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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
39/45

四方の春(一)――綾寧449年


如月も末になると、屋根の端から落ちる雫の音が変わっていた。


真冬のあいだは、軒に下がる氷も、庭石に積もった雪も、ただ硬く沈黙していた。けれどこの頃になると、昼の光を受けたところから少しずつゆるむ。

ぽたり、ぽたりと垂れる水はまだ冷たく、夜になればまた薄く凍る。それでも、庭の隅に残った雪の下では土が黒く濡れ、梅の枝先には硬い蕾がついていた。

冬は静かに季節を終える支度を始めている。


風斎本家の執務の間には、朝から文箱が運び込まれていた。

火鉢には炭が足され、灰の奥で赤く息づく火が手元の冷えをかろうじて押し返していた。

低い文机がいくつも並べられ、右筆たちがそれぞれの前に膝をそろえている。墨を含ませる音、紙をめくる音、紐をほどく音。

人の声は少ないが、部屋は静まり返っているわけではなかった。


文は、国の呼吸である。


妻鳥からは、雪中の小規模な『門』の閉鎖についての報告が届いていた。被害は少ない。山沿いの道が一部崩れたが、雪解け後の補修で足りるという。

雪簇からは、囁石の中継点と境の結界の保守について。雪で山が閉ざされていた間にいくつかの節が弱り、春までに繋ぎ直す必要があるとのことだった。

月渓からは、南の海沿いで潮と綾の流れがやや乱れたという観測。『門』の兆しには至らず、見張りを増やして様子を見る、とある。

花宮からは、各家の報告を束ねたものが来ていた。天眼からの警戒も平常の範囲で、ここしばらくは大きな兆しなし、と書かれている。


「静かだな」


当主は、いくつめかの文を伏せて言った。

声には安堵も慢心もない。ただ紙の上に並ぶ数字と名を見て、そう評しただけだった。

右筆のひとりが控えめに頭を下げる。


「例年の同じ頃に比べますと、『門』の数は少のうございます。雪の深い土地では動きが鈍ることもありますが、それを差し引いても」

「よいことだ」


当主は淡く息をついた。


「よいことは、よいこととして受け取る。雪簇へは礼を返せ。囁石の保守には必要なら風斎からも人を出す。花宮へは、春の会合には予定通り使いを立てると」


右筆が筆を走らせる。


玄冬は、当主の斜め後ろに控えていた。

書を処理するための席ではない。文の仕分けも、返書の下書きも、そこに座る右筆たちの仕事である。玄冬に求められているのは、紙の上に落ちたものから紙の外へ伸びるものを読むことだった。


紙の上だけを見れば、識島は穏やかに回っている。北では雪が解け、南では海風が変わり、花宮では報せが集められ、雪簇の節は繋ぎ直される。妻鳥は雪の中でも『門』を閉じ、月渓は乱れを見張っている。

何も崩れていない。

むしろ、例年よりも整っている。


その平穏な文面の下で、玄冬の思考は別の一行へ沈んでいた。


――ひとり、のこる。


風斎の滅びを告げた、あの予言の一節。

冬のあいだに、玄冬の中でそこはもう一つの形を取っていた。


残る者がある。

ならば問題は、誰を残すかだけではない。

いつ、その枠を閉じるのか。

どういう形をもって、その者こそが残るひとりだと定めるのか。


玄冬は、心の中で札を並べていた。

当主。奥方。姫。傍系の血。

残すに足る者。残すべき者。残ってはならぬ者。


同じ札でも、置く場所を一つ誤れば意味が変わる。早すぎれば、予言の内に置けぬ。遅すぎれば、枠は別の者で閉じるかもしれない。

滅びの予言に時期の明示はなかった。春とも秋とも、何年後とも告げられていない。

今日のような平穏が、あと何度めぐるのかも分からない。

だからこそ、この静けさの中で考えておかねばならなかった。


当主が次の文へ目を移す。


「玄冬」

「は」

「雪がほどけたら、花宮へ行け。春の会合の前に、天眼殿の方へ挨拶を入れておきたい。ついでに雪簇の中継点も見てこい。道の具合次第で構わぬ」

「承知いたしました」


玄冬は一礼した。

花宮。雪簇。春の道。

ただ文を運ぶだけなら、ほかの者で足りる。玄冬が命じられるのは、そこで文にないものまで処理するためだった。道中で小さな齟齬があれば、その場で収める。雪簇の節に不安があれば、人を待たずに判断する。花宮で口に出しにくい話があれば、当主の名を背にしながらも玄冬自身の裁量で札を切る。

座に縛られぬ身軽さでありながら、軽い使いではない。


その命を受けながら、玄冬の内側ではまた別の札がめくられていた。


朝凪。


あの男は、すでに「ひとり」の枠を知っている。

玄冬より早く、ずっと深く予言のそばにいた。美菊の言葉を聞き、その成就を見続けてきた者である。


そして、朝凪の執心は美菊にある。

ならば考えないはずがない。

残る者の名が明示されていないのなら、そこへ美菊を置くことを。


玄冬は、それを甘い願いとは思わなかった。あの男なら当然そこへ手を伸ばすと見た。

主家への忠などもとよりなかったあれが誰を選ぶかなど、問うまでもない。


だから、先に塞がねばならない。

美菊ではない。

あの者を、残してはならない。


美菊は正統の長子である。顔立ちも、性差があってなお奥方の面差しだと一目でわかるほどに、その美しさを継いでいる。色の証無き姿も天宿りの代償だと、玄冬はもう知っている。

しかしそうだとしても、黒い髪と黒い目では風斎の正統を証明できない。

赤毛青眼。それはただの見目ではない。民にも、兵にも、他家にも、ひと目で血を示すしるしだった。

滅びのあとに立つ者がそれを持たず、存在を隠されていた長子だと告げて、どれほどの者が膝を折る。どれほどの者が、風斎の名をそこに見る。

そのうえ、美菊は武家として育っていない。

刀を取る手も、兵を束ねる声も、民を背に置く覚悟も、屋敷の理も、家の重さも、身につける機会を与えられなかった。

与えなかったのは風斎であり、玄冬たちである。だが、罪の所在がどこにあろうと現実は変わらない。


美菊に、滅んだ風斎は背負えない。


その判断は、風斎の重臣として正しかった。

正しいからこそ、玄冬は胸の底で小さく笑った。


またか。

また家の理として、あの者に死を押しつけるのか。


十数年前、風斎の理に外れた赤子として雪の上へ置いた。今度は、風斎を残す理に合わぬ長子として、生き残る枠から外す。天宿りであったと知っても、代償であったと知っても、そこは変わらない。

理がある。

道理がある。

そう言いながら、二度目の死を、玄冬はあの者の前に置こうとしている。


「どうした」


当主の声がかかった。

玄冬は顔を上げた。表には何も出していないはずだったが、当主は時々、紙の上ではなく人の呼吸を見る。


「いえ。春の道順を考えておりました」

「雪簇回りは無理をするな。あそこは雪解けの水で道が悪くなる」

「心得ております」


それ以上を問われる前に、襖の外で控えの者が低く声をかけた。

右筆のひとりが膝で進み、襖を細く開ける。入ってきたのは奥向きと執務の間を取り次ぐ女房で、腕の上には桐の箱があった。紐でまとめられた紙束がその中に収められている。


部屋の空気が、わずかに変わった。

戦の報告でも、境の結界でも、『門』の兆しでもない。

それは、もっと穏やかで、もっと家の内側に近いものだった。


釣書である。


すでに当主と重臣たちの目を通り、家筋、年齢、綾の得手、評判、手跡、近親の者の素行まで調べられたもの。風斎本家の姫の前へ差し出してよいと判断された、いくつかの紙の人影。

当主は箱の中を一度見て、すぐに蓋を戻した。


「奥へ回せ」

「かしこまりました」


女房は深く頭を下げた。


玄冬は、その箱が運ばれていくのを見送りながらふと思った。


姫様の婚姻は、成るのだろうか。

成ったとして、それにどれほどの意味があるのだろうか。


思いは、声にも顔にも出なかった。

滅びがいつ来るかを、玄冬は知らない。だから婚姻の支度を止める理由はない。風斎本家の姫が年頃を迎え、相応の者を見、選び、いずれ婿を迎える。それは家として当然の流れだった。

未来へ名を渡すために。

血を繋ぐために。

家を続けるために。

そのための紙束が、奥へ運ばれていく。


ぽたり、と軒の雫が落ちる音がした。

春を待つ音だった。



■■



奥方の座敷には、やわらかな香が薄く残っていた。


執務の間よりも火は近い。火鉢には丸く整えた炭が置かれ、灰の上に小さな鉄瓶がかかっている。

障子越しの光は白く、庭の雪を透かして室内へ入っていた。冬の終わりの光は、春めいて見えるくせにまだ冷たい。けれど座敷の中だけは、女房たちの衣擦れや湯気の匂いで外よりも少し早く季節がほどけているようだった。


愛護は、母の向かいに座っていた。

膝の前には、先ほど奥から運ばれてきた釣書が置かれている。紙はどれも上等で、折り目も美しい。

名、家、年、父母、兄弟、綾の得手、これまでの勤め、手跡。ひとりずつ、丁寧に人が畳まれている。


愛護はそれを、あまり楽しそうではない顔で見ていた。

嫌がっているわけではない。眉を寄せているわけでもない。ただ、菓子の包みを見るときのような目ではなかった。花を選ぶときのような弾みもない。どちらかといえば、炭の配り先を書いた帳面を読むときの顔に近い。

大事なものだとは分かる。

けれど、胸が軽くなるものではない。

奥方はその様子を見て、少しだけ目を細めた。


「ここにある方々は、もう父様や重臣たちが確かめています」

「うん」

「家柄も、資質も、人柄も、大きく外れる方はいません。この先は、愛護自身が、会って、言葉を交わして、見ていくのですよ」

「愛護が?」


愛護は紙から顔を上げた。


「同じ座敷に座った時の声や、相手の話の聞き方や、こちらが困った時にどう待つか。そういうことは、会わなければ分かりません」


愛護はもう一度、釣書を見た。

紙だけでは分からない。

それは、分かる気がした。ここに書いてある字は整っている。家も立派で、綾の得手も悪くないのだろう。

けれど、笑った時の目や、言葉に詰まった時に待ってくれるかどうかや、甘いものが好きだと言った時に笑わないかどうかは、どこにも書いていない。


愛護は、いちばん上の釣書を手に取った。


「この方、字が上手」

「そうね。よい手跡です」

「でも、朝凪の字のほうがきれい」


座敷の空気が、ふっと揺れた。


女房たちが、あら、という顔をする。誰かが笑いかけ、すぐに袖で口元を押さえた。

奥方は一度瞬きをして、それから朝凪の方へ目を向ける。

朝凪は、少し離れたところに控えていた。

姫の側付きとして、場にいるのは当然だった。しかし釣書の中身へ口を挟む立場ではない。膝を正し、視線を伏せ、表情はいつも通りである。愛護の言葉を受けても、まぶたの動きひとつ乱れない。

ただ、膝の上で指がわずかに動いた。

愛護は気づかず、釣書を戻した。もう一枚軽くめくる。そこに書かれた名を目で追い、家の名を見て、けれどそれ以上深くは読まなかった。


「母様の時も、こういう紙があったの?」


興味は、あっさり別の方へ移った。

女房たちの目が、今度ははっきりと楽しげに動く。座敷の隅にいた年嵩の女房などは、顔を伏せながらも明らかに耳を澄ませていた。

奥方は困ったように笑った。


「ありましたよ。けれど、母は差し上げる側でしたから、愛護とは少し違います」

「そうなの?」

「ええ。父様に見ていただくためのものを、こちらの家から整えたのです」


愛護は目を丸くした。


「じゃあ、父様は母様の紙を見たの?」

「そういうことになりますね」

「父様は、なんて言ったの?」

「愛護」


奥方の声にはたしなめる響きがあったが、その頬にはほんの少しだけ色が差していた。

愛護はすぐに身を乗り出す。


「だめ?」

「だめではありませんけれど、そういうことをあまり大きな声で訊くものではありません」


女房の肩が小さく震えた。

奥方は、照れたような、困ったような顔で笑った。その笑みは、いつもの母のものよりわずかに若く見える。愛護の知らない昔を、ほんの少しだけ障子の向こうから招き入れるような顔だった。


「そのうち、少しだけ話してあげます」

「今は?」

「今は、こちらを見ましょうね」


奥方は釣書の束へ目を戻した。

けれど愛護の目は、まだ母の顔にある。紙の上に畳まれた知らない若者たちより、父と母がまだ今の父と母になる前の話の方が、ずっと近く、ずっと不思議に思えた。


障子の外で、雫が落ちた。

ぽたり、と庭石を打つ音がする。

冬の名残が溶け、春になる前の透明な水の音だった。


朝凪は静かに控えている。

女房たちは、仕事をしているふりをしながら、誰も席を立たなかった。


釣書の束は、愛護の前にある。

紙の上に並べられた未来は、まだ誰の手も取っていない。

けれどそのそばで、かつて誰かが誰かに選ばれた気配だけが、春を待つ部屋の中へやわらかくほどけていた。



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