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愛及屋烏花軍  作者: 司馬示朗
◾️花晨月夕──風斎の章
36/45

花の客――綾寧448年


【一、青葉見】


新緑の庭は、春よりもしろい。


藤はとうに終わり、池の縁には杜若が咲いていた。

青楓の葉はすっかり濃くなり、風が渡るたび庭石の上へ細かな影を落とす。春の花の甘さは薄れ、かわりに乾いた土と若い葉の匂いが廊の奥まで届いていた。


その庭で、青葉見の席が設けられることになった。


名目は、裳着を済ませた愛護の顔見せと、風斎の若い武家たちの綾の披露である。

傍系や近しい家の者が招かれ、庭には薄縁が置かれ、池のそばには初夏の花が活けられた。

奥向きでは朝から女房たちが行き来し、愛護の衣や髪飾りを整えている。


愛護は、母の前に座っていた。

薄紅の衣は派手ではない。けれど光を受けると、織りの奥に花の色が沈んで見える。

十三になった愛護には少し大人びていて、袖を通す前から背筋を伸ばしたくなる衣だった。


「今日は、ただ座っていればよい席ではありませんよ」


母は、襟元を整えながら言った。


「はい」


愛護は返事をした。けれど、何をどうすればよいのかは、まだ胸の中ではっきりしなかった。

客を迎えることは何度もあった。父の隣で挨拶を受けたことも、母の横で女客へ言葉を返したこともある。

けれど今日の支度は、いつもと少し違った。


「殿方と話す時は、相手の言葉をそのまま受けすぎないこと」


母は静かに続けた。


「褒められたなら、まず礼を返す。相手の家を立てる。けれど、曖昧に微笑みすぎて、余計な期待を持たせないこと」

「余計な期待」


愛護は思わず繰り返した。

母は目元だけで笑った。


「よい方だと思うことと、その方を隣に置けるかは、同じではありません」


その言葉は、愛護の胸にすとんとは落ちなかった。落ちないまま、少し重く残った。


隣に置く。

今日来る若君たちの中に、そういう目で見なければならない人がいるのだろうか。

あるいは、向こうも愛護をそういう目で見るのだろうか。

考えた途端、襟の内側がほんの少し詰まったような気がした。


「まだ、何かを決める日ではありません」


母は言った。


「ただ、人を見る目を養う日です」


人を見る。

それは、ただ眺めるという意味ではないのだろう。

相手の礼を見る。言葉を見る。綾を見る。家を見る。その人が何を大事にしているのかを見る。

そして、いつかは、見定める。


そのことが、愛護には気が重かった。

愛護は、まだ誰かをそのような目で見てよいほどの人間ではない気がした。

父の座敷で門の報せを聞き、死者の名を知り、綾の矢が的の端へ届くようになった。

けれど、それだけだ。

まだ分からないことばかりで、迷うことも多く、悲しいまま動くことも上手くできない。

そんな自分が、礼を尽くしてくれる誰かを、ただそのまま受け取るのではなく静かに測らなければならない。

そう思うと、庭へ出る前から、胸の内側に小さな石を置かれたようだった。



青葉見の席は、明るく整えられていた。


若い武家たちは、みなよくできていた。誰も無作法ではない。

礼は深く、言葉は丁寧で、愛護の前に出る時にはきちんと目線を伏せた。

衣も髪も持ち物も、それぞれの家の格に合わせて過不足がない。


一人は、風斎らしい迷いの綾を庭の端に薄く広げた。青葉の陰が、ほんの少し遠くへ流れたように見える。

もう一人は綾で短い槍を織り、的の手前でぴたりと止めた。派手ではないが、稽古を重ねていることは分かった。

年上の若君は、愛護の弓の稽古について知っていたらしく、披露のあとで丁寧に頭を下げた。


「姫様も弓をお稽古なさると伺いました。姫様の御矢は、さぞ優美なのでしょう」


愛護は、母の教えを思い出して微笑んだ。


「まだ、的の端に届くくらいです。優美と言えるほどではありません」

「端へ届くなら、いずれ芯へも届きましょう。姫様の矢ならば、きっと」


悪い人ではない。

愛護は、そう思った。

声もやわらかい。愛護を軽んじてもいない。むしろ、好意を向けようとしてくれている。

だからこそ、胸の中で困ったものが動いた。


弓は、優美だから稽古しているのではない。

遠くの門で誰かが倒れたことを知ってから、矢が的に刺さるということの意味が少し変わった。

もっと遠くへ届けば、誰かが逃げるまでのひと呼吸を稼げるのだろうか。そう思ったから、的の端に刺さった綾の矢は嬉しいだけでは済まなくなった。

けれど、その話をここでするのは違う。


「励みます」


愛護は、それだけ答えた。

若君は嬉しそうに下がった。


別の若君は、門の話をした。


「いずれは私も、姫様や本家のお役に立てるよう励みます。門前で退かぬ者となりたいものです」


これも、悪い言葉ではない。

退かぬ者。守る者。武家ならば、そうありたいと思うのは正しい。愛護も、それを笑ってはいけないと分かっている。

けれど、その言葉を聞いた瞬間、地図の上に置かれた死者の数が胸をよぎった。

門前で退かなかった者たち。民を逃がすために残った者。報せを守った者。もう帰らない者たち。

愛護は、やはり微笑んで礼を返した。


上手くできたと思う。少なくとも、母に叱られるような顔ではなかったはずだ。

それでも、席が終わるころにはひどく疲れていた。

若君たちは、誰も悪くなかった。

それが、かえって苦しかった。



■■



山の家で、愛護は座るなり言った。


「それでね、あにさま。分家の若い殿方たちとたくさん話したの」


美菊は湯を注ごうとして、少しだけ手を止めた。


「殿方、ですか」

「うん。みんなちゃんとしてた。礼儀正しくて、綾もできて、愛護にも丁寧だったよ」

「よい方々だったのですね」

「たぶん」


愛護は少し考えた。


「たぶん、よい方々だったの。でも、なんだか胸のあたりがもやっとした」


美菊は、真面目に愛護を見た。


朝凪は戸口に近いところでいつものように戻りの刻を測っている。

愛護の声は、屋敷で若君たちへ返した時よりずっとほどけていた。話したいことが山の家へ着くまでに胸の中で丸くなっていたのだろう。


「見てないものを褒められると、困るの」


愛護は続けた。


「愛護の矢を見てないのに、優美なのでしょうって言われた。いじわるとかじゃないの。だから、なおさら困るの」


美菊は少し頷いた。


「見ていないものを褒められると、何を受け取ればよいのか分かりませんね」

「そう!」


愛護はぱっと顔を上げた。


「それ。あにさま、分かる?」

「はい。たぶん」

「朝凪は、そういうこと言わないよね。見てないものは見てないって顔するし、だめな時はだめって言う」


朝凪は、そこで嫌な気配を察した。

美菊が、ゆっくり朝凪を見る。


「ほかの若い男の方は、みな朝凪のようではないのですか」


愛護も、真面目に朝凪を見た。


「そうみたい」

「……そうなのですね」


二人は、そろって首を傾げている。

片方は本家の姫で、片方は山の家から出られない隠された者である。

立場も育ちもまるで違うはずなのに、若い男というものについてはほとんど同じ場所に立っていた。


朝凪は、口を挟まなかった。

愛護は別に、朝凪を特別な男として見ているわけではない。美菊は言わずもがな、単に知らないのだ。

愛護は本家の姫として大事に奥で育てられ、美菊はそもそも山の家の外を知らない。

若い男というものの身近な見本が――愛護にとって美菊は「若い男」ではなく「あにさま」という生き物なので――朝凪くらいしかない。

それがひどく居心地悪かった。


自分は、基準にしてよい人間ではない。

務めも礼節も過不足ない自負はあるが、情は重く、狭量だ。守ると言いながら囲い込み、必要なら人の道筋を平気で曲げる。美菊を守るためにどれだけ陰湿なことをしてきたか、自分が一番よく知っている。選んではいけない方に類される人間だ。

だが、それをこの二人に言えるはずもない。


「殿方って」


愛護は湯呑を両手で持った。


「みんな朝凪みたいな感じじゃないんだね」

「はい」


美菊は頷いた。


「ひめさま。これは、たいへんなことですね」

「うん。たいへんだよ」


二人は、また同じ顔で頷き合った。

朝凪は、苦い顔をしたまま黙っていた。







【二、鳥声来たりて・初夏】



それから季節は少し進み、妻鳥の客が来た。


今度は若い者のための席ではない。夏越の交礼である。

風斎と妻鳥は領を接し、境で『門』が開けば互いに兵を出す。季節の祓いと境の守りの無事を願う礼を兼ね、互いの本家が使者を立てることは珍しくない。


ただ、今年は少し格が違った。

妻鳥の次期総領夫妻がそろって来る。


燈だけなら父の座敷で済む話も多い。だがその妻である(たまき)が来るなら、奥向きも客を迎える支度をする。

女主人同士の挨拶があり、贈答があり、夏越の菓子や香の取り合わせも要る。


燈と璉は、妻鳥領に二人の子を残してきているという。若い夫婦とはいえ、すでに家を背負う側の人々だった。


愛護は、前の青葉見の席のことをまだ少し引きずっていた。

若君たちは悪くなかった。むしろ、きちんとしていた。だからこそ、婚姻というものを考えると胸が詰まった。誰かに見られ、こちらも見て、言葉を受け、受けすぎず、隣に置けるかどうかを考える。そういうことが、庭の明るさの中で急に自分へ近づいてきた気がした。

その重さを抱えたまま、母の隣に座っている。


そこへ、妻鳥の一行が入った。


燈は、相変わらず遠目にも妻鳥らしかった。

灰色の髪に明るい赤の目。顎の線や首筋は華奢な印象で顔だけ見れば美しい少年めいているのに、座敷へ入る足の置き方には力がある。

声は場に合わせて抑えているらしいが、それでもよく通った。

礼はきちんとしている。けれど風斎の者の礼とは違い、どこか日向で育ったような明るさがある。


その隣に、璉がいた。

ふわふわとした、銀に近い灰髪。林檎のように赤い目。黒目がちの大きな垂れ目で、年より幼く見える。

伏せた睫毛や袖を重ねる手つきはきちんと育った姫君のものだった。小さな唇はぽってりとして艶があり、おっとりと座っているだけなら風斎の座敷にも不思議と馴染む。

そう思った瞬間、璉が顔を上げた。


「まあ!! 愛護姫様でいらっしゃいますのね!!」


声が大きかった。とても。小さな唇は慎ましくひらいただけなのに。

若い女房が一人、袖の下で指を跳ねさせた。

璉は、言葉や作法そのものはとても丁寧だった。


「以前、婚儀の折には、姫様のお名でたいそうお心のこもった御祝を賜りました。ようやく直接、御礼を申し上げられます」


愛護は、少し遅れて頭を下げた。


「お目にかかれて嬉しく思います。御祝を喜んでいただけたなら、愛護も嬉しいです」

「まあまあ! こんなに愛らしいのに、なんてご立派なんでしょう!」


また声が大きい。

燈が横から、小声――妻鳥の基準での小声――で窘めた。


「たまちゃん、声」

「まあ。失礼いたしました」


璉はおっとりと詫びた。

声は、まだ少し大きかった。

燈は慣れている顔だった。妻鳥の者たちも誰も驚かない。風斎の女房たちだけが、表情を崩さないまま空気を受け止めている。

愛護は、笑わないようにするので少し苦労した。


交礼の席は、明るく進んだ。

夏越の祓いに用いる品が並べられ、妻鳥からは灰色の布に包まれた力強い意匠の守り紐が贈られた。風斎からは香と薄布、祓いの小道具が返される。

父と燈は境の守りについて短く言葉を交わし、母と璉は奥向きの贈答と、妻鳥領の子どもたちの話をした。


璉の話は、座敷を不思議に明るくした。


「上の子は近ごろ、木槌を持ちたがりますの。あんまりにも危なっかしいので模したものを布と綿でつくらせましたら、ずっと振り回していて」


燈が楽しそうに頷く。


「あれは将来いい戦働きをするぞ」

「下の子はまだ転がってばかりですけれど、声だけは立派に妻鳥でしてよ。あっくんが帰ると、誰より先に声を上げますの」

「璉、今は『燈』」

「まあ。そうでしたわ」


璉は少しも困った顔をせず、すぐに当主と奥方へ向き直った。


「失礼いたしました。家の時の呼び名が、つい」


父は咎めなかった。


「仲睦まじいのは、よいことです」


璉は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔には、隠すところがなかった。

風斎の座敷では、親しさも、喜びも、声の大きさも少しずつ整えて外へ出す。

けれど妻鳥の二人は、整えていないわけではないのに、内側の明るさがそのまま外へこぼれているようだった。

話が戦場へ触れた時も、璉の声は曇らなかった。


「わたくしも大鉈の扱いは鈍らせないようにしておりますけれど、いまは戦場へ出るのを控えておりますの。あと三人くらい子が欲しいねと、燈とも話しておりますので」


風斎の座敷は一拍だけ止まった。

妻鳥の者たちは誰も気にしなかった。燈もごく自然に頷く。


「子は多い方が賑やかでいい。上の姫も、下が増えたら得物を振り回す暇が減るだろうしな」

「まあ、それはどうでしょう。あの子はきっと、下の子にも布の木槌を持たせますわ」


璉は楽しそうに言った。

品を失するような調子ではない。子が欲しい。家が賑やかになる。未来が増える。妻鳥の二人は、それを当然の喜びとして口にしている。

風斎の座敷では少し強く響く言葉でも、妻鳥の空気の中では明るい日向の話だった。


愛護は、それを見ていた。

婚姻は、青葉見の庭で感じたような気の重いものだけではないのかもしれない。

相手の言葉を受けすぎないように気を張り、隣に置けるかどうかを見定め、微笑み方ひとつまで考えるもの。もちろん、それも婚姻に向かう道の一部なのだろう。

けれど、燈と璉の間にはもう少し違うものがあった。

幼いころから呼び合ってきた名。家の中の呼び方。子どもの話。これから増えるかもしれない命の話。そういうものが二人の間で隠されず、こぼれて、座敷を明るくしている。

胸の中に残っていた石が、少しだけ軽くなった。



■■



その日の山の家で、愛護はまた座るなり言った。


「この前はね、婚姻のことを考えると胸が重くなるって思ったんだけど」


美菊は小さく頷いた。愛護が座るなり話し出すことに少し慣れてきた顔だった。


「なにか、変わりましたか」

「うん。少し」


愛護は膝を寄せた。


「すごく仲のよい夫婦が来たの。妻鳥の方。奥方様はおっとりしてて、すごくきれいで、でも声がとても大きかった」


美菊は瞬きをした。


「声が大きい」

「うん。まあ~~って言うと、座敷の端まで届くの」

「まあ~~……」


美菊が真似した。

声は全然大きくなかった。

愛護は笑った。


「違うの。もっと大きいの」

「難しいです」

「それでね、旦那様のこと、うっかり『あっくん』って呼んだの」


美菊は真剣に考えた。


「夫婦とは、そのように呼び合うものなのですか」

「たぶん、みんなではないと思う。父様と母様はそんなことないし」

「そうなのですね」


美菊は少しだけ首を傾げた。

朝凪は、湯を注ぎながら嫌な予感を覚えた。


「旦那様は奥方様を『たまちゃん』って呼んでた」

「たまちゃん」


美菊が繰り返す。

愛護は頷いた。


「すごく自然だったの。嫌がったり恥ずかしがったりとかなくて、家の中ではそうなんだなって分かる感じ」

「仲がよいのですね」

「うん。それで、子どもが二人いて、上の子が女の子で、あと三人くらいほしいって言ってた」


美菊は少し驚いた顔をした。


「五人」

「そう。五人になったら、とっても賑やかだよね」

「はい。……たぶん」


美菊は、賑やかな家というものを想像しているようだった。山の家は静かだ。美菊の暮らしの中で、子どもが何人も走り回る家は絵の中や本の中に近いものなのだろう。

その時、美菊がふと思いついたように朝凪を見た。


「朝凪も、あっくんですね」


朝凪の手が止まった。

湯気が、湯呑の上で細く揺れる。


「本当にやめろ……」


苦り切った声だった。

愛護が、ぱっと顔を明るくした。


「ほんとだ! あっくん!」

「おやめください」

「朝凪、あっくんだ」

「姫様」

「あっくん」

「おやめください」


声はきちんとしていた。

きちんとしていたが、かなり疲れていた。

美菊はそれを見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「たまちゃんは、誰ですか」

「いない」


朝凪は即答した。

愛護が笑った。


「朝凪、早い」

「不要な問いです」

「でも、あっくん」

「おやめください」


愛護はくすくす笑い、美菊も口元をゆるめている。朝凪は湯呑を置き、二人の前へ菓子の皿を押し出した。口をふさぐには菓子がよいと判断したのだろう。ほとんど子守の様相だった。

けれど、その明るさが今の愛護にはありがたかった。


青葉の庭で重くなった胸は、まだ完全には軽くならない。これから先、自分はまた若君たちと会うのだろう。言葉を受け、受けすぎず、相手を見て、自分も見られなければならない時が来るのだろう。

でも、婚姻はそれだけではない。

あっくん、たまちゃん、と呼び合う夫婦もいる。子どもがもっとほしいねと明るく言う妻もいる。声が大きくて、座敷をぱっと明るくする奥方もいる。

そう思うと、少しだけ息がしやすくなった。


「愛護ね」


湯呑を両手で持ちながら、愛護は言った。


「もう少し、いろんな人を見てみる」


美菊は静かに頷いた。


「はい」

「でも、見てない矢を褒める人はやっぱりちょっと困る」

「はい。それは困ります」


朝凪は、とうとう小さく息を吐いた。


「姫様は、まず礼をお返しになった。それでよろしいのです」

「でも、困った」

「困った顔を表へお出しにならなかったなら、それで十分です」


愛護は、少し胸を張った。


「出さなかった」


美菊が、ほっとしたように微笑む。


「ひめさまは、ちゃんとできたのですね」

「うん。たぶん」


朝凪は、そこで少しだけ口元を緩めた。


「たぶん、ではなく。できておいででした」


愛護は嬉しそうに笑った。

美菊はその顔を見てから、朝凪を見た。


「見たものを、褒めました」


朝凪は、また黙った。

今度は、愛護が声を立てずに笑った。


初夏の山の家には、しばらく明るい話し声が残った。








【二.五、熾火】


妻鳥の一行が風斎を辞したのは、日が傾きはじめる少し前だった。


初夏の風はまだ熱を持ちきらず、道の脇の草を青く揺らしている。

風斎の屋敷で焚かれていた香の気配が衣の袖にほんの少し残っていた。静かで、細く、よく整えられた香だった。

妻鳥の屋敷なら、あの倍は火と飯と子どもの気配が混じるだろうに、と馬上で揺られながら璉は思った。


燈の目が背後から璉の横顔へ落ちた。

手綱を握る腕はゆるまず、けれどその囲いだけがほんの少し近くなる。


「たまちゃん、疲れた?」

「いいえ。でも、風斎のお座敷はたいそう静かでいらっしゃいますのねえ」

「声を抑えるのが大変だったな」

「まあ! あっくんたら! わたくし、きちんと抑えておりましたでしょう」


燈は答えない代わりに、少しだけ笑った。二十年近くもそばにいれば、その笑い方だけでだいたい分かる。燈は、抑えてあれかと言いたいのだ。

璉は頬をふくらませかけて、やめた。

屋敷を出る直前に見た若い武家の顔が、まだ目の奥に残っていた。


名は、朝凪と言ったはずである。

端正な若者だった。風斎らしく整い、礼を崩さず、主のそばに立つ姿には無駄がない。

けれど璉が見たのは、そういう表の整いではなかった。


愛護が笑った時、朝凪はわずかに目を伏せた。

姫を大事に思う側付きの目ではある。だが、それだけではない。視線の奥が、もっと遠いところへ落ちていた。

目の前の座敷ではなく、今日の交礼でもなく、若い姫の未来でもない。

もっと先にある、すでに決まってしまった一点を長く見つめている目だった。

整えた表情の下、風斎の青い目の奥で昏い炎が揺れている。

声も、所作も、何も乱れていないのに、その炎だけは消えていない。消すつもりもないように見えた。燃え上がるためではなく、ただ、その日まで絶やさず持っていくための火。


璉は、その目を知っていた。


「……あっくん」

「何?」

「今日の、姫様の御側付きの方」


燈がわずかに顔をこちらへ向けたのが分かった。


「朝凪殿か」

「ええ」


璉は、少しだけ声を落とした。今度は本当に、妻鳥の者たちにも届かないほどに。


「あの方、あっくんが総領にお向けになるのと、同じ御目をしていましたわ」


燈は、すぐには答えなかった。


足音だけが続いた。馬の鼻息、供の衣擦れ、初夏の道に乾いた土が踏まれる音。風斎の屋敷はもう背後にある。けれど、燈の沈黙だけがまだあの静かな座敷の中へ残っているようだった。

璉は、燈の袖にそっと指を添えた。


「ながく終わりを見つめている人の目でした」


燈の手が、ほんの少し止まる。


「たまちゃん」

「はい」

「声」

「……今のは小さくしましたわ」

「そう」


燈はそれだけ言った。

否定はしなかった。

璉もそれ以上は言わなかった。

燈が宵を見る時の目が何を意味しているか、すべてを言葉にしたことはない。言葉にしなくても、幼いころから隣にいた璉には分かることがある。


大事なものを、いつかその手で終わらせる。

その日が来るまで、数えている。

そういう、決めてしまっている人の目。


風斎の若い側付きが、誰へ向けて、何を決めているのかは知らない。知らない方がよいのだろう。あの静かな屋敷には、妻鳥の声で踏み込んではならない影がいくつもあった。


燈が前を向く。

璉もまた、風斎の方を振り返らなかった。

ただ袖の内で、燈の指にそっと自分の指を絡めた。






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