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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
44/45

四方の春(六)――綾寧449年


山の家の座敷には、皐月の光が浅く満ちていた。


里の春はもう花の盛りを過ぎ、風の端に青葉の匂いが濃くなっている。けれど山の中では、季節が少し遅れて歩いてくる。

庭先の草はようやくやわらかく伸び、木々の若葉は日を受けるたび、薄い布を透かしたように明るんだ。障子を半ば開けておくと谷の方から湿りを含んだ風が入り、畳の目を撫で、置いてある本の端をかすかに揺らした。


朝凪はその座敷の端に座っていた。

正確には、いつでも立てる位置に膝を置いていた。山の家の内側であっても姫がいる時に完全に気は抜かない。湯の具合、戸の隙間、帰りの刻、衣の乱れ、そうしたものは考えなくとも目に入る。


一方その目の前で、愛護はたいへん気を抜いていた。

美菊の膝に上半身をほとんど預け、頬のあたりを薄い膝掛けに半ば埋めている。

裳着を済ませ、本家の座敷ではもう背筋を伸ばして座ることも、母の隣で文を読むことも、父の前で問われたことに答えることも覚えた姫である。

にもかかわらず今は、片方の袖が肘の上までずれ、捲れ上がった裾から伸びる足先は畳の上で力なく横へ流れていた。屋敷では決して許されない、女房が見れば悲鳴を上げるような姿である。

けれど美菊はそのだらしなさを少しも咎めない。むしろ愛護の頭が安定するように膝の向きをわずかに直し、片手で垂れてきた髪をそっと払っていた。

朝凪は黙って愛護の乱れた裾を直す。


「釣書が、毎日増えるの」


愛護が、畳へ沈むような声で言った。


「毎日、ですか」


美菊が真剣に繰り返す。朝凪は否定した。


「毎日ではございません」

「愛護には毎日みたいに思えるの」

「それは、大変ですね」


美菊の声音は真面目だった。愛護を慰めるべきか、菓子をすすめるべきか、話を聞くべきか、そのあたりを内心で一生懸命考えている顔をしている。

しかし、釣書については美菊自身に何の手がかりもないので困っている。

朝凪は湯呑を脇へ寄せながら、それを見ていた。


「家と、お名前と、年と、父様と母様と、ご兄弟と、どんなお勤めをしてるかと、綾は何が得意かと、武具は何を使うかと、手跡と、まわりの方の評判が書いてあるの」


愛護は指を一本ずつ折るように言った。


「大事なことなんだろうなっていうのは、愛護にもわかるの」

「はい」

「でもね」


愛護は、さらに美菊の膝へ顔を沈めた。


「眺めていると、だんだん眠くなってくるの」

「眠く」

「なるの」


愛護はきっぱり言った。


「だって、みんな同じにちゃんとしてるんだもん」


それは当然のことだった。

風斎本家の姫の前へ上げられる釣書である。家筋、年、綾の資質、本人の性質、近しい者の素行、将来の見込み。すでに当主と重臣たちの目を通り、奥方の座敷へ回された時点で、大きく外れる者は除かれている。紙の上に並ぶのは、まず風斎本家の婿候補として差し出しても差し支えない者たちばかりだった。

つまり、皆概してよくできている。

愛護の困惑はそこにあった。


「お会いしてもね、みんなよくできた方なの。ご挨拶もきちんとしてるし、愛護が困ってると待ってくれるし、無理に近づいてこないし、父様や母様のお話にもちゃんと答えるし、変なことも言わないの」

「よいことでは、ないのですか」


美菊が慎重に言う。


「よいことだよ」


愛護は即座に頷いた。


「よいことなの。だから、愛護もちゃんとお礼を言うの。よく来てくださいましたって。お話も聞くの。お庭の花のこととか、綾の稽古のこととか、近ごろ読んだ本のこととか。作法通りに、失礼のないようにするの」

「はい」

「そうするとね」


愛護は半ば恨めしそうに息を吐いた。


「やっぱりみんな、おんなじ『よくできた人』になっちゃうの」


美菊は、そこで本格的に困った顔をした。

分かるような、分からないような、という顔である。

美菊にとって、人と会い、比べ、選ぶということそのものが遠い。知る人間の数が少ない。朝凪とその両親、愛護、あとは玄冬を知っていると言うべきかどうかという程度で、その狭さの中で十数年を生きてきた。

人の家筋や勤めや評判を眺めて伴侶の候補を選ぶなど、美菊の暮らしの外側にある。

それでも愛護が困っていることだけは分かるので、美菊は真剣に考え、考えるほどに首が少しずつ傾いていった。


朝凪はそれを横目に見ながら愛護の袖口を直した。帰る前に癖がつくと面倒だ。

愛護はされるままになっている。屋敷ではもうこんな世話を焼かれるようなことはしないが、ここではすぐに気がゆるむ。


「それでね」

「はい」

「いっそのこと、お顔で選んじゃおうかなって思ったの」


美菊は不思議そうに愛護を見下ろした。


「お顔で」

「うん。一生一緒にいるなら、好きなお顔の人のほうが嬉しいかなって」


それは、実のところまったく理のない話でもなかった。


四大武家の者はおおむね美しい。家格が高く、血筋が濃いほどその傾向は強い。

もちろん資質や政治上の釣り合いこそが婚姻の軸ではあるが、それでも、美しさが選ばれる理由の一つになってきた歴史は確かにある。

見目のよい者は、人の目を惹く。信を得やすく、場を従わせやすい。恐れや敬いは時に容姿へも宿る。

武家の長に近い者ほど、ただ強ければよいわけではない。

人前に立つ姿そのものが、家の威であり、武の形であり、領民が膝をつく理由の一端になる。

愛護がどこまでそれを分かっているかは怪しいが、少なくとも顔で選ぶという考えそのものは、世の中のありようから大きく外れてはいなかった。


「でもね……」


愛護はそこで言葉を切った。

それから、ゆっくりと顔を動かし、美菊を見上げた。

見上げられた美菊は、愛護の髪に置いていた手を止める。


「はい」


愛護はじっと見た。

美菊の顔を。


五月の光は、障子越しに入ると白くやわらかい。

その中で美菊は、いつもの薄い色の衣を着て、膝の上に妹を乗せている。何かを飾ろうとしているわけでも、見られるために座っているわけでもない。ただそこにいて、少し困って、愛護の話を聞いている。

愛護はそれを長く見た。

そして、深くため息をついた。


「愛護、目が肥えちゃったの……」

「……?」


美菊は本当に分からない顔をしているが、朝凪はすぐに分かった。

愛護は婿候補の顔を、美菊と比べているのである。


無駄にもほどがあった。そもそも美菊の容貌は、比較の物差しにしてよい種類のものではない。人の中で整っているという範囲を、ところどころ踏み外している。早々見るものではない美貌が日常の中にあったばかりに、年頃の姫の判断基準がおかしなことになっている。

しかも愛護にとって、それが兄である。

どうにも始末が悪く、候補者にとって理不尽な比較だ。


愛護は半目になり、今度は朝凪を見た。


「朝凪って」

「はい」

「毎日あにさまが家にいて、毎日見惚れないの?」

「はい?」


思わず礼の剥がれた声が出た。

美菊も、なぜかびくりとした。

愛護は真剣だった。


「愛護だったら、毎日びっくりして、毎日見惚れちゃうんだけど」


朝凪は、美菊を見た。

美菊は固まっていた。何を言われたのか理解しようとしているが、理解したところでどうすればよいのか分からない、という顔である。少し口が開き、驚いた猫のような間の抜けた顔だった。そして間が抜けていようが美しかった。本物である。

だが、朝凪にとってはこれは十八年以上生活の中にある顔だった。

くちゃくちゃになって泣いてた赤子の顔も、口の周りを汚して飯を食う幼児の頃も、風邪をひいて鼻水を垂らしていた顔も知っている。

歳を追うにつれたしかに顔立ちが異様に整っていくことは分かったが、それより先に、具合が悪くないか、何か思いつめていないか、眠れているか、といった目で見るものであり、美しい顔である前に美菊の顔だった。

端的に言えば、見慣れている。


「姫様のお部屋に、淡紅の打掛がございますね」


唐突な朝凪の言葉に、愛護は目を瞬いた。


「母様が選んでくれた、花の刺繍の?」

「はい。あれはたいへん見事なものです。初めてご覧になった時、姫様も長く眺めておいででした」

「うん。すごくきれいだもん」

「ですが、毎日お部屋にあれば、毎日同じだけ驚くわけではございません。それと同じです」

「あー……」


納得したような声で唸る愛護を膝に、美菊は呆然としたまま、ようやく声を出した。


「えっ」


朝凪は、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「ただ」


愛護がすぐに反応する。


「ただ?」

「数日屋敷に詰めて戻った時などは、多少感じ入ることはあります」

「えっ」


また美菊から声が漏れた。


「あっ、それはそうなるんだ」


愛護が無防備に身を起こしかけたので、朝凪は裾を押さえながら頷く。


「なるでしょう」

「なるよねえ」


二人は深く頷いた。


「……えっ……」


美菊はもはや、それしか言えなくなっていた。

何に驚けばよいのか追いついていないのだろう。打掛に例えられたことか。数日ぶりに見ると感動されているらしいことか。愛護が当然のように同意していることか。その全部か。

愛護はそんな美菊の膝の上に、またころりと寝転がった。


「……やっぱり、お顔で選ぶのも難しそうかも」

「それは、よろしいご判断かと存じます」


朝凪は即座に言った。

愛護はむう、と唇を尖らせる。


「でもね」

「はい」

「今のところ、愛護を膝に乗せてかわいがってお菓子をくれそうな人もいないの」


朝凪は黙った。

美菊も黙った。

当然だった。

風斎本家の姫と顔を合わせる席でそのような振る舞いをする者がいたら、まず候補から外れる。

膝に乗せるどころか、距離を詰めすぎるだけで礼を欠く。菓子を勧めるにしても、奥方や女房の目のある中で作法を崩さぬ範囲でするものだ。


「姫様」


朝凪は声をかけた。


「候補の方々は、姫様を軽んじぬよう、慎んでおいでなのです」

「うん」


愛護は素直に頷いた。


「それはわかるの。でも、慎まれると、遠いんだもん」


その言い方が妙に的確だったので、朝凪は少しだけ返事に詰まった。

愛護は美菊の膝掛けの端を指でつまんだ。布目をなぞる。


「そもそも」


愛護の声が、少し低くなった。


「お婿さんになるかもしれない人たちって、愛護でいいのかな」


美菊の手が、愛護の髪の上で止まった。

朝凪は顔を上げる。


「姫様」

「だって、愛護にも好きなお顔とか、話しやすい方とか、そういうのがあるでしょう。だったら、あちらにもあるはずだよ」


愛護は、美菊の膝の上から天井の方を見ていた。


「本当は、もっと大人っぽい方が好きかもしれない。もっとおしとやかな方が好きかもしれない。綾が上手な方がいいかもしれないし、静かな方がいいかもしれないし、たくさん笑う方がいいかもしれない」


山の家の座敷を、風が通った。

庭先の若葉が揺れ、障子の影が畳の上で細かく震える。遠くで鳥が鳴いた。その声は、屋敷で聞くものよりずっと近い。


「でも、愛護が本家の嫡女だから、その家が、お婿に行きなさいって言うんでしょう」


美菊はすぐには答えなかった。

朝凪も、答えるべき言葉を選んだ。

その通りだった。武家に生まれた者の婚姻は、本人だけのものではない。家のため、血のため、綾のため、領のために結ばれる。

愛護自身も、それを理解し始めている。理解しているからこそ、ただの不満では済まなくなっているのだろう。


「姫様がそのようにお考えになることは、悪いことではございません」


愛護が目だけをこちらへ向ける。


「そう?」

「はい。相手にも意思があるとお考えになるのは、大事なことです」

「でも、言っても仕方ないことでもあるでしょう」


その言葉は、思ったより大人びていた。

朝凪は返せなかった。

美菊が、ゆっくり愛護の髪を撫でた。薄い赤の髪が指の下で光を受ける。


「ひめさまは」


美菊は静かに言った。


「おいやですか」


愛護は少し黙った。


「いや、ではないの」


正直な声だった。


「いつかそうなるって、知ってたし。父様も母様も、愛護が困らないようにしてくださってるのも分かるし。候補の方たちだって、悪い方じゃないの。たぶん、いい方たちなの」

「はい」

「でも、なんだか、気が重いの」

「はい」


美菊はそれ以上、無理に言葉を足さなかった。

朝凪は胸の内側で小さく息を置いた。

屋敷の奥では、この程度の愚痴も慎重に形を整えなければならない。奥方は母として、いずれ選ばねばならないと教える。女房たちは慰めるだろうが、同時に姫らしくあれと促す。当主は、おそらく渋い顔をする。

ここでだけ愛護はだらしなく寝そべり、兄の膝で素直に気が重いと言える。

それでよいのだろう、と朝凪は思った。


「ねー」


しばらくの沈黙ののち、愛護の声が急に軽くなった。

だいたい余計な思い付きをした時の声である。朝凪は嫌な予感がした。


「朝凪って、どんな人がすき?」


美菊が瞬きをした。

朝凪はあからさまに面倒な顔をしそうになり、寸前で側付きの顔に戻した。完全には戻らなかったかもしれない。愛護が半目で見ている。


「朝凪、今、面倒そうな顔した」

「しておりません」

「じゃあどんな人?」


声に他意はなさそうだった。

男はどういう女を好むのかという単純な疑問。加えて、女の影のないこの側付きにもそういうものがあるのだろうかという興味本位である。


朝凪は短く考えた。

実際のところ、好みがないわけではない。

だが、愛護が求めているような意味でそれを答える気はなかった。十四になったばかりの、縁談の不安と期待のあいだで揺れている姫に聞かせるには生々しすぎる。側付きとして口にしてよい範囲を越えている。


「約束を守る方です」


愛護は顔をしかめた。


「……つまんない」

「人として大事なことです」

「そうだけど、そういうことじゃないもん」

「私から申し上げられることはこの他にございません」


愛護はむっとしたが、すぐ次へ目を向けた。


「じゃあ、あにさまは?」

「えっ」


美菊はまた固まった。

今日だけで何度目だろう、と朝凪は思う。美菊の語彙が、えっ、に収束している。

愛護は膝の上で体を少し動かし、兄を見上げた。


「あにさまは、どんな人がすき?」

「えっ……」

「えっ、じゃなくて」

「ええと」


美菊が朝凪を見た。

明らかに助けを求めている。

朝凪は黙って首を振った。

女のこういう話は、正面から理を尽くして逃げようとすると長くなる。奥向きに長く仕える朝凪はそれを嫌というほど知っていた。

深刻な相談なら別だが、今の愛護は少し気分を変えたいだけである。適当にでも答えた方が早い。

美菊は朝凪の視線を受け取り、さらに困った顔をした。


そもそも美菊には好悪を考える材料がない。彼にとって、他者は数えられるほどしかいないのだ。

その中でどんな人が好きかと問われても、困るに決まっている。

朝凪もそれをわかってはいるが、代わりにそう答えてやったところで、ではあれはこれはと深堀りされて余計に面倒なことになると思い静観を決め込んだ。


期待を込めて待っている愛護に、美菊は長考の末、答えを絞り出した。


「…………ひめさまみたいな方と一緒にいられたら、毎日とても楽しいと思います」


ついでに微笑んだ。明らかに自分の答えに自信がないゆえの愛想笑いだと朝凪はわかったが、わかって見てなお大層美しい笑みだった。

愛護の顔がぱっと明るくなる。

頬に赤みが差し、目が輝く。先ほどまで釣書の山に押しつぶされていた姫はどこへ行ったのかと思うほど、分かりやすく機嫌が持ち直した。


「え~??」


愛護は美菊の膝の上で身をよじった。


「そお? そおかな??」

「はい」


美菊は真面目に頷く。


「ひめさまは、いろいろなことを話してくださいますから」

「うふふ」


愛護は満更でもないどころか大変ご満悦の様子で朝凪を見た。


「朝凪、聞いた?」

「聞いております」

「愛護みたいな方がいいんだって」

「ようございました」

「もっと嬉しそうに言って」

「たいへん、ようございました」


愛護は笑った。

美菊もつられるように、今度は愛想ではなく微笑んだ。


朝凪はそれを眺め、顔が美しいとは得なものだ、と感心する。

美菊の答えは、よく考えれば質問に正確に答えているのか怪しい。好みというより、愛護といると楽しいという事実を述べただけだ。同じことを自分が言えば、おそらく愛護はもっと追及しただろう。何がどう楽しいのか、どういう意味なのか、と話は枝を増やす。

だが美菊がやわらかく微笑んでそう言うと、その雰囲気で言葉に勝手に重みが足され、なんだかとても大事な芯のように聞こえ、勝手に感動を呼び、些事が有耶無耶になる。見事なものだった。やはり姫が伴侶を顔で選ぶのも良いのでは、と頭によぎるほどには。


急にのんきになった空気の中、朝凪は湯呑を取り冷めかけた茶を注ぎ直した。


「姫様」

「なあに」

「そろそろ、お姿を整えてください。お戻りの刻を過ぎます」

「……あと少しだけ」


愛護は美菊の膝に頬を寄せたまま言う。

朝凪は短く息を置いた。


「菓子ひとつ分です」


美菊は机の上の皿を見た。小さく切られた今日の菓子がまだひとつだけ残っている。

愛護はのっそり起き上がり、それを丁寧に半分に割った。


「あにさま、半分こ」

「ひめさまが」

「半分こ」

「……はい」


美菊は笑って受け取った。

二人が菓子を分けるのを、朝凪は黙って見ていた。

菓子一つ分の猶予なら戻せる。裾も髪も整えられる。屋敷へ帰る頃には、姫は少し山で遊び、少し疲れ、けれど機嫌よく戻ったのだと見えるだろう。


障子の外で、若葉が鳴った。

春は、もう終わりに近い。

けれど山では、その終わりもやわらかかった。花の甘さは薄れ、かわりに青葉の匂いが濃くなる。風は少しだけ軽く、庭先の草は日を受けてまぶしく、遠くの谷では水音が涼しく続いている。

午後は、初夏の気配を含んだまま穏やかに過ぎていった。




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