。

柱の間隔も、曲がり方も、建て増しの癖も、見慣れた屋敷の一部であるはずなのに、奥へ近づくほど景色の奥行きが薄くなる。角をひとつ曲がった時、さきほどの庭がまだ右手にある気がする。襖の位置を覚えていても、目を離した瞬間どの襖だったか指先の中でほどける。幼いころの愛護はそれを屋敷の広さのせいだと思っていた。

いまは、違うと知っている。


玄冬は廊の半ばに立ち、足元へ目を落としていた。

夏の白い光の中でも、その姿は涼しげだった。衣の色は深く、背筋はまっすぐで、手は袖の内に収まっている。

愛護の数歩後ろには朝凪が控えていた。いつものように余分な気配を立てず、光の当たる柱の影へ半身を置いている。


「姫様」


愛護は体の前で手をそろえ、顔を上げた。


「今朝の保守点検で、この廊の綾にほつれが見つかりました――本日の稽古では、姫様にその綾を読み、修繕いただきます」


それを聞いた瞬間、胸の内側が小さく跳ねた。

これまでの稽古とは違う、と肌が先に知った。

盆の上の鈴を見えなくされる稽古、綾で織られた武具を手にのせる稽古、薄い迷いの中から出口を探す稽古。どれも本物の綾ではあった。

けれどそれらは玄冬が稽古のために整え、危ういところを抜き、ほどけても踏み抜いても困らぬようにしてくれたものだった。

いま目の前にあるのは、日々この屋敷を守っている古い筋である。

夏の廊を撫でる風の中に、ひやりとしたものが混じっている。板の目、柱の根元、襖の敷居。そこを細い水が通るように、目には見えぬ流れが這っていた。


「まずは、お読みください」


玄冬の言葉に愛護は息を整え、廊の向こうを見た。


どこへ行こうとしている綾なのか。

何を守ろうとしている綾なのか。


足元の一筋を追うと、すぐに二つに分かれた。一つは壁の方へ寄り、ひとの注意を掛け軸の影へ流す。もう一つは床の下へ沈み、そこから奥へ伸びる道の感触そのものへ触れていた。

廊はまっすぐ伸びている。曲がり角も、襖も、奥へ続く敷居もある。けれど、その「奥へ続く」という関係へ、細い綾が幾重にもかかっている。


愛護はゆっくり口を開いた。


「奥向きへ踏み込む者にかかる綾だと、思う」


玄冬の目がわずかに和らいだ。

愛護は廊の先を見つめたまま続ける。


「害意を持って入った瞬間、その足が、奥へ向かう道と結ばれなくなる。歩いても、曲がっても、襖を選んでも、奥へ向かう道が……成立しなくなる? 違う廊へ戻るか、庭へ抜けるか、来た方へ返されるか……奥が奥として届かなくなるのだと思う」


口にしてから、愛護は自分の言葉の重さを知った。


奥向き。

母が暮らす場所。女房たちの声が低く行き交う場所。当主の娘である自分が守られてきた、屋敷の柔らかな内側。

そこへ刃を抱いて踏み込む者がいるかもしれない。人か、禍滲か。

その想像は、盛夏の光の中でひどく冷えていた。


玄冬は頷いた。


「よく読まれました」


愛護の肩から少し力が抜けた。だが玄冬の目は、そこで終わらせる色ではない。


「では、姫様。今朝見つかったほつれは、どの筋へ結び直すべきでしょう」


愛護はもう一度、床へ意識を沈めた。

ほつれは、敷居の際にあった。目で見れば何の変わりもない、長い板の継ぎ目のそば。そこから細い綾が浮いている。浮いた先は乾きかけの草の根に似て、どこへ戻ればよいのか見ただけでは定まらない。


愛護は慎重に辿った。

近くには、幾筋もの迷いがある。足の向きをそらす筋。襖の印象を薄める筋。奥の気配を遠ざける筋。いずれも似ていて、少しずつ違う。織り手が違うのだ。古いものは太く沈み、後から足されたものは細く軽い。さらにその上へ、別の者が薄く補っている。代々の保守の手が、廊の中で重なっていた。


玄冬の稽古の綾は、端正だった。

始まりと終わりがあり、問いと答えがある。織りの癖も、わざと分かりやすく置かれていた。

けれどこの廊の綾には人の年月が沈んでいる。


愛護は指先を擦り合わせた。ほつれた筋は、奥の気配を薄める流れへ戻るように見えた。奥を奥として感じさせぬための、古い折り返し。その端が外れたのだと、読めた。


「……奥の気配を遠ざける筋へ戻すのだと思う。あの、柱の根を回って、襖の影へ沈む方」


玄冬は、愛護の示した先を見た。その横顔で答えが間違っているのだとすぐにわかってしまった。

胸がすうっと冷える。けれど玄冬は、叱る声を出さなかった。顔にも失望は置かれていない。むしろ、愛護の答えを、ひとつの段として受け止めるような静けさがあった。


「朝凪」


短く名を呼ぶ。

柱の影から、朝凪が一歩進み出た。廊へ目を向ける。その目は床を凝視するでも、指を伸ばして探るでもない。ほんの一目、敷居と柱の根と襖の影を結んだだけだった。


「踏み込みの意に掛かる筋でございます」


朝凪の声は低く、滑らかだった。


「刃を抱いて奥へ進む者の意を、足の向きへ結ぶ手前の筋です。左三筋目の下、古い癖で一度沈めてあるところへ戻すのがよろしいかと。奥の気配を遠ざける方へ戻せば、普段の薄さは整いますが、踏み込んだ瞬間の折り返しが遅れます」


愛護は息を止めた。

玄冬がわずかに顎を引く。


「その通りだ」


愛護はもう一度、廊の底を見た。

朝凪の答えを聞いてから見ると、先ほどまで一つの束に見えていたものが違う顔を持ちはじめた。

奥を遠ざける筋。そのさらに下に、細く、硬く、沈められた筋がある。普段は眠るように廊の底へ伏せている。だが、奥へ害を向ける意が足に乗った瞬間、そこがひらく。奥へ向かうはずの道を、足の下で失わせる。


「……難しい」


声がこぼれた。

恥ずかしさより先に、畏れに似たものが来た。

屋敷の廊は、こんなふうに生きている。愛護が毎日歩いてきた床の下で、幾代もの誰かが置いた手がいまも風斎の奥を守っている。


玄冬は愛護のそばへ寄り、敷居の少し手前を示した。


「姫様の読まれた筋も、役を持つ筋にございます。ほつれの根がどの役へ繋がっているかを読むには、古い手の癖まで見ます。はじめは、似た役に引かれます」

「はい」

「では、修繕を」


愛護は深く息を吸った。

胸の前で指をひらく。夏の熱を含んだ廊の空気の中から細い綾を掬う。

風斎の綾は、触れようとすると逃げる。水より軽く、煙より意地悪く、掴んだつもりのところから横へ滑る。けれど、流れの欲しがる向きを読むと少しずつ手に沿ってくる。


ほつれた筋へ、愛護は自分の綾を添えた。

結ぶ。

強く引けば、古い筋が鳴る。弱ければ、また浮く。玄冬の示した沈んだ筋へ、ほつれの端を寄せる。朝凪の言った「一度沈めてあるところ」。そこへ、できるだけ薄く、できるだけ古い流れに沿うように。


やがて、廊の底で流れが通った。

奥へ伸びていた気配がひと呼吸ぶん整う。敷居の際で浮いていたざらつきが収まり、足元を撫でていた冷えが細くなった。


愛護は顔を上げた。

玄冬は廊を見ている。頷いた。


「通りましたな」


胸が明るくなる。

けれど、その明るさはすぐに少し揺れた。流れは通っている。正しく結ばれている。だが、愛護の結び目は、古い廊の中で見るからに若かった。自分の字を古文書の行間へ差し込んだように、形は合っていても墨の置き方が違う。愛護の癖ともともとそこに沈んでいた織り手の癖が、互いに浮き合っている。


玄冬は廊から目を離し、少し離れた部屋の前に控えていた者へ顔を向けた。


「当主様へ。玄冬が目通りを願っていると申し上げよ」


控えの者は深く頭を下げ、足音を殺して去る。

愛護は思わず玄冬を見上げた。


「玄冬、愛護の綾、だめだった?」


声が、思ったより幼く出た。

玄冬の目がこちらへ戻る。夏の廊の明るさの中で、その目は静かだった。


「いいえ。姫様は修繕を成されました。基準を満たしておいでです」

「基準?」

「姫様の御手が、御根(おね)の座の話をお聞きになるところまで届いたということにございます」


御根の座。


その言葉を聞いた瞬間、廊を満たしていた夏の光が、少し遠くなった。


愛護はその名を知っている。

正月、父に連れられて扉の前で拝する場所だ。昨年の裳着の折にも、廊の奥の奥を通り、重い扉の前で頭を下げた。

屋敷の深いところにある、なんだか怖い場所。祝いの日でさえ、そこへ近づくと胸の奥が落ち着かなくなる。

何をする場所なのか、誰も詳しく話してはくれなかった。


「本日の稽古はここまでにいたしましょう。姫様はお部屋にてお待ちください」


玄冬はそう言ってから、朝凪へ目を向けた。


「整えておけ」

「承知いたしました」


朝凪は深く頭を下げた。


玄冬は愛護に一礼し、廊を出ていった。衣の裾が曲がり角の向こうへ消える。控えの者も、玄冬に従う者も、それぞれの場所へ散っていく。


廊には、愛護と朝凪が残った。

朝凪が柱の根元へ膝を寄せる。手を伸ばす前に、ひと呼吸だけ廊全体を見る。愛護はそばに座ってその動きを見ていた。朝凪の指が、空中の何もないところへ触れる。

その動きは、あまりに小さかった。

指先がすべり、空気がわずかに揺れた。愛護の結び目の上へ薄い綾が流れ込む。愛護の癖を押し潰すのではなく、包む。古い織り手の手つきに似せた流れが、上からそっと重ねられる。廊の底に沈んでいた古い癖が、そのまま息を吹き返したように立ち上がる。


さっきまであった愛護の修繕の痕跡は、もう見えなかった。

愛護が結んだ場所は、最初からそうであったように廊の中へ沈んでいる。新しい手跡も、若い綾の匂いも、もう浮いていない。奥へ向かう道を失わせる筋は古い廊の呼吸と同じ速度で流れていた。


愛護は、指を膝の上で握った。廊は静かで、庭の蝉がひとつ声を強めた。

朝凪は手を引き、何事もなかったように愛護へ一礼する。


「姫様、お部屋へ」

「……うん」


立ち上がる時、愛護はもう一度だけ廊を見た。奥へ続く道は静かにある。けれどその下にある綾の深さを愛護は知った。

そして、朝凪の指先がその深さを何のためらいもなく渡ったことも。




■■




昼を過ぎると、屋敷の暑さは色を変えた。


朝の白い熱は午後になると重く湿り、柱や畳の奥へ沈みこんでいた。

庭の木々は濃い影を落とし、池の水面には青い空がまぶしく割れている。蝉の声は途切れなくなり、遠くの棟で鳴る風鈴だけが夏の厚みをかろうじて薄くしていた。


午前の稽古でかいた汗を流すため、愛護は湯を使わされた。女房たちはいつもより手をかけて髪を梳き、薄い夏衣を重ねた。汗を吸う襦袢は新しく帯は涼しげな色に替えられ、髪には季節の花を模した小さな飾りが挿される。

重すぎる装いではない。けれど、ただ部屋で過ごすためのものでもなかった。


「姫様、苦しくございませんか」

「うん」


返事をしてから、愛護は少しだけ背を伸ばした。

部屋には涼しげな香が焚かれていた。廊の向こうでは女房たちの足音が普段より整っている。

何かが起きる前の屋敷は、いつもこういう顔をする。人が急ぐのではなく、物の位置が少しずつ正され、声の高さが揃っていく。


父が部屋を訪れたのは、支度が丁度整った頃だった。

父はいつもの執務の衣ではなく、少し改まった装いだった。赤い髪をきちんと結い、青い目の奥に父としてのやわらかさと当主としての固さが重なっている。玄冬はその後ろに控えていた。


愛護は膝を揃え、深く頭を下げる。


「父様」


父は、愛護の前に腰を下ろした。武家の当主として座る時の顔だったが、娘を見る目は少しだけやわらかかった。


「今朝の稽古のことは、玄冬から聞いた」


愛護の背筋が、また少し伸びる。


「はい」

「よく読んだそうだな」


褒められて、胸がほんの少し温かくなった。けれど、悔しさが薄くそれを覆う。


「でも、愛護は、結ぶ筋を間違えました」


言ってしまってから、声が思ったより小さかったことに気づいた。

父は、かすかに目を細めた。


「それも聞いた」


愛護は顔を上げられなかった。


「織られた癖まで読める者は少ない。その癖の奥へ沈んだ意図を掬える者は、さらに少ない」


父の声は、叱る声ではなかった。


「仕組みは読めた。しかし癖でつまずいた。今日、お前に見せたかったのは、そこだ」

「そこ?」


父は頷いた。


「風斎の綾は、ひとりで完結するものばかりではない。家が長く持つ綾には、代々の手が入る。人の手が入れば、人の癖も残る。その癖を余計なものとして見てはならぬ。そこには、その時の織り手が何を恐れ、何を守ろうとしたかが残っている」


愛護は朝の廊を思い出す。

古い手。新しい手。強い手。緩い手。

そのひとつひとつに、人がいたのだ。


父は続けた。


「愛護。お前には、御根の座を見せる」


その言葉に、部屋の空気が少し沈んだ。

愛護は手を膝に重ねた。


「……はい」

「風斎の嫡に連なる者が、いずれ知らねばならぬ場所だ」


玄冬が、静かに襖の方へ目を向けた。


「お支度は整っております」




部屋を出ると朝凪が廊に控えていた。愛護の歩く少し後ろ、いつもの位置につく。すると、不思議に胸が落ち着いた。

父と玄冬が前にいる。屋敷の奥へ向かう。知らない場所へ行く。なのに、朝凪の足音が後ろにあるだけで、廊の広さが少し馴染む。


奥へ進むにつれ、外の音が薄くなった。

蝉の声は障子の外で白く鳴っていたはずなのに、曲がり角をひとつ越えるごとに遠のく。香の匂いも変わった。日々焚かれる衣や部屋の香ではなく、もっと古い木と石の匂いが混じる。

歩く者も少ない。

板の艶は深く、柱の色は黒ずみ、壁際には風斎の紋が小さく入った行燈が置かれていた。


御根の座へ続く扉は、奥向きのさらに奥、古い内殿にあった。

表向きには祖霊へ報告をする場であり、有事には当主家の者が下がる最奥の座である。

扉の板は厚く、金具は黒く沈み、中央には風斎の紋が彫られていた。見るだけで重さのわかる戸だ。

表に派手な飾りはない。だが、木の奥に何かが沈んでいるように、そこだけ空気の重さが違う。


愛護は、扉の前で足を止めた。


「……こわい」


声は、自分でも驚くほど小さかった。

父は扉に手をかける前に、愛護を見た。


「その感覚は、正しい」


叱る響きはなかった。


「御根の座は、風斎の綾がもっとも濃く寄るところだ。流れの根へ近づけば、体の内の綾も応える。慣れぬうちは、胸が騒ぐ」


愛護は、自分の胸へ手を置いた。

そこにある小さなざわめきは、恐ろしいものの前で震えているようでいて、懐かしいものへ呼ばれているようでもあった。

夏の廊に立っているのに、足元から冷えが上がる。首筋にうすく滲んでいた汗がすっと引いた。


玄冬が一歩進み、扉へ手を添える。


「お入りくださいませ」


愛護は朝凪を見た。


「朝凪は?」


朝凪は戸の手前で足を止めていた。すでに外へ向き直り、廊を守る姿勢に入っている。

愛護の問いには父が答えた。


「御根の座は嫡流の場所だ。玄冬も、朝凪も、ここまでとなる」

「でも」


朝凪が、少しだけ顔を上げた。


「姫様」


声は低く、整っていた。


「お戻りを、こちらでお待ちしております」


愛護は、胸の奥に残っていた息を吐いた。


「……うん」


扉が開かれる。


中から、冷たい匂いが流れ出た。土と石と、古い水の匂い。長いあいだ日を知らない場所の匂いだった。愛護は父の後ろについて、おそるおそる足を踏み入れる。

そこは部屋ではなく、石の階が地下へ続いていた。行燈の火が階段の壁に薄く揺れる。


一段下りるごとに、夏が遠のくようだった。廊に満ちていた蝉の声は戸を閉ざしたように薄れ、かわりに石の冷えが足袋の裏から静かに上がってきた。壁には灯が等間隔に掛けられている。炎は小さいのに暗がりの芯までよく届き、石肌の濡れたような艶を淡く照らしていた。


愛護は先を行く父の背を追いながら、胸の奥で自分の綾が小さく波立つのを感じていた。

庭の青葉の下を吹く風とは違う。廊の保守で触れた古い迷いとも違う。ここに満ちるものは、もっと深く、もっと重かった。肌から沈んで骨へ届く。呼吸に混じる前に、体の内側から返事を求めてくる。


階段の先に、ひらけた間があった。

想像よりも小さい室だった。飾りの華やぎで満たされるような座でもない。柱も壁も古く、床は黒く磨かれている。灯は壁際にめぐらされ、床板の中央へ静かな明るさを集めていた。その光の輪の中に、風斎の紋が彫られた厚い板が一枚嵌め込まれている。


父はその前で膝をついた。

愛護も少し離れてそれにならう。冷えた床の気配が膝を通して上がってくる。


「ここが、御根の座だ」


父の声は、石の壁に低く返った。


「風斎の当主が、家を継ぎ、祖へ報じ、次代へ渡す座。風斎本家の最奥に置かれた、いちばん古い場所でもある」


愛護は板の紋から目を離せなかった。

正月や行事の折に拝する、屋敷の奥にある怖い場所。

いま、その怖さの理由が床下から息をしている。


父は板の縁へ手をかけた。厚い板が、重い音を立てて持ち上がる。

灯の光が、その下へ滑り落ちた。


床の下には、黒い石で囲まれた深い口があった。井戸にも似ている。けれど水の匂いは立たず、湿った土の気配も薄い。

そこから上がってくるのは、風斎領の山や川や屋敷の奥で感じる綾をすべて凝らして沈めたような濃さだった。


暗がりの底で、何かが流れている。

視覚として明確なものではない。それでも根と呼ぶほかないとわかった。あまりに濃い綾が、太く撚れ、地の奥へ沈み、またいくつもの細い筋となって外へ伸びている。絡みあいながらも濁らず、脈のように、息のように、静かに満ちていた。


「これが、風斎の綾根(あやね)だ」


父の声は、御根の座の冷たさの中で低く響いた。


「風斎領の綾は、ここから湧き、領へ渡る。山へ、川へ、里へ、屋敷へ。人が掬い、織り、戦場へ持ち出す綾も、もとはこの流れに連なる」


愛護は綾根を見つめた。

深すぎる水を覗いた時のように、底が見えない。光はある。灯の明かりがその縁を照らしている。けれど、その下から上がる気配があまりに濃く、目が受け止めきれない。


「識島の四家には、それぞれ御根の座がある。妻鳥には妻鳥の綾根があり、雪簇にも、月渓にも。中央の花宮は、神木の根として。それらは地の底で綾脈(りょうみゃく)となって結ばれている」

「綾脈……」

「根から根へ渡る大きな流れだ。血が身のうちをめぐるように、綾は識島の下をめぐる。風斎の根は風斎領のためにあり、同時に、識島の一部として他の根にも通じている」


愛護の頭の中に、識島の地図が浮かんだ。

北の妻鳥。南の月渓。その間にある花宮や雪簇。実際に見たことのある場所は少ない。けれど名は知っている。父の執務の間へ届く文、玄冬の口から出る地名、囁石に響く符牒。

遠いと思っていたそれらが、いま、足元の暗さの奥で繋がっている。


父は板の脇に手を置いたまま、愛護を見た。


「風斎の迷いは、その綾脈にも織り込まれている」


愛護は、床下の暗さを見つめた。


「害意ある者が綾根へ近づこうとする時、風斎の迷いが足取りを鈍らせる。御根の座へ至る道を掴ませぬようにする。――根へ踏み込まれれば、領の綾は底から揺らぐ」


父の指が、板に彫られた家紋をなぞる。

風のようにも渦のようにも見えるそれが、風斎の綾を表していると愛護も知っている。


「風斎の迷いは、他領の根へ向かう道にも薄くかかる。妻鳥の根へ近づく禍滲の足を鈍らせ、雪簇の根へ殺到する流れを迷わせ、月渓や花宮へ向かう道筋を曇らせる。もちろん、それだけで防ぎ切れると慢心はできない。各家には各家の守りがある。だが、風斎の迷いがあることで、敵は行くべき道を失う」


愛護は、朝の廊を思い出した。

害意を持つ者が奥へ踏み込んだ時、その者の奥へ向かう経路を成立させない綾。

あれは、屋敷の奥を守る小さな形だった。

ここにあるのは、その大きな形なのだ。


床下の黒い口から、冷たい流れが立つ。灯の光は明るい。けれど、そこに満ちるものは夜のようだった。夜であり、土であり、風であり、遠い戦場で抜かれる刃の気配でもあった。


「当主が代を継ぐ折には、ここへ自らの迷いを一筋入れる」


父は言った。


「前代の迷いを読み、己の迷いを重ねる。綾根を傷めず、綾脈の流れを妨げず、古い筋の役を損なわずにな。そうして風斎の迷いは厚くなる。お前もいずれ、ここへ一筋を加える」


いずれ。

その言葉は、いつも遠い日に置かれていた。

いずれ家を継ぐ。いずれ夫を迎える。いずれ父の座の先へ立つ。女房たちはそういう言葉をやわらかく包んで語った。母は微笑みながら、少しずつ愛護に支度をさせた。


けれど、御根の座で聞く「いずれ」は、やわらかな布に包まれていなかった。


愛護の手が、膝の上で小さく丸まる。朝の廊を思い出した。

ほつれた筋を正しいところへ結び直した時、自分の癖が古い流れの上に浮いていた。働きはした。流れも通った。けれど、古い廊へ完全に沈むまでには届かなかった。


朝凪が、上から古い癖を重ねて整えた。

ほんの数息で。


愛護は、もう一度床下を覗いた。暗さは深く、底の気配は動き続けている。

ここへ、あの程度の未熟な手で触れる日が来るのだろうか。

触れたなら、風斎の迷いはちゃんと綾脈へ渡るのだろうか。


役目の重さへの誇らしさはあった。胸の奥に、確かに灯った。

けれどその灯のまわりを、不安が水のように囲んでいる。

膝の上の手に、少し力が入った。


「父様」

「なんだ」


愛護は床下の綾根を見つめたまま、尋ねた。


「もし、この綾根から伸びる迷いの綾がなくなってしまったら、どうなるのですか」


父の手が、板の縁に置かれたまま止まった。

行燈の火がわずかに揺れる。愛護は父の顔を見た。その横顔に落ちる影が、少し濃くなる。


「御根の座の位置が、晒される」


父は言った。


「風斎の迷いは、根へ至る道を隠し、ずらし、踏ませぬためにある。それが消えれば、綾の濃さを辿れば簡単に綾根の場所は知れてしまう。無論、守るために兵は戦い、新たに迷いを周りに織る。だが、隠れているものを守るのと見つかったものを守るのとでは違う」


愛護の喉が、冷たくなる。


「もし、守り切れず綾根を潰されれば、領を満たす綾は底から抜ける。兵の手にある刃はほどけ、屋敷を守る迷いも消える。綾脈へ織り込んだ風斎の迷いが消えれば、他家の根へ向かう道も露わとなる」


言葉のひとつひとつが、石の床へ落ちる。

愛護は、床下の黒い口を見つめていた。

そこから伸びる見えぬ流れの先に、遠い家々がある。そこへ悪意の足が入り込む。根へ向かう道を、迷わず踏む。

想像の中で、地の底を走る綾脈が震えた。


「だからこそ、風斎はここをなんとしてでも守り切らねばならんのだ。綾根が奪われることは、領の――識島の存続に関わる」


その言葉は、御根の座の底へ深く沈んだ。

愛護は、返事をしようとした。けれど、声がうまく出なかった。膝の上の手を握る。指先が冷えている。夏の午後にいたはずなのに、寒くて仕方がなかった。


愛護の顔を見た父の顔つきが、ほんの少し変わった。

当主の重さの奥から、父の目がこちらへ出てくる。愛護が幼いころ、夜中に雷で目を覚まして泣いた時、障子の向こうから入ってきた顔と似ていた。


「今日ここで、お前ひとりへすべてを背負わせる話ではない」


父は声をやわらげた。


「風斎には兵がいる。臣がいる。朝凪のような若い者も育っている。皆、それぞれの場で綾を磨き、『門』へ備え、屋敷と領を守っている」


愛護は父を見上げた。

父の言葉は優しい。優しく、温かい。けれど、その温かさは、御根の座の冷気を消すほど軽やかなものではなかった。むしろ、温かい手で重いものを渡されているような心地がした。


「お前も励め。読む目を養い、織る手を磨け。風斎の迷いは、いつかお前の手も通っていく」

「……はい」


返事は、石の間に小さく響いた。


床板が戻された。風斎の紋がまた床の中央へ収まり、綾根の口が隠れる。

その瞬間、愛護には何か大きなものが床下へ沈み、自分を見上げているように感じられた。


父が壁際の灯をひとつ消す。炎が細く揺れ、闇へ吸われる。もうひとつ、またひとつ。明かりは奥から減っていき、床の紋も、黒い柱も、石壁の艶も、順に暗がりへ沈んだ。

最後の行燈が消える直前、紋の縁がわずかに浮かんで見えた。


暗がりの中で、ひどく寂しくつめたい場所だと愛護は思った。





扉の外へ出た瞬間、夏が戻ってきた。


蝉の声。庭の熱。遠くで水を打つ音。女房の衣擦れ。廊へ薄く漂う香。どれも先ほどまで当たり前にあったものなのに、愛護には少し眩しかった。


朝凪は、扉の脇にいた。

扉を守る位置で立ち、こちらへ向き直る。日差しは朝凪の肩の片側だけを照らし、もう片側を柱の影へ置いていた。

いつもの姿だった。奥向きで控えている時と同じ、余計な揺れのない立ち方。だが御根の座から戻った愛護には、そのいつも通りの輪郭がひどく鮮やかに見えた。

冷たい石段の底から、夏の廊へ戻った証のように。


そう思った次の瞬間には、朝凪の袖を握っていた。

薄い夏衣の布が指の中で寄る。朝凪は袖へ目を落とし、それから愛護の顔を見た。驚いた様子は大きく表へ出なかった。ただ視線の速さが、いつもよりわずかに早かった。


「姫様」


朝凪の声が降ってくる。


「いかがされましたか」


愛護は首を振った。


うまく言えなかった。怖かった、と言えば、父にも玄冬にも聞こえる。

御根の座が怖いと言えば、さっき父が見せてくれたものを粗末にするような気がした。けれど胸の奥はまだ冷えていて、綾根の深さがまぶたの裏に残っている。

だから代わりに、朝凪の袖を引いた。


「かがんで」


当主が、微妙な顔をした。何か言いかけたように口元を動かし、それから指で軽く顎を押さえる。玄冬は横目で朝凪と愛護の距離を見た。目だけで何かを測るような一瞬だった。廊の端にいた女房が、扇の角度をわずかに変える。


愛護は、そんな大人たちの動きに気づかなかった。


朝凪は一拍置き、愛護の声が届く高さまで身を低くする。近くなると、朝凪の気配はいつもよりはっきりした。

夏の廊に立っていた人の微かな熱。衣に移った木の香。綾を扱う者特有の、空気が薄く整うような感触。

御根の座で触れた濃い流れとは違う。けれどそれもまた、風斎の綾だった。

愛護は、朝凪の耳元へ口を寄せた。


「山のみたいな、すごい迷いの綾おしえて」


言った瞬間、胸の中にあったものが少し形を得た。


山の家。

道を知っている者でも辿り着けない場所。近くを通っても、そこへ心が向かない場所。

景色も、音も、足の向きも、人の思いつきすら、薄い綾の層の中でそっと逸らされる。朝凪が何年もかけて重ねてきた、あの緻密な迷い。

あの綾がどれほどすごいものなのか、愛護は昔よりわかっている。


朝の廊の古い綾。御根の座の綾根。風斎の迷い。そこへ織り込まれる役目。

どれも怖かった。大きすぎた。自分の結び目は、朝凪の指先で消えるほど青かった。


でも、あの綾を織れるようになれば。

兄を守るあの迷いを、自分も織れるようになれば。

御根の座の暗い底へ、いつか愛護も手を入れられるかもしれない。綾根から伸びる筋を守れるかもしれない。風斎の迷いを、ちゃんと綾脈へ渡せるかもしれない。


朝凪の睫毛が、わずかに伏せられた。

その動きの意味を、愛護は読めなかった。朝凪の顔には、困惑も喜びも浮かんでいない。ただ、耳を貸していた姿勢から体を起こすまでの間に、呼吸が一つ分だけ深くなった。


背後で父が咳払いをした。

乾いた、小さな音だった。庭の蝉の声に紛れそうで、けれど廊にいる者の耳には届く音。


朝凪はすぐに身を引いた。

礼を乱さぬ速さで、愛護との距離を元へ戻す。けれど袖は、まだ愛護の手の中にあった。朝凪はそこを無理に外さず、視線だけを低く伏せた。


「可能な範囲で」


答えは短く、いつもの固い声だった。けれど愛護は、それだけで少し安心した。


「うん」


声が、御根の座へ入る前よりも明るく出た。


父が何か言いかけたように息を吸い、庭の方へ目を向けた。

玄冬は扉へ手をかけ、ゆっくり閉じる。重い扉が音を立て、御根の座への道を隠した。その音は低く、廊の床へ沈んでいく。


愛護は扉を見た。

あの下に、冷たい石段がある。地下に沈んだ暗い室がある。風斎の紋を刻んだ板が蓋をする、その下に綾根が息をしている。そこから伸びる綾脈は、識島の地の底を渡っている。

怖さは胸に残っていた。暗がりの感触は、まだ指先の奥にある。


袖を離す気には、まだなれなかった。掴んだまま歩き出す。朝凪はそのまま半歩後ろへついた。

父が何か言いたげに愛護の手元を見たが、愛護は庭の方を向いていたので気づかない。玄冬の目が細くなり、すぐに廊の先へ戻る。女房たちは、夏の衣の裾を揃えて道を空けた。


庭では蝉が鳴いていた。

池の水が光り、青楓の影が畳の上まで届いている。どこかで打ち水をしたのだろう、熱い空気の下に湿った土の匂いが混じっていた。白い雲は少し厚くなり、午後の光の中で輪郭を溶かしている。


愛護は朝凪の袖を握ったまま、その夏の音を聞いた。


夏の光は眩しい。

緑は濃く、石は白く、簾の向こうで水の気配が細かく跳ねる。冷たく暗い御根の座は、もうまるで夢の底にあった場所のように遠い。けれど、床下から湧く綾の気配だけは、まだ胸の内に残っている。


蝉の声が、耳を打っていた。





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