四方の春(四)――綾寧449年
月渓領の春はまばゆい。
白い石敷に陽が跳ね、坂下の港から吹き上げる風が、軒先の染め布をさらさらと鳴らしていた。花売りの籠からこぼれた花弁は水路を流れ、餅屋の前でゆっくり回る。蒸し器の湯気、蜜を煮る匂い、潮を吸った縄の匂い。南の春は色が濃く、声まで明るい。
巡回の月渓兵が坂を下ってくると、通りの娘たちが一斉にそちらを見た。
青が溶けた黒髪。陽を受けて光る銀の目。華やかな戦装束の袖口からのぞく手首、腰の刀、耳に下がる囁石。若い兵たちはただ見回りをしているだけなのに、歩くたびに人の目をさらった。薬種屋の娘が包みを抱え、隣の友人に肘でつつかれる。
「行きなよ」
「無理、無理だって」
「昨日、渡すって言ってたじゃない」
「だって今日は三人いる」
「大丈夫、こっちも三人だよ、勝てるよ」
「何に!?」
小さな包みが押し合いの中で揺れる。やがてひとりが顔を真っ赤にして前へ出た。
「あ、あのっ、お疲れさまです!」
差し出された菓子の紙包みを、先頭の兵が少し驚いた顔で受け取る。後ろの兵はにやにやしながら顔を見合わせ、受け取った兵は少し照れたように微笑んで頭を下げた。
「ありがとう。詰所でいただく」
その一言で、娘たちの間に声にならない悲鳴が走った。
少し離れた魚屋の軒先では子どもたちが棒切れを弓のように構え、兵たちの型を真似している。
町の男たちは笑ってそれを見ていたが、女の月渓兵がひとり横切ると笑い声の端がふっと薄れた。結い上げた黒髪に青い房が揺れ、銀の目が通りの先を流す。ただそれだけで、魚を捌いていた若い男の手が止まり、荷を担いだ者まで振り返った。
女たちは女たちで、店の奥から顔を出し、誰がいちばん綺麗だの、今日の髪のまとめ方がよいだの、好き勝手に言い合っている。
月渓の武家は、町にとって守り手であり、眩しい花でもあった。
若い者たちは、彼らを花の盛りを見るように騒ぐ。差し入れを渡せた、目が合った、声を返された。そのひとつひとつで頬を染め、仲間内で肩を叩き合い、まるで祭の役者を追うように月渓兵の背を追いかける。
けれど、それを楽し気にみている年嵩の者たちの目には、同じ慕わしさの底にほんの少し違う色が沈んでいた。
月渓家の多くは、早逝する。
昨日通りを歩いていた若者が、次の春には名だけになる。
それを見てきた年寄りたちのまなざしには、咲ききった花の美しさを惜しむような、静かな哀しみが滲んでいた。
その騒ぎの少し先を、月渓家筆頭・月渓盈は娘ふたりを連れて歩いていた。
供はいない。先触れもない。二歳の双子は、左右からそれぞれ盈の指を握っている。
燦と響という名の二人はよく似た頬を春風にさらし、店先のものへいちいち目を丸くした。片方が足を止めればもう片方もつられて止まり、盈はそのたび、少し大げさに引っぱられてやる。
娘たちの朝の散歩が、いつの間にやら屋敷の庭から膝元の町への遠征となっていた。
中庭の水路に花弁を流し、白石の上を少し歩かせ、飽きたら奥へ戻る。二歳の娘ふたりにはそれだけで十分なはずだった。
けれど燦が門の外へ行きたがり、響までつられて父の袖を引いたので、盈は少し考える顔をしたあと、まあいいかと屋敷を出た。
そのついでに菓子を買うことにしたのだ。思いつきの散歩は、そのまま家族への土産選びになった。
「筆頭様だ」
誰かが囁く。
差し入れを渡し終えたばかりの娘たちまで振り返った。盈は片手を軽く上げる。若い娘たちの顔がまた赤くなり、今度はその横にいる小さな姫君たちを見て、かわいい、ちいさい、と声が跳ねた。
菓子屋で、盈は屋敷で待っている息子ふたりの練り切りを選んだ。
長子の鷂には、甘さの淡い白梅。次子の樞には、牡丹の形をしたもの。幼い弟はきっとまず形を確かめ、兄はその横で静かに食べる。そんな光景が浮かぶほど、春の菓子は柔らかな色をしていた。
包ませている横で、燦と響が隣の棚に飾られた飴細工へ吸い寄せられた。
細い棒の先に、透明な金魚、蝶々、兎、鳥。陽に透けた飴が、宝石のように小さく光る。
「ととたまぁ」
「あめたん」
「いいよォ~。どれにすんの?」
小さな手が袖を引くのに相好を崩し、覗き込む。
燦は金魚を、響は蝶々を選んだ。飴細工の棒を小さな手がぎゅっと握る。赤い金魚の尾が揺れ、淡い黄色の蝶々が響の頬の横でふるふる震えた。ふたりはそれぞれの宝物を胸の前へ掲げ、盈を見上げる。
「いいじゃん。かっわい~」
次に向かった饅頭屋では、蒸し器から白い湯気が立っていた。炊きあがった小豆の匂いが、春風に混じって通りへ流れる。
「おっちゃん、饅頭まだあったかいのある?」
店主がぱっと顔を上げた。
「筆頭! ちょうど今蒸しあがったところですよ──おや、姫様方、きれいな飴をお持ちですねえ、よくお似合いで」
「だろ? やっぱそう思う? 可愛すぎるよなこれ? 絵姿描かせるべきかな?」
店主は燦の手元を見た。
「もう齧ってらっしゃるので無理ですねえ」
金魚のしっぽは、すでに少し丸くなっていた。燦は何も分かっていない顔で飴をしゃぶっている。響は蝶々を大事そうに持ち、小さくなっていく姉の金魚を心配そうに見ていた。
盈は笑い、酒饅頭を包ませた。
通りの端から、巡回兵が近づいてくる。若い方が盈に気づき、目を見開いた。
「筆頭! また供も連れずに……」
「菓子買うのにぞろぞろ連れてってどうすんだよ。店が引くだろ」
兵は困ったように言葉に詰まった。
「お戻りは」
「もう帰るよ、饅頭が冷めないうちに。――花の辻の角で荷車の軸が緩んでる。港坂の下ではガキどもが弓兵ごっこして道塞いでる。かわいいけど邪魔。そろそろ往来が増える時間だろ」
はっと職務の顔に戻る。隣の兵が小さく頷き、二人の視線が通りの先へ走った。
「承知しました」
盈はそれを見届けるでもなく、店主へ手を振る。
「じゃね、おっちゃん」
「毎度! またお待ちしてます」
燦と響も、飴細工を握ったまま小さく手を振った。町の娘たちがその仕草にまた歓声をあげ、通りのあちこちで笑みがこぼれる。
月渓の春は、人の目まで明るくする。
月渓本家の門をくぐるころには、燦の金魚は尾を失いかけていた。
白石を敷いた道の脇で、浅い水路が花弁を流している。廊は風をよく通し、磨かれた柱が日の名残を淡く返していた。
月渓の屋敷は外の光を遮らず、そのまま奥へ通す。人の声も、衣擦れも、庭に落ちる鳥の影も、どこか華やいで見えた。
門内で控えていた家臣が、早足で盈の前へ進み出る。
「筆頭。朔臣様が謁見の間にお越しです」
盈は足を止めた。右手に菓子、左手に響。燦は飴の棒を握ったまま、盈の袖を掴んでいる。
「緊急?」
「いえ、そのようには伺っては……」
「ふーん。じゃあ待たせとこうぜ。呼んでねえのに勝手に来たんだから」
「そ、」
「あ! かかさま!」
響の声が、家臣の動揺を明るく割った。
蝶々の飴を胸の前に抱えたまま、響が盈の手を引く。燦もすぐに顔を上げ、食べかけの金魚を高く掲げた。
ふたりの視線の先、中庭に面した渡殿の角で、侍女へ何か言いつけていた女がこちらを向く。
淡い浅葱の小袖に、白い帯。娘たちを見つけた途端、目元がぱっと華やいだ。侍女がまだ返事をしきらぬうちに、一歩こちらへ踏み出す。その歩みは、格式に合わせて抑えた運びではない。家の奥に飾られている女ではなく、呼ばれれば自分の足で近づく身軽さがあった。
月渓代――盈の妻である。末席の傍系に生まれ、ほとんど町民のような暮らしをしていた娘。
月渓筆頭の妻となってなお、その在り方は軽やかなままだった。
「おかえり。燦、響、いいもの買ってもらったな」
「きんとと!」
燦が金魚を突き出す。透明な赤い尾は、もうほとんど無くなっていた。
「うん、きれいだ。……だいぶ食べたな?」
燦は悪びれずににこにこしている。
代は次に、響の蝶々へ目を移した。
「響のもいいな。お着物の柄とおそろいだ」
響は母によく見えるよう、蝶々を両手で持ち直した。
盈がそこで、得意げに酒饅頭の包みを掲げる。
代の目が今度はそこへ吸い寄せられた。
「あっ! この包みは……待て待て当てるから……」
盈は黙って包みを少し揺らす。
代は包み紙の色、結び目、紙の折り方を眺め、最後に鼻先を近づけた。
「……柳屋の酒饅頭! どう? 当たってる?」
「当ったりィ」
「やった! あったかいうちに食べよう」
家臣が遮るように一歩前へ出る。
「奥方様、朔臣様が謁見の間に」
代は眉を上げた。
「朔臣様? 待たせとけばいいんじゃないか。どうせ呼んでもないのに来てるんだろう?」
「だよなァ~?」
「筆頭!!」
もはや悲鳴であった。廊の端で下女がびくりと肩を跳ねさせ、盈はやれやれと肩をすくめる。
「はいはい。行きますよ」
軽く流した声の裏で、屋敷の空気がわずかに締まった。
朔臣の名は、ただの客の名ではない。
先代の代から本家に出入りし、親族筋を引き連れては、ことあるごとに「進言」と称して謁見の間へ上がってくる男だった。
家のため、月渓の威のため、若い筆頭を支えるため。そう飾った言葉の下にあるのは、盈を筆頭にふさわしくない男として貶め、いずれ自分が用意した神輿を担ごうとする浅い欲だった。
血だけは濃く正統であるため、決定的な失脚でもない限り遠ざけるのも難しい。
盈は渋々酒饅頭の包みごと菓子を代へ渡した。
「先食うなよ」
「……」
「全然返事しないじゃん!」
笑いながら、燦と響の頭を順に撫でる。燦は金魚の残った胴を握りしめ、響は蝶々を大事そうに胸へ寄せた。娘たちは、父の声の軽さと、廊の奥で張りつめるものの違いをまだ知らない。
盈は家臣へ向き直る。
「鷂は?」
「すでにお待ちです。ええ、もう、お伝えしてすぐに」
家臣の声には、五歳の息子の方がよほどきちんとしている、という疲れが滲んでいた。
盈は頷いて顎を擦る。
「えらすぎ! 誰の子? 俺~」
家臣はもう何も言わなかった。
ただ、深く頭を下げた。その沈黙に、こいつ本当に、という思いがありありと見えた。
謁見の間へ向かう廊は、庭に面している。
午前の光は明るく、しかし奥へ進むほど音が減った。水路の音、女房の衣擦れ、遠くの子どもの声。ひとつずつ背後へ置いていく。
襖の前に控える者たちは、盈が近づくと一斉に膝を折った。
頭を垂れる所作に乱れはなく、筆頭を迎える静けさが満ちている。
そのまま足を止めることなく入った謁見の間には、春の光が低く差していた。
床の間には白い花。畳は目の青さを残し、風を避けた香の匂いがかすかに沈んでいる。
朔臣は上座の正面に座り、盈を待っていた。年を重ねてもなお整った顔立ち、乱れのない髪、銀の目。
先代から知る男のまなざしには、礼の皮をまとった冷ややかさがある。
朔臣の後ろには、親族筋の者が数名控えている。みな目を伏せ、黙っていた。沈黙の中に、同じ色の思惑が重なっている。
鷂はすでに盈の席の脇にいた。
五歳の子の膝が、きちんと整っている。小さな手は揃えて置かれ、姿勢は崩れない。
父が入ってきても静かに顔を上げただけで、ここがどういう場か理解している聡い目をしていた。
盈は上座へ腰を下ろす。
「待たせたな。ま、大した用もないのに来るくらい暇みてえだしいいよな?」
いきなりの一言に、控えの家臣が息を止めた。
朔臣の眉が、わずかに動く。
「筆頭が供も連れずに町を歩かれるなど、相変わらず軽うございますな。月渓筆頭家の威にも関わります」
「アホくさ。んなことで揺れる月渓の威なら俺の腰よりよっぽど軽いわ」
控える者たちは誰も息を動かさない。庭から入る春の光の音まで聞こえるようだった。言葉は軽い。けれどその軽さの下で、互いの足元へ刃を置き合っている。
笑っているのは盈だけだった。
「御兄上方なら、そのような振る舞いはなさらなかったでしょう」
盈の笑みは薄く残った。
「お前はホント、兄貴たちならって話好きね。俺も兄貴たちは好きだったよ。で、死んだ人間が威を重くしてくれんの?」
畳の上の空気が冷えた。
上の兄たちは、どちらも戦で死んだ。遠くへ線を通し、幾度も兵を走らせ、『門』の縁へ届かせた。
華やかな月渓の戦いは、その華やかさの分だけ使い手を削る。優れた者ほど早く遠くへ届き、早く散る。
盈は先代筆頭の三男である。
座が彼へ転がり落ちた、と見る者は今もいる。朔臣と背後に控える者たちもその一派だった。
「座に在る者は、座にふさわしく振る舞わねばなりません」
盈の声が面白そうに跳ねた。
「ふさわしい! ふさわしい振る舞いねえ……」
軽い声のまま、畳の上へ刃が落ちる。
「お前のきれいなお人形さんになれるかどうかってこと?」
控えていた親族のひとりが、思わず指先を膝へ食い込ませる。盈はそれを見ていた。
「民はアタマが誰かなんて気にしねえよ。禍滲をぶっ殺してマトモな政してりゃあ、そいつが軽かろうが重かろうがどうだっていい。ならば、筆頭家第三子。兄貴らが先に逝かれた今、この身以上にふさわしい人間がどこにいる?」
声は荒げない。荒げないが、その口腔の奥の牙は突き立った。
「まさか昴だとでも?」
朔臣の背後で、誰かがわずかに息を呑む。
盈の弟である。美しく善良だが内向的な、先代筆頭の第四子。朔臣らが神輿として値踏みしている名だった。
盈は笑っている。
「有事でも乱政でもない今、四子の分際で兄を押しのける。数百年の月渓の慣例を破るほどの正当性が、あれのどこに?」
朔臣はすぐには返さなかった。
言い返せば、昴の名を担いでいると認めることになる。否定すれば、ここにいる親族たちの思惑ごと切り捨てることになる。どちらにしても、今この座敷では盈が上にいた。
月渓は美を愛する。
けれど、美しいだけの人形を筆頭には据えない。遠くへ線を通す目、兵を走らせる判断、民の前で笑い、親族の前で刃を抜く胆力。盈にはそれがある。
町の娘たちが頬を染める軽さも、兵が名を聞いて背筋を伸ばす華も、ここで朔臣を黙らせる剣呑さも、同じ男の中に並んでいた。
朔臣の声音がわずかに硬くなる。
「……筆頭家の正統のお立場をお持ちであればこそ、なおのこと、月渓全体のためにお考えいただきたいのです」
「月渓全体ねえ」
盈は目だけで、朔臣の後ろに控える者たちを撫でた。
「便利な言葉だな。それさえ言えば、自分の欲が家のためっぽく聞こえる」
沈黙が落ちる。
朔臣はその沈黙を嫌ったように、視線を盈の脇へ移した。
「若君のこともございます」
鷂は背筋を伸ばしきちんと座っていた。
黒に青を含む髪は艶を持ち、銀の目は眦まで美しい。小さな鼻も色味の薄い唇も、あまりに完成された顔立ちは、五つという年齢すら遠ざける。
月渓の血は人目を奪う。だが鷂の美しさには、それ以上のものがあった。見入った者の心の内側へ、冷たい指がすっと差し込むような危うさだった。
朔臣は、そこへ言葉を伸ばした。
「『傾国』を、筆頭家のみの内に留め置くのはいかがなものか。これほどの札を――」
盈が首を傾げる。
「札? ――扱えもしないのに?」
朔臣の目にはっきりといら立ちがはしった。
その瞬間、鷂が顔を上げる。
それだけで、部屋の光が変わった。
鷂は朔臣を見た。そして音もなく、静かに、花が開くように微笑む。
幼い頬に残るやわらかさと、その笑みの完成された美しさが噛み合わない。
黒髪の青い筋が頬へ落ち、細めた銀の目に春の光が細く入る。
淡く色づいたくちびるが薄く、ひらいた。
言葉は出ない。
命じもしない。
ただ、ひらく。
朔臣の喉が引きつる。背後の親族のひとりが、息を殺し損ねた。
その唇が意図をもって声を乗せれば、人の心は傾く。
忠義も、野心も、怒りも、保ってきた矜持も、自分のものと信じていた核ごと別の形へ曲げられる。
――天宿り、『傾国』。
それは国を滅ぼす美の名であり――識島においては、人心を崩す呪詛の名であった。
朔臣の顔から、わずかに血の色が退いた。
殺される恐怖なら、まだ耐えられたかもしれない。
自分の心が、自分のものでなくなる。欲したはずのもの、憎んだはずのもの、守ると決めたはずのものの向きが、あの唇からこぼれる幼い声ひとつで狂う。
その想像が、老いた武家の膝を内側から冷やしていた。
鷂は何も言わないまま、唇を閉じた。
微笑みだけが残る。
動けなくなった者たちを一瞥し、盈は手を打った。
「他になにか? ない? じゃ、そろそろ帰ってくんね? 嫁が饅頭と待ってんだわ」
朔臣は、すぐには返せなかった。
ややあって、礼を失わぬぎりぎりのところで頭を下げる。
「……本日は、これにて」
「うんうん。気をつけて帰れよ」
朔臣たちの足音が廊の向こうへ遠ざかる。畳の上に残った家臣たちは、息をつく時機を失った顔をしていた。
鷂は笑みを引き、幼子の顔で父を見上げる。
盈は立ち上がりながら軽く顎をしゃくった。
「行くか」
「はい、父上」
その返事は五歳の子らしい高さで、ただ武家の子として整っている。
さきほどまでの蠱惑的な笑みの冷えなどもうどこにもなかった。
謁見の間の襖が背後で閉まると、香の匂いと張りつめた沈黙が一枚向こうへ隔てられた。
春の光はまだ欄干に残り、庭の白石の上を細く流れる水に花弁が浮いている。控えていた者たちは深く頭を下げ、盈と鷂のために道をあけた。鷂は父の一歩後ろを衣の裾を乱さずついてくる。
奥へ折れるころ、空気に甘い匂いが混じった。
子どもたちの声もする。燦と響の高い声、樞が何かを言いかけて小さく笑った声。包み紙をひらく、かさりという音。
盈は一瞬天井を見上げ、それから勢いよく障子を引いた。
座っていた代が一瞬飛び上がり、振り向いた。
酒饅頭を両手で持ち口いっぱいに頬張っている。隠す気配すらない。包み紙は膝の前に開かれ、湯気の名残がまだ薄く立っていた。
「マジで先に食うじゃん!」
「んぐ……ぐぐ……」
代は目だけで待てと訴えた。喉が動く。饅頭をどうにか飲み込む。次の瞬間、顔いっぱいに笑う。
「まだあったかいぞ! 盈もはやく食え!」
花丸の笑顔である。
盈は片手で額を押さえた。
「お前なァ~~~」
後ろで家臣が深く息を吐いた。
奥の座敷には、さきほどの政の気配など欠片も残っていなかった。
樞は鷂の近くへ寄りたそうにしながら、行儀よく座っている。燦と響は飴細工を食べ終え、今は小さな菓子を持たされている。同じように丸い頬をして、同じように口元を甘くしていた。
鷂は自分の前に置かれた練り切りを見たあと、酒饅頭へ視線を移した。
ちら、と見る。
すぐ戻す。
また、ちら、と見る。
盈はそれを見て、酒饅頭をひとつ取った。
「お前もこっち食う?」
鷂の目が少し上がる。
「いいのですか」
「いいよォ」
盈は饅頭を半分に割る。酒の匂いがふわりと立った。鷂は両手で受け取り、慎重に口をつける。
少し噛んで、顔がほころんだ。
「おいしいです。あまざけみたいなにおいがする」
謁見の間で大人を凍らせた唇から、今はただ菓子を喜ぶ声が出る。丁寧で、少し固く、けれど年相応に甘い。
鷂は自分の練り切りを手元へ寄せた。白梅の形をしたそれを黒文字でそっと半分に割り、盈へ差し出す。
「父上、はんぶん……」
「え~、くれんの? あんがと~」
盈は一切遠慮しなかった。受け取って、すぐ食べる。
代が隣から手を出した。
「盈、私には?」
「お前はもう俺の倍食ってんのよ」
代は悪びれずに笑う。鷂も笑い、樞は兄が笑ったことを喜ぶように背筋を伸ばした。
燦と響は周囲の笑いにつられて、よく分からないまま頬をゆるめる。
庭の光が座敷の端へ長く伸びていた。
■■
その夜、月渓本家の奥には、昼の明るさが嘘のような静けさが降りていた。
春の夜気はまだやわらかい。庭の水路は昼よりも細い音で流れ、白石の道は月を受けて淡く濡れたように光っている。昼間、子供たちの声が弾み菓子の匂いが広がっていた座敷も、今は襖を閉ざされ、灯だけが廊の端に点々と残っていた。
その中で筆頭の執務室には、まだ明かりがある。
盈は文机の前に座り、片袖を軽く括って筆を動かしていた。足は投げ出し気味で、羽織も半ば肩から落ちかけている。机に肘までついている有様は、とても筆頭の執務姿には見えなかった。
けれど銀の目だけは違った。紙の上を追う視線には一切の緩みがなく、並んだ文字のひとつひとつを逃さぬよう静かに研ぎ澄まされている。
机の上には、報告書がいくつも広げられていた。
港から上がった荷の記録。東の磯場に置いた詰所の人員表。春潮の読み。弓兵の配置換え。病で下がった若い兵の代替。花宮を介した他家との連携文。風斎から届いた季節の挨拶と、その紙背に見える婚姻準備の気配。
面倒くせえ、と笑うことはある。
実際、そう言って周囲を呆れさせることも少なくない。
けれど、面倒であることと手を抜くことは別だった。
紙の上に落ちる筆先は迷わなかった。
ひとつ読み、端へ寄せる。
ひとつに朱を入れ、別の紙を重ねる。
港の荷は通す。だが護衛の人数は増やす。
東沖の警戒は、春潮の変わり目まで二名増やす。
そこまで書いて、盈は筆を止めた。
昼間、朔臣が兄たちの名を出した時の冷えが、まだ畳の裏に残っている気がした。
死んだ者は威を重くしない。
そう言ったのは本心だった。
けれど、死んだ者が何も残さないわけではない。
上の兄たちは、遠くへ線を通した。
何度も。
何度も。
その線の上を、若い兵たちが走った。海へ、山へ、『門』の縁へ。届くはずのない場所へ届かせるために、月渓は身を削る。
そして、兄たちは戻らなかった。
盈は朱の筆を置き、乾いた指先で眉間を押した。
「……あー、だる」
声は小さかった。
誰に聞かせるものでもない。
それでも言葉にすると、いつもの軽さが少しだけ戻る。
その時だった。
耳に下げた囁石が、かすかに震えた。
飾り彫りの溝へ綾が走る。薄い石の奥で、氷の破片が触れ合うような音が鳴った。次いで、声が届く。
≪『開門』。月渓領、南東沖、海上。規模、中≫
盈の目が上がった。
次の瞬間、屋敷のあちこちで同じ音が立った。廊の向こうで人が息を呑み、夜番の兵が走る。詰所へ向かう足音、武具を取る音、起き出した者が低く交わす声。
盈は立ち上がった。
広げていた紙が灯に揺れる。
廊へ出ると、夜番の家臣がちょうど膝をつきかけた。
「筆頭、南東沖です」
「聞いた。近い詰所は」
「潮見の詰所が最寄りにございます。港番からも兵が出ます」
盈は頷き、歩き出した。
「物見へ行く。大弓を使う」
家臣の顔色が変わった。
だが止める言葉は出ない。
月渓本家は海辺にはない。
港へ下る坂と、その先に広がる町を抱きながらも、屋敷そのものは内陸の高みに置かれている。物見櫓に上がったところで、夜の海面は見えない。南東の方角にあるのは、黒く沈む丘の稜線と、遠い港町の灯だけだ。
それでも、月渓は遠くへ通す家である。
見えぬなら、線を通せばよい。
物見櫓の足元では、すでに見張りの兵が控えていた。二人は盈の姿を見るなり膝を折る。櫓の上では、別の兵が南東の空へ目を凝らしていた。
海は見えずとも、そこに綾の乱れがあることは分かる。
夜の空気の奥で、皮膚の裏を細い砂が撫でるような感触がした。
盈は櫓の床板へ足を置いた。
「下がんな。巻き込むほど下手じゃないけど、近いと気分悪くなんぞ」
見張りの兵がすぐに退く。
盈は南東へ向いた。
月の光が銀の目に落ちる。
その足元へ、綾が集まった。
最初は薄い糸だった。
足裏から、膝へ。腰へ。背へ。肩へ。
大地に流れる綾を、盈は体の奥で細く濾していく。濁りを落とし、揺らぎを削り、まっすぐな一本へ近づける。
そのたび、骨の内側がわずかに軋んだ。
手を上げる。
空の中に、弓が現れた。
人ひとりの背丈を超える大弓だった。
月渓の綾は華やかだ。暗い夜にあっても、その線はひどく美しい。月明かりを細く研ぎ澄ませて、弓の形へ押し固めたように輝いている。
盈の指が弦へかかった。
一本目の矢を織る。
それは殺すための矢ではない。
届かせるための矢である。
「南東沖。潮見の外。春潮、引き始め」
誰に聞かせるでもなく呟く。
昼間の軽い声ではなかった。
月渓筆頭として、地図と潮と詰所の距離をすべて頭に置いた声だった。
弦が鳴る。
一の矢が、夜へ走った。
南東の空へ向けて、細い銀の線が伸びた。丘の上を越え、港町の屋根の上を過ぎ、眠る町のさらに先へ、まっすぐ通っていく。
盈は二本目を織った。
今度の矢は、少し高く放つ。
空へ留める線だ。
弦が鳴る。
二の矢が走る。
一本目より高く、春の夜空へ細い道を置く。
三本目は、深く引いた。
盈の肩に、見えない重みがかかる。腕の腱が弦になったように引き伸ばされ、呼吸が一瞬止まった。
三の矢が、夜を裂いた。
放ち終えたあとも、盈は弓をほどかなかった。
ほどけないのだ。
三本の矢は、遠くへ飛んで終わりではない。
矢は線となり、線の片端は盈の体へ残る。もう片端は、南東沖の空と、海辺の綾と、潮見の詰所の弓兵たちが扱う線へ結ばれていく。
大弓を引いた者は、そこから動けない。
動けば、線がぶれる。
線がぶれれば、その上を走る兵が落ちる。
盈は、今、月渓の錨になった。
南東の海では、春の夜が破れていた。
潮見の詰所は、海へ突き出した岩場の上にある。
昼ならば白い波が砕け、磯の鳥が鳴き、網を干す漁師たちの声が届く場所だ。だが今、岩場の先には黒い裂け目が開いていた。
海上に浮いた『門』は、暗い水面の上で横向きに裂けている。そこから滲み出した禍滲は、波を踏むようにして姿を現した。
魚ではない。
獣でもない。
硬い殻と濡れた肢を持ち、背から細い翼のようなものを垂らし、波間から次々に身を乗り出してくる。海に落ちれば水しぶきが上がるが、すぐにまた浮く。人の足では届かない場所に、『門』はあった。
だから月渓がいる。
「弓兵、線を張れ!」
詰所の指揮役が叫ぶ。
すでに三人の弓兵が岩場へ膝をついていた。彼らは綾の弓を構え、沖へ向かって矢を放つ。その矢は禍滲の体を射抜くためのものではない。空へ、岩へ、『門』の縁へ、綾の線を打ち込むためのものだった。
放たれた矢は、細い線として残る。
その線が、戦場の道になる。
だが線を張る弓兵は、自由に動けない。片端は自分自身だ。自分の体を通して大地の綾を濾し、線を通す矢へ変え、遠くの一点へ留める。線を保つあいだ、弓兵は錨であり続ける。
足を動かせば、線が乱れる。
腕を下ろせば、線が沈む。
呼吸を乱せば、そこを踏む者の足場が揺れる。
「前衛、乗れ!」
若い兵たちが、岩場を蹴った。
月渓の前衛は、ただ走る兵ではない。
彼らは張られた綾の線へ身を乗せる。細い線の上を、足場として踏む。線から線へ跳ぶ。海面の上へ身を投げ、空中で角度を変え、禍滲の頭上を取る。
四大武家の中で、空を戦場にできるのは月渓だけだった。
妻鳥は熾す。
雪簇は留める。
風斎は迷わせる。
月渓は、通す。
遠くへ線を通し、その線を道にする。
だから海上でも戦える。
だから空へも出られる。
だから届かない場所へ届く。
その代わり、ひどく脆い。
線を踏み外せば落ちる。
空中で進路を失えば、禍滲の爪にかかる。
防ぐ術はない。受け止める重さは持たない。
月渓の前衛は、殺される前に殺すための兵だった。
岩場から跳んだ女兵が、空中で腕に沿わせた綾の弩を織る。
矢は番えない。指先を払うだけで、綾が細い矢となって連なった。三本、五本、七本。銀の雨のように禍滲へ降る。
禍滲が翼のような肢を広げた時には、別の兵が上から落ちた。
線を踏む。
跳ぶ。
撃つ。
次の線へ渡る。
その動きは美しかった。
夜の海の上で、月渓の兵は花弁のように舞う。銀の目が月を拾い、青を含んだ黒髪が風に流れ、華やかな戦装束の袖が波しぶきの上でひるがえる。
町の者が昼に目で追った美しさが、そのまま死地で刃になる。
けれど、美しいほどに削れる。
弓兵の口元から、血がにじんだ。
線を保つために奥歯を噛みしめている。肩は動かない。膝も動かせない。体の内側では、綾を濾し続ける負荷が骨を擦る。
前衛の若い兵は、次の線へ渡る時に一瞬顔を歪めた。綾を渡ることで成し得る異常な加速。急な停止。空中での方向転換。そのすべてを、肉体はあるべき負荷として受ける。
綾は人を斬らない。
綾は人を焼かない。
だが、綾を足場にして無理に飛べば、筋は裂ける。綾を弦にして体を引けば、腱は軋む。綾の線へ身を預け続ければ、命は少しずつ薄くなる。
そこへ、遠くから三本の線が届いた。
夜空の高いところへ、銀の道が開く。
「筆頭の大弓だ!」
誰かが叫んだ。
詰所の兵たちの顔が変わる。
海上へ張った低い線だけでは、『門』の上を取れなかった。禍滲は波の下からも、裂け目の横からも出る。低い線だけでは、前衛の動きは読まれやすい。
だが高い線が三本加わったことで、戦場が一気に立体になった。
若い前衛が、岩場から低い線へ乗る。
そこから盈の放った高い線へ跳ぶ。
夜空の中腹で体が一度浮き、次の瞬間、禍滲の真上へ落ちた。
腕に沿わせた弩が鳴る。
銀の矢が、異形の核を抜いた。
禍滲が崩れる。
黒い水のようなものが波に散り、海面が一瞬だけざわめいた。
次の禍滲が『門』から這い出る。今度は二体。前衛の兵が線を蹴って横へ流れ、別の兵が上から撃ち下ろす。
弓兵は動かない。
動けない。
そのかわり、彼らがいる限り、空には道が残る。
沖の『門』を中心に、月渓の線が幾重にも張られていった。
低く、岩場から。
高く、内陸の屋敷から。
空へ、海へ、裂け目の周囲へ。
美しい銀の網が夜の海を覆い、その上を月渓の兵たちが走った。
誰かの肩が外れた。
誰かの指が弓を保てなくなり、隣の兵がその線を受けた。
空から落ちかけた若い兵を、別の前衛が腕を掴んで引き上げる。その者の腕にも、すでに力は残っていなかった。
それでも、線は切らない。
切れば誰かが死ぬ。
潮が引き始める。
春の夜が深くなる。
『門』の縁が少しずつ痩せていく。
そして、最後の禍滲が海へ落ちた。
物見櫓の上で、盈は動かなかった。
夜風が何度も袖を揺らした。見張りの兵は交代した。下から湯が運ばれ口元へ添えられたが、盈は首を横に振った。
飲むために気をそらせば、線がぶれる。
一瞬なら問題ないかもしれない。
だが、その一瞬に誰かが落ちるかもしれない。
だから動かない。
三本の線は、まだ南東へ伸びている。
遠くで何が起きているか、盈には見えない。ただ、自分の体へ残る手応えだけが戦場の形を伝えていた。
一本目が重い。兵が多く乗っている。
二本目が何度も跳ねる。前衛が高く使っている。
三本目は時おり軋む。『門』の縁へ近いのだろう。
指先が冷えた。
肩の奥が熱い。
背骨の内側に、細い刃を差し込まれているような感覚があった。
盈は笑わなかった。
軽口も叩かなかった。
ただ、南東の闇を見ていた。
やがて、空の端が白み始める。
春の夜が薄くほどけ、屋敷の水路が朝の色を含み始めたころ、遠くから馬蹄の音が上がった。
坂下から、屋敷へ向かって駆け上がってくる音だ。
見張りの兵が身を乗り出す。
「使者です!」
盈の睫毛がわずかに動いた。
馬は門前で止まりきれず、蹄を鳴らして白石を掻いた。泥と潮を浴びた若い兵が転がるように下り、息を切らせて膝をつく。
「南東沖の『門』、閉門! 禍滲、討伐完了! 死者なし、重傷三、軽傷多数!」
櫓の上で、誰かが深く息を吐いた。
盈は、ようやく指を離した。
大弓がほどける。
張り詰めていた三本の線が、南東の空で朝の光に溶けていった。
その瞬間、盈の肩が少し落ちる。見張りの兵が慌てて半歩近づくが、盈は片手を上げて制した。
「よっしゃお疲れ~寝るわ」
いつもの声だった。
軽くて、飄々としていて、今まで何時間も動かずに戦場の錨を務めていた男の声には聞こえなかった。
家臣たちは頭を下げる。
使者は涙目で笑った。
盈は櫓を下りる。足取りはいつもと同じに見えた。少なくとも、見えるようにしていた。
廊へ戻るころには、屋敷の中も朝の支度を始めている。下女が水を運び、台所の方で火が起こり、潜めた声が葉擦れのように囁く。
寝所の障子は、細く開いていた。
代は起きていた。
夜着の上に羽織をかけ、髪も下ろしたまま膝の上で両手を握っている。
盈を見るなり立ち上がった。
「盈」
「ただいま。いやー、海遠すぎ。俺んちから見えないし」
笑って言いながら盈は部屋へ入り、二歩目で膝が抜けた。
代が受け止めた。
細腕はか弱くはない。四人の子を抱いてきた腕である。町娘のような身軽さのまま筆頭の妻になった女は、倒れ込んでくる夫の体を真正面から抱え、畳へ叩きつけないように支えた。
「あー……わり、」
「いい」
代の声は固く、指先は優しかった。盈の肩に触れ、背へ回り、熱と冷えを確かめる。
傷はない。血も出ていない。息も乱れてはいるが、危ういものではない。
ただ、ひどく削られている。
月渓の綾は、こうして人を削る。
遠くへ届くほど、体の奥を通る。
線を保つほど、命の芯を細く引き絞る。
弓兵は錨となって動けず、前衛は線を踏んで空へ跳び体を晒す。
誰もが華やかに見える。誰もが美しい。月夜の海を渡る姿は、民が憧れるに足るものだ。
だが、その美しさの裏で、肩は裂け、腱は軋み、目は霞み、呼吸は浅くなる。
一度の戦で命を落とさずとも、何度も何度も削られていく。
だから月渓家には、若くして散る者が多い。
咲ききった花のように美しく、あっという間に名だけになる。
盈の兄たちも、そうだった。
代は、まだ何か言いかける盈を布団の方へ追いやった。
「ほら早く寝ろ。後のことはやっておく」
「代ちゃんやさし~」
いつもなら、そこで二つ三つ余計な言葉が続く。
けれど今夜の盈は、笑っただけで素直に横になった。ふざけた声の軽さに反して、体は布団へ沈むなり重い。力を抜いたというより、支えていたものをようやく手放したような崩れ方だった。
代は眉を寄せる。
袖口からのぞいた指先は冷えて白く、呼吸も少し浅い。肩から背にかけて、まだ見えない弦を引き続けているようなこわばりが残っていた。
一晩かけて遠い海へ通した線が体の奥に残っている、そういう疲弊だった。
代は布団を肩まで引き上げる。
それから、乱れた髪を額からそっと払った。
「お疲れさま、盈」
返事はなかった。
ついさっきまで軽口を叩いていた男は、もう深く眠っている。
代はしばらくその寝顔を見下ろし、胸の底に残っていた息を静かに吐いた。
障子の外で、朝が始まっていた。
人々が起き出し、庭の水路を夜のうちに落ちた花弁が流れていく。白石の道に朝日が跳ね、屋敷の奥から子どもの声がひとつ上がった。
港へ向かう坂では、きっともう店の戸が開き始めている。潮見の詰所では、削られた兵たちが包帯を巻かれ、肩を貸し合い、ひどい顔で笑っているだろう。
誰かの指はしばらく弓を引けない。誰かの膝は数日まともに立たない。それでも彼らは、町に戻ればまた眩しい花として見られる。
月渓領の春は、今日もまばゆい。
昨夜海上で開いた『門』の黒さなど知らない顔で、空は明るく澄んでいた。




