四方の春(二)――綾寧449年
妻鳥領の早春は、暦ほどにはやわらかくない。
町の北側にはまだ雪が残り、軒下からしたたる露は朝のうちだけ細く凍った。昼へ近づくにつれて道は泥を含み、荷車の轍は黒く沈む。歩く者はみな、ぬかるみの浅いところを選んで足を置いた。
雪が残る。泥が跳ねる。手が冷える。妻鳥の者にとって、春の初めとはそういうものだった。
本家屋敷の訓練場でも、季節は同じ顔をしていた。
内庭の向こうに広く取られた土の端には、寄せられた雪がまだ白く残っている。そこから細く水が流れ、踏み固められた地面は黒く濡れていた。泥は重い。足を置けば沈み、引き抜けば遅れる。
その上で、若い兵たちは綾の得物をぶつけ合っていた。
槌、斧、太い棍。妻鳥の綾は細く整うより先に、まず重さを持つ。振れば空気が鳴り、受ければ足もとが沈む。
泥の中へ半歩踏み出した燈が声を張る。
「右端、手で振るな!腰が逃げてる!」
若い兵が叫ぶように返す。
「すみません!」
「禍滲相手にそんなんじゃ振り抜けねえぞ!」
返事の代わりに、兵は歯を食いしばって得物を構え直した。周りの兵たちもつられるように足を開き、泥を踏みしめる。次の打ち込みでは先ほどまで浮いていた気負いも薄れ、誰もが得物の重さを体へ乗せることだけに意識を向けていた。
燈の目は明るい。けれど、見ているところは細かい。足の置き方。肩の入り方。泥に取られた重心を、次の動きへ戻せるかどうか。
妻鳥らしく声は大きいが、ただ怒鳴っているわけではない。
そしてその足元では、五つの赫姫が綾の槌を両手で握っていた。
燈と璉の長子である。灰色の髪は顎のあたりで切りそろえられており、赤い目をまっすぐ前へ据えている顔は父によく似ていた。丸い頬は幼いのに、真剣な時の眉の寄せ方までそっくりである。
綾で織った槌は赫の背丈の半分ほどもある大きさで、小さな体には十分に長大だ。
兵たちの邪魔にならぬよう隊列からは下がり、けれど燈が片足をずらせば庇える距離で、大人の真似をして腰を落としている。
ぬかるみに足を取られた兵が、上体だけで槌を振った。
その横で、赫が同じように振りかぶる。足を開き、腰を落とし、泥を押して前へ出る。勢いが余って少しよろけたが、手だけで振ってはいなかった。
燈の笑い声が訓練場へ飛ぶ。
「おいおい、ウチのちいこい姫の方がお前らよりよっぽど腰入ってんぞ!」
泥をつけた兵が声を上げた。
「姫に負けるわけにはゆきません!」
兵の顔つきが変わる。次の踏み込みは深かった。泥が跳ね、受けた相手の足が半歩下がる。
褒められたと分かった赫は、得意げに槌を握り直した。
その訓練場から渡廊ひとつ隔てた炊事場では、昼餉の支度が進んでいた。訓練場の泥と声に負けないだけの熱がそこにも満ちている。大鍋はいくつも据えられ、湯気と肉の匂い、根菜の甘い匂いが広がっていた。
飯を炊く釜の蓋が鳴り、火の番が薪を差す。訓練場の声はここまで届くが、言葉まではほとんど割れた音になる。かわりに、泥を落としに来た下働きや水を運ぶ女たちが、向こうの様子を笑い混じりに伝えていった。
鍋の底を返す女へ、璉が手を振る。
「もう少し火を弱めてくださいませ。まだ昼餉までは間がありますし、煮えすぎると芋が崩れてしまいますわ」
普段はふんわりと下ろされている髪をまとめ、林檎のような赤い目は人と鍋の動きを追っている。おっとりとした声は相変わらず大きく、指示も早い。
そうしてくるくる動き回る帯の下では、腹がふっくらと前へ張り出していた。赫と、今は座敷の方で女房に預けている長男の熾に続く三人目だ。もう厚手の衣を重ねていても一目でわかるほどで、近くを通る女たちは自然と璉の代わりに重い桶へ手を伸ばす。夏を迎える頃には、この賑やかな家へ新しい泣き声が増えるはずだった。
その炊事場の前を、薬屋の印をつけた薬籠が通った。
運んでいるのは、屋敷がひいきにしている町の薬屋で働く若い娘だ。
名は春という。
口はきけないが仕事は丁寧で、薬包の仕分けも帳面も間違えない。薬庫番はもちろん、本家屋敷では愛想のよい娘としてすっかり顔を覚えられていた。
その背には乳飲み子が負われている。春の腹から産まれた子ではない。彼女にはほかにも子どもが三人いるが、どれも行き場を失った孤児たちだった。
隣で薬籠を抱えている春日は、その中でいちばん年長である十ほどの少年である。目つきは悪く、黙っていれば不愛想を通り越して喧嘩腰に見える。それでも屋敷の中では薬屋の使いとしてきちんと顔を伏せていた。薬籠を抱える腕にも、廊を踏む足にも、子どもなりの緊張がある。
その鼻先に肉と根菜を煮る匂いが湯気に混じって流れてきた。鍋の方でまた誰かが笑い、釜の蓋が開けられる。
春日の視線がそちらへ流れかけ、だが、春が薬庫口へ目を向けたのに気づくとすぐ薬籠を抱え直した。浮きかけた意識を戻すように顎を引き、養母の隣へきちんとつく。
薬庫は訓練場に近い棟の陰にあった。
扉を閉めれば外の喧騒が一段薄くなる。燈の張った声も、兵たちの返事も、綾の得物がぶつかる重い響きも、板戸と土壁を隔てて鈍く届く。
薬庫の中には薬草の乾いた匂いと油を含んだ布の匂いが濃く溜まっていて、外の泥と汗の気配を少し遠ざけていた。
棚は壁一面に組まれており、上段には湿気を嫌う薬草の包み、中ほどには膏薬の壺、下には急ぎで使う止血布や添え木がまとめられている。どの棚にも札が掛けられ、古いものと新しいものが混ざらぬよう位置が決められていた。
妻鳥の者たちは声も足音も大きく何かにつけておおらかだが、怪我人の手当てに関わるものは雑に扱わない。訓練場で笑って泥へ転がる兵も、戦場へ出ればその布一枚で腕が残ることがあると知っているからだ。
薬庫番の女へ一礼し、春は荷をほどく。声が出せないぶん、最初の礼も包みを置く手順もいつも丁寧だった。薬庫番ももう慣れたもので、春が持ってきた荷を見て棚札を確かめながら空いた場所へ手を添えて示した。
「止血布は手前の二段目に。昨日の午後でずいぶん減ってな」
春が頷き、取り出した止血布を春日が横から受け取って崩れないよう棚の奥へ押す。指先はまだ子どものそれだが、荷の扱いは慎重だった。
「膏薬は訓練場用をこちらへ。奥向きの分は、薄紙の札をつけたまま頼む」
壺の布を確かめ、色分けした紐を薬庫番に見せてから指定された場所へ並べる。手元の迷いは少ない。どの壺が打ち身用で、どれが裂傷のあとに使うものか。どの包みを手前へ置き、どれを奥へ入れるべきか。
春は声で確認できない代わりに、目と手で何度も確かめる。薬庫番が札を指せば頷き、棚を示せば包みを運び、違いがあれば小さく首を傾げて帳面へ目を落とす。
春日は勝手に動かない。差し出された包みだけを受け取り、春が置いた順を崩さないよう運ぶ。声のない養母に代わって確認する。
「これ、いつものじゃなくて追加で頼まれたもんです。どうしますか」
「ああ、その薬草はこっちの高い棚へ。湿るといけない」
「はい」
薬庫番は置かれた包みの数を帳面に合わせて数えた。紙の端を指で押さえ、ひとつ、ふたつ、と目だけで追っていく。
薬は飯や薪と違って、多めにあればよいというものではない。古いものを残せば効きが落ちる。しかし足りなくなるのはもってのほか。妻鳥の屋敷では毎日のように誰かが打ち身を作り、擦り傷を負い、泥で足を滑らせる。
だからこそ、薬庫の中だけは賑やかな家中から切り離されたように、順番と数で動いていた。
作業を進めていると、背負った赤ん坊が小さく声を漏らした。春は手を止めて首だけで様子を確かめる。荷の途中であっても、背の子の息を確かめる動きは自然に出る。軽く体を揺らすと赤ん坊は眠りの底で小さく口を動かし、そのまままた静かになった。春はほっと目元を緩め、止めていた手を戻す。
最後の包みを開こうとした時、訓練場の音が一段重くなった。
打ち合いの間合いが詰まり、泥を踏む足が深くなる。肩に力が入りすぎた兵の綾が、空気を噛むように鳴った。
薬籠を抱えたまま、春日が戸の外をちらりと見る。
濃い灰の髪が、訓練場の端を横切っていた。
妻鳥総領、宵である。
血のように暗い赤の目が訓練場を見渡すと、兵たちは分かりやすく張り切り始める。
若い者の踏み込みが急に深くなり、受けの音が太くなる。いいところを見せようとした一人が泥に足を取られて前へ突っ込みすぎた。
燈がすかさず声を張る。
「総領が来たからって急にかっこつけんな!」
泥だらけの兵が笑いながら返す。
「だって総領に褒められたい!」
「若だって声さっきの二倍くらいでかいじゃないすか!」
「そうだが!? 俺だって総領に褒められてーもん!!」
訓練場がどっと沸く。宵は止めない。笑いの中で、突っ込みすぎた兵の足元を見ていた。
「踏み込みはいい。ただ、そのままだと戻りが遅いな。次で詰まる」
兵の顔がすぐに締まる。次の一合では、踏み込んだ足が泥から早く抜けた。
「そう。その方がいい」
その一言で、兵の背が伸びる。その周りまで嬉しそうに得物を握り直した。
赫も負けじと槌を構え直し、褒められた兵と同じ顔で胸を張っている。
「赫は、体重がちゃんと乗っているね」
赫がぱっと顔を明るくした。
「おじさま、見てた!?」
「見てたよ」
「あかり、もっとできます!」
燈がすぐ兵たちへ向いた。
「聞いたか。お前ら、五歳児に負けるなよ!」
笑いがまた起きる。だが宵の声が続くと、場の芯だけがすっと通った。
「はいはい、笑っていても手は止めない」
兵たちは笑ったまま、得物を構え直した。
妻鳥の兵たちにとって、宵は遠くから拝むだけの総領ではない。幼いころから顔を知り、戦場へ出れば先頭に立つ姿を見てきた相手だった。
宵が見ているなら、より強く踏み込み、より確かに戻る。生きて帰る兵になろうとする。燈がそれを煽り、離れた炊事場では璉がその腹を満たす支度をしている。
妻鳥の家中は、そうやって騒がしく回っていた。
その騒がしさを背に、宵は薬庫の戸口へ足を向ける。
歩き方はのんびりしている。けれど、場の空気だけは自然と少し変わった。泥と声と綾の重さに満ちた場所から、ふっと温度を落として入ってくる。
妻鳥の総領にしては、宵は声が大きくない。立っているだけでやかましい者が多い一族の中では静かな方だった。それでも、誰かを萎縮させる静けさではない。
「薬屋殿、ご苦労様。いつも大量に悪いね」
補充の手を止め、春は深く頭を下げる。
その拍子に、うなじでまとめていた淡い色の髪が肩の方へ落ちた。
金に近いそれは早春の薄い日を含むと、雪どけの水面に朝日が差したようにやわらかく透ける。顔を上げた時に見えた目の色も淡い。
妻鳥の灰と赤でも識島の民の黒でもないそれの所以は、外つ国の血だと町の者ならだいたい知っている。
宵もまた、彼女の色を見慣れてはいた。
けれど薬庫の薄暗さと戸口から差す白い光の中では、『春』という名がそのまま人の形をとったように見えることがある。
妻鳥領で彼女が遠ざけられなかったのは、たぶん、その色彩が冷えの深い土地に差す陽の色に似ているからだ。雪の残る町で、春の髪と目は異国のものというより先に縁起のよいものに感じられる。
その下げた頭の後ろに赤ん坊をみとめ、宵は少し覗き込んだ。
「背の子は、初めて見るな」
春は少し笑い、肩越しに娘を示した。春日が一歩前へ出る。
「光です。こないだ春が拾いました」
「そう。いい名だ。――春日、桜、桃、光。春殿の子は、みな春の名だね」
冬の厳しい妻鳥領では、春や火を思わせる名が古くから好まれている。冷たい土地だからこそ、あたたかいものはそれだけで祝福になる。火種のように、芽吹きのように。
養い子たちにその名を与えることは、春にとって一番最初に手渡す愛情だった。
眠っている赤子を眺め、そっと声を落とす。
「よく寝ている」
春は頷き、片手で丸を作ってからもう片方の手を頬の横へ添えた。よく眠る、という仕草だ。宵はその形が終わるまで待ってから、小さく笑う。
「きっと大きく育つよ」
ぱっと、春の顔が明るくなった。目を細め、嬉しそうに何度も頷く。
その笑みにつられたように、宵の口元にも淡い笑みが乗る。
声がなくとも春の感情は目や口元によく表れた。嬉しい時はとくに、隠しようがないほど明るくなる。薬屋の使いとして屋敷へ来ている時の春は、いつも礼儀正しく手元は落ち着いている。だが子のことを褒められると、仕事中のきちんとした顔が鮮やかにほどける。
その変化を見るたび、宵は薬屋がこの娘を重用する理由が分かる気がした。
薬の扱いが丁寧なだけではない。薬が必要な場において、春のあかるい善性は安堵を呼ぶ。
自分が褒められることよりも子を寿がれることを喜び、素直に笑い、声がないぶん礼を尽くす。そういう心根の娘が手を差し出すだけで、人は少し息をつけるものだ。
訓練場の音は続いている。泥を踏む足音、綾の得物がぶつかる重い響き、燈の声、兵たちの笑い声。そのすべてが近くにありながら、薬庫の戸口だけはほんの少し息を落としたように静かだった。
途中になっていた膏薬の包みへ春の手が戻る。壺の布を締め直し、ひとつずつ手早く並べられていった。春日も横で動く。空いた籠を足もとへ寄せ、邪魔にならない位置へ置く。
戸口に立ったまま、宵はその仕事ぶりを見ていた。薬庫番が帳面をめくれば春が頷く。棚を示されれば包みを置く。声はなくとも、やり取りは滞らない。春日はその横で、必要な時だけ必要なぶん動く。子どもらしく退屈していないわけではないだろうに、薬庫の中では足先も手元も余計に遊ばせない。
薬庫番が帳面の上に指を置く。
「止血布、膏薬、薬草、すべて数は合っています。今日もご苦労様でした」
一礼のあと春は手元の帳面をのぞき込み、次の納品予定として記された日付を指先で示した。
「十日後ですね。訓練場の減りが早ければ、その前に使いを出します」
春は小さく頷いた。
その拍子に、背の光がもぞりと身じろぎする。泣き出すほどではなかったが、眠りの浅い息が首筋のあたりでこぼれた。春は片手を後ろへ回し、とん、とん、と慣れた調子で背の子をあやす。
その間に、春日が使い終えた包み紙や、薬屋へ戻す小さな器を手早く籠へまとめていく。置き場所を迷ったものは春へ目で確かめ、手ぶりを確認しすぐに他の荷の下へ収めた。
空になった籠は来た時よりずっと軽いはずだが、春日は肩に掛ける紐をきちんと直し、薬屋の使いとして身なりを整える。
支度が終わるころ、春は背の光を一度揺すり上げ、ずれていた紐を直す。戸口を塞がぬよう、宵も半歩身を退いた。
その前で、春は両手を揃えて深く礼をした。背の子が揺れ、くすぐられたように小さく笑う。春は少し困ったように目を細めたが、すぐにまた礼の形へ戻った。
揺れる淡い髪がやわらかく光る。
宵はまぶしげに目を細めた。
「春殿。道中、気をつけて」
春は頭を上げ、瞬きをひとつした。それから返事の代わりに、にっこりと笑う。声がなくても、その礼は十分に届いた。もう一度、丁寧に頭を下げる。
春日も少し遅れて倣った。顔を伏せる直前、その視線が一拍だけ宵の手元に止まった。何かに目を留めたようでもあり、ただ視線が落ちただけのようでもあった。
そのまま何も言わず空籠を抱え直し、裏門のほうへ向かう春の背に続く。空籠を抱える腕も、廊を踏む足も、来た時と同じようにきちんとしていた。屋敷を出るまでが薬屋の使いなのだと分かっている歩き方だった。
二人と赤子の姿が内庭の角を曲がるまで、宵はその背を見送った。
薬庫の戸口には、ほんの少し静けさが残る。乾いた薬草の匂い。油を含んだ布の匂い。春が最後に返した笑みの名残のようなもの。それらが、薄暗い棚のあたりにまだ留まっている。
その静謐を破るように、春たちが通り過ぎていった炊事場の方から女の声が大きく飛んできた。
「昼餉ができましたよー!」
訓練場の空気が、ぱっと変わる。
土と汗にまみれた兵たちが一斉に顔を上げ、次の瞬間腹の底から歓声が上がった。燈の声も、赫の高い声も負けじと跳ねる。
大鍋の湯気が、早春の冷たい空へ白くほどけた。飯と肉と根菜の匂いが屋敷の内庭へ流れ込む。さっきまで薬庫の戸口に残っていた静けさなど、あっという間に妻鳥の昼の中へ飲まれていった。
宵は、春たちの消えた角を一度だけ見た。
あの声に、びっくりして飛び上がっていないだろうか。
そう思うと、少しだけ苦笑が漏れた。
春は目を丸くしたあと、すぐに笑うかもしれない。春日はたぶん、すこし歩幅を乱す。
訓練場では、すでに誰が先に泥を落とすかでまた騒ぎが起きている。槌を放り出した赫が燈の袖を引いていた。炊事場の方では璉の声が重なり、鍋の前へ急ぎすぎる兵たちを女たちが追い返している。
宵は薬庫番へ軽く会釈し、戸口を離れた。
冷たい土も、跳ねる泥も、早春の妻鳥には付きものだ。けれど大鍋の湯気があれば、だいたいの者は笑って昼まで進める。
その賑やかな匂いのする方へ、宵もゆっくり歩いていった。




