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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
43/45

四方の春(五)――綾寧449年

四座殿(しざでん)は、花宮の中央に立っている。


卯月の下旬、春の盛りの光を受けた塔は、石よりも淡く花よりも硬い白をしていた。空は高く晴れ、水路の面には雲の影が薄く流れている。橋の欄干には藤の名残が垂れ、白砂の道には馬蹄のあとが浅くついていた。


塔の肌には識島の神木の枝葉が這っている。銀にも見える幹が白い壁を抱き、枝は高みで四方へ伸びていた。不思議と季節ごとに違う花をつける木で、今は薄紅と白が混じり、こぼれるように咲き誇っていた。

その四方には各家の紋が掲げられ、風が通るたびに花弁をふくみひるがえる。


四座殿は、四家が国を動かすための殿である。

門への備え、領境を越える兵の動き、識島全土の政、四家の利害が絡む議。いずれか一家の座敷では決められぬものが、この白い塔へ上がる。

花宮に世襲の当主はいない。四家から遣わされた者たちが、それぞれの家名を背に座る。


都は明るく、穏やかだった。

妻鳥の北の硬さも、月渓の南の強い陽も、風斎の山気も、雪簇の水の冷えも、ここでは角を落として混じる。

国土の中央に置かれた特区らしく、道は整い、人の出入りは多く、けれど本領の城下とは違う張りつめ方をしている。ここでは日々、誰かが文を運び、誰かが馬を替え、誰かが塔へ上がる。


その四座殿を囲むように四家の屋敷が置かれている。

地図の上で見れば近いと言えるが、実際隣の戸を叩きに行くような距離ではなく、町をひとつ渡る感覚に近い。

同じ都のうちに置かれてはいても、屋敷と屋敷の間には町筋が入り、橋が入り、役所の棟が挟まる。

武家の者ならばふつうは馬で往来する。用向きを携えて歩いていては不都合を感じる程度の距離である。


雪簇屋敷は、そのうち南寄りの一区画にあった。

本領の本家屋敷ほど大きくはない。だが、花宮における雪簇の座としては十分な広さを備えている。

表には詰所、書庫、執務の間。客を迎える座敷もあり、奥には生活の場がある。

白く塗られた壁の角には雪簇の紋が入っていた。六花を思わせる細い線と節点が、陽の下でも冷たく見える。


(りつ)は、馬を厩へ預ける足音を背に聞きながら、表の廊へ上がった。

門番が頭を下げる。廊に控えていた小者が道を空ける。書役のひとりは、律の姿を認めるなり、抱えていた文箱を持ち直した。

その動きは、ただの近侍へ向けるものではなかった。


雪簇律は、雪簇本領で長く仕える重臣家の次男である。雪簇宗主家の末子が奥方の腹にいる頃からその側に侍る者として定められ、その役目は少しずつ求められるものを変えながら現在も続いている。

護衛、補佐、取次、御影役――今や彼の肩に乗る名は多岐に渡る。

仕えた子がただの本家の末子ではなく、『天眼』であったからだ。

律は盲いた子の手を引くためだけにいるのではない。『天眼』、雪簇(そよぎ)が識島の目として座り続けるために、文を選り、人を動かし、余計なものを退け、必要なものだけを主の前へ届かせる。

そのために雪簇は彼へ大きな裁量を与えていた。


花宮の雪簇屋敷で、律の言葉は軽くない。

梵とその奥方を除けば、この屋敷で律の判断を遮れる者はほとんどいなかった。

兵の配置も、文の流れも、客の取次も、梵を表に置くか奥へ下げるかも、律が必要と見ればそこで決まる。

権を振りかざす男ではない。だが、振りかざさずとも通るだけの権を持っていた。


表に詰めていた書役が文箱を抱えて足早にやってくる。律が足を緩めるより早く箱の蓋を開き、上に置かれた三通を示した。


「四座殿より戻りました文、三通にございます」


律は目を落とし、歩みを止めないまま指示を出す。


「風斎の定例文は控えへ写してから詰所へ。二通目は封を切るな、『天眼』様へ直に上げる。月渓の補修願は地図を添えよ。春先に引き直した水路図だ」


書役が頭を下げ、すぐに下がる。

廊の先、執務の間にはもう人の気配があった。筆の音。紙を捲る音。小さく墨を擦る音。どれも余分な大きさを持たない。雪簇の執務は、よく冷えた水のように静かに進む。


その中心に、梵が座している。

長い前髪に陰る目が淡く机上へ落ちていた。

雪簇梵――花宮に置かれた『天眼』であり、雪簇宗主の四男である。


梵の肩には、綾で形作られた小鳥が一羽とまっている。

それは命ではなく、自我もない。けれど梵の意志によって動くように作られていた。梵が日々を歩き、文字を読み、人の顔を知るための、彼の両の目として置くものだった。

小鳥が首を傾けるたび、梵の目もほんのわずかにそちらへ沿う。誰かが言葉を発すれば、小鳥の黒い瞳がそちらを向き、梵の顔も遅れずに上がる。知らぬ者が見れば、梵自身が相手を見ているように思うだろう。

白い羽の輪郭は光の糸を重ねたようにかすかに透けていた。羽毛の細かさも、足の爪も、くちばしの光り方も、本物と変わらない。

この鳥と同じものが、識島全土に放たれていた。『天眼』の監視の『目』となるそれらは、綾の筋で定められた巡回路を日夜飛び続け、識島の異状を『天眼』へと報せる。

それらは全て律が織り、梵に与えたものである。


「これは、雪簇だけで決めていいものじゃないね」


声は穏やかだった。柔らかく、少し眠たげにすら聞こえる。


「四座殿へ戻して。妻鳥と月渓の印がいる」

「承知いたしました」


書役が控えを取る。別の者が箱を寄せる。

律は梵の左に積まれた束から二通を抜き、自分の側へ移した。普請方への返しと、月渓からの礼状。梵の印を置く文ではなかった。梵の肩の鳥は、その動きを追ってから、書役が差し出した次の文へ目を落とす。

梵の手は迷わず動く。筆を入れる位置、印を置く向き、返すべき文言。どれも正確だった。文官たちは梵の言葉を拾い、筆を走らせる。律はその横で、机と人の流れを見ていた。


火鉢の位置。障子の開き。香の強さ。

部屋の状態は悪くない。

けれど梵の顔色は白かった。

唇の色が浅い。筆を置く音は変わらないが、文から文へ鳥の首が移るたび、梵の呼吸だけがほんのわずか遅れた。広すぎる視界の流れが、今日は体へ重く触れている。

律は梵の前に残る文を見た。梵の印で裁可が要るものはあと一通。ほかは律の裁量の内だ。


梵はその一通へ墨を入れた。

その筆先が紙の上で止まり、肩の鳥がふと顔を上げた。


律は視線を上げた。

部屋の音が、ひとつ薄くなる。

筆はまだ走っている。紙も捲られている。だが、ここにいる者はみな、梵の手が止まる意味を知っていた。

梵は目の前の文から指を離し、わずかに顔を伏せる。


「風斎領」


その一語で、律はすでに胸元へ手を入れていた。

梵は続ける。


「北中筋。山陰の水路脇。三つ目の尾根から東へ落ちる細い道。綾が裂けた。小さい。開く」


地図板を引き寄せ、北中筋の位置へ指を置く。指先は迷わない。共通符牒の板を重ね、山陰の水路の位置を取る。文鎮をずらし、控えを書いていた書役へ目線だけで合図する。筆が走る。

梵の見た景色の名を四家共通の符牒へ置き換える。

律は、胸元に留めた発信用の囁石を押さえた。装飾のように細かく掘られた溝に綾がはしる。


「≪『開門』。風斎領、白、ハの三。東五。規模、小≫」


明瞭な発声は大きくはない。必要なのは、揺らがぬ言葉と誤らぬ符牒である。

書役のひとりが即座に時刻を書き留める。別の者が、風斎詰所への控えを作る。部屋の中に乱れはなかった。


梵はしばらく伏せていた顔を上げた。

肩の小鳥が、もう一度文机の上へ視線を戻す。

顔色が、さきほどよりさらに薄い。

律は文箱の蓋を閉めた。


「本日の裁可はここまでにいたします」


梵が眉を寄せる。


「まだ残ってるよ」

「私の預かりで処理できます。宗主家からの返書のみ、夕刻にお目通しください」

「律」

「梵様」


律は静かに名を呼んだ。


「奥へお下がりください。四座殿への定例控え、東筋の巡回割、雪簇詰所の人員入れ替え、いずれも私の裁量内です。梵様がここで筆を持たねばならぬものは、もうございません」


梵は口を開きかけ、だが、言い返すだけの理がないことも分かっていたのだろう。

短く息を吐き、文から手を引いた。


「……わかった」


律はすぐに書役らへ指示を落とした。

四座殿へは写しを二部。風斎側への控えは報せの時刻を添える。北中筋の過去三月分の異状記録を抜く。東筋の巡回割は後ほど調整。

どれも短い言葉だが、受け取った者は迷わず動いた。

机の上から紙が引かれ、墨が下げられる。印箱の蓋が閉じる。

未裁の文は律の机へ移り、梵の前の紙山はきれいに消えていった。


梵の指が置かれた筆の柄を一度撫でる。

袖口が整えられ、肩の鳥が机上を小さく見渡した。鳥の首が律へ返る。

律が右へ立つと、梵は静かに腰を上げた。


「奥へお送りします」

「うん」


襖が閉じると、執務室の音は一枚向こうへ遠ざかった。


廊には、表の間とは違う冷えがあった。

人の行き来が絶えぬ表の板は足裏に薄い熱を持つ。墨と紙と、人が動かした空気の名残がある。けれど奥へ向かう廊は、磨かれた木の肌に庭の湿りだけを映していた。

障子の下から射す春の光が細く長く伸びている。白い壁に雪簇の六花が淡く浮かび、風が渡るたび庭木の影がその節をほどくように揺れた。


律は、梵の肩へ手を伸ばした。


「目を」


梵の肩の小鳥が、律を見上げる。

黒い瞳は小さく濡れた珠のようで、そこに律の指が映った。白い羽を一度だけふくらませ、掌へ移る。


律は小鳥を両手の中へ収めた。

羽を潰さぬよう、光をこぼさぬよう、掌の内側に小さな夜を作る。

親指の腹が小鳥の頭を隠し、人差し指が胸の前を覆った。白い輪郭が律の手の中で淡く滲む。

黒い硝子玉のような目が最後に廊の光を一度だけ拾い、それから静かに閉じた。


同じ拍で、梵の目蓋も落ちる。

光を拾わぬ目だ。開いていても閉じていても、梵自身の目に訪れる闇の厚さは変わらない。

そして鳥が見ている限り、梵の中には形が流れ込む。

識島の空には今も無数の鳥が飛んでいる。山の端を、川沿いを、町屋の屋根を、門の裂けやすい谷筋を、綾の濃くたまる水辺を。風斎領の北中筋でも、さきほど報せた裂け目の上を鳥が巡り、それらは途切れず梵へ届き続けている。

律の手の中で閉じたのは、たったひとつの目に過ぎない。

それでも、梵の肩がわずかに下りた。

張りつめていた糸が一本、指先で弛められたようだった。袖の内で強ばっていた手が呼吸の端に合わせてゆるむ。

白い顔に血が戻るほどではない。けれど、目を閉じた鳥を律の手が覆っている間だけ、梵の輪郭は少し人のそばへ戻った。


律は鳥を包んだまま、左腕を差し出した。

梵の手が探すように宙へ出る。指が袖越しに触れ、手首の内側を確かめるように添えられる。二人は奥へ向かって歩き出した。


執務の間に近いあたりは人の手の気配が薄く残る。磨かれた板敷には昼の光がまっすぐ差し、柱の影も硬い。

だがじきに廊の幅はわずかに狭まり、障子の向こうの庭も整えられた白砂から苔と低い植え込みの多い奥庭へ変わる。

水路の音は遠くなり、かわりに竹の葉が触れ合う乾いた音が耳へ近づいた。


廊の板が足の下で小さく鳴る。庭の竹葉がひと擦れし、どこか遠くで水が落ちた。

梵の目は閉じられたまま、歩みは乱れない。律の腕に添えた手が、わずかな曲がり角も、敷居の前の一拍も、先に知る。

それは長い年月の形だった。


「律の手は静かだね」


梵の声は、廊の木目へ落ちるように小さかった。

律の指が袖の内で一度折れた。掌の中の小鳥を潰さぬよう咄嗟に力を抜く。梵の手が滑らぬよう、腕も揺らさない。

返す言葉の代わりに、律は歩幅を半分だけ落とした。


静かな手。

梵は昔から、時折そう言う。


幼い梵のまわりにあったものは、静けさから最も遠かった。


光を持たぬ目の奥へ、識島中の景色が流れ込んでいた。

人の目。鳥の目。獣の目。水辺の虫の、ひどく低いところを這う視界。空高く舞う鳶の、山を丸ごと掴むような視界。夜の草むらで開く小さな目。屋根裏で瞬く鼠の目。人の顔、土、火、血、井戸の水面、魚の鱗、風に揺れる葉裏。

目蓋の裏へ閉じ込める間もなく、それらは入れ替わり、重なり、梵の小さな頭の中を押し流した。

夜も、昼も、眠りの中でさえ体の奥から押し出されるように泣いた。泣く声が枯れれば吐いた。吐くものがなくなっても、喉をひくつかせて、見えない何かから逃れようとした。抱き上げても収まらない。薬湯を含ませても変わらない。


雪簇の本家は、光を持たぬ目で伏せるばかりの梵を、それでも決して粗末にはしなかった。

『天眼』という天宿りは、古い記録の端にわずかながら名があったからだ。

見えぬ目の代わりに、識島のあらゆるものの目を借りる力。生まれながら光を持たぬ子へ宿る、国の目となり得る天命。

だから床から起き上がれぬ四男を、出来損ないとして退ける者は表立ってはいなかった。


けれど、記録は現実を突きつけるものでもあった。


過去の『天眼』は、誰ひとり十の歳を越えなかった。

書付の端には必ず、錯乱、発狂、衰弱、夭折の文字が並んでいた。力を振るった名はひとつとしてない。残っているのは、潰れた子らの歳と、葬られた季節だけだった。

苦痛を鎮める煎じ薬は喉を通っても視界の奔流を弱めなかった。雪簇の綾で部屋を留めても閉じるべきものは閉じなかった。守りの結界は外から入る刃を遮ることはできても、梵の内側で開き続ける目には意味を持たなかった。


宗主も、奥方も、兄たちも、何かができる手を持っている人々だった。家を動かし、兵を立たせ、土地を留め、『門』を塞ぐ者たちだった。

その手が、梵の寝所では布団の端を握るばかりになる。


律を梵の側へ置く話も、そのころ一度薄くなった。

本家の子として立てぬかもしれない。人前へ出ることも、作法を覚えることも、家の名を背負うことも難しいかもしれない。そんな目が、大人たちの間を行き来した。

重臣家の息子を側へ置く意味を、誰もが紙の上で量り直していた。


八つだった律は、部屋の端で梵を見ていた。

小さな手が畳を掻く。

翠の目は開いているのに、誰の顔にも留まらない。目の前にいる母も、兄も、医師も、律も、梵の中へ届かなかった。

届かないまま、梵はどこか遠い無数の景色に引き裂かれていた。


――死なせてやれたなら。


その考えは、雪の欠片のように律の胸へ落ちた。

冷たく、鋭く、あまりにも静かだった。


この苦しみが生の名で呼ばれるのなら、終わらせてやる方が慈悲に近いのではないか。


そう思った自分を、律は一度も許していない。

けれどあの頃の梵を見て、そう思わずにいられる者がどれほどいたのか。

生きているという一事が、幼い梵を朝から夜へ、夜から朝へ、苦しみの中へ運び続けていた。


幼い律は、その考えの醜さも分からぬまま、布団の上で折れそうなほど握りしめられている梵の指を見ていた。

生きていてほしいと願うことは、こちら側の勝手なのではないか。

この世へつなぎ留めることは、苦しみを長引かせる縄でしかないのではないか。

誰にも言わなかった。言えるはずもなかった。けれど律は、たしかにそれを抱えたまま梵の枕元に座っていた。



ある春の終わりだった。


梵はその日、縁近くの褥に寝かされていた。疲れ切り、泣く力も失くし、薄く開いた目は何も結んでいなかった。

庭では前夜の雨を受けた花が枝を重くしていた。白に近い淡い紫の花で、雪簇本領の春にはよく咲く。

朝の光が花弁の端に溜まった雫を透かし、そこへ一羽の鳥が降りた。

濡れた枝が揺れ、雫が落ちる。鳥は首を傾げ、花を見た。


その時、梵の唇が動いた。


「きれい」


かすれた声だった。けれどその声には、苦痛ではないものが混じっていた。

梵の頬は青白く、息も細い。次の瞬間にはまた別の目に攫われ、眉を寄せて小さく呻いた。

それでも、その一語は律の胸に残った。


梵にとってこの世のすべてが苦しみではなかった。痛みしか入らない身体ではなく、辛いだけの生ではなかった。

梵の中には、花をきれいだと思える場所がまだ残っている。


――ならば、死は救いではない。


律はその日から梵のための綾を織った。

識島中の目へ散る力を、散るままにしない。すべてを閉じられないのなら、見る先を決める。流れ込むものへ節を打つ。名のない奔流を、形ある器へ入れる。

綾を凝らし、留め、繋ぐ。

それは雪簇の子どもが最初に教わる、あたりまえのことだった。


律は小さな鳥を織った。羽の左右は何度も歪み、足は細すぎて崩れ、くちばしは硬くなりすぎた。

けれど律は織り続けた。生き物の目へ勝手に引かれていく力を、一羽のかたちへ留めるために。どこへでも開いてしまう目に、帰る場所を与えるために。


ようやく織り上がった最初の小鳥は、いまのものより少し小さかった。

律はそれを両手に乗せ、梵の褥のそばへ膝をつく。

梵はその日もどこか遠くの景色に攫われていた。翠の目は開いているのに、寝所の柱も、灯も、律の顔も映していない。


律は、小鳥を差し出した。


「梵様」


返事はなかった。

小鳥の黒い目に、律は自分の綾を通した。


「ここを、見てください」


散るものを、ここへ。流れるものを、ここへ。閉じられない目を、この目へ。


長い一呼吸のあと。

梵の目が、初めて、律を見た。


虚ろに開いていた翠の目が焦点を持つ。小鳥の黒い目を通り、律の顔へ届く。

律はその瞬間、自分の胸に何が起きたのか分からなかった。ただ、雪の下で凍っていた水が割れるように、何かが取り返しのつかない音を立てた。


「……りつ?」


掠れた声だった。

律は喉を詰まらせた。返事をしなければならない。主に呼ばれたのだから。重臣家の子として、侍る者として、正しく返さなければならない。


「っ、はい」

「ここに、いるの」

「――はい」


小さな手だった。熱く、細く、力の入れ方も知らない指が律の袖を掴む。次の瞬間、梵は褥の上から身を起こし、律に抱きついた。乳母が息を呑む気配がした。奥方が袖で口元を覆う音がした。

律は小鳥を潰さぬよう片手で守り、もう片方の腕をどうしてよいか分からぬまま梵の背へ回した。骨ばった、あまりに薄い体だった。


「りつ、」


細い腕が律の首へ回った。熱の残る頬が肩に押しつけられる。

喉の奥で薄く息を震わせ、そのまま、梵は初めて静かに眠った。

泣き尽くして意識を落とすのではなく、薬に沈むのでもなく、身体が眠りを受け入れる形で。

梵の指は律の襟を掴んだままだった。

腕の中の重みは軽く、しかし律の生涯をその場へ縫い留めるには十分だった。


その日以降、律は梵のものとして正式に置かれた。



鳥は、はじめ一羽だけだった。


梵の両の目として、その一羽だけを開く。ほかの目は、できるかぎり閉じる。

体調の悪い日は遠い視界が散り、梵の額にはすぐ汗が浮いた。それでも、多くの日は一つの目で庭を見、父の背を見、母の袖を見、兄の手を見、律の顔を見た。

粥を吐かずに飲める日が増え、夜の眠りが長くなり、笑う時には小鳥が先に首を傾げるようになった。

その形のまま生きられたなら、梵は雪簇本家の奥で、細い灯のように守られて育ったかもしれない。


けれど識島には『門』が開いた。


散った目は、遠くで傷つく民を拾った。綾の乱れを見た。化物の前で構える武家の背を見た。間に合わず、家が崩れるところも見た。火の手に逃げる足。泥の上に落ちた手。閉じた目。

小さな梵は、そのひとつひとつを見てしまった。


五つになった梵は、ある日、鳥を増やすことを望んだ。


「この目があれば、ひらくまえにみつけられるでしょう」


幼い声は、拙くも穏やかだった。

それは命を削る道へ再度踏み込むことと同じであった。

梵の母は袖を握り、父は長く目を閉じ、兄たちは膝の上に置いた拳をほどかなかった。

止めたいと願う手はいくつもあった。抱きしめて、奥の部屋へ戻し、白い鳥一羽だけの世界へ閉じ込めたい者ばかりだった。


けれど雪簇家は武家だった。

家も、身分も、権力も、梵のために医師を置き薬を買ってきた金も、国のために生き国のために死ぬからこそ与えられているものだった。

『門』が開き、民が死に、国土が踏み躙られる時代に、使える目を閉じたままにはできなかった。


雪簇は一族の綾を応用した。留め、繋ぐ家として、梵の見るものを報せる仕組みを作った。囁石が形を得るまで、いくつもの試みが重ねられた。

律はその傍らで、無数の鳥を織った。識島の綾の流れに沿って飛ぶもの。勝手に有象無象の目へ攫われぬよう、梵の力の行き先を決まった形へ結び続けるもの。

無秩序に襲いかかる視界へ形を与え、流れ込む景色へ道を作った。拾うもの、返すもの、閉じるもの、その節をひとつずつ打った。

梵はそれを受け入れた。小さな手で白い鳥の頭を撫で、時折耐えきれずに吐きながらも、次の朝にはまた目を開いた。


そうして、識島の戦の形が変わった。

『門』は、開く前に拾われるものになった。

各家へ報せが飛び、兵は先に構え、民は下がる。

完全な救いではない。それでも、間に合う命が目に見えて増えた。

雪簇宗主家の四男は、識島の目として――唯一無二の『天眼』として、揺らがぬ座を得た。


十の春、元服を待たずして梵は律を伴って花宮へ入る。

白い塔と四家の紋の下に座り、まだ細い肩へ国の空を乗せた。

律はその半歩後ろに立っていた。

そしていまも、同じ場所にいる。




梵の指が、ほんの少しだけ律の袖を握った。子どものころのように縋る力ではない。いまの梵には妻がいて、娘がいる。花宮の雪簇屋敷を預かる立場があり、識島の目として座る責がある。

それでも、この廊の、この短い距離だけは、梵の指が律の腕へ帰ってくる。

律はその重みを受けた。

胸の奥で、何かが静かに膨らむ。痛みに似て、祈りに似て、名をつければたちまち梵の荷になるものだった。


梵が静かだと言う。

それは律にとって、どの勲功よりも重い言葉だった。褒賞の白絹も、宗主からの礼状も、四座殿で通る裁量も、その一言に勝るものはなかった。

生涯にわたり、保つべき静けさだと決めていた。




廊の角を曲がる少し手前で、奥の間から声が届き始めた。


高い幼い声が、何かを訴えるように弾んでいる。

それに重なって、女の声が応じた。勝気で、明るく、奥向きにいても少し火の気を含む声だった。

梵の口元がわずかにほどける。

閉じた目のまま、その声の方へ顔が向いた。


律はそこで足を止め、掌を開く。

眠るように丸くふくらんでいた白い小鳥が目を開いた。それに合わせて梵の目蓋も上がる。

淡い翠の目は相変わらず光を拾わないが、肩へ戻る前の小鳥が律の指先を見た。

小さなくちばしが、律の人差し指へ触れる。

こすりつけるような、甘えるような仕草だった。

律はその鳥にそんな癖を織り込んだ覚えはない。

梵の顔は奥の方へ向いていた。妻と娘の声が聞こえる角へ、静かに。けれど小鳥だけが、律の指へもう一度くちばしを寄せた。


律は一度だけ、その頭を指先で撫でた。

羽毛の形をした綾が指の下でかすかに沈む。小鳥はそれで満ちたように梵の肩へ戻り、定位置で白い羽を畳んだ。

梵の手も、律の腕から離れる。

袖の皺だけがしばらく残り、律はそれを直さないまま膝を折った。

奥の間の襖の前で深く頭を下げる。


「梵様がお戻りです」


中から、はっきりした女の声が返る。


「入られよ」


紙の向こうにあった声が、指先の動きひとつで近くなる。

奥の間には、表の執務とは違う光が入っていた。庭に面した障子が少し開けられ、竹の葉の影が畳の縁へ落ちている。香は薄く、かわりに赤子のあまい匂いと、ほどいた包み紙の乾いた匂いがあった。


部屋の中央に、荷が積まれている。

反物の箱。小さな履物。塗りの丸箱。木彫りの犬。布で包まれた玩具。菓子の重。さらにその奥に、細長い箱が二つ。


(しょう)は敷かれた座布団の上に座り、丸い木鈴を両手で掴んでいた。金を含む淡い髪が春の光を拾って細い綿毛のように揺れる。頬はふっくらして、目元は母によく似ている。笑うと、猫の仔が目を細めるような形になった。


その母は、星のすぐそばに座っている。

雪簇火守(かがり)。梵の妻であり、花宮に駐在する妻鳥重臣家の娘だ。

濃い灰の髪を高く結い、炎を映したような赤い目をしている。梵と変わらぬほど背が高く、座していても肘や肩の線に力があった。勝気な顔立ちの口元が、娘へ向ける時にはひどく柔らかくなる。


その向かいで包みを解いていた少年が、律の開けた襖へ顔を上げた。

妻鳥映火(うつほ)。火守の弟である。

灰の髪と赤い目、眦の上がり方、笑う前に口角が先に動くところまで姉によく似ていた。少年の線の細さがまだ残るぶん、火守より少しやわらかく見える。

だが、包みの紐を引く手つきの勢いや、荷を畳へ置く時の迷いのなさには妻鳥の血がはっきり出ていた。


映火は即座に膝を正した。


「『天眼』様に、妻鳥映火がご挨拶申し上げます」


頭を下げる声は、よく通った。私的な座敷にいても最初の礼を外さない。妻鳥の者らしく明るさはあるが、武家の子としての骨は抜けていない。


「うん。よく来たね、映火」


肩の小鳥が映火へ首を向け、梵の顔もそれに沿う。光を拾わぬ翠の瞳が、鳥の視界に合わせて映火を捉えたように動いた。

映火は顔を上げた途端、ぱっと笑った。


「はい、義兄さん。父さんと母さんから星への贈り物、預かってきました。あと、これは僕から。こっちは祖父様から。こっちが叔母上たちからで、これは本家の鍛場から」


箱がひとつ、またひとつ、星の前へ寄せられていく。

座ろうとして中途半端なまま、梵の膝が止まった。


「ワ……すご……」


声が妙なところで抜けた。笑ってはいるが、笑いきれていない。

肩の小鳥が箱の山を上から下まで見渡し、梵の目もそのあとを追う。律は梵の背後に控えたまま、箱の種類を数えた。衣類が六。玩具が四。菓子が二。武具が二。まだ紐の解かれていない小箱が三つ。

妻鳥の義父母が初孫へ注ぐ熱量としては、まあ、あり得ない量ではない。

だが、それを雪簇の奥の間へ積むと、山の形があまりに圧倒的だった。


火守は一番手前の細長い箱を引き寄せた。蓋を開ける。内側には、星の腕ほどの短い刀が絹に巻かれて収められていた。

――玩具ではなく、真剣である。


火守の目が輝いた。


「おお、良い刀ではないか! 星、母が握り方を教えてやろうな」


星は母の声につられて木鈴を振った。ころころと鈴が鳴る。


「でしょ!? いいよねこれ、僕も欲しいなー」


映火も身を乗り出す。拵えがどうの、焼きがどうの、刃紋がどうの、刀工がどうの、大変熱量高く姉弟の話が弾む。

梵の肩の小鳥が、律を見た。

続いて、梵の顔も律を見上げる。

わかりやすく助けを求める時の顔だった。眉が下がり、首が傾く。律はそれを受け――受けた上で、すっと視線を畳の目へ落とした。


「私は控えの間におりますので、何かございましたら」

「今! 今だよ! ここにいてよ! 妻鳥二人相手は分が悪いよ!」


情けない、もはや縋りつく勢いの声だった。

火守がむっと唇を尖らせる。


「む。わたくしは梵殿の妻なのだから今や雪簇の人間にございまする」

「そうだよ、そうだけど今は血筋の話してるからね」


映火は笑いながら、もう一本の包みを解こうとしている。律はその手元へ静かに膝を進めた。


「映火様」

「はい?」

「こちらは、後ほど武具掛けへお移しいたします。奥方様、姫様の手へ合わせるのであれば、まずは柄の太さを写した木型を作らせましょう。刃を入れたものは、その後で十分にございます」


火守は刀の柄を見下ろした。


「木型」

「はい。握る癖を見るには、軽い方がよろしいかと。それに姫様はまだ、右と左を日ごとに替えておいでです」


星は何を言われているのか分からない顔で、右手で握った木鈴を口へ運ぼうとしている。女房がすぐに布で鈴の端を拭いた。

火守は真剣な顔で娘の手を見た。


「なるほど。たしかに、昨日は左で掴んでおった」

「今日は右が先だったね」


梵がほっとしたように口を挟む。小鳥が星の拳を覗き込んだ。


「まずは木型。ね、火守」

「うむ。では刀は掛けておこう。星、よいか。刃は逃げぬからな、先に手を作るぞ」


まだ二歳にもならぬ娘へ向けるには大仰な言葉だったが、火守はいたって真面目だった。映火も「そうだねえ、手が先だねえ」と頷きながら、刀の箱を律の方へ寄せる。

律は箱の蓋を閉じた。


「ほかのお品も拝見いたしましょう。こちらの反物は、夏前のお召し物に向いております。姫様は近ごろ背が伸びておいでですから、今の寸法で仕立てるより、少し余裕を見た方がよろしいかと」

「あっそうそう! ほら見て義兄さん。これ、母さんが選んだんだ。星に似合うって」


映火が薄い若葉色の反物を広げる。端に細い白い模様が走っていた。火守が星の肩へそっと当てると、布の感触に目を丸くし、それから笑った。

梵の顔が緩む。


「うん、よく似合うね」

「でしょう!」


映火の声が弾む。火守も満足げに頷き、次の箱へ手を伸ばした。今度は木彫りの馬だった。星が興味を示し、身を前へ倒す。女房が慌てて支え、火守が笑う。


律は刀の箱を女房へ渡し、別室の武具掛けへ移すよう目で示した。女房も心得たもので、音を立てずに受け取る。刃物は畳から消え、代わりに反物と玩具が星の前に並ぶ。

頃合いと見て律は膝を引いた。


「では、控えに下がります。御用の折はお呼びください」

「律」


梵が呼んだ。まだ声に少し未練があった。

律は頭を下げる。


「星様のお召し物の寸法控えを、あとでこちらへ回します」

「……うん」


梵は諦めたように笑った。

火守が反物を星へ当てたまま、律へ顔を向ける。


「律殿、よろしく頼む」

「承知いたしました」


映火は星へ木馬を差し出しながら、「星~、これお兄ちゃんが選んだんだよ」とすっかり姪に夢中であった。


「叔父ちゃんであろう」

「お・に・い・ちゃ・ん!」


姉弟の攻防をよそに、木馬の耳を掴もうと星の手が伸ばされ、梵の小鳥が首をかしげてそれを見ている。

律は襖を閉めた。


控えの間には、すでに文箱が運ばれていた。表から下げさせた未裁の文、四座殿へ戻す控え、東筋の巡回割、雪簇詰所の人員入れ替え。火鉢のそばには低い机が据えられ、硯と墨も準備されていた。

座り、文を分け、筆を執る。奥の間からは声が聞こえ続けている。

映火の声は火守より少し高い。けれど、笑う時の張り方が似ていた。火守が何かを言うと、梵が困ったように返し、すぐに星の声が重なる。赤子の声は意味を持たない。だが、それを受ける三人の声には、それぞれの居場所があった。


妻鳥火守が梵へ求婚した日のことを、律は今もよく覚えている。


二人が出逢ったのは、梵が花宮へ入ってまだ二年ほどのころだった。

そのころ、火守はすでに花宮において若い娘たちの視線をさらう存在だった。凛々しく、明るく、まっすぐで、相手の懐へ踏み込む距離を恐れない。少女たちの初恋を次々奪っていくと、妻鳥の者たちが笑っていたのを聞いたことがある。


その火守が、梵に惚れた。

十二の梵は成長が遅く、やさしげな顔立ちに長い髪をしていたので、それより二つ年上で背も高く短髪であった火守が迫れば、どちらが姫かわからないような様相であった。

火守があまりに白昼堂々正面切って口説くので、梵の側に控えている律も当然その場にいる。だから主の耳が真っ赤になっていることには気づいていた。


しかし、梵は当時、自分が誰かを妻に迎えることなど考えてはいなかった。

『天眼』として座るとは、長く生きる算段を持たぬ身を国の中央へ置くことでもある。

妻を残す。子を残す。誰かの生涯へ、短い灯の残り香を押しつける。

梵はそういうことへ、ひどく臆病だった。


火守は、その臆病さの前で退かなかった。

何年もかけて口説き、迫り、梵の元服と同時に求婚の書面を掲げて雪簇屋敷に突撃した。

あれはもはや出陣だった、と、娘のあまりの気迫と勢いに、未だに火守の実家は梵と宗主家に頭が上がらない。


律は火守の付き人ら(面白がってついてきた配下と、万一の時には身を挺してでも止めるための臣であったと後に聞いた)と共に控えの間におり、襖の向こうの声はよく通った。


――わたくしはあなたの未練になりたい。


律は筆を止めることなく、あの時の梵の沈黙を思い出す。

幼いころから見てきた梵のあらゆる沈黙の中で、あれほど柔らかなものはなかった。

戸惑い、怯え、逃げ道を探しながら、同時にどこかへ手を伸ばしかけている沈黙だった。


火守は、その手を掴んだ。


いま、奥の間で梵が笑っている。

妻に少し困らされ、義弟に明るく押され、娘の手のひらに木馬を握らせながら、穏やかに言葉を返している。

律の与えた肩の小鳥は、その全部を見ている。梵の目として、妻の笑みも、娘の頬も、義弟の得意げな顔も拾っている。

この日々が、長く続けばよい。

言葉にすれば祈りになる。祈りにすれば、どこかへ奪われるような気がした。

だから律は筆を進める。四座殿へ戻す文を整え、巡回割の穴を埋め、東詰へ回す兵の名を一つ入れ替えた。

奥の間で、星が高く笑った。


その直後だった。


「律」


梵の声が、襖越しに届いた。

先ほどまでの柔らかさが、そこからきれいに抜けている。律は筆を置き、立ち上がった。

梵は星の前に座ったまま顔を伏せていた。肩の小鳥がどこか遠い空へ首を向けている。

火守の手は、星の背にあった。映火は開けかけていた菓子箱から手を離す。


「花宮。東の柳橋下手。雪簇東詰の南。水路の縁。綾が乱れてる。開く」


柳橋下手。東詰南。水路。花宮の青筋。梵の言葉が落ちる端から、頭の中の地図へ符牒を重ねる。

胸元の発信用の囁石へ指を置く。細かな溝に綾が通り、石がかすかに冷えた。


「≪『開門』。花宮、青、ニの二、東三、規模未詳≫」


声は奥の間の静けさを割らず、しかし確実に石へ乗った。


火守が立った。

座敷の中の明るさが一瞬で戦場へ通じるものに変わる。娘へ向けていた母の手が、武家の手になる。

星を抱き上げ、そばに控えていた女房へ預けた。


「星を奥へ」

「はい」


女房が星を受け取る。星は急に母の腕から離され、不満そうに声を上げた。火守はその額へ短く口づける。


「すぐ戻る」


それから梵へ向いた。


「梵殿、行ってまいります」


梵の肩の鳥が火守を見た。梵の顔も上がる。


「火守、東詰は水路沿いが狭い。馬は橋の手前まで」

「承知」


律はすでに廊へ目を向けていた。

控えの間の文箱の横に置かれた呼び鈴を鳴らすより早く、廊の兵が動く。

囁石の報せは届いている。足音が表へ走り、馬を出す声が遠くで上がった。

映火も広げていた包みを一つに寄せ、菓子箱の蓋を閉める。梵に向き直り丁寧に頭を下げた。


「義兄さん、本日はこれで――僕は妻鳥の控えへ寄ってから戻るよ。必要なら、すぐ人を出せるようにしておく」


火守は腰に綾の刀を佩きながら、弟へ目だけを向けた。


「助かる」

「姉さんの下にいたやつら、未だに火守様火守様ってうるさいんだから。声をかけたら大喜びで走ってくるよ」

「はは! かわいい奴らめ。近く稽古をつけにいってやろう」

「げぇっ! 絶対先触れ出してよね僕その日出かけるから!」


火守の笑い声が廊へ抜けた。明るい。だがその手は、すでに刀の柄へ馴染んでいる。

映火の顔にもまだ笑みはあるが、赤い目の奥は姉と同じ方向へ火を寄せていた。

律は二人の退路を空ける。


「火守様、東詰へは表門から。柳橋の手前で馬を下りるよう、先に出します。映火様、妻鳥の控えへは南廊側が早うございます」

「頼む」


火守が短く返す。


「ありがとう、律殿」


映火も軽く頭を下げた。

奥の間での姉弟の明るさは、廊へ出た瞬間に薄く畳まれた。火守の背に、妻鳥の炎と雪簇としての骨が立つ。

映火はその背を一度見送り、すぐに別の廊へ折れた。


奥の間には星の小さな声と、梵の呼吸が残った。

律は梵のそばへ戻る。肩の小鳥はまだ東へ向いていた。


「梵様」

「開き始めた」


梵は低く言った。


「まだ浅い。水路の底を擦ってる。火守なら間に合う」

「はい」


律はそれだけ返し、女房へ目を向けた。


「姫様を奥の奥へ。念のため、東側の障子は閉めよ。表の使いが来ても奥へは入れるな」


女房たちが動く。星は抱かれたまま、まだ母の去った方へ手を伸ばしていた。

小鳥が娘を見る。梵の口元がわずかに動いた。


「星、大丈夫。母上は強いよ」


星には分からない。だが声の穏やかさに、小さな手が少し下がった。


律はその横顔を見た。

梵はか弱い人ではない。国の目として座り、必要なものを拾い、必要な時に名を呼ぶ。

妻が戦場へ向かう時も、娘が泣く時も、まず見るべきものを見る。


だから律は、梵の前へ余計な慰めを置かなかった。

かわりに、控えの文机から白紙を引き寄せた。時刻。発信文言。場所。火守出立。映火、妻鳥控えへ。東詰へ先触れ。筆が順に事実を置いていく。

梵の肩の小鳥は、東を向いたままだった。



■■



映火が妻鳥の控えへ向かう廊を急ぐころ、表の方はもう騒がしかった。

馬の嘶きが庭の向こうから上がる。厩の者が鞍を締め、兵が水路図を持って走る。

春の光は変わらず白く明るいのに、人の足音だけが戦場へ向かう速さになっていた。


火守は兵を率いる側へ出た。映火は区画内にある妻鳥の控えへ寄り、必要なら屋敷へ走らせる使いを整える。

まだ花宮の空に煙はない。橋の方角にも目で見える乱れはない。けれど囁石が鳴った以上、もう何もない場所ではなかった。


角を曲がったところで、横手から声が飛んだ。


「奥方様!」


明らかにこちらを向いている声に映火は足を止め、振り返った。

雪簇の若い兵が、文挟みを抱えて駆け寄ってくる。

顔色は悪くないが、急いでいる。映火の顔を見ても、その足は止まらなかった。


「東詰への増援、表門に二組そろいました。柳橋の手前が狭いとのことで、先に――」

「あの」


映火が口を開く。

兵はまだ続けかけた。


「はい、騎馬は橋の――」


そこで、二拍。


若い兵の目が、映火の顔を正面から捉え直した。灰の髪。赤い目。勝気な眦。背も体格もよく似ている。声も似ていた。まだ映火が少年の線を残し、男になりきっていない今だからこそ、振り向いた姿は火守と見紛うほどだった。

兵の喉が小さく上下した。


「……大変失礼いたしました」


深く頭が下がる。

映火は笑った。


「よくあることなので、気になさらず」


それから、文挟みへ目を落とす。


「増援はそのまま表門へ。姉さん――火守様はすぐ出ます」

「はっ」


兵が走っていく。

映火はその背を見送り、少しだけ肩を回した。

姉に間違えられることは、本当に珍しくない。映火が十代半ばにさしかかってからは、家の者すら暗がりでは一瞬迷うほどだ。

顔立ちが似ている。声の張り方、立ち姿の空気が似る。急ぎの場では、似た色と似た輪郭へ人の目が吸われる。


廊の先で、火守の声が響いた。


「柳橋までは馬! 橋手前で下りるぞ! 水路へ落とすな、足元を見よ!」


返事が重なる。馬が鳴く。金具が鳴り、春の庭を横切る蹄の音が白砂を打った。


花宮の空は明るかった。

四座殿の白い塔は遠く、神木の花をこぼしながら陽を受けている。

水路はきらきらと流れ、橋の欄干には藤の名残が揺れた。都のどこかで役人が文を運び、どこかで馬が替えられ、どこかで兵が走る。


戦の気配は、たしかにある。


けれど、乱れはすぐに拾われ、報せは石を渡り、兵は迷わず動いた。

奥の座では『天眼』が見ている。表では律の筆が時刻を留め、火守の声が兵を束ねる。


春の光の下で、花宮は滞りなく回っていた。




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