冬隣――綾寧448年
晩秋の座敷には、火鉢が入っていた。
庭の紅葉は盛りを少し過ぎ、濡れたように赤い葉が池の縁へ散っている。障子越しの光は白く、畳の目に沿って薄く伸びていた。
青葉見のころとは、客を迎える空気も少し違う。明るく開いた庭ではなく、床の間の花、火鉢の灰、衣擦れの音、伏せられた目線。そういうものの中に愛護は座っていた。
春からこちら、愛護の前へ出される若者の数は増えていた。
季節の祝い、弓の稽古の披露、他家の使いへの挨拶、父の座敷へ呼ばれたあとの短い顔見せ。
どれも、今すぐ何かを決めるものではない。けれど、何も見なくてよいものでもなかった。
今日の客は、風斎の近しい傍系の若君だった。
年は愛護より幾つか上で、もう詰所にも出ているという。礼は深く、言葉も整っている。
膝の置き方ひとつにも、朝から誰かに言い含められてきた硬さがあった。
悪い人ではないのだろう、と愛護は思った。少なくとも、愛護を軽んじる目ではなかった。
「姫様は、季節ごとに小堂へお参りなさるとか」
若君はそう言って、少しだけ顔を上げた。
「はい。花や、その時季のものをお供えしています」
「お若いのに、まことに殊勝なお心がけです」
愛護は礼を返した。けれど、胸の中には小さな引っかかりが残った。
小堂へ参るのは、嘘ではない。供えも、祈りも、形だけではない。
けれど、その奥へ続く道のことを、この人は知らない。知らないまま、愛護の行いを美しいものとして見ている。
若君の目はやわらかかった。好ましげで、少し眩しいものを見るようでもあり、その奥に、風斎本家の姫がどういう娘なのかを測る慎重さもあった。
そのどれもが、まちがいではなかった。
まちがいではないから、愛護は疲れた。
彼に限らず、若君たちはみな礼を尽くす。目線は伏せ、言葉は整え、愛護を姫として扱った。
けれど、その奥にあるものは少しずつ違っていた。
ただ好ましく思ってくれる目がある。風斎本家の姫を前にして、緊張を押し殺している目がある。自分の家を少しでもよく見せようと、言葉の端を硬くしている目がある。愛護自身を見ているようで、その後ろにある本家の座や血筋を見ている目もある。
人の目にはこんなにも色々なものが潜むのだと知るたび、ひとつの笑みにひとつの返しを選ぶことがただの作法ではなくなっていった。
婚姻という言葉も、少し前より重くなった。隣に置くということ。家へ迎えるということ。名を並べるということ。
妻鳥の夫婦のように明るく未来を語る形もあれば、風斎の座敷で静かに測り合う形もある。そのどちらが正しいという話ではなく、どちらも人の関係なのだと知った。
だから、ふと思った。
では、朝凪と兄は、どういう関係なのだろう。
今さらだった。
朝凪が美菊を大事にしていることは、愛護でも分かる。分からない方がおかしい。
朝凪の一日は、美菊を中心に組まれている。屋敷での役目を過不足なく果たし、愛護の側付きとして少しの隙も見せず、けれど定刻になれば山の家へ帰る。
その道も、術も、口実も、積み重ねた嘘も、すべて美菊のためにある。
愛護も、ずっとそういうものだと思っていた。
朝凪が大事にしている人。守っている人。山の家にいて、外へ出られない人。きれいで、静かな、自分の兄。
だがそれは、どういう種類の大事なのだろう。
父が母を大事にするのとは違う。母が愛護を見つめる目とも違う。若君たちが愛護へ向ける好意とも違う。玄冬が愛護を守ろうとする硬い忠とも違う。
朝凪のそれは、もっと静かで、もっと動かしがたかった。
熱いというより、深く埋められた石のようだった。表面には出ない。けれど、そこを掘れば必ず刃が当たる。
そんな感じがした。
その日、山へ向かう道は乾いていた。
晩秋の山は、音の輪郭が濃い。夏のあいだ葉に吸われていた風は、枝の隙間を通るたび細く鳴るようになった。道の脇では枯れかけた薄が白い穂を傾け、低い日差しを受けて鈍く光っている。踏まれた土には朝の冷えが長く残り、歩くたび草履の下で乾いた葉が小さく割れた。
小堂の供えの花は晩秋のものに替え、古くなった茎を紙へ包み、床の端に入り込んだ落ち葉を拾う。供回りは東屋で待っている。山の細道へ入ってからは、朝凪だけが愛護の前を歩いた。いつも通りの道だった。
朝凪は昔から、愛護の少し前を歩く人だった。
訊けば道筋を返し、答えられないことは答えられないと言う。そのかわり、どこへ持っていけばよい問いなのかは必ず示した。
甘やかす人ではない。けれどその背を見ていると、分からないものの前で足を止めずに済むのだと愛護は知っていた。だから、少し迷ってから口を開いた。
「朝凪」
「はい」
返事はいつも通りだった。愛護は袖の中で指を握り、前を歩く背中を見た。
「朝凪は、どうしてあにさまとずっと一緒にいるの? 朝凪は、あにさまをどうしたいの?」
朝凪の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
枯れ葉を踏む音が、半拍だけ遅れた程度である。けれど、愛護はそれを聞き逃さなかった。朝凪の横顔は見えない。背中も、肩も、いつもの形のままだった。
愛護は急いで言葉を足した。
「あのね、朝凪があにさまを大事にしてるのは知ってるよ。でもその大事って、どんな大事なのかなって。ずっとあの家に隠しておきたい大事なのか、ほんとはそうじゃないのか、とか。愛護が当主になったら、何かできるのかな、とか」
朝凪は答えなかった。
山の風が吹き、薄の穂が斜面の下で揺れた。枝から離れた葉が一枚ゆっくり落ちる。愛護は、自分が難しいことを訊いたのだと遅れて分かった。
けれど、訊いてはいけないことを訊いたとは思わなかった。
美菊は愛護の兄である。死産とされ、山の家に隠され、朝凪に守られてきた兄である。ならば、これからどうなるのかを考えるのは、愛護にとって自然なことだった。
ずっと隠すのか。いつか表へ出すのか。母に会わせるのか。父へ告げるのか。風斎の長子として扱うのか。それとも名だけを守って、姿はないままにするのか。
愛護は、そういう話をしているつもりだった。
――朝凪は、まったく別の場所に立っていた。
美菊をどうしたいのか。
その問いに朝凪の中で最初に浮かんだ答えは、どれも姫に返せるものではなかった。
逃がしたい、ではない。
救いたい、でもない。
名を取り戻したい、でもない。
本家へ認めさせたいわけでも、親兄妹の輪へ戻したいわけでもない。
美菊は、最後まで連れていくものだった。
死が来る日まで。『門』が開き、風斎が焼け、どこにも逃げ場がなくなるその時まで。黄泉の底へ落ちるなら、その底まで手を離さないものだった。
死出の伴侶。
そう呼ぶほかないものが、朝凪の内側にはとうにある。けれど、それを美菊の実妹であり、たった十三の愛護へ言えるはずがなかった。
言えば、愛護を怯えさせる。ようやく兄と呼べるようになった人を、朝凪の死に行く道連れとして見せることになる。
そんなものを、愛護へ渡してよいはずがなかった。
朝凪は、呼吸を整えた。
「その問いに、私から申し上げられる答えはございません」
声は、いつもの側付きのものに戻っていた。
愛護は少しだけ眉を寄せた。
「姫様に余計な重荷をお渡しすることになります」
それ以上は言わなかった。言えば、どこかが裂ける。姫の問いは純粋だった。純粋だからこそ、朝凪はそこへ自分の答えを置けなかった。
愛護はそれ以上、訊かなかった。
拒まれた、とは思わなかった。朝凪の中には何かある。けれど、それはきっと愛護へ渡せる形をしていないのだ。
枯れ葉を踏む音だけが、しばらく二人の間に続いた。朝凪はいつものように少し前を歩き、枝の張り出したところでは身をずらし、足場の悪い場所では歩幅を落とした。答えは返ってこなくても、そういうところは何も変わらない。
木立の向こうに、屋根の線が見えた。
山の家はひっそりとしていて、戸口のそばには小さな落ち葉が溜まっている。けれど、土間の方から薄く火の匂いがした。
朝凪が先に戸を開けた。外の冷えが家の中へ入り、かわりに火鉢のあたたかさが頬へ触れる。
座敷の奥で、美菊が顔を上げた。
「こんにちは、ひめさま」
「こんにちは、あにさま」
愛護はいつも通りに笑って、草履を脱いだ。
美菊は戸口までは出てこない。愛護が座る場所へ座布団を敷き、火鉢の近くに置いていた手をそっと差し出した。握られた指は、思ったよりあたたかい。
「手、あったかいね」
「ひめさまの手が、冷えておいでだと思いました」
山道で冷えた愛護の手を受けるためにあたためたのだと、その言い方は静かで、少し照れもなく、当然のことのようだった。
愛護は、若君たちの座敷を思い出した。
彼らは皆、背筋を伸ばし、言葉を整え、家の名にふさわしくあろうとしていた。綾を扱う手も、膝に置く手も、いずれ戦場へ出る者のものだった。
美菊の手は違う。
細く、白く、武具を握るための硬さを知らない。外へ出ず、この家の中で本をめくり、布を畳み、湯呑を包む手だった。けれどその手は、愛護を待つあいだ火のそばで温められていた。
愛護はそのことに、胸のどこかを小さく押された。
朝凪は繋がれた二人の手を、黙ってみていた。
■■
その日、朝凪は当主の座敷へ呼ばれた。
定期の報告である。
愛護が裳着を済ませてから、当主へ上げる報告の中身は少しずつ変わっていた。幼い姫の機嫌や体調を伝えるだけでは済まない。稽古の進み、外で人と会った時の受け答え、若い者たちを前にした際の疲れ方、言葉を飲み込む癖、踏み込みすぎる時と退きすぎる時の差。そうしたものが、今では報告の内に入る。
奥向きからの話は女房や奥方を通して上がる。だが、愛護が屋敷の外へ出る時、また武家の者たちの中へ置かれる時、最も近くにいるのは朝凪だった。
座敷には、当主ひとりがいた。
表の大広間ではなく、必要な者だけを入れるための座敷である。床の間には季節の花が活けられ、文机の上には数通の書付が整えられている。香の匂いは薄い。火鉢には炭が入り、灰の上に赤い芯が覗いていた。
朝凪は襖際で膝をつき、深く頭を下げた。
「朝凪にございます」
「入れ」
当主の声は、昔からよく通る。
朝凪は座敷へ入り、定められた位置で再び礼をした。顔を上げた時、当主は書付から視線を外し、しばらく朝凪を見た。
「最近、若いものと顔を合わせる席を増やした。愛護の様子はどうだ」
「お疲れになる日はございます。ですが、席そのものを避けたいとは思っておられません」
「無理をしているか」
朝凪は少し間を置いた。
愛護は、無理をしていないわけではない。だが、嫌々耐えているのとも違う。
相手の言葉を聞き、礼を返し、その奥に何があるのかを見ようとしている。その分だけ疲れる。見えるものが増えるということは、受け取るものが増えるということでもある。
「無理というより、受け止める量が増えておいでです」
当主は目を伏せた。
「そうか」
その声には、安堵と案じる色がどちらもあった。
「弓はどうだ」
「以前より、綾の矢のまとまりがよくなっております。的を外すことはまだございますが、狙いを立て直すのが早くなられました」
「気負いすぎるところは」
「ございます。ただ、以前ほど顔には出されません」
「それは成長か。あるいは隠すのが上手くなったか」
「いずれもかと存じます」
当主は、そこで目を細めた。
嬉しそうだった。案じてもいた。娘が大人へ近づいていくことを喜びながら、その先にある重さを知っている目だった。
「愛護は、まだ子どもだと思う日がある。かと思えば、こちらが見せるつもりのなかったものまで見てくる日がある」
朝凪は答えなかった。
当主の言う通りだった。愛護はまだ幼さを残している。甘いものを喜び、山道で少し足を急がせ、兄に話したいことを抱えて目を輝かせる。
一方で、人の目の裏に潜むものを見始め、死者の数をただの報告ではなく痛みとして受け取るようにもなっている。
「朝凪」
「はい」
「愛護が迷った時、お前は答えを与えすぎるな。だが、足元は見てやれ。あれは前へ出ようとする。出るなと言えば理由を探し、理由があれば出る。そういう娘だ」
「承知いたしました」
当主は少しだけ声を緩めた。
「昔からではあるが、愛護はお前に訊けば大抵どうにかなると思っている節がある」
朝凪は頭を下げた。
「私の分で答えられぬことは、その都度、当主様または奥方様へ伺うよう申し上げております」
「それは聞いている」
当主はわずかに息を漏らした。
「聞いているから、なお腹立たしい。頼られておきながら、父親の領分までは侵さぬ。叱る口実がない」
言葉は軽かった。本気で責めてはいない。朝凪も、それは分かった。座敷の空気は張り詰めていない。父親が娘の成長に目を細めながら、ほんの少し拗ねている程度のものだった。
「過分なお言葉にございます」
「褒めてはおらぬ」
当主はそう言い、口元だけで笑った。
それは、ごく自然な笑みだった。
朝凪は、礼を崩さなかった。
この男は、愛護を愛している。
それは疑いようがなかった。愛護が幼いころから、当主は忙しい身でありながら折々に娘へ目を向けてきた。
甘やかすだけではない。風斎の姫として知るべきことは見せ、問われれば必要な分だけ答え、怖がらせぬようにしながらも武家の子として遠ざけすぎない。
愛護が死者の数を知りたいと言った時も、好奇と矜持を見極めた上で地図の上に死を置いた。
よい父なのだろう。
よい当主でもあるのだろう。
だからこそ、朝凪の内側は冷えた。
なぜ、その目を冬の夜の赤子へ向けなかった。
産まれたばかりの子を、なぜ見なかった。妻が身を削って産んだ命を、なぜ調べる前に断ち切った。風斎の色がないことを、なぜ不吉とだけ見た。声を上げた赤子が天宿りである可能性を、なぜ誰も探らなかった。
本家へ上がったばかりの頃なら、その問いは炎だった。
朝凪は、何度も自分の腹の底が灼けるように感じた。座敷に膝をつき、礼をし、当主の言葉に答えながら、心の内側では赤く燃えるものを押さえていた。
少しでも表へ出せば、美菊へ刃が届く。だから押し殺した。押し殺したから、余計に熱は溜まった。
だが、今は違う。
炎はもうなかった。
代わりにあるのは、冷え切った石だった。手のひらに収まるほどではない。胸の底へ沈み、動かそうとしても動かない重さだった。熱を持たない。痛みも、怒鳴り声もない。ただ、そこにある。
当主は笑みの気配を残したままぼやいた。
「お前は実に面白くない返しをする。愛護が申す、たくさん撫でてくれるだの、膝に抱いてくれるだの、かわいいと言ってくれるだのという好みの男とは、真逆もよいところだろうに」
朝凪は何も言わなかった。
愛護がそうした理想を口にしていることは知っている。女房たちが笑い、奥方がたしなめ、玄冬が渋い顔をする。山の家でその話をすると、美菊は真面目に聞き、朝凪は湯を注ぎながら黙っている。
朝凪はその話からまったく外れた場所にいるわけではない。姫の側近くに置かれる男には、昔から表の務めだけでは済まぬ含みがある。だが少なくとも、愛護の口にする好みは朝凪からあまりに遠く、誰もそれを現実味のある話として結びつけてはいなかった。
当主も本気ではない。ただ、娘が自分以外の男を信頼していることへの面倒な父親の揺れを言葉にしているだけだった。
「まあよい」
当主は書付を一枚伏せた。
「お前でよかったとは思っている。愛護は、お前の前では甘えすぎない。かといって、萎縮もしない。あの子にとって、それは悪くない距離だ」
「もったいなきお言葉にございます」
「だから頼む」
その声だけが、少し低くなった。
「私は常に側にはおれぬ。奥も、玄冬も、見られる範囲には限りがある。愛護が間違って転ぶ前に、転ぶかもしれぬ石を見ておけ」
朝凪は深く頭を下げた。
「しかと心得ましてございます」
その言葉に嘘はなかった。
愛護は守る。
この男のためではない。風斎本家のためだけでもない。美菊の妹だから、だけでもない。
何年も山の家の秘密を抱え、泣きながらも約束を守り、少しずつ姫として立とうとしている少女を、主を、朝凪は信頼している。だから守る。自分の手で傷つける選択肢は、とうに無い。
だが、当主へ向けるものは別だった。
この男は知らない。
雪の夜に死んだことにした命が生きていることを知らない。その子に名があり、声があり、好きな甘味があり、寒い朝に指先を冷やしながら本を読むことを知らない。奥方の面差しを受け継いだ横顔が、山の家で静かに湯を注ぐことを知らない。愛護がその子をあにさまと呼ぶことも知らない。
知らぬまま、当主として立っている。
朝凪は、もう暴くつもりがなかった。
罪を突きつけることも、詫びさせることも、悔いさせることも、復讐と呼べる形にすることもない。
そんなことをしたところで、美菊のあったはずの生は返らない。雪の冷たさも、離れの暗さも、名を与えられなかった日々も、なかったことにはならない。
それに、滅びはすぐそこまで来ている。
お前は、最後までお前が殺した命の一切を知ることもない。
詫びることもできない。悔いることもできない。自分が何を奪ったのか、何を雪へ置いたのか、何を死産の一言で閉じたのか、その何一つを知らないまま死ね。
朝凪の中に残っていたのは、その冷たい刃だけだった。
怒りではない。願いでもない。呪いに近いが、声に出すほど熱を持たない。
座敷の畳に額を近づけ、礼節を寸分違えず保ちながら、ただその刃を胸の底へ収めている。
――ああ、だが。
口元だけが、誰にも気づかれぬほど薄く歪んだ。
あの夜お前が父であることを捨てたおかげで、美菊は本家の長子ではなく、俺が名を呼び、俺が抱え、俺が最期まで連れていくものになったのだ。
「下がってよい」
「失礼いたします」
朝凪は深く一礼した。
立ち上がり、襖へ向かう。背後で当主がまた書付へ目を落とす気配がした。いつも通りの終わりだった。
叱責もなく、密命もなく、ただ姫の成長を案じる父と、その側付きの報告が終わっただけである。
けれど朝凪の中では、何かが静かに閉じていた。
この男に向けて燃やすものはもうない。
次にこの座敷へ呼ばれても、同じように膝をつき、同じように答えるだろう。信頼にも応える。命にも従う。必要ならば身を挺して愛護を守る。
ただ、それだけだった。
座敷を出ると、廊には晩秋の光が差していた。庭の楓は赤く、池の縁に落ちた葉が水に濡れて沈みかけている。
屋敷は静かだった。遠くで女房の声がし、どこかで愛護が笑った声が響いた。
朝凪は一度だけそちらへ目を向け、それから歩き出した。
■■
玄冬は、灯の下で紙を改めていた。
朝凪が寄越した新しい予言である。
紙は薄く、文字は簡潔だった。余計な解釈はない。場所を示す語、時刻と思しき言い回し、起こる禍の輪郭。誰が死ぬとは書かれていない。ただ、橋が沈み、荷が流れ、白い水が黒くなる、とある。
玄冬は、ゆっくりと読み返した。
約定通り、朝凪は予言を渡している。すべてを渡しているかどうかは分からない。だが、少なくとも風斎に関わるもの、識島の戦へ影を落とすものについては、欠かさず寄越していた。
予言は必ず成就する。
その事実は、もう疑う余地がなかった。
名、もしくは何かしらの情報で個人や家が示されていれば、その者は死ぬ。そこに例外はない。場所が示され刻が示されているなら、それも動かない。
兵を増やしても、道を塞いでも、別の経路へ移しても、最後には示された者が、その場所で、その時に死ぬ。抗った分だけ細部は複雑になるが、結末そのものは寸分違わず閉じる。
だから、予言に名がある時、玄冬にできることは救命ではなかった。
周囲の被害を抑えること。死ぬ者に、余計な恐怖を負わせぬこと。巻き添えを減らすこと。残される者へ、次の手を残すこと。そういう、救いとは呼べないものだけだった。
一方で、名がない予言もある。そしてこちらのほうが圧倒的に数が多い。
数だけが示されるもの。原因だけが語られるもの。川が黒くなる、橋が落ちる、火が三つ上がる、赤き刀が折れる。そうした予言では、誰が死ぬのかまでは閉じられていない。
だが、それも避けられるわけではない。
この橋のことだと思い、人を退け、荷を止め、水を見張らせる。すると、その橋では誰も死なない。けれど別の橋が沈み、別の荷が流れ、同じように白い水が黒くなる。
あるいは、病の兆しと読んで先に隔てれば、その家では死者が出ない。だが同じ病で、別の家の者が死ぬ。
死は消えない。
ただ、誰の上へ落ちるかが変わる。
予言は結末を閉じる。だが、名のない死については、その器を誰で満たすかまでは示さない。こちらが動けば、収束する道筋が変わる。防いだように見える死は、別のところで同じ重さとなって現れる。
玄冬は、積み上がった紙を見た。
その理を、救いと呼ぶことはできない。だが、武家が扱える余地はそこにしかなかった。
名のない死を、より少なく損なう場所へ。家の中枢ではなく外縁へ。幼い者ではなく、備えた者へ。守るべきものではなく、守ると決めた者の手前へ。
それは選別だった。
玄冬は、そのことから目を逸らさなかった。
紙を除け、文机の奥、鍵のかかる浅い抽斗に手をかける。そこに納めている予言はたった一つ。
美菊が生まれた夜の予言。
風斎の滅びを告げた、最初の言葉。
朝凪から聞き取った正確な全文を書き付けたものだ。
玄冬は結び紐を解き、畳まれた紙をひらいた。
『無数の門がひらく。
禍滲があふれ、地を埋め尽くす。
火があがる。
叫びは届かぬ。
首は鈴生り。
折られた名が、積み上がる。
逃げることは叶わない。』
そして。
『ひとり、のこる。』
その一語だけは、違う重さで玄冬の前にあった。
誰が、とは言われていない。
残る者の名は、明示されていない。
男とも女とも、幼いとも老いたとも、当主とも姫とも、長子とも次子とも言われていない。
ただ、文脈だけがある。風斎は滅びる。その前に置かれた、ひとり。ならば、風斎の血を引く誰かである可能性が高い。
誰か。
その空白は、恐ろしいほど広かった。
当主かもしれない。奥方かもしれない。愛護かもしれない。風斎の血を持つ傍系の誰かかもしれない。予言は、そこを閉じていない。
閉じていないなら。
玄冬は、紙の端を押さえた。
こちらの行動次第で、だれをその「ひとり」にするか、選べるのではないか。
考えた瞬間、部屋の空気が重くなった気がした。
それは救いではなかった。むしろ、罪の形をした可能性だった。
誰かを残すということは、誰かを残さないということでもある。
名のない空白へひとりを押し込むなら、その外にいる者たちは、滅びの側へ置かれる。
だが、風斎のために生きるとは、そういうことでもあった。
玄冬は灯の揺れを見た。
愛護の顔が浮かんだ。幼いころ、庭で転び、泣く前にこちらを見上げた顔。弓を持つ手を震わせながら、それでも的へ向き直った顔。死者の名を知ったあと、目を赤くしても背を曲げなかった顔。
考えは、まだ言葉にはならなかった。口にすれば、あまりに早く形を取りすぎる。
黙ったまま、予言の紙へ視線を戻した。
ひとり、のこる。
名のない一枠が、そこにあった。
玄冬は、その空白を見つめていた。




