四方の春(三)――綾寧449年
雪簇領の春は、水の音から始まる。
弥生に入ると、山肌に残っていた雪は日を受けたところから早々に崩れた。真冬の白さはもうない。谷の斜面や林の陰に古い雪がまだ薄く残るだけで、昼の風にはかすかなぬるみが混じっている。
冬が緩めば道は悪くなる。
雪解けの水が土へ染み込み、細い流れとなって畦を越え、低いところへ集まる。草鞋の底はすぐ泥を含み、荷車の轍には浅い水が光った。村の脇を走る水路も普段より少し嵩を増している。整えられた石組みの間を、濁った春の水がせわしなく鳴っていた。
雪簇の者たちは、その水音を聞きながら綾を見回る。
雪簇家は、四大武家のうち守りに長けた家である。
綾を凝らし、留め、繋ぐ。それは結界であり、盾であり、檻だ。村と戦場のあいだに境を置き、門の裂け目を押さえ、禍滲の進む先へ見えない囲いを組む。
それを励起するための起点である綾の『節』が、雪簇のあらゆる地に結ばれていた。
冬から春へ移るころ、識島を満たす綾の流れも少しずつ調子を変える。綾は雪や水に壊されるわけではない。だが、時の流れと季節の移ろいは、綾の向きや濃淡をわずかに動かす。
古い結び目は浮き、強引に織った節は疲れを見せる。そこへ『門』の揺れや禍滲の余波が重なれば、ふだんは保つものも春先には思わぬところからほどけかねない。
花宮寄りの山裾にある小さな詰所でも、朝から節の記録が広げられていた。
本家の水都めいた賑わいからは離れた、畑と低い丘に挟まれた土地である。
壁際には濡れた外套を掛ける横木があり、部屋の中央には低い机が三つ並び、雪簇の兵たちが次々に戻ってくる。草鞋についた泥が土間へ落ち、火鉢の炭が小さく鳴る。墨の匂いと、濡れた革の匂いと、春泥の湿りが混ざっていた。
その隅で、月渓音澄は帳面を抱えていた。
「音澄殿、南の境節、昨日の控えは」
「きったねえなあ、洗えよそれ」
「なあ! 東筋の二番目の水路脇、誰か見た?」
「音澄ちゃん、囁石の予備どこ置いたっけ」
「何回出すつもりだよこの茶葉! もう湯だよ!」
詰所では、絶えずあちこちから好き勝手な声が重なって飛ぶ。
音澄はそこから必要な声だけを抜き取り、顔も上げずに答えていた。
「三枚目、下から二つ目。浮きあり。右組が見に行くやつです」
「左の伊佐さん。帳面はまだ戻ってませんぜ」
「火鉢の脇。濡れた外套の下に置いた馬鹿はあとで怒られてくだせえ」
わあわあ騒ぐ雪簇の男たちの声を聞きながら面倒そうに筆をくわえ、片手で帳面の端を押さえている。
ちんまりとした女だった。
膝をそろえて座っていると、まだ少女に見えるほどに小さい。だが顔立ちは、見る者が一度は目を止めるほど華やかだった。
濡れたような黒髪は艶やかに頬をすべり、前髪には青い毛束が細く流れている。伏せた睫毛の下にある目は、夜に浮かぶ月を薄く削ったような銀だった。手本のような月渓家の色である。
月渓家は男女ともに美しいことで有名だ。その美は風斎家のような陰のある繊細さとは違い、整えられた花器へ大輪の花々を惜しみなく生けた時のそれに近い。色は鮮やかで、姿はよく映え、見る者の目を奪うことを少しも遠慮しない。
音澄もまた、その血をよく継いだ娘だった。
口さえ開かなければ。
「旦那、今日こそあっしはここで帳面番ですよね」
音澄は、入り口近くに立つ男へ向かって言った。
「昨日も一昨日も泥ん中ですぜ。月渓の女を雪簇の春泥で煮しめてどうすんですか。嫁の貰い手がますますなくなるでしょうが」
雪簇竟士は、濡れた外套を肩から外しながら振り返った。
大柄な男である。雪簇の者らしい硬い骨格に、前衛の者の厚みが乗っている。
土色の髪には金が混じり、短髪と呼ぶには少し長い毛先が動くたび額や襟足で跳ねた。若葉を思わせる緑の目はよく笑い、よく人を見る。詰所にいる若い兵たちは、竟士がそこにいるだけでどこか肩の力が抜けたような顔をする。慕われ、頼られる、気のいい男。
音澄以外には、そう見えている。
「なんだミミ、お前嫁入り先を探してんのか」
「ええ、ええ、探してますとも! こちとら花の十七ですぜ! なのに毎日毎日旦那に引きずり回されて泥まみれ、だァれも寄りつきゃしねえんですわ!」
「じゃあ俺が貰うが」
「ぜっってえ嫌です」
音澄は即座に言った。
「旦那の妻になんてなった日にゃ、今以上に無茶苦茶されるに決まってら」
竟士は声を立てて笑った。
周囲の兵は笑っていいものか迷いながら、憐れみ半分面白半分の目で聞いている。
音澄の物言いには皆もう慣れていた。初めて聞いた者はたいていその美しい顔から飛び出す三下のような口ぶりに動揺するが、二度目からは困惑しながらも受け入れる。
笑いはそのまま詰所のざわめきに溶けていった。戻ったばかりの兵が湯を啜り、別の者が広げた記録へ筆を入れる。竟士が、何か言いかけた。
その時だった。
耳元で囁石が鳴る。
男たちの声が止まる。音澄も帳面を抱えたまま顔を上げた。各々の囁石の奥で、氷の薄片が触れ合うような音がし、次いで警報の声が割れて届く。
≪『開門』。雪簇領南西、梨生村北、旧畑地。規模、小。出現数、未詳。境節、二つ揺れ≫
詰所の空気が、一拍で変わる。
兵が立つ。机の上の帳面が閉じられ、外套が取られ、掌が武具を織り始める。
竟士はすでに戸口へ足を向けていた。
「右組は先行。村の下手を押さえろ。畑の外周にも節を打て。左組は怪我人の受けを作れ。若いの、浮くなよ。小さい『門』でも死ぬ時は死ぬ」
返事が重なる。
竟士は振り向き、音澄の襟首をつかんだ。
「行くぞ、ミミ」
「待ってくだせえよ旦那!」
音澄は帳面を抱えたまま悲鳴を上げた。
「あっしは後ろで帳面持ってる役でしょうが。前に出たら死にますって」
「俺が守る」
「そうじゃねえ!」
音澄はそこでいっそう情けない声を出した。
「守られてたって怖えもんは怖えんです!」
文句は最後まで続かなかった。
外にはすでに馬が引かれていた。竟士は鐙へ足をかけ、音澄の腰帯を片手で掴むと荷でも積むような手つきで自分の前へ引き上げる。
「落ちるなよ」
「あんたが責任もって抱えてくださいよ!」
竟士は笑い、手綱を鳴らした。
馬が泥を蹴る。詰所の前から次々に馬が出た。春の空気は白く、雪解けの水が軒の端から落ちている。馬の鼻息はもう真冬ほど濃くは白まない。蹄が柔らかく崩れた土を打ち、浅い水を散らして走った。
山裾の道は濡れていた。
雪簇の土地は、春になると水に満ちる。乾いた土に見えても、踏めば下から泥が上がる。村へ近づくにつれて、水音に別のものが混じった。
綾の鳴りだった。
音澄には、それが聞こえる。
耳がよい、と言われれば少し違う。遠くの声を拾うだけならもっと適した者がいる。
音澄が得手とするのは、混ざった音を切り分けることだった。
水の音。馬の蹄。兵の声。耳元の囁石に残る警報の余韻。どこかで子どもが泣く声。女が戸を閉める音。水路の縁を水が叩く音。そこに薄く、綾の節が軋む音がある。
普通ならまとめて戦場の騒ぎになるものが、音澄の耳には何枚もの薄布のように重なって届く。
「右の節、割れかけてますぜ」
音澄は竟士の腕の内で、風に声を持っていかれないよう張った。
「村側じゃねえ。畑の奥、石垣の下。『開門』の揺れが下から噛んでる。古い節が引っ張られて、結び目が浮いてる」
竟士は頷く。
「聞こえたな。右組、石垣だ。古い節は捨てろ。打ち直せ」
「承知!」
兵が二騎、泥を蹴って進路を変える。
警報通り、梨生村の北に『門』が開き始めていた。
古い畑地の石垣が半ば崩れ、その上に空が裂けている。黒とも紫ともつかぬ色が、濡れた布の裏のように揺れた。そこから禍滲が二体、すでに這い出していた。
一体は長い腕を持ち、地面をかきむしるように進む。もう一体は背が低く、胴の輪郭が定まらず、春の泥を引きずっていた。
竟士は畑の手前で馬を止めた。
音澄が鐙を足で探すより早く彼女を抱えて飛び降り、短く口笛を吹く。その合図に従って、馬は手綱を離されると泥を避けるように畦の外へ退いた。ほかの馬も同じように戦場の外へ流れていく。
雪簇の兵たちが散った。
彼らの手から白い綾が走る。まず、畑の縁へ『節』を打つ。
風斎は迷い。妻鳥は熾。月渓は線。そして雪簇は、節。
雪簇固有の術は、そこにある綾の流れに結び目を作る。
一点。
もう一点。
さらに、その先へ三点。
白い節同士が細い綾で繋がる。線は禍滲の進む向き、『門』から漏れる異界の力、畑と村の境目を読むようにして張られていく。
雪簇の戦は、まず場所を定める。
ここから先へ出すな。
ここへ押し返せ。
ここで止めろ。
そういう命令を、綾の節と糸で戦場そのものへ刻む。
節と節のあいだに、六花の骨のような構造が浮かんだ。
風は通る。人も抜けられる。畑の若い芽も、泥も、水もそこにあるままだ。
だが禍滲が触れた瞬間その糸だけが硬くなり、異界のものだけを縫い留める境界となる。
「小さいな」
竟士が言う。
「小さくても嫌ですよ」
音澄は竟士の背に隠れながら言った。
竟士は前を見たまま、短く言った。
「一体目で死の音を拾う。いつも通りだ」
音澄は顔をしかめ、帳面の紐をほどいた。
「禍滲もおっかねえけど、あっしは旦那の頭が一番怖えわ」
その悪態に肩をすくめ、竟士は前へ出る。
「右を閉じろ。村にも畑にも寄せるな。畑を捨てるのは最後だ。左、押さえたら結べ。深追いするなよ。芽を踏ませるな、人を近づけるな」
兵たちが応じる。
禍滲の長い腕が伸びた。爪は黒く、泥に触れたところでかすかに煙を上げる。
雪簇の兵が節を打つ。白い点が禍滲の足元へ三つ生まれ、そこから細い糸が四方へ走った。
禍滲はなお前へ出ようとする。
その足元に打たれた節が、動きの起点を固定した。糸が足を縫い止め、そこから先へ進もうとする力を節が掴んだ。
禍滲の胴が進む。
腕が伸びる。
だが足元の進みだけが遅れる。
輪郭が、内側から引っ張られるように歪んだ。
「結べ!」
竟士が言う。
四つ目の節が禍滲の背後へ打たれた。
糸が引かれるように境界が閉じていく。
四方から引かれた白い筋は、禍滲の動きを一点へ戻す。逃げようとするほど、進もうとするほど、力が自分の内側へ返る。
禍滲の体が軋んだ。
竟士はその隙へ踏み込んだ。
手の中で綾が織られる。
白い綾が束ねられ、一本の槍の形になる。柄も穂先も雪を固めたように硬く透き通っている。口元の笑みは消え、その動きに迷いはなかった。
槍が禍滲の核へ入った。
突き入れたそこへ新しい節を打つ。穂先が沈み、白い糸が禍滲の内側へ走る。
外側の節が動きを押さえ、内側の節が核を定める。
次の瞬間、結ばれた糸が一斉に締まった。
禍滲の輪郭が六角に引き攣り、弾ける。
竟士は、動かなかった。
突き立てた槍を握ったまま、崩れていく禍滲を見ていた。
核を打ち抜いた手応えを確かめる目ではない。残心として周囲を測る目でもない。
黒い輪郭が崩れ泥の上へ落ちる前に薄れていく、その終わりの一瞬を、瞬きもせず見つめている。
「ミミ」
その目のまま、竟士が言った。
「聴け」
死の音を。
異形の化物の、断末魔を。
禍滲のどこに喉があるのかは分からない。口と呼べるものがあるのかも怪しい。それでも、崩れていく体の奥から空気を擦るような音が漏れていた。
泥に沈んだ縄を引き上げるような、濡れて、重く、ほどけかけた音。そこへ硬いものが混じる。骨ではない。貝殻でもない。もっと細く、もっと古いもの。
絡んだ糸を無理に抜く時の、きし、きし、という歪み。
その中で、同じ響きが二度、短く跳ねた。
音澄は、息を止めて目を閉じる。
周りの音が少し遠のく。水路の音も、兵の声も、泥を踏む足音も、薄い幕の向こうへ下がる。その隙間に残る断末魔の癖を、耳で追った。
「……ありました」
「どの印だ」
「二拍跳ねるやつです。前に拾ったのと似てる。意味はわかんねえし、言葉かどうかも」
禍滲の体は地面の上で崩れていく。黒い輪郭はじきに春泥に混じって、最後は何も残らない。
音澄は震える指で帳面の端を開いた。
聞いたものを、音が薄れる前に符へ落とす。
長い濁り。
途中で切れる震え。
最後に跳ねる、二つの点。
「次が来るぞ」
二体目が動いた。
低く、速い。地を這うようにして節と節の隙へ入り込もうとする。竟士は槍を返し、左手で空へ節を打った。
今度は囲うのではない。
禍滲の進路の先へ、薄い面が三枚立つ。どれも壁というには頼りない。だが禍滲が触れた瞬間、その面は進む力を斜めに受け流し、あらかじめ打ってあった節の方へ誘導した。
雪簇は、ただ防ぐ家ではない。
止める。
向きを定める。
定めた場所へ追い込み、そこで結ぶ。
禍滲は面に弾かれ、横へずれた。
そこへ右組の節が入る。
前足に一つ。
胴の下に一つ。
『門』へ戻る道に一つ。
三点が結ばれた瞬間、禍滲の輪郭は地面へ貼りつけられたように沈んだ。
「竟士殿!」
「分かってる」
竟士の手の中の槍がほどけ、短い杭の形に変わる。投擲。白い杭は禍滲へ届く直前で割れ、細かな節となって突き刺さる。
雪の結晶が内部から生えるように、禍滲の体に白い筋が走る。
「閉じろ!」
周囲の節が一息に内へ畳まれた。
六花の骨が花を閉じるように縮み、異界の輪郭をこの世の綾の結び目で縫い潰す動きだった。
禍滲は退避しようと暴れる。
だが暴れるほど、節は締まる。
そして二体目もまた、不気味な音と黒い輪郭を崩して消えた。
「ミミ」
「聴きましたっ」
二度目の音は、一度目より短かった。濁りが多い。途中で途切れるところがある。けれど最後に、同じ二拍が跳ねる。
音澄は符を重ねた。
似ている。
まったく同じではない。だが、近い。
何を意味するのかは、分からない。
ただ、違う死に同じ形が混じる。
二体仕留めたところで、『門』は閉じ始めていた。
黒紫の揺らぎが内側へ巻き取られていく。しかし雪簇の兵たちは警戒を緩めない。左組が『門』前に防壁を立て、右組が畑の外周を押さえ、竟士は音澄を背に回して全体を見た。
その瞬間、閉じかけていた裂け目の縁が、内側から膨れた。
圧。
空気が鈍く潰れる。綾の節が短く軋む。
『門』前の左組が張っていた白い防壁に、黒い角のようなものが突き立った。
閉じる『門』をこじ開けるようにして出てきた力が、面を内側から押している。
白い線に罅が入る。
「押さえろ!」
左組の兵が叫ぶ。
二人が節を足す。面を厚くする。だが遅い。
罅は一息で広がり、防壁が白い破片のように割れた。
そこから、三体目が飛び出した。
小さい。
先の二体よりずっと小さい。だが速かった。
閉じる『門』から無理やり出たせいか、輪郭は乱れ、肢の数も定まらない。黒い塊が地面を跳ねるように走り、『門』前にいた若い兵へ向かった。
「椋、下がれ!」
竟士の声が飛ぶ。
間に合わなかった。
椋は防壁を割られた反動で片膝をついていた。立て直そうとしたところへ、三体目の禍滲が低く潜り込む。
禍滲の胴から枝のようなものが伸びた。爪でも牙でもない。濡れた根の束に似たものが、椋の脇腹へ入った。
抉るように抜ける。膝が折れ、濁った息が一つ、短く漏れる。
音澄の前へ白い節が三つ立つ。三点が結ばれ、薄い守りが彼女を包んだ。禍滲の進路を斜めに折る、竟士の節だった。
次に、竟士は椋と禍滲の間へ踏み込んだ。
槍を織る暇はない。手首の動きだけで節を織る。禍滲の足元に二点。背後に一点。逃げる先に一点。
四つの節が泥の上で光り、糸が結ばれる。
「そこにいろ」
誰へ言ったのか、音澄には分からなかった。
自分へか。
椋へか。
禍滲へか。
竟士の右手が閉じる。
糸が締まった。
三体目の禍滲はまだ暴れようとしたが、乱れたその輪郭は節の内側で形を歪めるだけだった。
竟士の手から放たれた綾の短槍がその中心へ突き立つ。
黒い塊は泥の上で痙攣し、崩れ始めた。
「ミミ」
竟士は振り向かなかった。
「聴け」
音澄は、守りの内側で凍りついていた。
椋が倒れている。禍滲が崩れている。割れた防壁の白い破片が、まだ空中に細く残っている。
それでも耳は聞く。
三体目の死の音は、先の二つより荒かった。『門』に押し潰されかけたせいか、途中が潰れ、裂け、まとまりがない。
だが最後に、やはり二拍跳ねた。
音澄は息を詰め、帳面へ点を打った。
点が滲んだ。
手が震えていた。
竟士はその間に、椋のそばへ膝をついていた。
「椋」
椋の目が揺れた。
失血で焦点が合っていない。それでも、竟士の声の方へ戻ろうとする。
「『門』は閉じる。村も畑も守った。聞こえるか」
椋の唇が少し動いた。
音にならない。
竟士は顔をさらに寄せる。
「聞く。言え」
音澄は、節の守りの内側から一歩出た。
出たくなかった。足元の泥がぬるい。血の匂いがする。山の水音がひどく遠くなり、椋の息だけが近い。
竟士は椋のそばへ膝をついたまま、その手を握っていた。
「椋。聞いてる」
低い声だった。
椋の喉から、ひゅ、と細い音が漏れた。
息と血の混じる音。
その底で、小さな言葉がほどける。
「……母に」
竟士が頷く。
「戸の……上の、箱……弟の、組紐……」
「戸の上の箱。弟の組紐だな」
椋の指が竟士の手をわずかに握った。
もうほとんど力はない。
「春の……祭り、に」
そこで声は切れた。
竟士は、その顔を見ていた。
椋の言葉を聞き終えたあとも、その目は伏せられなかった。
椋の呼吸が細くなり、瞳の焦点が遠のき、握っていた指の力が抜けていく、その一つ一つを見届けている。
それは禍滲が崩れていくのを見るのと、同じ目だった。
竟士の手は椋の手を包んでいる。声は低く、静かで、同胞を置き去りにしない者のそれだった。
それでも、音澄には分かった。
竟士は今際の言葉を聞いているのではない。椋が死んでいく、その瞬間そのものを見ている。
息が細く引かれる。
喉が閉じる。
胸が一度だけ小さく上がり、それから落ちる。
それが最後だった。
竟士は椋の瞼をおろす。
その動きは静かで、丁寧だった。
「よく止めた」
彼は低く言った。
「お前の言葉は届ける」
周囲の兵たちが、誰からともなく頭を下げた。
音澄は、その中でひとり、帳面を抱えたまま立っていた。
そうして、此度の戦は終わった。
『門』は閉じ、雪簇の兵たちは残った節を繋ぎ直す。
村人たちは下手の社へ避けており、家屋に大きな損ないはない。畑の端は少し荒れたが、踏み潰された範囲は狭い。若い芽もその多くが残っていた。
椋の体は白布に包まれ、仲間の背で帰る。
竟士は、村の者へ明るく声をかけた。
怖かったな。もう出てもいい。子どもを先に湯へ当てろ。畑は明日見る。水路の石組みも崩れていないか確かめる。何かあれば詰所に来い。
その声を聞いて、村人たちの表情が少しずつ戻る。若い娘が泣き、老人が手を合わせ、子どもが母の袖に隠れた。
竟士は皆に応じた。誰かの肩を叩き、誰かの荷を持ち、泣く子へ笑いかける。
音澄は畑の端に座っていた。
膝の上に帳面を置き、筆を持つ。手はまだ少し震えている。
そこへ書くものは、識島の文字だけでは足りなかった。禍滲の音は言葉に置き換えられない。だから音澄は、自分だけに分かる符を使う。
長い音には引いた線。
濁りには墨を重ねる。
跳ねる音には小さな二つの点。
切れ目には空白。
午後の光が、畑の水へ落ちている。
雪解けの流れは、戦のあとにも変わらず鳴っていた。水は石の間を抜け、土を湿らせ、山から村へ下りていく。
音澄の耳には、その奥でまだ三つの死の音が残っていた。
竟士が隣へ腰を下ろした。
泥のついた膝を気にする様子もない。いつものように大きな体で、音澄の帳面を覗き込む。
「書けたか」
「書けましたよ。書けましたけどね、旦那」
音澄は筆の先を整えながら、不機嫌に言った。
「これ、万一誰かに見られたらあっしの嫁入りは本当に終わりですぜ。気味の悪い符を書き散らす女なんざ、どこの家も欲しがりゃしません」
「だから俺が貰うって」
「一生独り身でいいです」
竟士は笑ったが、すぐに真顔の内に畳まれた。
「この印だな。三体全てにある」
「ありますね」
音澄は重く息をつく。
「三つとも。まるきり同じとは言いませんけど、似てる。似てるから嫌なんです」
「なぜ」
「禍滲の断末魔なんて、もっとばらばらでいいでしょうが。潰れた音、裂けた音、焦げた音、そこで終わりでいい。なのに妙に癖が残る。そこが気持ち悪いんです」
竟士は帳面へ目を落とした。
「音が癖なら、癖を作るものがある」
「意味があるとは限りませんぜ」
「ないかもしれない。あるかもしれない」
「旦那は、結局何を聞きたいんです」
竟士はすぐには答えなかった。
畑の向こうで、兵たちが椋を運ぶ支度をしている。村人の泣き声が遠く聞こえた。水路の水が、石組みの間で濁った音を立てている。
竟士は、そこから目を逸らさずに言った。
「死とは何か」
音澄は口をつぐんだ。
竟士の声は大きくなかった。戦場のあとの泥と水音の中で、聞き落としそうなほど静かだった。
「俺は死にたくない。死ぬのは怖い。だから知りたい。分からないもののまま待つのは嫌だ」
「……それを禍滲に訊くんですかい」
「人には訊けない」
竟士の横顔はいつも通りだった。
「守り、戦い、責を果たし死にゆく同胞に、死とは何かなど訊けるか」
死ぬのは怖いか、など。痛いか、終わると分かるのか、何を思うのかなど、訊けるはずもない。
当たり前の言葉だった。
だからこそ、次がひどく冷たく聞こえた。
「だが禍滲ならいいだろ? できれば生捕りにして嬲り殺したほうがもっと色々聴けそうなものだが、なかなかそうはいかんな」
それはまるで天気の話でもするような、日常の上にある声だった。
「……禍滲に言葉があるかも分かってねえのに」
「だからお前が要るんだ」
音澄は、帳面を抱える手に力を入れた。
「禍滲が死を恐れるなら、あれらにとって死の概念が俺たちと同じなら、断末魔に混じるかもしれない。怒りか、苦しみか、ただの反射か、それとも祈りか、命乞いか。言葉に近づければ、少しは分かる」
春の湿りが袖の中へ入り込む。山から下りてくる水音は細く濁っている。
音澄は男の萌芽色の目を見られなかった。それが理性の光を宿しているとわかっていたからだ。狂気の色に沈んでいる方が、よほどましだった。
「やっぱり最悪ですぜ、旦那」
「そうか」
竟士は立ち上がり、いつもの明るい声へ戻って兵たちを呼んだ。
「帰るぞ。椋を待たせるな。村の湯を借りる者は礼を言えよ」
兵たちが応じる。
戦場だった畑に、人の声が戻っていく。
音澄は少し遅れて立った。
草履の裏に泥が絡む。裾も汚れている。か弱い女をこんな場所へ連れてくる男など、やはりろくなものではない。
けれど、その男の背中は大きかった。
その背の後ろにいれば、禍滲の爪は届かない。飛び散る肉片も、乱れた綾も、死にもの狂いの一撃も届かない。竟士は言ったことは必ず守る。
だから余計に、ひどい。
帳面の中に三つの断末魔が並んでいる。意味も分からない、言葉かどうかも分からない、ただ似ているだけの音。
きし、と。
きし、と。
それは濁った春の水底で消えずに残る小さな傷のように、音澄の耳の奥に残っていた。




