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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
37/45

吾亦紅――綾寧448年


秋が山へ入ると、家の中の音が少し変わった。


夏のあいだは戸を閉めていても草の息が厚く押し寄せてきた。葉擦れは近く、虫の声も騒がしく、谷の水音さえ昼の熱を含んでいた。

それが、この頃になるとひとつずつ薄くなる。朝方の障子には白い冷えが寄り、畳へ落ちる光は澄んでいて、触れればどこか乾いていた。

裏手の木々はまだすべて色づいたわけではないが、早い葉は黄を含み、風が強い日には庭の端へ二、三枚落ちてくる。


朝凪は、今朝も早くに出た。

火を確かめ、水を使い、身支度をする。美菊が目を覚ますころには、たいていその支度は半ば以上終わっている。

帯を締める手、袖を整える手、懐へ小さな刃物や紙片を収める手。どの動きにも迷いがない。屋敷へ出る日の朝凪は、家の中にいてももう半分は外の人間だった。

それでも、出ていく前には必ず美菊を見る。

顔色。声の出方。目の焦点。指先の冷え。前の夜にひとりで予言を落とさなかったか、夢の中で妙なものを見ていなかったか。

問い詰めるほどではない。ただ、少し長く見る。そのわずかな間に、美菊が今日ひとりで昼を越せるかどうかを測っている。


「表には出るな」


出立の前、朝凪は必ずそう言う。


「はい」

「裏手も、長くはいるな。風が強くなったら障子は閉めろ」

「はい」

「行ってくる」


美菊は、衝立の奥から顔を上げた。


「いってらっしゃい」


言うと、朝凪の目がわずかに和らいだ。それは他人には分からないほどの変化だ。

まぶたの動き、息の浅さ、口元にかかっていた硬さがわずかに抜ける。その程度である。

けれど美菊には分かる。ずっと見てきたからだ。


朝の冷えを残して戸が閉まる。

靴裏が土を踏み、朝凪の足音が家の外を遠ざかっていく。

美菊は戸口へは出なかった。以前なら朝凪の背が見えなくなるまで見送ったが、今はしない。

玄冬に見つかってから朝凪は家の周りの綾を幾度も織り替えたし、美菊もまた、戸口に立つことが朝凪の不安を増やすと知った。

だから奥にいる。奥にいて、足音だけを聞く。

朝凪の気配が綾の向こうへ滑り落ち、山道の音の中に混じって消えるまで待つ。

やがて家の中はひとり分の静けさに落ち着いた。


それから美菊は立ち上がり、まず土間を掃く。

掃くといっても、広い家ではない。土間の隅に寄った砂を集め、かまどの近くに落ちた細かな灰をならし、水桶のそばに跳ねた泥を拭う。

動きは早くない。けれど、家の中のことならずいぶん覚えた。

火の具合も、水の量も、布を干す場所も、朝凪が嫌がる危ない手順も、もう分かるようになっている。

朝凪はまだ何かと先回りするが、美菊がひとりでできることは前より増えた。


掃除を終え、ほつれていた袖口を繕い、裏手で洗った手拭いを干したころには陽が少し高くなっていた。

山の秋は昼でも熱を持ちきらない。裏手の細い草に残っていた露は乾き、障子越しの光が畳へ長く落ちている。


美菊は文箱のそばへ座った。

中には、愛護から届いた文と、古い紙片と、朝凪が町で見つけてくる小さな本が入っている。

愛護の文は、折り目を傷めぬように別に包んである。

美菊はそれへ触れず、まず古い綴じ本を取り出した。


文字の多い本だった。物語というより、各地の昔話をいくつか集めたものらしい。

雪簇の子が山で神の使いに会う話、川の石が夜だけ声を出す話、戦へ行った兄が妹のために一輪の花を残す話。美菊はどの話も何度も読んで覚えている。

だから声に出すために読むものとして、ちょうど良かった。


本を開き、指で行をなぞった。息を吸う。


「……むかし、山のふもとに」


そこで一度止まる。

家の中は静かだった。朝凪はいない。愛護もいない。外に誰かがいる気配もない。

もう一度息を吸った。


「山のふもとに、小さな家がありました」


声は細い。

けれど、出る。


町の家の離れにいたころ、美菊はほとんど喋らなかった。

まったく言葉を知らなかったわけではない。朝凪が教えてくれた。汀や朝景が交わす声も聞いていた。

けれど、自分の口から言葉が出ることが怖かった。


この口は、川が切れることを告げた。人が死ぬことを告げた。『門』がひらくことを告げた。刀が折れ、泥が濁り、帰る蹄が血の匂いを引くことを告げた。

美菊が望んだわけではない。

それでも、声は美菊の喉から出た。

自分の体の中に、自分ではないものがひらく。目の前ではない場所を見せられ、まだ来ていないはずの死をもうそこにあるものとして口にさせられる。

そのあとに残る自分の声がどこまで自分のものなのか、美菊にはよく分からなかった。


だから、黙った。

黙っていれば、災いを呼ぶことはないような気がした。

予言は、美菊の声ではない。ふだんの声は、予言ではない。わかっている。

美菊がなにも言わなくても、予言を誰にも聞かせなくても、それは起こる。わかっている。

けれど幼い美菊にはその違いをうまく体へ入れられなかった。

口を閉じていれば、自分が誰かの死に手を添えずに済むような気がした。


けれど、朝凪はその禍の口の名を呼んだ。

美菊。

その音を最初に自分へ結びつけたのは、朝凪だった。

若様でも、不吉な子でも、雪の中に置かれ死ぬはずだった赤子でもない。

美菊。

朝凪がそう呼ぶたび、死を望まれたこの命に少しずつ輪郭が織られていった。


汀が拾ってくれた。朝景が湯を沸かしてくれた。二人は美菊を生かした。

そして、生かされた命が何であるのか、その輪郭を与えたのは朝凪だった。

美菊は、名を呼ばれるまで、ただ息をしているものだった。

死ななかっただけのもの。

雪の中で途切れるはずだったのに、残ってしまったもの。


本家の奥で死んだことにされたなら、きっと死んだものとして扱われるほうが正しかったのだろう。

風斎の色を持たず、災いばかりを告げる口を持ち、祝われるはずの場所から外された命。

そういうものは、名前など持たないほうがよかったのかもしれない。

それでも朝凪は、美菊と呼んだ。

呼ぶことをやめなかった。


幼い朝凪は、きっと何も分かっていなかったのだろう。

家の奥に隠された赤子が何であるのかも、本家が何を捨てたのかも、その名を与えることがどれほど取り返しのつかないことなのかも。

けれど分からないまま、朝凪は美菊をこちらへ引いた。

名を呼ぶというのは、そういうことだった。


朝凪の声がその名を呼ぶたび、美菊は、世界のどこに自分がいるのかを知った。

離れの薄暗さも、火鉢の匂いも、閉められた戸も、外へ出られない日々も、朝凪が名を呼ぶだけで寂しい場所ではなくなった。

そこは朝凪が美菊を見つける場所になった。


美菊は本へ目を落としたまま、次の行を読んだ。

物語の中の子どもは山を越え、声を失った鳥を助ける。助けた鳥は、最後に一度だけ鳴く。そんな話だった。


声を出さねばと思ったのは、汀と朝景が死んだあとだった。


朝凪は泣きわめいたわけではない。荒れたわけでもない。

けれど、美菊には分かった。朝凪の中で何かがひどく乾いて、底に落ちた。

空の棺へ頭を下げ、名だけで戻った父母を弔ったあと、朝凪の目は諦念を抱いた人のものになってしまった。

武家は、そうして死ぬ。

守る者と言われようが、誉だと言われようが、最後には泥と血の中で潰れた肉となり、時にそれすら戻ることもできない。

そういう終わりを迎えるために生まれたのだと。


その朝凪が、美菊とともに死ぬ未来を聞いて救われた顔をした。

美菊は、その顔を覚えている。

悲しみではなかった。恐怖でもなかった。朝凪は、歓んだ。

それがなぜなのか、美菊にはわからない。

けれどあの時、朝凪の生が美菊の方へ深く曲がったことだけはわかった。


朝凪は本来、もっとまっすぐな武家として生きる道もあったのかもしれない。

父母の死を武家のものとして飲み込み、風斎の子として正しく戦い、誰かを娶り、家を持ち、正しいまま滅びの日へ向かう道。

そういう道が、ほんとうはきっとあった。

けれど朝凪は、終わりまでのみちゆきを美菊と行くことを選んだ。

それからずっと、手を離さなかった。


朝凪の道を曲げたのは、美菊だ。

雪の中で死ぬはずだった赤子が名を与えられ、離れの奥で目を上げた。

きっとその瞬間から、朝凪の世界は少しずつこちらへ傾いた。

美菊はその歪みを、ひどく昏いところで嬉しいと思っている。


朝凪が重くなることも、狭くなることも、疑り深くなることも、自分の周りへ何重にも綾を重ねることも、美菊は嫌ではなかった。

怖くもない。流されているのではなく、そこで息をしている。

朝凪の手で狭められた場所にいると、自分の形が分かる気がした。


この家は、朝凪が美菊のために作った世界だった。

けれど、それより前から、美菊にとって世界は朝凪だった。


朝凪が来るまで、離れの外には意味がなかった。朝凪が去ったあとの時間は、朝凪が戻るまでの長さだった。

朝凪が本を持ってくれば文字が増え、朝凪が花の名を言えば庭の色が増え、朝凪が危ないと言えば戸口が遠くなった。

美菊が知っているもののほとんどは、朝凪の手を通ってこちらへ来た。


美菊は自分の命を、最初から自分のものとして持っていたわけではない。

朝凪が呼ぶから、美菊は美菊になった。

朝凪が帰る場所にいるから、美菊は生きているものになった。

朝凪が最後に美菊を見ると知ったから、美菊は自分の生に意味を持てた。

だから美菊もまた、朝凪のために何かを差し出したかった。


できることは少ない。家から出られない。戦えない。綾も織れない。風斎のために札を読み、炭を配り、人の前へ立つこともできない。人の死を連れてくる口しかない。予言は変えられない。告げれば誰かが備えられるとしても、結末からは逃れられない。


それでも、最後の一息だけなら。


――朝凪より、一呼吸だけ長く生きたい。

それは、予言に逆らう願いではなかった。朝凪と共に死ぬ。その結末は変わらない。

けれど、倒れる順が、息の残り方が、ほんのわずかに許されるなら。

美菊は朝凪のあとに息をしたかった。


朝凪の目がこちらを見ているなら、その目が光を失う寸前に。

朝凪の手が美菊を掴んでいるなら、その力がほどける寸前に。

朝凪の耳がまだこの世の音を拾えるなら、その最後の一つとして。

朝凪、と呼びたい。


それは、慰めと言うにはあまりに小さかった。救いと言うには、あまりに頼りなかった。

たった一つの名前で、朝凪の死を変えることなどできない。

血は流れる。痛みはある。『門』はひらく。風斎は滅びる。朝凪は死ぬ。

そこに美菊の声があっても、何ひとつ覆らない。


それでも、呼ばなければならないと思った。

朝凪が、死ぬためだけに生まれたのではないように。

武家として『門』へ向かい、血と泥の中で潰えるためだけに生きたのではないように。

美菊を拾った汀と朝景の子であり、美菊に名をくれた子どもであり、山の家を作り、毎日帰ってきて、火を起こし、鍋を見て、すこしほどけたような声でただいまと言う、そのすべてを持った人として終われるように。


そのためだけに、声が要った。

朝凪の名を最後まで抱いていられる喉が要った。

それだけが、美菊が彼に差し出せるただひとつのものだった。


美菊は本から目を離し、畳へ視線を落とした。


「朝凪」


ひどく小さな声だった。


普段から、そう呼んでいる。朝凪もそれを当然のように受け取る。

夕餉の支度を知らせる時も、本の頁を見せる時も、火の具合を尋ねる時も、美菊はその名を呼ぶ。

何度も呼んできた。朝凪が美菊と呼ぶのと同じように、その音は日々の中に馴染み、もう特別なものではない顔をしている。


けれど最後の時には、同じ名を、ただの日々の続きとして呼んではならないのだと思った。


朝凪。


その三音は、帰りを待つ相手を呼ぶのではない。

膳の前に座らせるのでも、火のそばへ引き留めるのでもない。


あなたはここにいた、と告げるために呼ぶ。

そのみちゆきは、死のためではなかったと。

ともに生きた日々の上にあったのだと。

伝えてあげたかった。


もう一度、声にする。


「あきら」


喉が少し震えた。

怖いからではない。大事にしすぎると声はかえって頼りなくなるのだと、美菊はこのごろ知った。


朝凪には言わない。

生涯、言わない。

言えば朝凪は怒るだろう。そんなことを考えるな、と言うかもしれない。

あるいは黙って、美菊の声の支度を止めようとするかもしれない。

朝凪は美菊の痛みを減らしたがる。美菊が朝凪の死のために何かを備えていると知れば、きっとその備えごと抱え込もうとする。

それでは意味がない。

これは、美菊だけのものだ。

何も持たない自分が、最後に朝凪へ返すための、たったひとつのものだ。



美菊は本を閉じ、指先で表紙を撫でた。

紙は少し毛羽立っている。何度も読んだせいで角が柔らかくなっていた。

朝凪が持ち帰った本は、どれも美菊の中で少しずつ声になる。

誰かが山を越える話。誰かが帰ってこない話。誰かが名を呼ぶ話。

美菊はそれらを昼の静けさの中で読み、喉に通し、災いではない言葉を自分の口へ覚えさせる。


本を仕舞い、かわりに愛護の文を取り出した。

読めば、あの子の声が家の中へ入ってくる。明るく、少し急いていて、こちらの返事をもう待っているような声。

文は読まなくても、ほとんど覚えている。それでも時々開く。愛護の字は、少しずつ変わってきた。最初のころより形が整い、筆の運びに迷いが減った。けれど、ところどころに急いだような癖が残る。書きたいことが先に走ったのだろうと分かる場所がある。

かわいい、と思う。


愛護はよく笑う。山道で息を弾ませ、座るなり屋敷であったことを話し、菓子を分けることひとつにも懸命になる。

小さい花のような子だった。花といっても、床の間に活けられる静かな花ではない。朝の庭でぱっと咲き、風に揺れて、それでも茎をしっかり持っている花だ。


愛護がこの家に来ると、朝凪の姿を少し変える。

屋敷での朝凪を美菊は知らない。

姫に仕える時の声も、廊の端に控える立ち方も、玄冬や奥方へ向ける礼の深さも、見たことはない。

ただ、朝凪が屋敷から帰ってくる時、衣や声の奥にこの家のものではない硬さが少し残っている日がある。

美菊の前へ座り、火を見て、水を飲み、二言三言交わすうちにほどけていく硬さだった。


愛護が山の家へ来ると、その硬さが少し違う形で残る。

姫様、と呼ぶ声は変わらない。それでも愛護が菓子の包みを抱えて得意そうに笑うと、朝凪の目元からわずかに力が抜ける。山道で足を急がせれば叱る。膝を寄せて話しはじめれば、聞いていないふりをしながら聞いている。愛護が美菊の方へばかり身を乗り出すと、危ないと短く言う。

その言い方は側付きのものでもあり、もう少し内側のものでもあった。


美菊は、それを見るのが好きだった。

朝凪の中に、自分ではないものが大切に置かれている。そのことは、不思議と痛みにはならなかった。

むしろ、ひどく静かな嬉しさがあった。朝凪が美菊だけを見ていなければ苦しい、というふうには思えない。

朝凪の目が愛護を追い、愛護の転びそうな足元に一瞬で伸びることも、愛護の言葉にわずかに返事を遅らせることも、美菊にはよいものに見えた。

朝凪が心を寄せるものが増えた。その事実は、朝凪の生が少しだけ広がったようで、美菊は嬉しい。


けれど、広がったその先へ朝凪は行かない。

どれほど愛護を大事にしても、朝凪は最後に美菊のいる場所へ戻ってくる。

愛護の未来を案じ、愛護の涙を痛み、愛護の健やかさを願いながら、それでも朝凪は美菊と死ぬ。

それはたぶん、ひどいことだった。

愛護はかわいい。元気で、よく笑って、こちらへ何のためらいもなく手を伸ばしてくる。

美菊を兄と呼ぶ時の声には、疑いがない。あの子にとって美菊はもう山の家に隠された誰かではない。呼べば返事をする者で、菓子を半分に分ける者で、朝凪と同じ場所にいる者なのだろう。


兄というものを、美菊はよく知らない。

けれど愛護がそう呼ぶなら、その呼び名の内側に少しでも立っていたかった。

風斎のために何かをしてやることはできない。屋敷の廊を歩くことも、人前に出ることも、愛護の隣で名乗ることもできない。

けれど、あの子がこの家へ来た時だけは、何も知らなかった幼い頃のように笑っていてほしいと思う。

その願いに、嘘はなかった。


だが、その一方で、美菊は知っている。

風斎は滅びる。

朝凪は死ぬ。

美菊も死ぬ。

愛護がどれほど手を伸ばしても、届かない場所へいく。


ひとり、のこる。


その言葉は、いつも美菊の中で小さく沈んでいる。水底に落ちた石のように、普段は見えない。

けれど愛護のことを想う時、愛護の笑顔を思い出す時、揺れた水の底からふっと輪郭を現す。

美菊は、その石を拾い上げることができない。

できるなら、どこか遠くへ投げてしまいたい。けれど予言はそういうものではない。変わらないものとしてそこにある。


愛護はその時、きっと泣くだろう。怒るかもしれない。

朝凪の名を呼ぶかもしれない。美菊のことも呼ぶのだろうか。あにさま、と。

そう思うと、胸の奥に小さな痛みが置かれた。

けれどその痛みのさらに奥で、美菊はやはり、朝凪と同じ場所で終わることを喜んでいる。


愛護がかわいいことと、愛護を置いていくこと。

朝凪が愛護を大事にしていることと、朝凪が最後に美菊を選んで死ぬこと。

その二つは、美菊の中で争わなかった。

ただ、同じ水の底に沈んでいる。どちらも本当で、どちらも動かない。

美菊は文の包みから指を離し、しばらく自分の手を見ていた。


愛護が差し出す手は、いつもあたたかい。

美菊の手は、たいてい少し冷えている。


それでもあの子は、ためらわずに触れてくる。

美菊が何者であるのかを知ってからも、触れ方は変わらなかった。

だから美菊も、愛護が来る日は、なるべく指を冷やさないようにしている。つまらないことだ。けれど、それくらいしかできない。

いつかあの子が兄を思い出すとき、冷たい手ばかり覚えていないように。



外で、鳥が鳴いた。


美菊は文を畳み、もとの包みに戻した。

夕方が近い。そろそろ火を起こす支度をしておくべきだった。

朝凪は帰れば何かと自分で動きたがるが、湯を沸かしておくくらいはしたかった。

彼が炭を足し、鍋を見て、手を動かせる余地だけ置いておく。

朝凪はそのほうが落ち着くからだ。

そう思うと、少し笑みが出た。


美菊は台所へ行き、水を移し、火打ちを手に取った。

火花が小さく散る。乾いた草へ移し、息を細く送る。火がつく瞬間は、いつも少し緊張する。けれど今日はうまくいった。煙が上がり、やがて小さな火になる。


湯が沸くまでのあいだ、美菊はもう一度だけ誰にも聞こえないほど小さく声を出した。


「朝凪」


今度は、いつもの声だった。


自然に出る、胸の中に置き慣れた音。

朝凪がくれた名に、美菊が返す名。日々の中で何度も呼ぶ、夕餉の支度や本の話や火の具合に混じる音。

最後にも、これでいいのかもしれない。


朝凪。

その名を呼べば、朝凪はきっとこちらを見る。


昔からそうだ。どれほど考え込んでいても、どれほど遠くを見ていても、美菊が呼べば朝凪は帰ってくる。

美菊の声のする方へ、必ず目を向ける。

ならば最後も、そうすればいい。

泥の中でも、血の匂いの中でも、滅びの音の中でも、美菊が呼べば、朝凪は自分を見るだろう。

そして朝凪が見る先に、美菊がまだいる。

それだけで、あの人の死は寂しいだけのものにはならない。


戸の外で、かすかな気配がした。

美菊はすぐに火から目を上げた。

朝凪の足音は、いつも戸の前で一拍だけ止まる。内側の気配を確かめ、火の匂いを拾い、異常がないことを見てから入ってくる。その間を、美菊はもう覚えていた。


戸が開いた。

秋の夕気が入る。朝凪が立っていた。屋敷の空気を少しだけ衣に残し、髪に山道の冷えをまとっている。


「ただいま」


美菊は火のそばから振り返った。


「おかえりなさい」


声は、きちんと出た。

朝凪は美菊の顔を見て、それから火を見た。


「火は」

「大丈夫です。お湯だけ」


朝凪は戸を閉め、履物を脱いだ。

いつものように近づいて、火の具合を確かめる。少し手を加える。美菊が用意した火を、自分の手で整え直す。

その動きに、美菊は小さく息をついた。


「寒くなかったか」

「はい」

「ならいい」


それだけだった。

けれど、美菊には十分だった。

朝凪が帰ってきた。戸が閉まり、火が整えられ、家の中に二人分の気配が戻る。

昼のあいだ支度した声も、閉じた本も、畳んだ文も、すべて胸の奥へ静かに沈んでいく。


朝凪には言わない。

今日も言わない。

明日も、その先も。

ただ、いつか必ず来るその時まで、喉を潰さず、声を失わず、災いではない言葉を自分の口へ覚えさせておく。


朝凪がくれた名前のように。

美菊が最後に返す名前のために。



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